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第一章
16.「獣人」
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レグルスはムルジムと向き合い、テーブルの上に置いた板に粉っぽい棒で黙々と書き取りをしていた。
たまにちらちらと子ライオンの視線を感じたが、事前にムルジムから「授業中は坊っちゃんの相手をしないこと」と強めに言い含められていたので、心は痛むが無視する。
しばらくすると休憩時間が設けられ、束の間、勉強から解放された。
「あー……たびと……いやされる……」
「僕なにもしてないけど」
休憩と言われた瞬間にレグルスは勉強道具を放り出し、タビトをベッドへ引きずっていった。
近頃めっきり出番の少ないレグルスの部屋のベッドは、客間のものよりさらに大きく、使われていない割にホコリっぽくない。
ベッドに寝そべるタビトを、人型のレグルスが枕のように抱き寄せて被毛にふわふわ頬ずりをしてくる。
くすぐったい。
「オレが勝手にタビトにいやされてるだけだからいいの。タビトはつかれてない?」
「大丈夫。でも、文字を覚えるのはもうちょっとかかりそう」
「一日ではムリだよ。ゆっくりやってこ」
「うん」
目の前に差し出されたおでこをザリザリ舐めてやると、レグルスは耳を伏せて嬉しそうにすり寄ってきた。
耳の間の毛を舐めつくろってやると、レグルスの顔がもふっとタビトのお腹に埋まった。
そのまますぅはぁと呼吸されて、とてもくすぐったい。
体をよじって伏せの姿勢を取ると、今度は脇腹を吸われた。逃げ場がない。
そんなふうにコロコロと転がりつつ、日の当たるベッドでゆるゆると短い休憩を終え、また机に向き直る。
「次は歴史の授業です。坊っちゃんは教科書を開いて。タビトは読めないでしょうから、聞いていてください」
レグルスはヒモで綴じられた薄い冊子を、ムルジムは分厚い本を開いた。
「これは、半分は獣人の歴史を描いた書物です」
「はんぶん?」
「もう半分は、かつてこの大地を支配した人間たちの歴史です」
「にんげんが?」
彼らはタビトのために、歴史の勉強で最初に習う「獣人の世界のはじまり」からおさらいしてくれた。
「我々が立つこの母なる大地には、かつて数え切れないほどの人間が住んでいました。人間は個々ではそれほど強くありませんが、高度な群れを形成し、道具を使う知恵を用いて生息域を広げ、世界を支配していました」
ムルジムがゆったりとした口調で語ったのは、創世神話だ。
かつて地表に獣人は存在しなかった。
世界にはケモノとヒトだけがあった。
人間は数を増やし、それまで地上を埋め尽くしていた動物たちを追いやっていった。
故意だったり過失だったり、どちらにせよ動物たちは数を減らし、種ごと全滅してしまったものもあった。
そしていつしか人間たちは、同種同士で争い始めた。
「これまでも人間たちは我が物顔で大地を奪い合っていました。しかし歴史の転換点となったこの戦いで、人間はそれまでになく苛烈に互いを傷つけ合い、その数を半分にまで減らしたのです」
人間たちは大幅に生息数を減らしながらも、争いを止められずにいた。
人間たちの戦いの影響は動物や植物だけでなく、大気や大地にまで及んだ。
どんな場所にも根を張る植物たちすら逃げ出すような不毛の土地が増えていき、環境の悪化で動物たちはさらに減っていった。争い続ける人間たちも当然減っていき、すべての動植物が絶滅する可能性すらあった。
汚染された大地は傷み、嘆き悲しみ、そして────動物と人間の一部へ、慈悲を与えた。
失われていく人間たちの命を少しだけすくい取り、環境汚染と人間たちの戦いで消えつつあった動物の一部と重ね合わせた。
すると不思議なことに、両者は自然に引き合ってひとつになった。
「大地がすくった人間は少しだけなの?」
