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14.血の味

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 馬車に揺られ王都へ戻り、その足で魔術師団本部へ顔を出した。
 上司を捕まえて仕事が完了したと報告をし、ろくな労いの言葉もなく解放される。
 あんな上司に労われても嬉しくないが、実際に放り出すようにぞんざいに扱われると、どれほど自分が職場にとって大切ではない存在なのかと虚しくなってしまった。
 でもそれも、もう終わる。

「ヴェナちゃん! ちょっと!」
「あ、トビアス」
「こっち来なさい!」

 廊下を歩いていたら、猛然と走る巨漢に出くわした。
 決して狭くなどない魔術師団本部の廊下が圧迫されるほどの気迫に思わず避けたが、甲斐なく腕を掴まれ引きずられ、今に至る。
 同僚のトビアスに連れてこられたのは人通りの少ない廊下の奥だった。
 ここなら通りすがりに話を聞かれるということもない。つまり内緒話をするということだ。

「まずは、おかえりなさい。無事に帰ってきてくれたわね」
「ありがと。これ、言われてたお土産」
「そうそうこれこれ……ってそれどころじゃないわよッ!」

 フェミニンな土産物包装紙に包まれた美容オイルを抱えて怒るトビアスはなんだかちぐはぐだが、本人は大真面目らしい。

「ヴェナちゃん、ここ辞めるって本当なの?」
「耳が早いなぁトビー。師団長から聞いたの?」
「えぇ。あたし今団長と付き合ってるの」

 さらりと言われて硬直する。
 トビアスと団長が?
 団長は仕事のできる優秀な魔術師だが、そろそろ初老に差し掛からんばかりの年齢だ。
 たしかに結婚はしていないらしいが、男性を相手にするタイプだとは知らなかった。
 しかもよりにもよって俺の同僚が相手とは。
 色々と失礼な妄想をしそうになって急いで掻き消す。
 当のトビアスは「そんなことはどうでもいいのよ!」と怒っている。カオスだ。

「で、さっきあたしの同僚から辞表が出されたって聞いたのよ。詳しく聞いたらヴェナちゃんじゃない! あたしビックリして、団長の部屋からここまで走ってきちゃったわよ」

 昼下がりに団長の部屋で何をしていたのかと思わないでもなかったが、俺はとりあえず謝った。

「驚かせて悪い。でも元々辞めるつもりだったんだ」

 上司に完了報告をし、その足で魔術師団長室で退職届を出した。
 下っ端魔術師が激務に耐えかね辞める、なんてことは珍しくない。
 形式的な引き止めの言葉を袖にして、自席の荷物を片付けにいくところだった。どうやら彼とは入れ違いになったらしい。
 誰よりも俺のために怒ってくれるトビアスは、しかし今は俺に向かって怒り心頭だ。
 整えられた太い眉がきりきりと釣り上がる。

「もう、そんなことにとやかく言ってるんじゃないわ! ここはセクハラパワハラが当たり前の腐ったブラック職場だし、誰がいつ辞めてもおかしくない場所だもの。あたしが怒ってるのはそういうことじゃないのよ」
「……うん。相談もせずに、ごめんな」
「そうよ! もう! 友達甲斐のない男ね!」

 ぷりぷり怒っていたトビアスは急にしゅんと項垂れる。

「理由、聞いてもいい?」

 辞めていく他の人間と同じように適当な「一身上の都合」を告げても良かった。
 でも俺のことを本気で心配して、俺のために怒ってくれる友人に嘘をつくことはできない。

「……病気なんだ」
「えっ、やだ、ちょっと本当なの!? ……つらかったわよね、気づかなくてごめんなさい」
「なんでトビーが謝るんだよ。隠してたんだからわかるはずないだろ?」
「そうだけど……なら、治療のために辞めるのね。実家に帰るの?」
「実家には帰らないよ。郊外に家を買ったんだ」
「素敵! 王都は騒がしいし空気も澱んでいるから、離れるのは賛成だわ。お見舞いは……行かない方がいい?」
「そうだね。手紙を書くよ」
「わかったわ。良い知らせが来るのをずっと待ってるからね」

 トビアスの大きくて厚い手のひらがそっと俺の手を掬い上げる。
 体温を移すようにぎゅっと握られた。
 この体も心もあたたかい友人に、全てを話すことはない。
 嘘はつかなかったが本当のことも言えなかった。
 罪悪感で弱音が口から飛び出しそうになるのをぐっと堪える。彼は何も知らない方がいい。
 トビアスは何度も「お大事に」と言い、何度も振り向きながら去っていった。
 手を振って見送り、大きな背中が見えなくなってから腕を下ろす。
 これでもう心残りはなくなった。自分も目的地に向かおうと一歩踏み出した瞬間、肩を後ろに引かれた。

