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雲乃みい

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第三夜 性少年の受難

22.最悪最悪最悪すぎる

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 まるで悪夢としかいいようのない現実味のない出来事。
 だけど確かに現実だってわかるのはTシャツやズボンに粘っこく張り付いた俺の白濁で。
 電車が揺れてまた動き出してしばらくして我に返って、早く電車から下りたくてたまらなくなった。
 服を着替えたくてたまらない。
 あんな最悪ヤローにイかされたのをそのままになんてしたくなかった。
 早く着けよ!
 イライラしながら次の駅に着くのを待って、扉が開いた瞬間に俺は駈け出した。
 ちょうど降りた駅のそばにはデパートがあったから急いで入る。
 メンズショップの階までエスカレーターを駆け上がって洋服を見ようと行きかけて、止まった。
「……俺……」
 金…持ってない……。財布の中には確か1000円くらいしか入ってない。
 この前ゲーム買って、雑誌買って、和たちと遊び行って。
 小遣いもバイト代も入るのはまだ先。
「……ど、どうしよう」
 1000円で一式そろえるなんて無理だよな?
 古着屋とか?
 考えようとするけど、冷静になれない俺はどうすればいいのかわからなくってパニクるばっかりで。
 そうしているうちに、なんか自分がひどくくさいような気がした。
 自分が吐き出した白濁が固まって匂いを放ってるような気がする。
 気のせいのような気もするし、気のせいじゃない気もする。
「――……気持ち悪……」
 ダサくて、情けなくて、最悪。
 変態痴漢にイかされた最悪な変態は紛れもなく俺。
 突っ立ってる俺を不審そうに若い男が通りすがりに見てきて、慌てて歩き出した。
 だけど行くあてもない。
 しょうがなく一番端にあった階段に座り込んだ。
 うずくまって膝を抱えて、顔を伏せる。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い!
 最悪だ、とそればっかり頭ん中ぐるぐる回ってる。
 なんでちゃんと抵抗しなかったんだろ。
 あんな変態ヤローにヤられて。
 でもそれもあのカップルが、あの匂いが優斗さんと同じだったから反応したっていうだけで。
 そうじゃなきゃあんな変態ヤローに……。
 ああああ!!!
 くそっ!
 まじで最悪だ。
 こんなこと優斗さんが知ったらきっと……。
 きっと――。
「……気持ち悪……い」
 イライラ、むかむか、モヤモヤする。
「――君」
 最悪、最悪さいあ――。
「大丈夫? 具合悪いの?」
「……へ?」
 男の声。
 顔を上げたら目の前に心配そうに俺を見ているスーツ姿の男がいた。
 一瞬またスーツかよ!って内心思いながら、視線を返す。
「顔色悪いけど。医務室につれていってあげようか?」
 歳は優斗さんと同じくらいかな。結構かっこいい、爽やかな感じの男だった。
「え、俺……ですか?」
 思わず訊き返すと、その人は苦笑して頷く。
「そうだよ。具合悪そうにしてたから、どうしたのかなと思ってね」
 あの痴漢ヤローのあとだからだろうか、優しく気遣われてるのに、なんか話しかけられるのが嫌だった。
「……だいじょうぶです」
 俺……汚いし、放っておいてほしい。
 視線を逸らして答えたら、「そう?」とそれでも心配そうな声が聞こえて。
 そしてもう一つ足音が響いてきて。
「おい。なにやってんだ? 智紀」
 別な男の声がした。
 ――……え。
 それは聞いたことのある声。
 まさか………?
「ああ、悪い。具合悪そうな子がいたからさ」
「具合……?」
 声が近づいてきて、ばくばくと心臓が激しく動き出す。
 嘘、だろ。
 よりによってなんで、いま。
 頼むから聞き間違いであってくれ――って、必死で願う。
 だけど。
「……向井?」
 俺に向けられた声。
 それにゆっくり顔を動かすと……、やっぱり――。
「まつ……ばら」
 3カ月ぶりに会う松原が立っていた。
 

