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あかねの空
しおりを挟むあかねは、鏡の前で自分の顔をじっとみていた。見ていたというよりは、呆然としていたという方が正しいかもしれない。 白いドレッサーに据え付けられた、長方形の鏡。
それが今では端の方、手のひら一つ分を残して、後は割れていたり、ヒビが入っていたり、あかねが好んで使っていた頃の面影は、跡形もなく消えていた。
割ったのは、あかね自身だ。
彼女は5年前の春、事故にあった。
ひどい事故だった。その事故で、両親は死んだ。姉も、兄も、死んだ。
それだけなら、まだ救いはあったかもしれない。
あかねは可愛い娘だった。大きな二重瞼の目に、スッと通った鼻筋、形のいい輪郭。彼女はいつも注目の的だった。
それが、今ではみる影もないのだ。
事故は彼女を、美しい少女からおぞましい化け物に変えてしまった。
彼女の顔はえぐれていた。えぐられすぎていた。生きているのが不思議な程だった。
「ぁぁあ、、ゔぃああああ」
突然、あかねが唸り声をあげた。振り返って見ると、あかねは、どこから探し出したのだろうか、小さな手鏡を持っていた。
彼女はその鏡の中の化け物に、酷く怯えているようだった。
私は、いつものようにそれを取り上げた。
急いで、あかねの口に詰め物を入れた。そして、ドレッサーの近く作ってある、手製の檻の中に、あかねを押し込んだ。
彼女は暴れた。もごもごと、声に出せずに叫んだ。
これも、いつものことだった。
何か顔が映る物を見ると、彼女は発狂する。
最初は、それが自分であることを認めない。鏡を見たら、知らない、醜い化け物が映っている。彼女はそのことに対して怯える。ある程度時間が経つと、彼女はそれが自分自身であると悟るらしい。
そうなると、もう、止めようにも止められない。
彼女は暴れる。暴れて、叫んで、「お姉ちゃん、わたしを、殺して」と、私に向かって言うのだ。
あの日、あの事故の日、車を運転していたのは私だった。
夕方、茜色の空がフロントガラスいっばいに広がっていた。
眺めが良かった。家族の笑い声が心地よかった。気が緩んだ。
それがいけなかったのだろう。
病院で目が覚めて、両親も、兄も、死んでしまったと聞かされて、私は悲しくて仕方がなかった。申し訳なさの方が、勝っていたかもしれない。
しかし、妹が、あかねだけでも、生きていると知って、私がどれだけ救われたか。
事故後、初めて対面した時、あかねはもう、あかねではなかった。私は先生にも、看護師さんにも、何度も、何度も、あれが本当にあかねなのか確かめた。
あかねは、包帯の隙間から微かに出た口を震わせて、なにか言いかけていた。しかし、私は言わせなかった。これがあかねだと、この醜い化け物があかねだと、認めることはどうしても出来なかった。
あかねの治療と並行して、私の方も、カウンセリングやら何やら、色々していた。
祖父母や親戚は、私を責めなかった。私も、あかねも、一人で暮らしていける年齢だったが、いろいろ大変だろうと、引き取ると言ってくれる人もいた。 しかし、あかねの姿を見るや否や、皆一様に手のひらを返した。
それも仕方がないことだと思った。
カウンセリングは順調だった。あの頃の私は、まだ、自分を律する心があった。妹を、妹だと認めたくない自分。そんな自分を嫌悪し、あの娘を愛しようと努める気持ちが、段々と湧いてきていた。
何ヶ月か経って、また、あかねと会った。彼女の治療はこれで終わりだと、医者は言った。
私は、それを、トイレの便器に顔を突っ込んで聞いていた。
吐いてしまった。こんな人間が、いや、化け物でさえ、こんなに醜く、おぞしいものが、この世に存在してはいけないような気がした。
カウンセリングなど、人を愛する心など、実際役には立たない。私はそう思った。
心配しても助けはしない。他人なんて所詮こんなものだ。
治療が終わったのにいつまでも病院にいることはできない。
事故から半年経って、私はあかねと、二人で暮らすことになった。
あかねは最初のうち、努めて明るく振る舞おうとしていた。私もそれに応じた。
毎日散歩に出かけた。しかし、それも長くは続かなかった。
化け物が歩いている。そう言われて、私もあかねも何も言い返すことは出来なかった。そして、それを受け入れて生きられるほど強くなかった。
あかねは家に閉じこもった。
私も家にいた。そんな日々が続けば自然と二人の間には争いが増えた。あかねは、殺してくれと言う時以外、物を言わなくなった。そんな女が妹だと、私には思えなくなっていた。いや、本当はあの日、あの化け物を病院で見た日、私にとってのあかねは死に、あかねにとっての姉もまた、死んだのだと思う。
私は檻の中を覗いてみた。
あかねはぶるぶる震えている、何も言えない、何もできない。
この先の未来に希望はない。
なのに何故死なないのだろう。
あかねは私に、自分を殺せと言ってくる。しかし、本当に「を」なのだろうか、あかねは、本当は、「私も殺して」と、言っているのではないだろうか。
あの化け物は、私を本当に人殺しにさせたいのかもしれない。
いや、あの化け物からしたら私は殺人犯なのだ。
両親と兄を殺し、そして、あかねを殺した。
「あたし、あんたのこと、絶対に殺さないから」私はぬっと、あかねの方に顔を近づけてこう言った。
あんな化け物でも、殺せば捕まる。私はあの化け物に捕らえられているのに、私の時間は奪われているのに。
「しね、しね、しね、しね、」
私は小さく、しかし、あかねにはしっかり聞こえる声でこう繰り返した。
「 しね、しね、しね、」
これが本心だった。死んで欲しかった。
「しね、しね、しね、しね」
私は何十回目か呟いて、ふいに言うのを辞めた。変に大きく見開かれた目が、歪んだ口が、不気味に弧を描いた。あかねは笑っていた。口の詰め物のせいで声は聞こえない。もし、詰め物がなかったら、いひひひ、と、聞こえてきたのだろう。
私は立ち上がった。キッチンから、熱いお湯を持ってきた。まだ、あいつは笑っていた。
檻の間からゆっくりと、お湯を垂らした。檻は、人一人が体育座りをして丁度ぐらいの大きさに作ってある。
逃げ場はない。
湯が当たるごとに、身をよがらせているあかね。一滴一滴かかるごとに、彼女の体は痛みに反応している。それが私の心を安心で満たしていった。
コップ一杯分かけた。
かけ終わると、私はふいに、清々しい気持ちになった。
私はあかねを檻から出して、口の詰め物を取ってやった。
詰め物はよだれでグシャグシャだった。唾液が手に絡みついたが、そんなこと気にならなかった。
震える彼女の体を抱きしめてこう言った。
「愛してる」
夕方だった。微かに開いたカーテンから、茜色の西日がさしていた。
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