「大昔のことで詳しくはわかっていません。が、当時の人間には『純粋なもの』と『濁ったもの』がいたと言われています。母なる大地がすくったのは前者だけであったとも」
淀み歪み濁った戦いに傷つけられた「澄んだ純粋な魂」は、同じように純粋な動物たちと重なり、心を通わせた。
そうして動物と人間、ふたつの姿を併せ持つ「獣人」が誕生した。
「じゃあ獣人はみんな『純粋なもの』なの?」
「そうです。我々は大地が認めし澄んだ魂をいただく器。それを肝に銘じ、日々を生きねばなりません」
ムルジムは誇らしげに胸を張る。
タビトは初めて聞く物語にとても感動した。
レグルスは部屋のあたたかさに誘われてこくりこくりと舟を漕いでいた。
────はじめ、獣人は皆動物の姿をしていた。
しかし半分は人間なので、道具を使う知恵と、高度な社会性を発揮し、極めて統率の取れた群れの運営を行った。
そのうちに人間に似た姿を取れる獣人が現れ始め、傷つき深く哀しんでいた母なる大地の上に少しずつ、傷を舐め癒やすように少しずつ繁殖していった。
いつしか、あれほどいた人間はすっかりいなくなり、大地は獣人が支配するようになった。
しかし獣人は自らの種族の領分を守り、それ以上を強欲に求めることがない。
他の種族と相容れないことがあっても、できるだけ争わず、知恵と対話で折り合いをつける。また、大地を敬い地の恵みを尊び、崇めた。
ケモノとヒトの生き方を半分ずつ活用する獣人の台頭は良い影響を及ぼした。
深い眠りにつきつつあった大地は豊かさを取り戻し、すべての生き物が死に絶えてもおかしくないほど破壊された環境は、徐々に回復していった。
「こうして母なる大地は平穏を取り戻したのです」
「人間はどこにいったの?」
「多くが地を去りました。僅かに残るものも滅多に姿を現さないと言われています」
「そっか……」
ここには本当に人間がいないのか。
ではタビトが住んでいたのは、少しだけ残っている人間たちが生きる地域だったんだろうか。
だから人間たちは野蛮で粗野で、だから互いに争っていたんだろうか。
「ここからは坊っちゃんの今日の授業につながる部分ですね」
ムルジムが分厚い歴史書をめくる。
「獣人と人間の関係は先程述べた通り。今日は獣人と動物について学びます。まず動物とかケモノといった呼び方は通称や俗称です。坊っちゃん、正式な名前を言えますか?」
「えーと……ヒヘンカガタセキツイドーブツ、です」
「そうです」
ムルジムは満足そうに頷いたが、タビトは突如レグルスが発した謎の言葉の羅列にぽかんと口を開けた。
レグルスが自分の手元の教科書の挿絵を開いて向ける。
字を読めるようになれば「非変化型脊椎動物」と書かれているとわかる挿絵には、横並びに書かれているが別種であることを示す記号の横に、ヒトとケモノの両方の姿を持つ獣人、ケモノの姿しか持たないもの、ヒトの姿しか持たないものが併記されていた。
枠外には他にも水の中に住む不思議な形の生き物や、虫などが描かれている。
絵のおかげでなんとなく内容を察することができた。
「獣人と人間が、重なる部分はあれど違う生き物であるように、獣人と動物も違う生き物です。獣人は動物たちと会話することはできず、生き方も価値観も違います。しかし我々が獣型でいるときは動物と同じような身のこなしや暮らし方ができますし、言葉のないコミュニケーションは取ることができる。互いに良き隣人であると言えるでしょう」
ムルジムの授業は少し難しい。
ヒトの姿を持っていること以外、動物と獣人に違いはないように思えたのに、そうではないという。
同じネコ科でも動物と獣人は話せない。
意思疎通ができないとまでは言わないが、言語を使った交流は発生し得ないという。
同時に、レグルスはじめ誰もがタビトを獣人であると認識している理由もわかった。
タビトが彼らの言葉を話せるからだ。
「やっぱりふしぎだなぁ」
自身が獣人だと言われるたび、どこか納得できない気がしている。