「え?」

 俺の体はバランスを崩したまま背後に倒れ、背中が廊下の壁に────ぶつからなかった。
 壁をすり抜けている。
 呆然と尻もちをついた先は、閉ざされていたはずの突き当たりの部屋だった。
 おそらく倉庫として使われている、普段は鍵がかかっていて入れないはずの場所。

「病とは何だ」

 暗く埃っぽいこの場所に、壁という物理存在を無視して俺を引きずり込んだ精霊が、威圧的に見下ろしてくる。
 暗がりに溶け込む黒い装束と対称的に、金の目が爛々と輝いていた。
 獰猛な肉食獣に睨まれたかのように呼吸が止まる。

「病で魔術師を辞めるのだろう。私は聞いていないぞ」

 苛々と吐きつけられた言葉にはっと息を呑んだ。
 クロに病気のことは話していない。
 クロの気配があるときに、病の片鱗を見せたこともなかった。
 対等な契約を結んだ精霊が、先の短い魔術師に最後まで付き合ってくれるかわからなかったから、隠した。
 そう素直に言い訳すればいいのかもしれない。
 だが臆病で小心者の俺は、怒りに燃える金の眼に二の句が継げなくなってしまった。
 その沈黙を、クロは別の意味で取った。

「なるほど。所詮契約で使役しているだけの精霊に自身の事情など明かす気はないということか」
「ち、違……っ」
「ならば勝手に暴かせてもらうぞ」
「え、んんっ」

 頬を乱暴に掴まれ、開いてしまった唇にクロのものが重なる。
 荒々しく舌を引きずり出され、いつもなら粘膜を絡め合うはずの行為に、突如痛みが走った。

「いっ────!」

 鋭い犬歯で思い切り噛まれた舌から血が流れ、クロの口腔へ消えていく。
 血を飲まれている。
 とんでもない異常事態に、俺の頭は真っ白になってしまった。
 魔術師の血は精霊への対価や契約の代償にも使われる、供物としてポピュラーなものだ。
 しかしその使い方は、自らの意思で流したものを器に移して精霊に差し出したり、儀式陣に垂らしたりなど。
 精霊に傷をつけられ、直に血を吸われる魔術師など聞いたことがない。

(そういえばクロは俺の同意なんかなくても、好き放題キスして対価の魔力を吸う俺様精霊なんだった……)

 あまりのことにどうでもいい思考しかできず、舌と血を吸われる。
 口づけていた時間はそれほど長くなかったはずだが、永遠みたいに思えた。
 紅混じりの銀糸で俺とクロの間が結ばれ、切れる。
 それほど血を奪われていないはずだが、頭がくらくらとして視点が定まらない。
 霞む視界で見上げた闇の精霊は、口唇にこびりついた血液を乱雑に拭って俺を睨みつけた。

「……ふん。おまえ、この病はいつからだ」
「へ、ぁ?」
「腰抜けな上に呂律まで回らなくなったか、間抜け。大方、その薄い腹の中で何年も病を飼っていたのだろう。自身の健康になど頓着せぬうちに発症し、その頃にはもう手遅れ……違うか?」
「そ、その通りです」
「間抜けめが。それでよく他者や結界の治療修復などしていたものだ」

 病気を診てくれている町医者のような口調で、それよりよほど酷い罵りをしおらしく聞く。
 ぐうの音も出ない。返す言葉もない。
 俺はここ一年半ほどずっと不調だった。
 激務な上に、倒れない程度の体調管理しかしてこなかったツケが病として発現したと知ったのは、クロを喚び出す直前だった。
 症状が出てしまえば助からない。
 治療薬はなく、魔術でもどうすることもできない。
 宣告を受けて、やっと吹っ切れたんだ。
 この寂しく、報われない人生の最期を華々しく破壊で彩ってやろうって。
 末期患者の八つ当たりに付き合わせてしまうクロに対し、今更ながら申し訳なさが沸き起こる。
 しかし俺が口を開くよりクロが不機嫌そうに鼻を鳴らすほうが早かった。

「久方ぶりの契約者がこんな間抜けとは、私も運に見放されたか」
「クロ、ごめん。俺……」
「これほど不味い血は初めてだ、間抜けが」

 黒い後ろ姿が闇にかき消え、薄暗い倉庫に静寂が満ちる。
 短時間で一生分の「間抜け」を言われたし、これまでもこれからも聞かないようなとてつもない悪口の捨て台詞を食らった。
 しばらくはあの冷たい視線が夢に出そうだ。
 それにしても、病に冒された血というものは美味しくないのか。
 精霊が血を供物とするとき、味とか認識してるものなんだ。
 なんだかどうでもいいことがおかしくて、俺は一人力なく笑った。

「ついに愛想尽かされちゃったかな……」

 精霊の気配は消えている。
 近くにいないということは、もう二度と戻ってこないかもしれないということ。
 再び予感される空虚な終わりを思い、俺は少しだけ泣いた。
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