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4.それぞれの利益
しおりを挟むその日から俺と久我は、毎日昼食を共にすることになった。
もちろん外回り営業職の性質として、互いに時間が合わないこともあったが、そういうときは久我が近くまで出てきて外食になったり、コンビニ飯を公園のベンチで食べるなんてこともあった。
久我はやっと一人でルートを任されるようになったばかりの新米で、無理はしないようにと何度も言ったが……嬉しそうに懐いてくる犬、もとい後輩を無碍にできるほど俺は非情じゃない。一緒に食べましょう、と迫られたら時間を作ってやるしかない。
食事中も、久我は交流を欠かさない。
仕事のことだけでなく、昨日見たテレビ番組、今ハマっているゲーム、休日に出かけた場所のことなどよく話す。つられて俺も似たような話題を提供し、意外とお互いの好みが離れていないことも知った。
そんなこんなで約二週間ほど、俺と久我は少しずつ親睦を深めている。
部署内のメンバーの行動予定が大まかに記されたホワイトボードを見る。
午前の外回りを終えて帰社したのは、今日久我が終日内勤だったからだ。先程も俺の帰りが間に合えば、社食でランチにしようとメッセージが届いていた。
無事昼飯時に間に合ったが、肝心の久我の姿がフロアにない。
「あれ、久我どこにいる?」
「久我くんならさっき外に出てたよ。トイレとかじゃないかな」
近くの席の同僚が応えてくれるのに礼を言って、廊下に出る。一時的な離席ならすぐ戻ってきて昼休憩に入るだろう、先に食堂へ行って席を確保してやればいい。
その旨をメッセージで送ろうとしながら廊下を歩いていたら、どこかの部屋から物音がした。
なんとなく気になって足を止めると、もう一つ物音がする。なにかが落ちたかぶつけたかしたような、あまり耳障りの良くない音だ。
「……で、な……」
「ちょ……やめ、…………さい!」
おまけに微かに声も聞こえる。男女が小声で諍うような。男の方の声が久我に似ていたような気がして、俺は足を止めたまま耳をそばだてた。
どうやら資料室から音が聞こえているらしい。
「そんなこと言って、ほんとはつらいんでしょ?」
「やめてくださいって!」
「抗わないほうがいいわ。本能なんだもの……ほら」
「やめ……っ、ちょっと!」
「ふふ、真っ赤になってる」
……うーん。まるでそのテのビデオのような、妖しげな音声だ。時折ガタガタと棚がこすれる音が混じる。
さしずめシチュエーションとしては、女上司に迫られる部下のオフィスものといったところか。
これが映像作品の中ならいくらでもやってて構わないが、どうやら迫られているのは本当に久我らしい。しかも「本能」という単語が聞こえたということは、恐らく相手は。
「失礼しまーす。えーと社史、社史……あ、そんなとこで何してるんですかぁ?」
わざとらしいまでに大声と大きな物音を立てながら入室して、奥まった棚を覗き込む。昼でも薄暗い室内には、予想通りの男女がいた。
久我は棚に背をつけ、女のほうは久我の体にしがみついているような体勢だ。美女からの壁ドン……なかなか羨ましいシチュエーションだが、やられている人間が嫌がっているならなんとかしてやるのも先輩の務め。
「おいおい久我ぁ、トイレに何分かかってんだよ」
「せ、先輩……」
「それと、総務の方でしたっけ? そいつ離してやってくれます? ほらまだ新人なもんで、昼休みにも仕事させないとなんですよ~」
「……」
髪を振り乱し、頬を紅潮させていた女は興が冷めたと言わんばかりにスッと久我から離れた。そのまま俺には一瞥もくれず、ヒールの音を高鳴らせて資料室を出ていく。
濃厚な香水の匂いに酔いそうになりながら、俺は久我の方へ近寄った。
「大丈夫か? あいつ、オメガだよな。なにかされたか」
女が去ってから、久我は棚に凭れてずるずると座り込んでしまっていた。セットされていた髪が乱れ、いくつかボタンを外されたシャツには皺が寄っている。膝をついて久我の顔を覗き込むと、普段は笑う時くらいしか崩れない表情がくしゃりと歪んだ。
「お、オメガのフェロモンを、嗅がされました。番おうって、噛めって言われたけど俺、我慢しましたから……」
顔を覆う久我の手の甲には、くっきりと噛み跡があった。内出血が痛々しい跡は、目の前のオメガを噛んでしまわないよう自制するために自分で噛み締めたものだろう。
「アルファになったと公表してないのに、なんで……」
俺と同じく後天性の久我は、他人より見た目からバースが推測しにくいはずだ。バースの情報は秘匿される、漏洩したとは考えにくいが。
「さっきの人は、オメガには分かるって言ってました。アルファと番になって寿退社したいけど、どうせなら顔が良いアルファがいいからって」
「ひでー理由で目付けられちまったなぁおまえ……」
噛み跡を隠してやりたかったが、あいにく絆創膏など持ち歩いていない。仕方なくハンカチを細く折って、手のひらに巻きつけてやった。
