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「肉体損壊するようなことはしな……あ、いや、しない……してもいいんですが……いいかな……」
 とそう段々目が死んできて恐ろしいことを言いだしたヒューゴだったが、一応制止されたことで、はっ、と目が覚めたらしい。
 なんだかまだ奥歯がうずうずするような妙な表情をしていたが、「しつれいしました」と棒読みして、懐からシンプルな銀色のワンドを出す。
「肉体損壊はしません。ただ、通常の刑法においての範囲内、正当防衛成立要件に足るものとして、行います。まずは、急迫不正の侵害に対して自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為であること。次に、防衛の意思があること、防衛の必要性があること、防衛行為に相当性があること、これらを満たすものとし、意志は折っておきます。――色々体液が漏れると思うので、見苦しく、悪臭がするかと。場合によっては目と鼻を覆って下さい」
 体液って何、ちょっと待っ――言いかけたクレアは、口元を押さえる。目の前で、人が見えないプレッシャーに、汗やその他、もうあらゆる体液を穴という穴から垂れ流すのを呆然と見た。
「何もしていません。気配のコントロールを止めただけです。正確に言うと、ある一定の方向に指向性を持たせて、コントロールの解除をしました」
 取り出したワンドはその補助らしい。
「私は竜の特性が特に強いので、幼い頃から気配コントロールは義務で急性に叩き込まれました。力があるものは、その力に伴う義務があります。弱い者に、いたずらに向けてはいけない。自分の楽しみのために、他者をもてあそぶことを許されない」
 ヒューゴはまったく興奮もせず、楽し気でもなく、どこか憂鬱で悲しそうだった。
「あなた方は繰り返し、力を自分より弱い肉体の他者に向け、暴力をふるいました。司法措置も完全に軽視し、思うままにしようとした。私刑は許されない。しかしながら、緊急性に鑑み、私はコントロールすることを止めます」
 滅多にないんです、よく味わってください、とヒューゴは物憂げにささやいた。
「あっ……もっやめっ、くだ、さっ」
 狼獣人が膝をつき、泣きじゃくなりながら懇願する。リオはとっくに地面に顔を押しつけて、体液を漏らしていた。
 ヒューゴは懇願に対して寛大な態度をみせた。
「いいですよ。でも、久しぶりにコントロールを止めたので、うまくできないな……どちらか一人だけ、あと30分ほどお付き合いいただいて、一人はすぐに助けて差し上げたいと思いますが、リオさんでしたか。彼の方が大変そうなので、彼をまず先に」
「……あっ、まっ、……まって……」
 狼獣人は、顎を上げ、横目で自分の番のリオを見下ろした。彼の顔が膨れ上がり、滝のような汗が流れて、血管が顔中浮かび上がっている。
 どんな苦しさなのか、クレアには想像もつかない。やがて、狼獣人は、リオが痙攣しながら、自分を見上げているのに気づいたが、白目中を血走らせて、こう言った。
「お、俺、俺の方、おれのほう、たすけてっくださ……っ」
 顔中の穴という穴から体液を漏らして、黒土を頬や額につけたリオが、クレアから見ても確実に愕然としたのがわかった。
 ほとんど痙攣して意識があるように見えなかったが、聞こえていたのだ。
 それを、狼獣人も理解しただろう。だが、彼は唾を飲み込み、たしゅけてください!!!! と繰り返した。俺を、おれのほうを助けてください、と。
 クレアはもう十分だ、と思った。口にしたかもしれない。ほぼ同じタイミングで、疲れたようにヒューゴが「もう十分でしょう」と言った。全ての圧が解かれたのか、糞尿を漏らしながら、狼獣人が倒れ込む。リオは相変わらず痙攣していたが、夫の方を見て、圧によるものとは思えない涙を流していた。
 もうこの二人は、今後番としてやってはいけないだろう。
 この場にいる誰もがそのことを痛感していた。フレディもアーチーも青黒い顔色をして、げえげぇと地面に吐いている。