 松原と会うのはあの日以来。
 実優ちゃんから松原の話しは聞いたりするけど、実際会うことはなかったし、それに最近は松原のことを考えることもあんまりなくなってた。
「晄人の知り合い?」
 名前で呼んでるってことは……松原の友達なのかな、この人。
 俺に話しかけてきた"智紀"って人は松原の隣に立って俺を見ていた。
「ああ。元教え子」
「へぇ」
 あっさりと出てきた"教え子"って言葉。
 松原にとって俺はそれ以上でもそれ以下でもない。
 当たり前だし、不思議なほど……何も感じない。俺こいつのこと好きだった……んだよな。
「あと実優の友達。――おい、どうした? ほんとに具合悪そうだな」
 眉を寄せた松原が俺に近づいてくる。
 松原に久しぶりに会ったことで呆然としてた俺はハッと我に返った。
「な、なんでもない!!」
 腰を浮かしかけて、あって気づいて座ったまま『来るな』て手で制する。
「そうか? お前、顔色悪いぞ。真っ青になってる」
 俺のことなんか放っておけばいいのに松原はどんどん近付いてきて。
 そばに近づかれたら……俺の汚さがばれるんじゃないかって、怖かった。
「平気だって! ただ休んでるだけだって! いいから、とっとと行けよ!」
 怒鳴るように叫んで、俯く。
 松原がどんな表情をしてるのか見れなかった。
 でもきっと呆れてすぐに向こうにいってくれる。
 そう――思ったのに。
「……智紀、ちょっと外せ」
「はいはい」
 聞こえてきたのはそんな会話で。
 思わず顔を上げると松原がすぐそばに立って俺を見下ろしていた。
「な、なんだよ。早くどっか行けよ!」
 まじでいまは無理!
 こんな気分最悪で、全身気持ち悪ぃのに、近づいてほしくない。痴漢されたって、イかされたってバレたらどうしようって頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「んなメソメソした顔してどうしたんだよ」
 そんな俺に冷静な松原の声がかかって、そしてべちっと音がしそうな強さで頭をはたかれた。
 叩かれた鈍い痛さと『メソメソ』っていう言葉につい顔を上げてにらみつける。
「めそめそなんかしてねーよ! うっせぇな、オヤジ!」
「ほお、お前いつからそんな口のきき方するようになった? 俺相手にいい度胸だな?」
 ……俺相手って。どんだけ俺様だよ!
 そう思うけど、冷たい目で睨み返されたら……なんにも言えない。
 結局また顔を背けることしかできなかった。
「――なにか飲み物でも買って来てやろうか」
「……いい」
 俺様のくせに。
 ドSなくせに。
 なんで、優しくすんだよ……。
 顔を伏せてギュッと唇を噛みしめる。
 だっせぇ。
 メソメソって言われたけど、本当にメソメソしてる自分自身に嫌気がさす。
 松原の何気ない優しさに、助けてくれ、って言いそうになる。
「向井」
「……あのさ」
「ああ」
「……金、貸して……くんねぇ?」
 恐る恐る言ってみた。少しだけ顔をあげて、ちらり盗み見る。
 なにか言われるよな?
 そう思ったけど、松原は俺をじっと見つめて、すぐに財布を取り出した。
「いくらだ」
 あっさり、なんでもないように聞き返してくるから頼んだのは俺なのに慌ててしまう。
「え、あ、いや」
「一万で足りるか」
 松原はなんでなにも聞かないんだろう?
 こんなとこで一人うずくまってる俺に、金を貸してっていきなりなこと言ってる俺に、なんでなにも聞かないんだ?
 聞かれないから、吐き出したくなる。
 でも――言えるはずない。
 差し出された一万円札。
 目の前にあるそれを見て、俺は受け取るもできずにただ固まってしまった。
 ぐるぐる回る頭ん中でどうすればいいのか考えて、でもよくわかんないまま、勝手に口は動いてた。
「……いい」
「いいのか?」
「……うん」
「なにが欲しいんだ?」
「……」
「なにか買いたかったんじゃないのか」
 洋服一式買いたかった。下着だって着替えたい。
 でもだからって偶然出くわした松原にいきなり金を借りるのはためらうし。
 それに汚れた格好で店に入っていく気力も、もうなくなってきてた。
「……べつに」
 もう、どうでもいい。
