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19.裏切り
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死んだ人間を見ることなど珍しくもない。
今までこの手で殺した人間は、星の数を優に越えている。
しかしこれほどまでに心かき乱される人間の死体に出会ったことはなかった。
「ヴェナ?」
そっと触れた頬からはどんどん温度がなくなっていく。
ここ数日ヴェナは、今まで元気だったのが嘘のように弱っていた。
手足に力が入らなくなり自力で立てず、食事も喉を通らない。
体温は下がり、眠っている時間が多くなった。
それでも四六時中儀式陣に触れ、魔力を注げるよう腕や足だけは床に触れていた。
「もう、動かないのか?」
自分でも間抜けなことを口走っている自覚はある。
だがヴェナは最近ずっと寝てばかりいた。
今も瞼を閉じているだけで、再び起き上がるかもしれない。それほどまでに自然な、眠っているような顔をしている。
「……魂」
ほとんどすべての契約で、魂を対価として奪ってきた。
大抵は首を落とし、事切れた肉体から抜け出した魔力ごと魂を捕まえて食う。
口から魂を吸い出したことなどなかったし、食った後のことを考えたこともなかった。
恐らくそのままこの身に溶けて糧となっていたのだろう。
「魂を使って術を発動すると約束したからな。溶けてしまっては使えない。手元に残したほうがいいだろう」
誰もいない部屋の中で空虚に反響する独り言が妙に神経を逆撫でする。
だが今は自分自身の感情と向き合っている暇はない。
胸に手を当て、力を込める。
吸い取った魂は腹のあたりに落ちるまでは形を失わない。
案の定、ヴェナの魂は奪ったときと変わらない状態で取り出すことができた。
死んだ人間から溢れ出る魔力は白い靄のように見える。ヴェナの魂も同様の見た目をしていた。
靄を固めた、綿の塊のようなひどく頼りない形。
風に吹かれただけで霧散してしまいそうで、慌てて術を発動させた。
手の中のものが消えることがないよう闇の精霊術を練り上げ、小さな防壁を作り上げる。
「……なにをしているんだろうか、私は」
黒々とした球の中に入っている魂は、球を解かなくては術に使うことなどできない。
どうやら自分は動揺しているようだ。少し落ち着く必要がある。
寝台から離れ、椅子を引いて座る。
精霊体でいるときもよくこの椅子に座って、儀式陣と向かい合うヴェナを見ていた。
彼が魔術を行使する工程は丁寧で無駄がなく、儀式陣の扱いに長けていた。
結界石の修復作業も見守ったが、しっかりとした基礎だけでなく、実地で鍛えられた応用力や確固たる意思を持って魔術師の責務を果たそうとする姿勢が垣間見えた。
若いが優秀な魔術師。
それなのに、闇の精霊なんてものを喚び出してしまう不均衡な精神。
なにが彼をそこまで追い詰めたのか気に掛かった。
それだけの、はずだった。
「何もかもを壊してきた私が、奪ったことを後悔などするはずがない」
闇の眷属を喚び出した瞬間に、魔術師の生き死には精霊が握る。
破壊や破滅を願う魔術師というものは往々にして欲深く、代償は命で賄うことが常だ。
すぐに死ぬか、あとで死ぬか。その程度の違いしかない。
ヴェナは後者だった。
願うものが大きく、すぐには実行できない。
準備をするために一ヶ月だけ生き延びた。
彼が命をなげうつことに欠片の逡巡も見せなかった理由は最近知れた。
死病に冒されていたヴェナは、だからこそ精霊との契約対価に魂を差し出したのだ。それを知ったとき胸に大きな感情が沸き起こった。
人間たちの間ではあまり知られていないようだが、精霊は感情豊かな存在だ。
よく笑い、よく怒り、踊ったり歌ったり、おおげさに悲しんだりする。
そういう機微が苦手で距離を置いていたが、この胸にだって感情がないわけではない。
封印されていた年月の間に記憶や感情といったものを忘れたかと思っていたが、そうでもなかったようだ。
ヴェナを見ているのは楽しかった。
彼の言葉に驚くことも、苛つくこともあった。
彼の病を知ったときに感じたもの。
それは生きようとしないヴェナへの怒りと、目の前の命をどうにもできない虚しさだった。
「……」
黒い球体の中に薄っすらと白いものが見える。
丸いそれは戸惑うように球の中をうろうろと彷徨う。行き場を探しているのだろう。
自我を失った霊魂の状態でもなお、私の手から逃れようとする。