「しっかり躾をしたので……私のことを思い出して、もう手は出せないと思います。もっと早く、こうすべきでした……すみません」
 クレアは首を振った。初期にいきなりこういうことをされたら、受け入れられなかったし、今でも受け入れているとは言い難い。ただ、今はヒューゴの人柄から、彼の葛藤や苦悩の末の行いであると理解できるだけだ。
 同時に、世紀の大発見ね、と虚無的に思った。
 全部嘘っぱち。
 本能的守護衝動などない。嘘も大嘘、全部嘘だった。
(ただ、卑劣なだけ――)
 クレアは、快晴の空を見上げて、まぶしさに目を細める。クレアの心情や、この阿鼻叫喚の光景とは真逆だ。突き抜けるような、透明な青さに皮肉を感じて、どういう顔をしたらいいのか、わからなくなった。 
 わかるのは、単にクレアがリオを侮辱したから、後遺症が残るまで暴行されたのではないということ。
 加害欲を向けても反撃されない無力な対象として、思うままに暴力を向けてもいいと思われた。だから、現実にそうされた。
 なにしろ、狼獣人は、竜相のヒューゴに大事な番を目の前で酷い目に遭わされても、守護衝動に操られることなどなかった。尻尾を巻いて、頭を下げて、自分だけは助けてくださいと、番を差し出してすらみせた。
 ああ、つまり。
 ただ、肉体的に劣るものを痛めつけたかっただけ。
 ただ、卑劣なだけ。
 なんてこと――なんてからくりなの、とクレアは大発見した。
 慣習法としての番システムによる暴力。その免罪符は、そもそも嘘っぱちだったのだ!
 じゃあ、一体クレアの受けた仕打ちはなんだったのだろう。
 番というものは、そういうものだから。
 獣相の男は、そういうものだから。
 抑えきれないものだから。
 気の毒に。
 世間はそう言って、番たちに同情した。
 嘘を言うんじゃねーよ……クレアは思った。適当なこと言って、ずっと誤魔化してきたんだな。どうしてか。だって、その方が、都合がいいから!
 我慢できないことにしておけば、都合がよかったから、そういう言説でまかりとおって来て、被害届も受理をしぶられ、クレアの方に落ち度があったように言われ、狼獣人もクレアが挑発しなければこんなことしなかっただろうにと噂され。
 不起訴になり。
 前科もつかず!!!
 ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーーーーんぶ、うそ!!!!!
 あんたたちに理性はある。逆らったらまずい相手には逆らわない。ちゃんと対象を選んでる。我慢できないことなんてない。我慢しなくていい相手を見繕って、拳をふるっていいと、逆らえないことを確認して、舌なめずりして暴力をふるったんだ!
 こんなの当然じゃない。ひとっつも当然じゃない。それなら。それなら――わたしが、ぶっつぶしてやる……
 薄暗い怒りが、とうとうクレアの腹底を突き破って、私はここにいるぞ! と産声の怒声を上げた。
 武者震いするようにして、深く息を吸う。肺いっぱいに深く深く吸う。
 ぶっ潰す。ああ、ぶっ潰してやる。システムごとご破算にしてやるからな。頭を下げるのは私じゃない。お前らだ…… 
 そう決めたら、脳細胞に血と酸素がいきわたるように、エネルギーのみなぎる感覚があった。
 ずっと霧のかかったように重たくて、雨上がりの階段のタラップのように錆ついていた頭が猛スピードで回転しだす。
 そもそも私は泣き寝入りするような女じゃねーんだよ……思い知らせてやる。私は私の手で、全員に思い知らせてやるからな……そう思うほどに、あちこちに埃をかぶって怯えるように放置されていた記憶の断片たちが目覚めはじめる。