 痴漢にイかされたバカすぎる自分に呆れて、凹む。
 もう、考えるのも嫌になってくる。
「向井」
 けどそんな俺を放っておいてくれないやつが目の前にいて、まっすぐな声を向けてくるから……いやになる。
「送ってやる」
「はぁ?」
 なんでそうなんだよ! だいたいいま松原はさっきの智紀ってひとと一緒にいるんだろうが。
それなのに俺を送っていく?
 なんで、どうして。
 言葉の代わりに眉を寄せて松原を見つめた。
「俺は優しいからな、具合悪そうなやつを放っておけないんだ」
 しらじらしいっていうのはこいつのことを言うんじゃないか?
 平然とした顔で、まるっきり心配なんてしてなさそうな表情のくせに松原はそう言ってわざとらしいため息をついた。
「……自分で優しいとかいうかよ。それに具合わるくねーし!」
「優しいのは周知の事実だからしょうがねーだろ」
「……俺様の間違いだろ……」
「ああ? ったく。いいから立て」
 軽く舌打ちが頭の上で聞こえて、次の瞬間――。松原の手が俺の腕を掴んだ。
「っ! さ、触んな!!」
 そして俺は、咄嗟に松原の手をはじいてた。
 叫んだ声は思った以上に階段に響いて、情けないくらい裏返っていた。
 ハッとして我に返るけど、松原は一瞬目を見開いてて。
 しまったって思って顔を背けた。
 振り払うつもりなんてなかった。ただ――俺は汚いから、触られたくなくて……。
 どう……しよう。
 汚い洋服を脱ぎ捨てたい、けど、いまはそれよりここから逃げ出したかった。
 このまま松原といたら……なんかものすごく惨めに……もっと凹みそうな気がする。
「……悪い」
 ぼそっとそれだけ呟いて、深呼吸一つしてから立ち上がった。
「俺、もう帰るから」
 早口でいいながら松原の前を通り過ぎようとした。
 だけど、
「向井、待て」
 って、松原が俺を引きとめる。
 なんだよ、放っておいてくれ。
 そう思いながらも、松原のそばで足を止めてしまう。
 呼びとめた声が、さっきとまったく変わらないものだったから。
「タクシーで帰れ。お前、まじで顔色悪いから」
「いいって――」
「拒否するなら俺の車に押し込むぞ」
 横目に俺を睨むようにして見てきた松原は本気っぽそうで、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ほら」
 差し出されたのはさっきの一万円札。
 でも、やっぱり受け取れない。
「……めんどくさい奴だな。誰もやるなんて言ってないんだからとっとと受け取れ」
 ため息混じりに言って松原が俺の手を掴む。
 びくりと身体が震えたけど、松原は気にする様子もなく俺の手の中に一万円を握らせた。
「とっとと家帰って寝ろ」
「松……」
「じゃあな、俺忙しいから」
 それだけ言って、身をひるがえして俺より先に歩き出す。
「お、おい!」
 数歩先で止まった松原はちらっと肩越しに振り返って、ニヤッと笑う。
「それ、貸しだからな? ご返却は利息プラスアルファで」
「――はぁ?」
 んじゃ、と軽く手を振って今度こそ松原は俺の前から消えてった。
 俺はしばらくその場で立ちつくして、手の中に残された一万円札を見下ろした。
 どうしようかと考えて――俺も歩き出した。
 これは借りで、ちゃんと松原には利息でもなんでもつけて返してやる。
 だから、もう、帰ろう。
 ため息ついて万札を後ろポケットにしまい込んで、ビルを出てタクシーを捕まえた。
 匂いが気になったから、運転手のおっちゃんに寒いよって言われたけど窓全開にしてもらって、帰った。
 お気に入りの洋服だったけど、家に帰って全部ゴミ袋に入れて捨てた。
 シャワー浴びて、全部洗い流して、ベッドに寝た。
 なにも考えねーで、寝た。
 ださくて、女々しい自分がむちゃくちゃイヤだったから。
 そして夜9時ごろスマホが鳴ったけど――……それを取ることはできなかった。
 俺の部屋の机の上にはタクシーのお釣り。
 鳴り響く着信は優斗さんの専用の。
 モヤモヤして、頭から布団をかぶって、きつく目を閉じた。



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