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23. 長い一日
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長かった休みも終わり、今日から再びアカデミーでの学園生活が始まる。休み明けというものは、たいてい条件反射的に少しの憂鬱を伴う。
ジークも例外ではなかった。今朝からずっと、体の奥底に鉛が沈んでいるような、いいようのないもやもやしたものを感じていた。しかし、アカデミーに近づくにつれ、彼は次第に思い出してきた。自分はどれほどここへ来たかったのか、ということを──。
「ここへ来るのも二ヶ月ぶりなんだな」
アカデミーの門をくぐり、校舎を仰ぎながら、ジークが感慨深く言った。
「新鮮な気持ちだよね。なんだか入学の日のことを思い出すなぁ」
リックもつられて顔をあげると、深く息を吸い込んだ。
「もしかして、全然来てなかったの?」
背後から、驚きを含んだ高い声が聞こえた。
「ああ。二ヶ月間まったくな」
ジークはそう言いながら、ゆっくりと振り返った。そこには、案の定、呆れ顔のアンジェリカが立っていた。
「どうりで全然会わなかったわけね」
小さく独り言のようにつぶやくと、ふたりの間をすり抜けて歩き出した。ジークとリックは顔を見合わせた。そして、すぐに小走りで彼女を追った。
「ますます、差を広げるわよ」
アンジェリカは、前を向いたまま口をとがらせた。
「アカデミーには行ってなかったけど、勉強してなかったわけじゃないぜ」
ジークも前を向いたままで反論した。そして、口の端を上げ、自信のほどをその顔に表した。
「ふ……ん。ならいいけど」
アンジェリカは軽く受け流した。
「なんだおまえ。信用してねぇな!」
ジークは彼女に振り向き、大きな声で叫んだ。それでもアンジェリカは冷静だった。ちらりとジークに目をやると、つんとして言った。
「いずれ結果は出るわ」
「ホントにかわいくねぇなっ」
「まあまあ。せっかく久しぶりに会ったんだから」
リックがなだめた。
「そういえばアンジェリカ。ちょっと背が伸びたんじゃない?」
アンジェリカは突然そう言われて、とまどいながらも、少しはにかんで見せた。
「休み前から2cmくらいかな」
「やっぱり?! そうかぁ、成長期だもんね」
ふたりのやりとりの間、ジークはぽかんと口を開けていた。彼女の身長が伸びていることなど、ジークは気づきもしなかった。それどころか、それを知ってもまだよくわからないでいる。そんな些細なことに気がついたリックに驚いた。しかし、それよりも、彼女が成長するということに、なぜだか不思議な違和感を覚えていた。
「なに?」
視線を感じとったアンジェリカが、ジークを見上げながら目を細め、訝しげに尋ねた。
「んなもん、普通わかるかよ!」
ジークは再び前を向き、どたどたと大股で歩き始めた。
「なに怒ってるのかしら。相変わらずわけがわからない」
アンジェリカは口をとがらせた。リックに顔を向け、首をかしげて見せた。しかし、リックはただにこにこと笑顔を浮かべているだけだった。
玄関口をくぐると、その中はたくさんの生徒であふれていた。毎日のようにアカデミーへ来ていたアンジェリカも、これには懐かしさを覚えざるをえなかった。休み中は人もまばらで、こんな活気はなかったのだ。
「いいよね。こういう活気って。負けてられないなって気になる」
リックは鼻から息を吸い込み、小さく気合いを入れた。だが、ジークはあまり興味がないようだった。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに口を開いた。
「そうかぁ? まあ俺は元々そこら辺にいる奴らには負けてないけどな」
「ちょっと違うような気がするけど」
リックは軽く首をかしげ、苦笑いをした。一方のアンジェリカは、冷めた目でジークを一瞥した。しかし、それとは逆に、口元はふいに緩みそうになる。彼女は慌てて口をとがらせ、それをごまかした。
ジークはまっすぐ前を向いたままで、そんなふたりの様子に気づいてもいなかった。
