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第四章

65.意外な見舞い客

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 目の横を通って鼻まで濡れた感触に、タビトは目を開けた。
 顔の毛が湿っている。寝ながら泣いていたらしい。
 思わず顔を前足でこすると、獣型のタビトにぴったり寄り添って眠る獅子の存在に気づいた。

「れぐ……」
「っタビト! 目が覚めたのか!」
「ぐえっ」
「あっごめん」

 勢い余ってのしかかられた胸がものすごく痛んだ。
 レグルスが慌てて体を浮かせる。どうやら胸の骨にヒビが入っているらしく、呼吸するだけでも痛い。

「タビト、タビトよかったぁ~」

 ライオンの大きな前肢で頭を押さえられ、顔中べろべろ舐め回されながら、タビトは周囲を眺めた。
 白っぽい壁に囲まれた狭い部屋だ。
 学校の医務室みたいだなぁと思っていたら、ドアが開いて見知った獣人が入ってきた。

「おはようタビト。気分はどう? 体は動かせる? 吐き気とかない?」
「あ……ハカセ。だいじょぶ……」

 レグルスのせいで身動きできないタビトは、とりあえずしっぽを振って応えた。
 ハカセは苦笑して、ベッド横の丸椅子に座る。

「本来なら他の被害者たちといっしょに副都立の治療所に運び込まれるところだったんだけど、きみは深刻な魔素不足に陥っていたからね、レグルスがこっちに連れてきたんだ。おかげで手遅れにならずに済んだ」

 今更ながら、魔素を吸い取るというあの首輪が外れていることに気づく。
 ハカセが肩をすくめた。

「あの恐ろしい首輪は外したよ。人型を維持できなくなるほど魔素を吸い出す首輪……あんなものが存在するなんて獣人社会への冒涜だ。ことはもはや若者の流行では収まらなくなってる。副都だけじゃなく首都も動くだろう。あんなものは二度と生み出されないと信じたいね」
「うん……」

 感触を消し去るように後ろ足で首をかく。
 魔素が失われていくにつれて身体機能がどんどん低下していった、あの血の気の引く感覚。
 タビトは人一倍魔素への依存度が高かったから、短時間で生死の境をさまよう羽目になったが、魔素が目減りしていく恐ろしさは獣人共通のはずだ。
 あの恐怖を味わうものは二度と出ないことを祈りたい。しかし────。

「あのコウモリの男……密猟者たちは、どうなったの」

 ぽつりとつぶやくと、がばっとレグルスが顔を上げた。

「ごめんタビト! オレが……くそっ……!」
「あの建物にいた密猟団の関係者はあらかた捕まったと聞いたよ。でもリーダーと、副官と見られる部下はまだ捕まってない」

 レグルスはあと一歩のところまで、密猟団の首魁・コウモリ獣人ヴェスペルティリオを追い詰めたが、すんでのところで取り逃してしまったのだという。
 なんとメイサがそのあとを追いかけ、副都の外へ逃げたことまではわかっているが、その先の足取りは掴めていない。
 またタビトたちと戦ったゾウ獣人の副官は、守備隊が到着後、地下を制圧していく段階で獣化して暴れ、あえなく逃げられてしまったそうだ。
 レグルスも守備隊員も、さぞ悔しい思いをしたに違いない。

 しかし彼らが捕まらない限り、密猟の危険も魔素封じの首輪の不安も消えることはない。
 彼らは動物や、変化不全型だけでなく、同じ獣人に手をかけることを一切躊躇しなかった。
 タビトやブルーシアどころか、レグルスまであの場で殺されていたかも知れない。
 今更ながら芯から冷え切るような恐怖に身を震わせ、タビトはレグルスのあたたかい被毛にしがみついた。