「……大丈夫か?」
もう一度覗き込んだ顔は、だいぶ心を持ち直していた。まだ不安そうではあったが、しっかりと頷いている。
「大丈夫です。助けてくれてありがとうございます、先輩」
「いいや。ああいうの、前にもあったのか」
「……はい」
ここから人の多い食堂へ行くなど、とてもできる雰囲気ではない。俺は久我を伴い、自販機で缶コーヒーを二本買った。目指すは廊下の奥だ。
「こういうとき、颯爽と屋上に連れてってやれれば良かったんだけどな。このビルの屋上、閉鎖されてるから」
二人で非常階段の手すりに凭れる。
下の階と屋上へ続く外階段は、簡素な作りの踊り場にスタンド灰皿が一本置かれただけの寂れた場所だ。その昔オフィスが全面禁煙になり、喫煙者がまだ多かった時代にはここで紫煙を燻らせる社員が何人もいたらしい。今では滅多に見ない光景のため、ここも忘れ去られた場所だ。
「俺と番に、って言い出したのは、ああいう虫を除けるため?」
「そうです」
久我は手の内で缶を弄んでいる。俺は遠慮なく一口啜って、久我の横顔を見つめる。
「アルファがオメガに襲われるケースもあるってのは、知ってはいたが。案外えげつないもんだな」
「はい……。今回は女性でしたけど、他部署の男性オメガに迫られたこともあります。理由は大体同じで……俺は周囲にアルファだと認知されていないから、狙い目だって」
「ホントにえげつないわ」
どうやら久我は社内の一部のオメガに標的にされてしまっているようだ。
若いうちから番を持つことが多いオメガだが、アルファも事情はそう変わらない。会社勤めをしているような年齢のアルファにはすでに番がいることが多く、基本的に番持ちのアルファは他のオメガに見向きもしない。
いくらアルファは番を得てもオメガフェロモンが効くとはいえ、無闇に迫って追い返されれば告発され、社会的地位を失いかねない。アルファは総じて優秀で、社内の発言権も強い。
番を持たず、アルファとしての自衛手段も知らず、入社二年目まだまだ新人と呼ばれることも多い久我は、立場が弱く都合がいいと判断されてしまったのだろう。
「すみません。先輩に利益があるようなことを言いながら、俺は自分のために番契約を持ちかけたんです」
「……」
横目で眺めていた久我の横顔は沈んでいき、表情は苦しげに変わる。背を曲げ、懺悔でもするように手すりに縋る姿は後悔を強く滲ませていた。
「騙しているつもりはありませんでした。番になればオメガは保護される、それは事実です。でも先輩のためだけを思って提案したんじゃなかった……」
「……」
「謝って済むものじゃないかもしれません。でも、ごめんなさい。オメガにとって番契約は一生なのに、俺の私欲で利用していいものじゃなかった」
「じゃあ、あの話はなかったことにするか?」
缶を傾けて半分ほど飲み干す。苦味が舌に残る。久我はまだ開栓もしていないコーヒー缶を握りしめて、俯いていた顔をこちらへ向けた。
「先輩が……望むように」
そうして沙汰を待つ罪人のように目をつむる。
俺はそれを見て、声に出さず笑った。罪人というよりは、叱られるのを覚悟した犬だ。今は少し毛並みの乱れた犬が、飼い主からの叱責を予想して縮こまっている。
「ばぁか。なにショボくれた顔してんだ」
大型犬が小さくなっている様子がおかしくて、無防備な額を指先でつついた。
大きく見開かれた瞳と目が合って、その顔にも笑う。
「そもそも番契約は検討段階、まだなにも決まってない。新米営業であるおまえのプレゼンに問題があったとして、俺は不利益を被ってないしおまえは素直に事情を話した。それだけのことだ」
「そ、それって」
「引き続き検討する。メシ行くぞ、もう腹ぺこだ」
残り少ないコーヒーを飲み干して身を起こす。ずっと鉄の手すりに預けていた背中が冷えていたし、空腹はかなりのものだ。非常扉から建物に入ると、久我も慌てて着いてきた。
食堂へまっすぐ向かおうとして、後ろから手を掴まれる。
「? なんだよ」
「先輩、あの」
控えめに腕を引かれ振り返ると、真剣な面持ちの久我がいた。吹きさらしの場所に長くいたせいか、少し頬が赤くなっている。
「やっぱり今すぐ番契約しません? 俺、先輩のこと好きになっちゃったかも」
「アホか」
反射的に、さっきは手加減してやった額へのデコピンを全力でぶちかます。
「いってぇ!? 先輩これパワハラですよ!」
「そーかそれならおまえのはセクハラだ」
痛さにしゃがみ込む久我を放置してさっさと廊下を戻った。後ろでまだなにか言っているのを無視する。
せっかく良い感じに先輩風を吹かせることができたのに、尊敬を差し置いて「惚れた」とは。しかも「かも」ってなんだ。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
後ろから追いかけてくる気配を感じながら、俺は昼時で混み合っているであろう食堂のメニューへ思いを馳せた。
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