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 妹のコーデリアが去った後、クレアはうつむいて、こらえきれずに子供のように泣いてしまった。
 別にクレアは男だろうが女だろうが、涙を流すのをみっともないとは思わない人間である。泣いた方が精神上安定するし、下手に我慢するよりよほどよい。
 それでも、コーデリアの前で泣かずに済んでよかったと思った。
 泣いているのを揶揄して、他者と悪意なくものわらいの種に共有する人間の前で泣きたくない。
 だから、堰を切ったように今泣いてしまっても、別にいいじゃないとボロボロ涙が止まらない。
 コーデリアだけのせいではない。正確には、暴行されたこと、世間の態度、それらが番システムの前に慣習として容認された不合理、その枠組みの中でどうにもできない自分、後遺症、自身の差別心と羞恥心、その全てがクレアを傷つけていた。
 アパルトメントはすぐ目の前なのに、階段を上がって号室に入る気になれない。家に入ると立てなくなりそうで、路上に立ち尽くしたまま、左手拳で涙をぬぐっている。
 クレアはぶるぶる震える手でどうにか帽子を目深にかぶると、よろよろと歩き出した。
 近所のカフェに向かっている。
 ギルドを出た時は、ヒューゴに会いたくないと思った。昼休みに、もし後遺症が酷かったら、自分を暴行した男の子どもを出産するのを受け入れていただろうと思って、血の気が失せた。容易に想像ができたからだ。
 そんな気持ちを引きずったまま、ヒューゴにケアしてもらいたくて会うのはどうなのかと思った。
 応えられないのに、非礼じゃないか。今日は会いたくないと。
 会いたくなかったのは、嫌な気持ちになった日。あの人を便利に利用したくなかった。
 でも今足が向かっている。
 よくない。
 でも会いたい。
 顔だけ見たい。
 助けてと言えば、きっと助けてくれるだろう。守ってほしいと言えば、きっと守ってくれるだろう。この国から連れ出して、ずっと大切に甘やかしてほしいと言えばきっとそうしてくれる。運命の番に対する男たちはそういうものだと聞いている。
 たくさんの男たちから求愛されて、相手を吟味しているコーデリアから、散々男たちがどう必死に求愛してくるのか、実家に帰省する際などは食事の席で聞かされていたクレアだ。フェロモンが多数相手に魅力的なのも考えものだなと双子の弟たちは笑い、コーデリアには、お姉ちゃんにこの苦労はわからないよね、とふくれ面で言われていた。求愛する男たちは、それはそれは献身的なのだという。
 そうでなくても、仲の良い番同士の夫婦も知っている。彼らの関係は幸せだと思う。獣相の男たちは、自分の番を大切にする。守ってくれる。
 でもそれをしたくない。
 頑固になっているのだろうか。
 違う、それもあるけれど、おかしいと思っているシステムに乗って、それに酷い目に遭わされたのに、大人しく従順に迎合し、頭を垂れたくない。
 酷い目にあったことを忘れて、メリットだけ享受すればいいのだろう。でも嫌だ。クレアの魂が叫んでいる。嫌だ。許さないんだから。頭を垂れるのは私じゃない。お前らの方なんだ! 
 何もできないのに、クレアは怒っている。
 それはヒューゴに関係のないことなのに。
 なのに、私、メリットだけ彼から受け取れない。
 そう思うのに、結局クレアはカフェの近くまで来てしまった。
 死角から立ち尽くし、クレアは呆然とした。
 本当に良くない。
 だけど……遠くから、顔だけ見たら帰ろう。
 ……
 クレアは帽子のつばを左手の指でつまむと、ぐっと引き下ろした。
 際限がない。
 やはり、帰ろう。
 踵を返し、急ぎ足で立ち去ることとした。
 来るときはのろのろ歩いて来たが、帰りは早足になる。少し遠回りして、セントラルパークを歩いていると、
「ハミルトンさん!」
 と後ろから息せき切って、ヒューゴが長い脚で追いついて来た。
 驚いたのはクレアだ。
「驚かせてすみません、近くにいらっしゃっているのは気づいていたのですが……気配も乱れていたので、すぐにでもお伺いしたかったのですが、たまたま手が離せなくて、このような驚かせる形で引き留めて申し訳ない」
 髪のセットもそうだが、ずいぶん息が乱れている。
「あの、手が離せないご用事が……」
「あ、いえ、ご両親が見つかったので、大丈夫……あ、いや」
 ヒューゴは困ったように咳払いし、恥ずかしそうに小さく説明した。
「迷子が……いたので、少し」
 もごもごと言いづらそうにしているので、まるで浮気でも言い訳するように善行が口にしづらいらしい。
 この人、本当に善人なんだなあ、とクレアは拍子抜けした。こほん、とヒューゴはへたくそな咳払いをして、それよりも、と愁眉を寄せる。
「気配が大変乱れていたので……あ、いえ、これは勝手にフェロモンを感じて、気持ち悪いですよね、申し訳ない、ああ、私は何を言っているんだ……」
 焦るあまり余計なことを言ってしまったと顔面から血の気が引いて、口元を皮手袋を身につけた手で咄嗟におさえる青年に、クレアの方がだんだん落ち着いて来る。
「大丈夫です。あなた方がフェロモンを感じ取る能力があるのは知っていますし、番……にしたい相手の不調に敏感なのも……一般論で知っていますから」
「面目ない……」
 しゅんとしてしまうのを見て、竜が獣相と聞くが、失礼ながら犬っぽいなあと思わされるクレアである。
 少しばかり気の引けるところがあったが、ヒューゴのあたふたしている様子を見ると、かえって気が楽になった。
 それから、ヒューゴがクレアの目元が思い切り腫れているのに、どうにも気になるが、触れていいのかおろおろする様子を見せるので、そりゃそうよね、とクレアも肩から力が抜けて、公園のベンチで話すよう誘う。
 クレアはまず、妹から番求婚について聞かれるかもしれないことを謝罪した。
「面倒な質問をされるかもしれません、ごめんなさい」
 と謝ると、ヒューゴは面食らったようにしていたが、慎重に尋ねてくる。
「それはかまいませんが、私の方こそ彼女に何か勘違いさせるような言動があったようで、申し訳ない。ハミルトンさんは、私があなたに求婚していることをお身内にはっきり伝えても大丈夫ですか?」
 逆に気遣われてしまう始末だ。クレアは構わないのだが、応じられないのも含めて、ヒューゴが困らないのか心配だった。
 ヒューゴはその点については問題ないようだったが、気になるのはクレアが泣いていた理由の方で、結局クレアは自分の気持ちについてだけ説明することになった。
 つまり、後遺症について少し妹に触れられて、自分が後遺症を恥じる気持ちがあり、失明不安や、将来について恐怖を抱いている気持ちが揺さぶられ、泣いてしまったと。
 ヒューゴが黙って聞きながら、珍しく険しい顔になった。
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