ヴェナにとって私など使い捨てるだけの精霊で、病に取り殺されるまでの時間を有効活用するために喚び出したに過ぎないのだと、言葉で突きつけられるのが怖かった。
私はこんなにも、このなんの変哲もない魔術師に惹かれていたのに────。
重い腰を上げ、儀式陣を見下ろす。
儀式陣の研究者だったというヴェナの書いた文様は、一見してどのような効果をもたらすものかわからなかった。
どちらかといえば視覚的な、派手な効果のありそうな描かれ方だ。
自然災害を起こして破壊を実行するつもりだろうか。
思えば彼は、契約の最終的な着地点の話をしなかった。
この陣を発動させてこの国が、大地がどうなるか、私は知らない。
「どうでもいい。これがヴェナの望みだ」
自ら殺したにも関わらず消滅を惜しむたった一人の魔術師の魂と、これから死にゆく大勢の人間の価値は明確に違う。
足元に向かって躊躇なく魔力を流し、陣の発動を促した。
木目に描かれた黒炭の文字が発火したように輝き────屋根が吹き飛んだ。
「な……っ!?」
黒球を抱えたままボロ小屋を飛び出す。
平原と森の境目に立てられたあばら家は、突如として屋根を失い半壊状態だった。壁が倒れるのも時間の問題だ。
儀式陣から飛び出した何かは、まばゆい光を発しながら空を照らしている。
以前人間の街で見たことがある現象に似ていた。
火薬を燃やし空を飾る、花火というものだ。
「なんだ? 術が失敗したのか?」
小脇に抱えた魂に問いかけるが返事などあるはずもない。
その間にも、儀式陣上空の花火に似たものは様々な色の火の粉を放ちながら光り輝いている。
夜に向かう夕暮れの空に、星を撒き散らすかのような花火は少し不釣り合いだった。
「……何か落ちたな」
しばらく後、花火は盛大に燃え盛りながら派手に光り、空を覆い尽くさんばかりに軽やかに爆発して散った。
直後、ボロ家の近くになにか四角いものが落ちるのが見えた。
慎重に落下地点へと移動する。
「箱だ。おい、おまえ何がしたいんだ? これは失敗しているのか?」
死んだ魔術師の儀式陣の不具合で契約が履行できなかった場合、果たして精霊側に咎はあるのか……などと考えながら、手のひらに乗るほどの箱を拾い上げる。
紐で括った艶のある木箱に術の類はかけられていなかった。
ついでに付近を魔力で探ってみたが、破壊が起きている気配はない。大災害の予兆も感じ取れない。
「なんなんだ、全く。おい開けるぞ、いいな」
物言わぬ魂に意味もなく許可を取りつつ、紐を引いて箱を開ける。
中には小さな木彫物と、紙切れが入っていた。
中身は本当にそれだけらしく、開けた瞬間に術が発動する仕掛けもない。
紙切れには小さな文字がたくさん書かれていた。ヴェナの筆跡のようだ。
────親愛なる俺の精霊へ
まずはごめんなさい。破壊の魔術は発動しない。
代わりにお祝いを贈ります。正確な日付はわからないけど、誕生日おめでとう。
精霊に何を贈ればいいか見当もつかなかったし、時間もなかったので耳飾りを作りました。
祈りを込めたので、魔力だけ取って捨てても構いません。
契約を破る形になったこと、謝ります。本当にごめん。
なにもかも壊したかった気持ちに嘘偽りはない。でも今は、きみに人殺しをさせたくない気持ちが、人を恨む気持ちを上回ってしまった。
契約は俺の側の不備で破棄される。
俺の魔力と魂はそのまま持っていってください。
一ヶ月間ありがとう。俺のことは忘れて、自由に生きて。
魔術師 ヴェナ────
「忘れて、自由にだと……?」
迸り出た闇の気配に、手の中の紙片が一瞬で消滅した。
黒い魔力が周囲の草木や地面、風すらも捕らえて飲み込み広がっていく。身の内で暴れまわる力を制御しようという気も起きない。
「私を封印から呼び覚まし、一月も付き合わせた挙げ句、勝手に契約を破棄して、その上忘れろだと……舐められたものだな」
激昂して手紙は消してしまったが、きつく握り込んだ木片は消えていなかった。
それほど良い細工ではないが、細かく彫り込みがされた耳飾りは不思議と耳朶に上手く嵌った。
抱えた黒い球の中のものは、相変わらずふよふよと浮いている。
死ぬ前も死んだ後も不安定で理解不能で思い通りにならない人間。
このまま術を解けば、この魂はあるべき場所へ還り、再び生物へと生まれ変わるに違いない。
しかしそんなことはさせない。
「闇の精霊は契約違反を許さない。思い通りになどなってやるものか。楽に死なせてなどやるものか」