「レグルス……無事でよかった」
「それはこっちのセリフだ! タビトを取り戻せて本当によかった……あの地下室で倒れているのを見た時、オレは、オレは……っ」

 くっついているから、お互いの震えが伝わる。
 このあたたかさを永遠に失うところだった。頬をこすりつけ合いながら、ごめんとありがとうを繰り返す。
 ひとしきり喜びを分かち合ったあとのタビトに待っていたのは、いくつもの検査だった。
 血液検査、魔素検査、学校で年一回受ける健康診断のようなこともやった。
 ヒビの入った肋骨の様子を確かめるためと胸を叩かれたときは、目玉が飛び出そうなほど痛かった。
 ハカセは「目が覚めたばかりのところ悪いけど」と言いつつ一切手加減することなく、検査から解放されたのは午後を過ぎた頃だった。

「た、だいま……」

 検査の結果、魔素はまだ少なめなものの、体に支障はないと太鼓判を押してもらえた。
 ついでに魔素の操作に問題がないかどうか見るためと人型にさせられ、半獣化も試した。
 騎士学校でしごかれてきた経験上、魔素で全身を覆う人型のほうが傷の治りが僅かに早い。このまま人型でいるようにと入院着をもらい、痛む胸を押さえながらよろよろと病室へ帰り着く。

「おかえり。お見舞い見る?」
「わぁ、こんなに……」

 丸一日眠っていたタビトの元には、たくさんの仲間が見舞いにやってきたという。
 リゲルにプロキオン、実習仲間に守備隊の先輩たち。

「お見舞いっていえば花だと思うんだけどね、誰も持ってこなかったんだ」

 見舞いの品は食べものばかり、しかもほとんどが肉だという。
 あまりの肉被りに、情緒を気にするプロキオンが渋い顔をしていたのがなんともおかしかったと、レグルスはくすくす笑った。そのプロキオンも手土産は肉だったので、同類だ。
 中にはアルシャウの名が入った荷物もある。
 他より大きな養父の見舞い品は、日用品と保存食の詰め合わせだった。
 メモも同封されていて、「入院費の請求はこっちへ回すように」と書かれている。アルシャウらしい気遣いだ。

 検査続きで滅入った気分を変えるため、病院の中庭へ出る。
 獅子族の大屋敷に比べればささやかなものだが、ハカセの医院にも庭がある。
 背の低い木々が植えられ、その向こうには細い幹の広葉樹と広大な草原が見える。小鳥がさえずり、穏やかな風が吹き抜け、清々しい気分になれる。
 ここに来るまでにレグルスが過保護に付き添い、ちょっとの段差も抱き上げようとするのでタビトは苦笑した。
 支えられながら、低木の横に置かれたベンチにふんわり降ろされる。

「本当に大丈夫なのか? というか人型になって平気なの? 魔素はもう足りてる?」
「胸が痛むだけだよ。魔素はまだちょっと足りないけど、ん」

 不意に口付けられ目を丸くする。
 人型同士のキスは、唇を少しだけ擦り合わせるだけの軽いものだったが、なにしろ急だ。

「どしたのレグルス?」
「どうしたのじゃないよ、魔素不足のタビトにこうして魔素を分けてたのはオレなんだからね」
「そうだったんだ……?」

 キスで魔素を分けることができるとは初耳だった。
 聞けばレグルスもそれを知っていたわけじゃなく、現場の混乱で気づけただけらしい。
 粘膜接触はより多い魔素を渡せるが、肌に触れるだけでも効果があるという。
 ハカセ曰く、少ないところへ自然と流れるように、互いの身体に影響がない程度まで魔素を渡し合う。獣人はそのようにできているのだと。

 地下で魔素を奪う首輪をつけられたときのことをうっすらと思い出す。
 たしか近くにメイサがいて、顔を舐められて、ざらざらの舌がちょっと痛かったことを覚えている。レグルスもタビトを覗き込んで必死に声をかけてくれた。
 それから、助けが来るまでずっとタビトの手を握ってくれていたひとのこと。

「ブルーシアも、入院してるのかな」
「呼んだかしら」
「え?」

 聞こえるはずのない声に振り向くと、ブルーシアがいた。
 前に見たより簡素な、布の少ない動きやすそうな服を身に着けている。
 顔色はまだ少し悪いけれど、どこも痛そうにはしていない。
 長い金の髪は無造作にまとめられ、手には花籠。
 いつだって敵意に満ちてタビトをにらんでいた金の目には、いたわりの色が浮かんでいる。

