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第二章

33.許嫁

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 大きい。
 最初の印象はひたすらそれだった。

「わぁー……」

 タビトの生まれ故郷には人の手による建造物はなく、ラナと過ごした場所は地下で狭かった。
 だからタビトの知る最も大きな建物は、レグルスのお屋敷だった。
 しかしこれは、それより大きい。

 山裾の商店街から登って回り込んだ先、傾斜のなだらかな広い場所に建っているのは、だんだんと見慣れてきた赤茶のレンガとタイルに、白や橙のタイルを混ぜて装飾的に仕立てられた屋敷だ。
 曇りも歪みもない水晶ガラスがすべての窓にはめ込まれた左右対称の本邸は、まるで翼を広げた鳥のよう。
 しかしなにより圧巻なのは、屋敷の向こうに広がる見渡す限りの平地だ。

「すごい……おうちの向こうに草原がある……」
「気になる? さきにあっち見に行こう!」

 タビトの手を握ったまま、レグルスが屋敷を素通りして庭へ走る。
 背後にアルシャウの制止の声が聞こえたような気がしたけれど、振り返らなかった。
 本能のままに衣服を脱ぎ捨て人化を解く。
 飛び込んだ草地は、なつかしいにおいがする。
 きれいに刈りそろえられた下草が青々と隙間なく生えていて、それがどこまでも伸びて、空へ続いている。
 平たいと思っていた場所はわずかに傾斜があり、ごろんと寝そべるとと少しだけ体が転がる。
 やがて勢いがつき、ころころと転がり落ちたタビトは、同じように転がってきたレグルスと合流して顔を見合わせ、大声で笑った。

「あはは!」

 ああ、なんて楽しいんだろう。
 故郷の風景のためかレグルスもいつもよりのびのびとしている。
 草の間に小枝を見つけた。
 咥えて放ると、パンチされて帰ってくる。
 それをまた咥えると、今度は直接奪われそうになった。手足やしっぽを振り回して抵抗すれば、子ライオンがのしかかってくる。
 枝を奪おうとして、勢い余ってタビトの口に噛みついたレグルスは、そのままタビトの口吻マズルをべろべろ舐め回した。
 枝を奪われまいと必死のタビトもこれにはお手上げで、思わず笑って口から小枝が落ちてしまった。
 それなのにレグルスの暴挙は止まず、くちびるがざりざりと舐められまくっている。

「ちょ、レグ、やめ」
「きゃああっ!」

 二匹きりの場所に、布を裂くような甲高い悲鳴が突き刺さった。
 驚いて飛び起きた二匹の前にいたのは、布の塊。
 そこから人の手足と、耳のついた人の頭が飛び出ている。
 それはよくよく見れば、フリルたっぷりのドレスに身を包んだ獣人の少女だった。
 普段はかわいらしいであろう顔立ちを、今は嫌そうに歪めている。

「なんて『ふけつ』なの……!」

 少女はそれだけ言って走り去っていった。
 ぽかんとする子トラと子ライオンが残される。
 そこへ別の人物が近づき、二匹の首根っこを掴み上げた。

「うわー!」
「騒ぐなガキども。家主に挨拶もせずに庭で遊び始めるやつがいるか! とっとと人化しろ!」
「はぁーい……」

 ぷりぷり怒っているアルシャウのお説教を聞き流しながら、タビトは人型になって放り出した服を着た。
 さっきの子はなんだったんだろう。ふけつ、ってどういう意味かな。
 タビトの疑問は、屋敷の主との対面で後回しになった。

「はじめまして、トラの子よ」

 タビトは緊張でかちこちになった体をどうにか動かして、ぺこりと頭を下げる。
 アルシャウに連れてこられた書斎に、その獣人はいた。
 レグルスの父だ。

「ラサラスだ。この草原一帯を治めている」
「あっ……た、タビト、です」
「タビト、よく来た。長旅で疲れただろう。部屋を用意してある。アルシャウ、案内してやれ」

 背後に控えていたアルシャウへ指示を出す姿は堂々としていて、威圧的だ。
 仕草のひとつひとつが威嚇に見えて、タビトは内心竦み上がっていた。
 金色の髪、金色の目。顔立ちはどことなくレグルスに似ている気もするけれど、それ以外は似ていない。
 レグルスはこんなに怖くないし、あんなに冷たい目でタビトを見ない。
 ずっとしかめられたままの眉も、丁寧な言葉と裏腹に突き放すような声も、なにもかもがタビトの主と違う。
 苦手だ、と強く思った。
 威圧感なオトナだからってだけじゃない。横にいるレグルスがとても緊張しているから。