まばゆい星が覆い尽くす夜空に溶けるように、黒衣の精霊は姿を消した。
今までこの手で殺した人間は、星の数を優に越えている。
しかしこれほどまでに心かき乱される人間の死体に出会ったことはなかった。
「ヴェナ?」
そっと触れた頬からはどんどん温度がなくなっていく。
ここ数日ヴェナは、今まで元気だったのが嘘のように弱っていた。
手足に力が入らなくなり自力で立てず、食事も喉を通らない。
体温は下がり、眠っている時間が多くなった。
それでも四六時中儀式陣に触れ、魔力を注げるよう腕や足だけは床に触れていた。
「もう、動かないのか?」
自分でも間抜けなことを口走っている自覚はある。
だがヴェナは最近ずっと寝てばかりいた。
今も瞼を閉じているだけで、再び起き上がるかもしれない。それほどまでに自然な、眠っているような顔をしている。
「……魂」
ほとんどすべての契約で、魂を対価として奪ってきた。
大抵は首を落とし、事切れた肉体から抜け出した魔力ごと魂を捕まえて食う。
口から魂を吸い出したことなどなかったし、食った後のことを考えたこともなかった。
恐らくそのままこの身に溶けて糧となっていたのだろう。
「魂を使って術を発動すると約束したからな。溶けてしまっては使えない。手元に残したほうがいいだろう」
誰もいない部屋の中で空虚に反響する独り言が妙に神経を逆撫でする。
だが今は自分自身の感情と向き合っている暇はない。
胸に手を当て、力を込める。
吸い取った魂は腹のあたりに落ちるまでは形を失わない。
案の定、ヴェナの魂は奪ったときと変わらない状態で取り出すことができた。
死んだ人間から溢れ出る魔力は白い靄のように見える。ヴェナの魂も同様の見た目をしていた。
靄を固めた、綿の塊のようなひどく頼りない形。
風に吹かれただけで霧散してしまいそうで、慌てて術を発動させた。
手の中のものが消えることがないよう闇の精霊術を練り上げ、小さな防壁を作り上げる。
「……なにをしているんだろうか、私は」
黒々とした球の中に入っている魂は、球を解かなくては術に使うことなどできない。
どうやら自分は動揺しているようだ。少し落ち着く必要がある。
寝台から離れ、椅子を引いて座る。
精霊体でいるときもよくこの椅子に座って、儀式陣と向かい合うヴェナを見ていた。
彼が魔術を行使する工程は丁寧で無駄がなく、儀式陣の扱いに長けていた。
結界石の修復作業も見守ったが、しっかりとした基礎だけでなく、実地で鍛えられた応用力や確固たる意思を持って魔術師の責務を果たそうとする姿勢が垣間見えた。
若いが優秀な魔術師。
それなのに、闇の精霊なんてものを喚び出してしまう不均衡な精神。
なにが彼をそこまで追い詰めたのか気に掛かった。
それだけの、はずだった。
「何もかもを壊してきた私が、奪ったことを後悔などするはずがない」
闇の眷属を喚び出した瞬間に、魔術師の生き死には精霊が握る。
破壊や破滅を願う魔術師というものは往々にして欲深く、代償は命で賄うことが常だ。
すぐに死ぬか、あとで死ぬか。その程度の違いしかない。
ヴェナは後者だった。
願うものが大きく、すぐには実行できない。
準備をするために一ヶ月だけ生き延びた。
彼が命をなげうつことに欠片の逡巡も見せなかった理由は最近知れた。
死病に冒されていたヴェナは、だからこそ精霊との契約対価に魂を差し出したのだ。それを知ったとき胸に大きな感情が沸き起こった。
人間たちの間ではあまり知られていないようだが、精霊は感情豊かな存在だ。
よく笑い、よく怒り、踊ったり歌ったり、おおげさに悲しんだりする。
そういう機微が苦手で距離を置いていたが、この胸にだって感情がないわけではない。
封印されていた年月の間に記憶や感情といったものを忘れたかと思っていたが、そうでもなかったようだ。
ヴェナを見ているのは楽しかった。
彼の言葉に驚くことも、苛つくこともあった。
彼の病を知ったときに感じたもの。
それは生きようとしないヴェナへの怒りと、目の前の命をどうにもできない虚しさだった。
「……」
黒い球体の中に薄っすらと白いものが見える。
丸いそれは戸惑うように球の中をうろうろと彷徨う。行き場を探しているのだろう。
自我を失った霊魂の状態でもなお、私の手から逃れようとする。
ヴェナにとって私など使い捨てるだけの精霊で、病に取り殺されるまでの時間を有効活用するために喚び出したに過ぎないのだと、言葉で突きつけられるのが怖かった。
