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 今更、と思ったが、クレアは反面、冷静になった。
 許せないし、悔しいし、腹も立つけれど、今更なのはクレアの事情で、目の前の竜公子様と思われる青年、ヒューゴ・スターフェローには関係がない。
 クレアが怒りをぶつけるべきは、自分に暴行を働いた狼獣人であり、引き金となった従兄弟のリオ、両親たちだ。
 彼らにではなく、クレアに求愛の許しを請うた青年にぶつけるのは、どう考えても八つ当たりというもので、道理が通らない。
 少なくとも、彼の望みがクレアにとって今更なものであったとしても、彼に対して失礼にしていい理由にはならないだろう。
 そういう最低限は失いたくなかった。
 まあでも、タイミング的に本当に望ましくない……弱った。どう非礼なく断ればいいのか頭が回らない。というか、事情を語ること抜きにうまく説明できないだろう。
「あの……ごめんなさい、私、そういうことは考えられないので」
 言いかけて、クレアはぎょっとした。左側から店内スタッフが声をかけてアイスティーをサーブしてきたのだが、少し雑な店員だったのと、クレアは左側の視力が落ちており、「あ!」とグラスを左ひじで払って落下させてしまったのだ。
 呆然とする。
「ご、ごめんなさい……片づけます」
 片づけないとと思うのに、右手が痙攣しだした。心的外傷ストレスによるものなのかわからない。慌てて膝をつこうとしたら、青年に止められた。
「足元にガラスが。けがはありませんか? 私がやりますので、こちらの席へ」
 誘導され、さっさとスタッフとともに片づけを始めるヒューゴに、クレアは本心から驚いた。無理に手を出すことはなく、スタッフに任せるべきところは任せ、荷物にかかった破片を処理し、籠をどかしたり、スタッフがやりにくい必要な部分を行っている。こんな真似、彼の家門の人々が目にしたらどう言われるか。というか、公子様なのに、フットワークが軽すぎる。改めて注文がなされ、申し訳ないのと困惑とで座ったまま、クレアはただ茫然と見守ってしまう。最後まで手を出すこともできない。気づけば、右手の痙攣はおさまっていた。
 ヒューゴは一見無感動な顔ながら、愁眉を寄せ、再度怪我がないか確認してきた。呼びかけに困ったようなので、改めてクレアは名乗る。
「クレア・ハミルトンです。あ、いえ……お気遣いも、片づけまで、ありがとうございます」
「ハミルトンさん、ですね。お気になさらないでください」
 淡々と言われ、そうは言われても気になるが、と思った矢先だ。ヒューゴが少し黙り、声を抑えるように尋ねて来た。
「大変失礼で申し訳ないのですが、ハミルトンさんは、左側の視界が?」
「あ……」
 番求婚を断るなら、避けて通れないと思ったので、クレアは向かいの席に座るよう勧め、簡単に左目と右手の後遺症について経緯を説明した。できるだけ客観的に、私情を排除して伝えたつもりだが、あまりできたとも思えない。
 ヒューゴは背中に定規でも一本入っているかのような上半身まっすぐの体幹を維持し、黙って聞いていた。
 狼獣人に暴行を受けたくだりで、彼の菫色の瞳がぎょろりと蛇のような動きをして、縦に瞳孔が狭まり冷たくなった。クレアは驚いたが、そのまま説明を進め、ほとんど気のせいかと思うほど一瞬のことだったので、勘違いだろうかと確信が持てなくなる。
 話し終えると、ヒューゴは深く思量するように沈黙し、
「そうでしたか……大変な目に遭われましたね……」
 言葉少なに声をかけてきた。たったそれだけ? とはクレアも思わない。考えた末にかけられた気遣いが感じられた。逆の立場でも言葉に困る。
「差し出がましいですが、お困りのことはないですか?」
 グラスを視界の欠損した左側で薙ぎ払ってしまったので説得力はないが、クレアは首を振る。
「職場でもフォローしてもらってますので、大丈夫です」
 ヒューゴは「よかったです」と言ってまた少し黙り、きょろ、と視線を彷徨わせた。無意識にか、テーブルの上で指を組み合わせ、防御的姿勢になっている。
「その、今は何を申し上げても、ハミルトンさんにとって負担になるかと。そう思いますが、もし、何かお困りごとがあれば、私を使う選択肢があることを覚えておいていただけると嬉しく思います」
 青年はまっすぐにクレアを見ている。