でもレグルスだけならともかく、ムルジムやフェルカドもそう言うのならタビトは獣人なのだろう。
それならば、獣人として生きていけるよう努力する他ない。
たまにちらちらと子ライオンの視線を感じたが、事前にムルジムから「授業中は坊っちゃんの相手をしないこと」と強めに言い含められていたので、心は痛むが無視する。
しばらくすると休憩時間が設けられ、束の間、勉強から解放された。
「あー……たびと……いやされる……」
「僕なにもしてないけど」
休憩と言われた瞬間にレグルスは勉強道具を放り出し、タビトをベッドへ引きずっていった。
近頃めっきり出番の少ないレグルスの部屋のベッドは、客間のものよりさらに大きく、使われていない割にホコリっぽくない。
ベッドに寝そべるタビトを、人型のレグルスが枕のように抱き寄せて被毛にふわふわ頬ずりをしてくる。
くすぐったい。
「オレが勝手にタビトにいやされてるだけだからいいの。タビトはつかれてない?」
「大丈夫。でも、文字を覚えるのはもうちょっとかかりそう」
「一日ではムリだよ。ゆっくりやってこ」
「うん」
目の前に差し出されたおでこをザリザリ舐めてやると、レグルスは耳を伏せて嬉しそうにすり寄ってきた。
耳の間の毛を舐めつくろってやると、レグルスの顔がもふっとタビトのお腹に埋まった。
そのまますぅはぁと呼吸されて、とてもくすぐったい。
体をよじって伏せの姿勢を取ると、今度は脇腹を吸われた。逃げ場がない。
そんなふうにコロコロと転がりつつ、日の当たるベッドでゆるゆると短い休憩を終え、また机に向き直る。
「次は歴史の授業です。坊っちゃんは教科書を開いて。タビトは読めないでしょうから、聞いていてください」
レグルスはヒモで綴じられた薄い冊子を、ムルジムは分厚い本を開いた。
「これは、半分は獣人の歴史を描いた書物です」
「はんぶん?」
「もう半分は、かつてこの大地を支配した人間たちの歴史です」
「にんげんが?」
彼らはタビトのために、歴史の勉強で最初に習う「獣人の世界のはじまり」からおさらいしてくれた。
「我々が立つこの母なる大地には、かつて数え切れないほどの人間が住んでいました。人間は個々ではそれほど強くありませんが、高度な群れを形成し、道具を使う知恵を用いて生息域を広げ、世界を支配していました」
ムルジムがゆったりとした口調で語ったのは、創世神話だ。
かつて地表に獣人は存在しなかった。
世界にはケモノとヒトだけがあった。
人間は数を増やし、それまで地上を埋め尽くしていた動物たちを追いやっていった。
故意だったり過失だったり、どちらにせよ動物たちは数を減らし、種ごと全滅してしまったものもあった。
そしていつしか人間たちは、同種同士で争い始めた。
「これまでも人間たちは我が物顔で大地を奪い合っていました。しかし歴史の転換点となったこの戦いで、人間はそれまでになく苛烈に互いを傷つけ合い、その数を半分にまで減らしたのです」
人間たちは大幅に生息数を減らしながらも、争いを止められずにいた。
人間たちの戦いの影響は動物や植物だけでなく、大気や大地にまで及んだ。
どんな場所にも根を張る植物たちすら逃げ出すような不毛の土地が増えていき、環境の悪化で動物たちはさらに減っていった。争い続ける人間たちも当然減っていき、すべての動植物が絶滅する可能性すらあった。
汚染された大地は傷み、嘆き悲しみ、そして────動物と人間の一部へ、慈悲を与えた。
失われていく人間たちの命を少しだけすくい取り、環境汚染と人間たちの戦いで消えつつあった動物の一部と重ね合わせた。
すると不思議なことに、両者は自然に引き合ってひとつになった。
「大地がすくった人間は少しだけなの?」
「大昔のことで詳しくはわかっていません。が、当時の人間には『純粋なもの』と『濁ったもの』がいたと言われています。母なる大地がすくったのは前者だけであったとも」
淀み歪み濁った戦いに傷つけられた「澄んだ純粋な魂」は、同じように純粋な動物たちと重なり、心を通わせた。