「タビト、行くぞ」

 アルシャウに促されたものの、微動だにしないレグルスが気掛かりだ。
 部屋を出ようと向きを変えた足先を元に戻した。
 怖くて真っ直ぐ見られないこの屋敷の主に、まだなにも聞けていない。

「あの……ラサラス、さま。どうして僕をここへ呼んだの、ですか?」

 ラサラスはレグルスより明るい色の目をタビトへ向け、レグルスより明るい色の髪を撫で付けた。

「そうか、その説明のほうが先だな。タビト、きみは今レグルスが身柄を預かっている形になっているが、本来それは認められないんだ」
「えっ……」
「レグルスもきみもまだ子どもだ。保護者が必要だろう。その役目をアルシャウにやってもらうつもりで彼と引き合わせた」

 のらりくらりとかわされてついぞ聞くことのできなかった、アルシャウがレグルスの屋敷を訪れた理由はそれだった。
 タビトは親がおらず、身元もはっきりしない。
 かといって放り出すにはレグルスが気に入りすぎていて、引き離すのもしのびない。
 幸い草原の王にはアルシャウというトラ族の部下がいて、彼を保護者にすれば、レグルスと引き離すことなくタビトの身分を保証できる。
 元々はタビトをここへ呼び寄せ、アルシャウと会わせて手続きをするつもりだったが、彼が勝手にタビトへ会いに行ってしまったのでずいぶんと日が経ってしまった、ということらしい。

「タビトはつい最近密猟者に狙われたばかりですよ。そんな子を大人の事情で振り回すわけにいかないでしょう」
「だからといって仕事をすべて放り出して行くことはないと思うがな」
「俺みたいな不良のトラが一匹いなくたってこの屋敷は回りますよ。それより書類の上だけとはいえ、俺の息子になるのがどんな子か、気になって仕方なかったんです」

 苦言を呈するラサラスに一歩も引かないアルシャウは、オトナの獅子の威圧にも全く動じていなかった。

「それで、タビトはどうだ」
「いい子ですよ、真っ直ぐで純粋で。それに彼はもはや、俺たちが値踏みできる存在じゃありません。わかっているんでしょう」

 子どもたちの頭上で交わされる会話はだんだんと難しく、不穏になっていく。
 タビトは思わずレグルスの上着の裾をつんと引っ張った。
 即座に手を取られ、安心させるようにぎゅっと握り込まれる。
 怯える子どもたちに気づいたラサラスがちらりと視線を走らせ、小さく嘆息した。

「何に腹を立てているんだ、アルシャウ。何が我らに利をもたらすか、そうではないか、把握するのは当主の義務だ」
「えぇそうでしょうよ。それに関しちゃ異論ありません。でもね、タビトの能力を知ったのなら、あの日彼がどうなったかも知っているでしょう。野盗に襲われたり、変化不全たちの声を聞いたり、それもごく短期間に。繊細な子なら外に出られなくなってもおかしくない。それなのにあんたは……」
「わかったわかった、おまえの怒りは。ともかく今はこの子たちだ」

 今にも吠え掛かりそうだったアルシャウがすっと身を引き、またタビトたちの後ろに控えた。
 どうやら話はついたようだ。
 ラサラスは表情を変えることなくタビトに声をかける。

「ずいぶんアルシャウに気に入られたようだな」
「え、あの、僕……」
「いやいい。難しい話と手続きはこちらで行うから、きみはこの屋敷でゆっくり過ごしなさい。……さて、レグルス」

 冷たい金の瞳が、今度はレグルスを射抜く。

「おまえは呼んでいないが、来たのならちょうどいい。ブルーシア、入りなさい」

 ラサラスの呼びかけで書斎に入ってきたのは、さっき原っぱで出会った女の子だった。
 よく見ると彼女の耳は丸く、金色の毛で覆われている。
 勝ち気そうな双眸も同じ色で、布に紛れてふりふり振られるしっぽも金毛、そして特徴的な濃い色の先端毛。

「レグルス、彼女はブルーシア。山岳の王の血筋のメスライオンで、おまえの許嫁だ。こうして会うのは初めてだったな?」
「いいなずけ……?」
「なにを呆けた顔をしている。おまえは将来ブルーシアと番い、子を成すのだ」

 レグルスはぽかんとしていて、タビトも同じだった。
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