私はこんなにも、このなんの変哲もない魔術師に惹かれていたのに────。
重い腰を上げ、儀式陣を見下ろす。
儀式陣の研究者だったというヴェナの書いた文様は、一見してどのような効果をもたらすものかわからなかった。
どちらかといえば視覚的な、派手な効果のありそうな描かれ方だ。
自然災害を起こして破壊を実行するつもりだろうか。
思えば彼は、契約の最終的な着地点の話をしなかった。
この陣を発動させてこの国が、大地がどうなるか、私は知らない。
「どうでもいい。これがヴェナの望みだ」
自ら殺したにも関わらず消滅を惜しむたった一人の魔術師の魂と、これから死にゆく大勢の人間の価値は明確に違う。
足元に向かって躊躇なく魔力を流し、陣の発動を促した。
木目に描かれた黒炭の文字が発火したように輝き────屋根が吹き飛んだ。
「な……っ!?」
黒球を抱えたままボロ小屋を飛び出す。
平原と森の境目に立てられたあばら家は、突如として屋根を失い半壊状態だった。壁が倒れるのも時間の問題だ。
儀式陣から飛び出した何かは、まばゆい光を発しながら空を照らしている。
以前人間の街で見たことがある現象に似ていた。
火薬を燃やし空を飾る、花火というものだ。
「なんだ? 術が失敗したのか?」
小脇に抱えた魂に問いかけるが返事などあるはずもない。
その間にも、儀式陣上空の花火に似たものは様々な色の火の粉を放ちながら光り輝いている。
夜に向かう夕暮れの空に、星を撒き散らすかのような花火は少し不釣り合いだった。
「……何か落ちたな」
しばらく後、花火は盛大に燃え盛りながら派手に光り、空を覆い尽くさんばかりに軽やかに爆発して散った。
直後、ボロ家の近くになにか四角いものが落ちるのが見えた。
慎重に落下地点へと移動する。
「箱だ。おい、おまえ何がしたいんだ? これは失敗しているのか?」
死んだ魔術師の儀式陣の不具合で契約が履行できなかった場合、果たして精霊側に咎はあるのか……などと考えながら、手のひらに乗るほどの箱を拾い上げる。
紐で括った艶のある木箱に術の類はかけられていなかった。
ついでに付近を魔力で探ってみたが、破壊が起きている気配はない。大災害の予兆も感じ取れない。
「なんなんだ、全く。おい開けるぞ、いいな」
物言わぬ魂に意味もなく許可を取りつつ、紐を引いて箱を開ける。
中には小さな木彫物と、紙切れが入っていた。
中身は本当にそれだけらしく、開けた瞬間に術が発動する仕掛けもない。
紙切れには小さな文字がたくさん書かれていた。ヴェナの筆跡のようだ。
────親愛なる俺の精霊へ
まずはごめんなさい。破壊の魔術は発動しない。
代わりにお祝いを贈ります。正確な日付はわからないけど、誕生日おめでとう。
精霊に何を贈ればいいか見当もつかなかったし、時間もなかったので耳飾りを作りました。
祈りを込めたので、魔力だけ取って捨てても構いません。
契約を破る形になったこと、謝ります。本当にごめん。
なにもかも壊したかった気持ちに嘘偽りはない。でも今は、きみに人殺しをさせたくない気持ちが、人を恨む気持ちを上回ってしまった。
契約は俺の側の不備で破棄される。
俺の魔力と魂はそのまま持っていってください。
一ヶ月間ありがとう。俺のことは忘れて、自由に生きて。
魔術師 ヴェナ────
「忘れて、自由にだと……?」
迸り出た闇の気配に、手の中の紙片が一瞬で消滅した。
黒い魔力が周囲の草木や地面、風すらも捕らえて飲み込み広がっていく。身の内で暴れまわる力を制御しようという気も起きない。
「私を封印から呼び覚まし、一月も付き合わせた挙げ句、勝手に契約を破棄して、その上忘れろだと……舐められたものだな」
激昂して手紙は消してしまったが、きつく握り込んだ木片は消えていなかった。
それほど良い細工ではないが、細かく彫り込みがされた耳飾りは不思議と耳朶に上手く嵌った。
抱えた黒い球の中のものは、相変わらずふよふよと浮いている。
死ぬ前も死んだ後も不安定で理解不能で思い通りにならない人間。
このまま術を解けば、この魂はあるべき場所へ還り、再び生物へと生まれ変わるに違いない。
しかしそんなことはさせない。
「闇の精霊は契約違反を許さない。思い通りになどなってやるものか。楽に死なせてなどやるものか」
まばゆい星が覆い尽くす夜空に溶けるように、黒衣の精霊は姿を消した。
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