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第一章

15.勉強

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 二日に一回庭仕事のお手伝いをして、たまに屋敷の中の手伝いをして、それ以外の時間はレグルスと過ごして、ごはんもお風呂も一緒。
 そのルーティンの中に、さらに日課が追加されることになった。

「おべんきょう……?」
「えぇ。あなたも坊っちゃんの授業を一緒に受けてみては、と思いまして」

 タビトは今、屋敷の廊下を掃除している。
 獣型でしかいられない子トラの不器用な前足では、ハウスメイドの獣人たちのように細やかな掃除はできない。
 代わりに前肢でしっかりと雑巾を押さえ、絨毯を取り払ったつるつるの床を、四つ足で走って拭くことはできる。
 後ろ足だけ動かして前足と体は滑るにまかせ、雑巾を先頭にだーっと走って廊下の端まで拭き、同じように拭きながら戻って、また行って……と繰り返すと、つるつるの廊下がピカピカになる。楽しい。

 雑巾掛けは二つ足の姿勢では腰が痛むから大変だそうで、タビトは思いのほか歓迎された。
 今日もいつも通り、廊下の端まで行って戻ってくると、目の前に磨き上げられた革靴があった。
 いつも完璧なお仕着せ姿のムルジムだ。

「ごくろうさまです。ホコリがついていますよ」
「あっ。ありがと、です」
「無理に話そうとしなくても、そのうち丁寧な言葉遣いもできるようになります」

 年上の獣人には「です、ます」で話すということは知っていても、なかなか実践できないタビトをムルジムは優しく労ってくれた。
 おでこについていたホコリを払ってもらい、雑巾掛けで汚れてしまった手足を拭われる。
 前足を預けたとき、肉球をふにふにと数回、汚れを取るでもなく揉み込まれた。どうかしたのか聞こうとした瞬間に手放されたので、タビトはおとなしく前足を揃えて座る。
 それからさっきの提案をされたのだった。

「ご存知のように、坊っちゃんは毎日お勉強をしています。あなたは庭仕事や掃除の手伝いがありますから、それが終わったあとに授業を受けたらどうかと」

 レグルスは大きな家に住んでいるだけあって、それなりの地位にある子どもらしい。
 獣人の社会は個々の血筋や群れ以外に、同じ種族の獣人同士の巨大な群れのような概念もあるという。
 レグルスは、父親がライオン族の中で地位が高い、らしい。
 父親のプライドに所属していなくてもこうして大きな屋敷に住めて、幼少から教育を受けることができているのはそのためだ。
 朝食後から数時間、ムルジムや、町から通ってくる教師によって授業を受けている。
 学ぶのは主に言語、歴史、計算や社会常識、それに帝王学てーおーがく……タビトにはさっぱり理解できないものばかりだ。

「坊っちゃんは人型で書き取りをしながら授業を受けますが、あなたはペンを持てませんから、坊っちゃんの横に侍りながら聴講という形になります。知識というものは邪魔にならない。あなたの損にはならないと思いますよ」
「えぇと、つまり……?」
「将来に役立つので、坊っちゃんの横で聞いてるだけでもどうですか、ということですね」
「なるほど」

 正直、興味があった。
 レグルスはタビトと同じくらいの月齢らしいのに、タビトと違って文字が読める。この獣人社会のこともよく知っている。森の中を駆け回りながら、花や草木、虫や小動物についてたくさん教えられた。
 タビトも同じくらい色々なことを知れたら、レグルスの傍でもっと役に立てるのではないか。
 そう思っていたところに、今回のムルジムの提案は渡りに船だった。

「僕がいてもいいの?」

 タビトはこの屋敷の客、もしくは使用人見習いでしかない。
 教育というものにはお金がかかるらしい。とても贅沢なものなのだと、使用人たちが話しているのを聞いたことがある。
 今のところお給料も支払われていない見習いのタビトでは、対価を払うことはできそうにない。
 あとで法外な代金を請求されはしまいか、でもムルジムから言い出したことなのだし……と逡巡しながら尋ねると、執事はきれいに整えた口ひげを歪めて深く嘆息した。

「実は、さっきのは建前です。本音は、坊っちゃんがうるさいのです。タビトは今どこにいる、何してる、いじめられてるんじゃないか、難しい仕事を無理やり押し付けられているんじゃないか、見に行く、と。授業の合間に何度も聞いてきて……」
「あー……」
「なので仕事がない時間は、なるべく坊っちゃんの目の届くところにいてほしいのです。勉強はついでですね」

 そっちの話はわかりやすくていい。
 こうしてタビトは仕事を終え次第、レグルスのお守り兼聴講生として授業を受けることになった。

「タビト!? タビトもベンキョーするの?」
「横で聞くだけだけどね。よろしく、レグルス」
「うん!」

 自室で机に向かっていたレグルスは大喜びで自分の隣の椅子を引いてくれた。
 椅子へよじ登り、テーブルへ前足を乗せる。
 そうするとちょうど良い高さになった。ちょっとお腹がすぅすぅするけど仕方がない。
 人型のレグルスの隣に獣のタビトがちょこんと座るのはなんだか妙な光景だったけれど、室内の誰も気にしなかった。
 レグルスは着席するタビトをしきりに「かわいい」と言い、お腹を触ろうとしてきたが、ムルジムにぴしゃりと注意されて前しか見られなくなってしまった。
 今日の教師はムルジムだ。

「さぁ坊っちゃん、これからは無気力でだらしない授業態度はできません。今日は単語の書き取りからです」
「はーい」
「タビトはまだ書けませんから、文字の規則表を見ていてください」
「はいっ」

 マス目に区切られた紙を差し出され、じっくりと目を通す。
 地上に出てきてしまった哀れなミミズのようにしか見えない線の塊が、文字というものらしい。
 レグルスはとっくにこれを読めるし、書くことすらできている。

「獣人共通語です。動物は、種族が違えば言葉も違うため話せません。しかし獣人はこの共通語を使うことで、どんな種族の獣人とも意思疎通できるのです」
「そうなんだ。でも僕、こんな言葉をならったおぼえないよ?」

 無数のミミズを前足でちょいちょいしながら首を傾げる。
 母とは会話をしていたが、文字を書いたり読んだりしたことは一度もない。
 母以外のトラも、トリもサルもクマも、文字を扱ってはいなかった。
 それをするのは人間だけだった。
 どうしてタビトは今、獣人の言葉を口にできるんだろう。獣人と会話できているんだろう。
 しかしムルジムは事もなげに言った。

「そういうものなのですよ」
「そうなの……?」
「えぇ。言葉を『話す』ことは誰しも自然とできるようになっているものなのです。しかし言葉の使い方をより深く学び、また書き文字を覚えることで、より円滑なコミュニケーションを取ることができるようになります。授業はそのためのものです」

 オトナであるムルジムにそう断言されてしまえば、そういうものなのだと思うしかない。
 タビトはおとなしく視線をミミズたちに落とした。
 いつか文字を習得できたら、この表や絵本だけじゃなく、色んなものを読めるようになれるのだろうか。
 獣人という括りの中の端っこにでも、数えてもらえるようになるだろうか。
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