そうして動物と人間、ふたつの姿を併せ持つ「獣人」が誕生した。
「じゃあ獣人はみんな『純粋なもの』なの?」
「そうです。我々は大地が認めし澄んだ魂をいただく器。それを肝に銘じ、日々を生きねばなりません」
ムルジムは誇らしげに胸を張る。
タビトは初めて聞く物語にとても感動した。
レグルスは部屋のあたたかさに誘われてこくりこくりと舟を漕いでいた。
────はじめ、獣人は皆動物の姿をしていた。
しかし半分は人間なので、道具を使う知恵と、高度な社会性を発揮し、極めて統率の取れた群れの運営を行った。
そのうちに人間に似た姿を取れる獣人が現れ始め、傷つき深く哀しんでいた母なる大地の上に少しずつ、傷を舐め癒やすように少しずつ繁殖していった。
いつしか、あれほどいた人間はすっかりいなくなり、大地は獣人が支配するようになった。
しかし獣人は自らの種族の領分を守り、それ以上を強欲に求めることがない。
他の種族と相容れないことがあっても、できるだけ争わず、知恵と対話で折り合いをつける。また、大地を敬い地の恵みを尊び、崇めた。
ケモノとヒトの生き方を半分ずつ活用する獣人の台頭は良い影響を及ぼした。
深い眠りにつきつつあった大地は豊かさを取り戻し、すべての生き物が死に絶えてもおかしくないほど破壊された環境は、徐々に回復していった。
「こうして母なる大地は平穏を取り戻したのです」
「人間はどこにいったの?」
「多くが地を去りました。僅かに残るものも滅多に姿を現さないと言われています」
「そっか……」
ここには本当に人間がいないのか。
ではタビトが住んでいたのは、少しだけ残っている人間たちが生きる地域だったんだろうか。
だから人間たちは野蛮で粗野で、だから互いに争っていたんだろうか。
「ここからは坊っちゃんの今日の授業につながる部分ですね」
ムルジムが分厚い歴史書をめくる。
「獣人と人間の関係は先程述べた通り。今日は獣人と動物について学びます。まず動物とかケモノといった呼び方は通称や俗称です。坊っちゃん、正式な名前を言えますか?」
「えーと……ヒヘンカガタセキツイドーブツ、です」
「そうです」
ムルジムは満足そうに頷いたが、タビトは突如レグルスが発した謎の言葉の羅列にぽかんと口を開けた。
レグルスが自分の手元の教科書の挿絵を開いて向ける。
字を読めるようになれば「非変化型脊椎動物」と書かれているとわかる挿絵には、横並びに書かれているが別種であることを示す記号の横に、ヒトとケモノの両方の姿を持つ獣人、ケモノの姿しか持たないもの、ヒトの姿しか持たないものが併記されていた。
枠外には他にも水の中に住む不思議な形の生き物や、虫などが描かれている。
絵のおかげでなんとなく内容を察することができた。
「獣人と人間が、重なる部分はあれど違う生き物であるように、獣人と動物も違う生き物です。獣人は動物たちと会話することはできず、生き方も価値観も違います。しかし我々が獣型でいるときは動物と同じような身のこなしや暮らし方ができますし、言葉のないコミュニケーションは取ることができる。互いに良き隣人であると言えるでしょう」
ムルジムの授業は少し難しい。
ヒトの姿を持っていること以外、動物と獣人に違いはないように思えたのに、そうではないという。
同じネコ科でも動物と獣人は話せない。
意思疎通ができないとまでは言わないが、言語を使った交流は発生し得ないという。
同時に、レグルスはじめ誰もがタビトを獣人であると認識している理由もわかった。
タビトが彼らの言葉を話せるからだ。
「やっぱりふしぎだなぁ」
自身が獣人だと言われるたび、どこか納得できない気がしている。
でもレグルスだけならともかく、ムルジムやフェルカドもそう言うのならタビトは獣人なのだろう。
それならば、獣人として生きていけるよう努力する他ない。
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