「あ……」
突然、彼は小さく声をあげた。そして、規則的だった足の動きが、前に踏み出すことを躊躇するように緩やかになった。
アンジェリカは、声につられて何気なく振り向いた。ジークは奥歯を強く噛み締め、ややうつむきながらも、ちらちらと前を気にしていた。前に目をやると、そこには同じようにうつむいているセリカが立っていた。彼女の顔には、暗い陰が差していた。
「なにか、あったの?」
初めはジークに尋ねたが、答えが返ってこなかった。続いて、反対側のリックを覗き込んだ。
「いや、僕の口からはちょっと……」
リックは横目でジークを気にしながら、苦笑いして首を傾げた。アンジェリカは、自分の知らないところで何かが起こったのだと察した。気にはなったが、ジークにも、リックにも、それ以上尋ねることはできなかった。
ジークは立ち止まっているセリカと無言ですれ違った。彼女の姿が視界から消えると、ゆっくりと顔を上げ、ほっとしたように大きく息をついた。
「そういえば、あしたは試験だな」
唐突に、ややぎこちなく切り出すと、リックも慌ててそれに同調した。
「そうだったね。でも今回はペーパーだけだから心配はないよね」
彼の言葉で、アンジェリカは期末試験での出来事を思い出してしまった。きゅっと胸を締めつけられる。しかし、彼に悪気がないことはわかっていたので、あえて気がつかないふりをした。
だが、ジークは違った。
「おまえ、ケンカ売ってんのか?」
あからさまに不愉快だという表情を、リックに向けた。そのときようやくリックは気がついた。
「ごめん! そういうつもりじゃなかったんだけど……。本当にゴメン! アンジェリカもごめんね」
「あ、私は別に……」
アンジェリカは何と答えていいのかわからず、消え入りそうな声でそう答えることしかできなかった。ジークは謝られて、すっかり機嫌が直っていた。
「今度またVRMで対決することがあっても、この前のようなことにはならないぜ。ていうか、負けねぇぜ」
初めはリックに向かって言っていたが、途中でアンジェリカに視線を移した。そして、強気にニヤリと笑ってみせた。彼はすっかりいつもの調子を取り戻していた。
アンジェリカは安堵した。それと同時に、負けず嫌いの性分が顔を出した。
「私だって、負けるわけにはいかないんだから」
まっすぐにジークを見て、きっぱりと言い放った。
「ずいぶん大口を叩いているな」
彼の背後から、冷たい声が降ってきた。あまり聞きたくなかった声だ。頭頂から首筋、背中へと、何かが走ったような感覚に襲われた。奥歯に力を入れ、眉をひそめながら、ゆっくりと振り返る。
やはり、ラウルだった。
左脇に書物を抱え、無表情でジークを見おろしていた。
「おまえがそう簡単にアンジェリカに勝てるとは思えないがな」
「さぁ、それはどうかな」
ジークは、ラウルの圧倒的な存在感に気おされながらも、負けじと必死に強気を保っていた。しかし、ラウルは気が抜けるほどあっさりとした返事をした。
「そうか。それは楽しみだ」
その言葉が本気なのか嫌味なのか、ジークにはわからなかった。感情がまったく読み取れない。難しい顔で考え込んだ。ラウルはその脇を追い越し、さっと行ってしまった。ジークは眉をひそめ、ラウルの後ろ姿を睨んだ。
「何しに来たんだか、アイツ」
「通りかかっただけでしょ」
アンジェリカは軽く答えると、急にジークに背を向けた。
「おい、どこ行くんだよ」
ジークの呼び声に、アンジェリカは顔だけ振り向き、睨みながら右手で上のプレートを指さした。
「……トイレか」
ふたりは並んで壁にもたれかかりながら、アンジェリカを待っていた。ジークは腕を組んで、何か考えごとをしているようだった。リックは彼の邪魔をしないように、おとなしく雑踏を眺めていた。
「担任って、ずっと変わらないものなのか?」
ジークが唐突に疑問を口にした。
「さあ……。でもなんで?」
リックはジークに振り向いた。
「なんでって、おまえはアイツが担任でもいいのか?」
「僕は別にイヤじゃないけど?」
「ああそうか。めでたいヤツだな」
ジークは乾いた笑いを浮かべると、投げやりに言った。
──ドドーン!