「ご事情を聞かせていただいて、感謝します。しかしながら、辛いことを説明させてしまい、本当に申し訳なかった」
 それは、確かに心からの謝罪だった。
 美しい切れ長の瞳が細まると、その菫色の瞳が灰色に色濃くなり、小さく揺れているのに気づく。冷たそうな銀色の髪に、無表情な青年だが、先ほどからずっと緊張し、言葉を慎重に選んでいるのがクレアにも理解できた。
「あなたをお見かけして、咄嗟に何も考えず、浮かれて、番求婚してしまい申し訳なかった。ハミルトンさんが番でなかったとしても、誰も今、あなたにすべきではありませんでした。……ほんとうに、お辛い目に遭われましたね……」
 青年が、心から謝罪するだけでなく、心底自分の行いを恥じているのがわかった。話し上手というわけでは決してない。言葉は沈黙しがちで飛び飛びであり、考えて話しているので、テンポも良くなかっただろう。
 でも、本当に心から、今クレアがそういうことを受け止められる状況になかった。それが青年の番でなくても、誰が相手であっても、そういう目に遭った人に、今すべきではなかった、と謝罪された。彼が悪いわけではないのに、心底恥じて、無感動な表情の中、瞳が小さく揺れている。組んだ指が少し震えているのが視界の端に入った。
 それは、何よりも胸に迫るものがあった。
 ほんとうに、お辛い目に遭われましたね、とシンプルだけれど、思いやりに満ちた言葉がかけられる。狼獣人に、運命の番を侮辱し、傷つけたと、何度も殴られ、後遺症を負ったクレアに、その言葉はかけられたのだ。
 もう駄目だった。
 クレアは、喉がひぐっと痛んで、抑えようとしても涙腺から大粒の涙が次々に盛り上がる。こんな風に。
 こんな風に気遣われたら、もう駄目だ。
 初めて会った相手の前で、子どものようにぼろぼろと泣き出してしまい、鼻水まで出て来て、片手で顔を覆うが、追いつかない。
 す、と目の前にハンカチが差し出される。青年はクレアの弱った状態につけこんで、身体に触れるようなことはせず、適切な距離をとってハンカチを差し出した。やはり、指先が少し震えている。
 運命だと思った番相手に、拒絶される可能性しかなくて、どれほど怖いことだろう。
 そういったことを一切おさえて、目の前にハンカチが差し出されている。
 事情を聞いてから、好意を引き出したいとか、受け入れてほしいとか、一切言われなくて、ただただクレアの状態を慮られて、辛かったですね、とだけ口にされる。
 これほど誠実な人なのに、アイスコーヒーと同じだ。好ましく思っても、今のクレアは受け入れられない。受け入れたくない。番求婚されて、めでたしめでたしになるような状態には、もう不可逆で戻れない。
 左目は視界が欠損していて、右手は時々動かなくなる。
 なかったことにできない。
 絶対許せない。
 あいつらと同じ場所に行きたくない。
 許せない、許せない。
 許してしまったら、怒って泣いているクレアはどこに行けばいいんだろう。
 どうにか泣き止んだ頃には、ヒューゴは少し眉を下げていた。クレアの方は、まぶたが腫れぼったい。絶対酷いことになっている。クレアは、ず、と鼻をすすった。
「すみません、ハンカチ、洗ってお返しします」
「……そのままもらっていただいて構いません」
「そういうわけには。あの、どこにお返しに伺えばよろしいですか」
「……」
 ヒューゴは黙り、それから提案した。
「こちらのカフェに、王立アカデミーの授業が終われば足を運ぶようにします。もし見かけたら、声をかけてくだされば」
 なんとも漠然とした約束だった。番に対する獣相の男たちの執心を思えば、破格なほどのいい加減な約束。
 クレアに対する思いやりだった。
「わかりました。ありがとう」
 クレアはハンカチを手に、礼を言って、少し話すとカフェを出ることにした。
 送ります、とヒューゴが言うか言うまいか、黙って口を小さく開閉しては、結局飲み込んだのもクレアにはわかった。
 この人に対して、今私が持てる最大の敬意を払うように気をつけよう。
 怒りは、ぶつけるべき相手にぶつけるべきで、この人に非礼を決してしないように。
 クレアはアパルトメントまでとぼとぼと帰りながら、ハンカチを握りしめて、そうしていると少しだけ安堵した。
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