 積み重ねた知識、ギルド職員としての集合知、魔獣データ、新聞、噂話、子どものころの悲しい記憶、宝石、竜、盗人、弟たち、妹、精霊術、ソードマスター、ハミルトン、私だけ髪の色がピンクじゃない、橋の下で拾った子供のジョーク、幻灯館、翡翠湖――あらゆる断片たちが、点と点を急速に結び、線となり、線が伸びて連結し、渦巻き、立体を作る。その立体は、妹のコーデリアと、双子の弟たちが、サマーホリデーに避暑地の翡翠湖へ両親に連れられて旅行にいったあの夏の日、近接の幻灯館の自慢話を聞かされた食卓での光景、そして当時――翡翠湖の近くのペンションで見つかった竜相の腐乱死体――妹と弟たちが、顔を寄せて覗き込んでいた赤々と燃える宝石まで浮かび上がらせた。
 そう、ハミルトン家では、クレアだけが異質で、橋の下で拾った子の面白くないジョークがよく飛び交っていた。
 クレアは本当に悩んで、自分のルーツとなる家系を調べたが、わかったのは橋の下で拾った子でもなく、真実の両親は別にということもなく、ふつうにハミルトン家の生まれということだった。
 あとは、何世代もできる限り遡っても、誰も精霊術や剣術に優れた人はいなかったことがわかった。
 突然変異にしても、妹のコーデリアが上級精霊術師となり、精霊王へのアクセスまで可能とみなされ、双子の弟たちはソードマスターを嘱望されているなど、おかしくはないだろうか。
 まあ、そういうこともあるのかもしれない、と納得してきたが、そもそも、妹も弟たちも何一つ倫理的に信用できない。おまけに盗人だ。その時、力みの抜けたクレアの口から、本人もほとんど無意識に、つながった記憶の欠片たちがこう漏れ出させた。
「あんた達……ドラゴンの力を盗んだの?」
 本当に無意識だった。クレアは自分でも驚き、同時にそうかとも合点する。
 ゲロゲロとえづいて、吐くものも吐けずに体を折り曲げていた双子の弟たちは、ようやく治まって来たのか、口元をぬぐっていたが、クレアの言葉に、「は?」と顔色を変えた。
 それは、何を言ってんだこの女、というよりは、油断していたところに、思わぬ一撃を食らったような緊張と硬直だった。
 まさか―― 
 突如として、妄想のように思いついたことが、もろに彼らのウィークポイントをクリティカルで貫いたのだという手ごたえを得て、クレアは逆に驚く。全てのパズルのピースが、あるべきところにはまり、ほとんど嘘のような絵を浮かび上がらせようとしている。
 クレアはギルド職員だ。魔獣をはじめとした特殊な生き物たちのデータをしこたま蓄積してきたギルドの集合知の常に最前線にいる。
 ドラゴンは、死に際にドラゴンハートと呼ばれる宝石のようなものを残すことがある。彼らの力の源で、心臓石や、竜玉とも言われる代物だ。
 翡翠湖で見つかった竜相の腐乱死体を、クレアは当時新聞で読んだ。覚えていたのは、ちょうどクレアを置いて、ハミルトン一家が避暑地で旅行に出かけたのと、近接の幻灯館がどんなに素晴らしかったか、しばらく食事の席で聞かされて憂鬱だったから。
 そして、妹と弟たちは、赤々と燃える宝石を持ち帰り、秘密の共有で楽しんでいた。クレアが覗き込むと、こちらの方が盗人呼ばわりされたくらいだ。
 そうして、いつの間にか宝石は見なくなった。妹と弟たちはあれをどうしたのだろう。今ならこう考える。
 ドラゴンハートを使ったのだとしたら。ヒューゴを見ればわかる。コーデリアやフレディ、アーチーをしても、ヒューゴと肩を並べることはできない。彼は別格だ。だから、つまり、その力をもし、欠片でも継承できたならどうだろう。無能な人間は何を得る。ドラゴンの膂力。ドラゴンの魔法の力。そう、彼らは、ドラゴンの力を盗んだのだ。
 ドラゴンハートを盗まれたとおぼしき竜相の男性の遺体身元は、友好国エレボスの貴族で――そこでクレアはまた点が繋がり、疑問に思った。何故、エレボスの公子であるヒューゴは、この国に留学に来たのだろう。
 もし、翡翠湖で発見されたかつての竜相の遺体に、あるべきドラゴンハートがなかったら。
 親族は探すのではないか。
「スターフェローさん。ドラゴンハートを、違法な手段で手にした者が、それを自らに使用した場合、その痕跡の判定は可能ですか」
「お、おい、クレア、お前何言ってんだよ……!」