「意識が戻らないって聞いていたのに、病室にいないから驚いたわ。これ、お見舞いよ」
「あ、ありがと……」
「言っておくけれど、わたくしは重傷のあなたに心配されるほどじゃないわ。脱水と軽度の栄養失調、あとはかすり傷」
「そっか、よかった」

 花籠を受け取って微笑むタビトの横に座って、ブルーシアはばつが悪そうに身じろぐ。

「その…………助けてくれてありがとう」

 長い沈黙の末に出た言葉に、タビトはそっと目を伏せた。

「僕はブルーシアを助けられなかった」
「そんなことないわ。あなたがいてくれてどれだけ心強かったか……それに、あなたが残した痕跡を辿って助けが来たのよ」
「そうだったんだ……」

 意識を奪われ、地下へ運ばれるまでの間、朦朧とする意識の中でなにかできることはないかと、衣服のボタンやバッジをこっそり落とした記憶がよみがえる。
 そのどれかをレグルスたちが見つけ出してくれた。タビトの決死の努力は無駄ではなかった。

「胸のキズはどう?」
「骨にヒビが入ってるらしくて、動くと痛むけど、それほどでもないよ。ブルーシアこそ、僕が行くまでに叩かれたりしてたんでしょう」
「あんなのはどうってことないわ。わたくしは誇り高き獅子の女ですもの」
「そっか。ブルーシアは強いね」

 再び会話が途切れる。
 もじもじとうつむくブルーシアは、意を決したように勢いよく顔を上げ、タビトを真っ直ぐに見つめた。

「今までのこと……わたくし、本当にひどいことばかり言ったわ。あなたが傷つけばいいと思って……ごめんなさい」
「うん。いいよ」

 深く頭を下げたブルーシアを、タビトはあっけらかんと許した。
 あまりのあっさり加減に、謝罪したブルーシアがぽかんとしてしまうほどに。

「あの、自分で言うのも何なのだけど、わたくしはあなたになじられて殴られて仕方ないようなことをたくさん言ったし、したのよ?」
「殴らないよ」
「いえ、あなたは殴るべきよ!」
「えぇ……イヤだよそんなの。ブルーシアはせっかく軽傷で助けられたんだから、体を大事にして?」
「……なんてお人よしなの。変なトラね」
「言われ慣れてるよ」

 ふと沈黙が降りて、お互いに笑った。
 ほがらかな、引っ掛かりのない笑みだった。
 ブルーシアにとってタビトは邪魔者のはずで、タビトにとってブルーシアはきつい態度ばかり取るとげとげしいメスでしかなかったのに。こんなになごやかに話せる日が来るとは思わなかった。
 それに、ブルーシアのほうも妙に晴れやかな様子だ。

「ブルーシア、なにかいいことでもあった?」
「あら、どうしてそう思うの?」
「なんだか嬉しそうだから」
「そんなことないわ。今のわたくしは最悪でどん底よ。────レグルス様」

 どう見ても「最悪でどん底」には見えないメスライオンは腰を上げ、レグルスの前に立った。
 胸を張って、足を踏ん張って、強い姿で。

「草原の王子、レグルス。あなたとの婚約は破棄します」
「え?」

 ベンチに座った二匹がぽかんと見上げる。
 どうやらレグルスも初耳らしい。

「今までも違和感はあったけれど、あの地下室でのあなたは本当に酷かった。わたくしという婚約者が目の前にいるのに他のものに口づけなんてして、しかもあんな熱烈なのを何度も……んん、ごめんあそばせ。ともかく、他のものに、しかも他種族の男にうつつを抜かすオスなんてありえないわ。この決定は両家にすでに通告済みで、了承も得ています」
「ブルーシア、それは」
「だから、わたくしが手放したものを慈悲深い誰かが拾ったとしても関知しませんわ。欲しいと思う方がもらえばよろしくてよ」

 取り残されるレグルスとタビトには目もくれず、言いたいことだけ言って、誇り高き雌獅子は颯爽と去っていった。
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