 双子たちが喚くのを無視して、クレアはヒューゴの返答を待つ。ヒューゴは先ほどから、驚いたようにクレアを見ていた。彼はたどたどしく頷く。
「それは――一度取り込まれると、同化して、通常の魔法ではわかりませんが、一族の判別魔法を準備して使用すれば、確実に陽性反応が出ます。ドラゴンハートは、竜の不滅の炎の痕跡なので……どれほど痕跡を消そうとしても、年月が経過しても、消失させることはできないのです」
 クレアもしっかりと頷いた。
「私は、コーデリア、フレディ、アーチー、それから私の両親も、私も含めて、ドラゴンハートの痕跡判別魔法を受けることを提案します。場合によっては、殺人の告訴も必要になるかもしれません。十年前に、翡翠湖のペンションで、ご遺体で発見された竜相の男性――」
「ルシエル・スターフェローです」
 しっかりとヒューゴは告げた。恐らく、死因は脳溢血ですが、と彼はつけ加え、困った顔をした。クレアはいたましい気持ちになる。
「ご親族ですね……ルシエル・スターフェロー氏が脳溢血で倒れ、ドラゴンハートが生成されるまでの間、私の身内が関わっている可能性が、あるのではないかと。同時期に翡翠湖に避暑に出ていました。また、その後、見たことのない赤い大きな宝石を持ち帰っていたのを覚えています。ドラゴンハート生成前後、脳溢血状態の氏を故意に救助せず、連絡手段を断つなど、あったかも、しれません。まずは、痕跡の判定が出るかどうか、話はそれからですが……」
 もし妹弟、両親たちが関与していたなら、彼らは司法の手にゆだねられるだろう。ドラゴンハートが取り出すことも可能なら、コーデリアたちは、単純に司法罰や暴力行為を受けるよりも、辛いことになるかもしれない。
「な、なあ、話し合いで」
 血の気の失った顔で黙り込んでいたアーチーが、下手に懐柔するような猫撫で声を出した。なんの物証もなかったのに、かえって自分で自分の首を絞めている。それほど痕跡を、判定魔法で識別されるのを回避したいらしい。
「駄目よ。あんた達には、痕跡判定魔法を受けてもらう。拒否するなら、ドラゴンの力を盗んだという自白になる。国際問題だし、私が正式に証言すれば、あんた達は拒否できない」
 今度はフレディが口元を引きつらせながら茶化してくる。
「……あー、はいはい、分かりました。わーかーりーまーしーた! あーもー、マジになるなって、なあ⁉」
「ねえ、クレア、そんな言い方良くないよ。俺たち家族じゃん。家族を疑うの?」
 クレアはアーチーの籠絡を無視して、ヒューゴに手続き上の実務を聞く。
「だからもういいって!」フレディが叫んだ。アーチーは愛想笑いしている。「クレア、そういうの本当に直した方がいいよ。俺たちを、家族を売るなんて、そんな責めるような言い方良くないよ……」
 フレディは乱暴に、アーチーは懐柔にふって来たが、判定が白なら問題ないでしょ、その時は謝るわよ、とクレアはにべもない。
「スターフェローさん、黒でも白でも、ご迷惑をおかけしてしまいますけれど、お願いします」
「それは、気になさらないで下さい。私が留学した理由のひとつですので。見つかれば、一族にとって悲願です」
 とうとう双子たちは、両者判別もつかない怒りを露わにした。
「クレア、俺たちを見捨てる気かよ!!!?」
 もうほぼ自白だ。本当に妄想がまさかの大当たりになるなんて、どうかしている。でもこれが現実だ。
 クレアは淡々と吐き捨てた。
「そう。あんた達を、もう見捨てる」
 先にクレアを見捨てたのは彼らの方だが、もうそれはいい。
 きちんと司法で裁く。
 そうなれば、コーデリアもフレディもアーチーも、全ての力を失うかもしれない。繰り返し、それは単純な罰よりも、彼らにとって耐え難いことに違いなかった。そしてクレアも。ヒューゴとは、もう無理だろうな、……辛いな、黙っていればよかったのかな……一族の悲願……駄目だよね、仕方ないね、と静かに痛みを受け入れたのだった。
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