突然、激しい爆音とともに大量の粉塵が舞い上がり、彼らの視界をさえぎった。ざわめきがそこら中から沸き上がる。誰も何が起こったのかわからなかった。
ジークとリックは嫌な予感がした。
「アンジェリカ!」
ジークは口に手の甲をあて、目を細めながら、粉塵の中へ飛び込んでいった。壁が崩れ、瓦礫が小さな山を作っている。その瓦礫の下に、誰かが倒れているのがうっすらと見えた。体の半分が瓦礫に埋もれているようだ。
「アンジェリカ?!」
ジークはその人影に駆け寄り屈み込んだ。しかし、それはアンジェリカではなくセリカだった。
「しっかりしろ!」
声を掛けながら、彼女の上に乗ったコンクリート片を取り除いていく。あとから駆けつけた生徒たちもそれを手伝った。
「こっちにもいるぞ!」
誰かが奥の方から叫んだ。ジークは「頼む」と言い残すと、声のする方へ飛んでいった。
「アンジェリカ!」
今度は確かにアンジェリカだった。体をくの字に折り曲げ、右の脇腹を両手で押さえている。そして、その指の間から鮮血が流れ、彼女のまわりに赤い水たまりを作っていた。
突然の出来事に、ジークは頭の中が真っ白になった。何が起こっているのかわからなかった。何をすればいいのかわからなかった。世界が遠く離れていくようだった。誰かが「止血!」と叫ぶ声も遥か遠くに聞こえた。
「先生が来たよ! 通して!」
人だかりの後ろで、リックが声を張り上げた。ラウルは生徒たちを強引に押しのけて現場に向かった。まずアンジェリカの元へ行き、傷口、脈などを、素早く診ていった。そして、勢いよく立ち上がると、持っていた担架のひとつをジークに投げてよこした。
「それでアンジェリカを私のところへ運べ」
ラウルはそう命令しながら、もうひとりの患者のもとへ向かった。
「ジーク、行こう」
リックに促されて、ジークは我にかえった。慌てて担架を広げた。
ジークとリックは、ラウルの医務室へアンジェリカを運び込んだ。セリカも他の生徒によって、ここに運び込まれた。
ジークたちは片隅で黙って突っ立っていた。クリーム色の薄いカーテンで仕切られた向こう側に、ふたつのベッドとラウルの影が見えた。ラウルは忙しく動きまわり、手際よくふたりの処置をしているようだった。
──ガラガラガシャン。
激しい音がして扉が開き、そこからサイファとレイチェルが姿を現した。それと同時に、仕切りの向こうからラウルが出てきた。
「アンジェリカは?! 無事か?!」
サイファはラウルを目にすると、一目散に駆け寄った。
「ああ、命に別状はない。そのうち意識は戻るだろう」
ラウルは冷静にそう答えると、親指でカーテンの方を指した。サイファは急いでカーテンの内側へ入っていった。レイチェルはラウルをじっと見つめていた。その大きな瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。ラウルがその細い肩に手をのせると、彼女はこくりと頷いた。ゆっくりとカーテンをくぐり、アンジェリカのベッド際へ歩いていった。
「しばらく待っていてくれ」
ラウルはカーテン越しに声を掛け、医務室から出ていった。
ジークは、わずかに開いたカーテンの隙間から、ベッドに横たわるアンジェリカの姿を見た。もとより白い肌が、血の気を失い、よりいっそう白さを増していた。まるで人形のようで、まったく生気が感じられなかった。ジークの鼓動が不安でどんどん大きくなっていった。
──ラウルが大丈夫だと言っていた、大丈夫だ、大丈夫なんだ……。
懸命に自分にそう言い聞かせた。そうしなければ自分を保つことができなかった。
長い沈黙が続いた。
ジークには、外のざわめきが別世界のことのように聞こえていた。
「どうしてこんなことに……」
ふいに沈黙が破られた。サイファは胸の奥から絞り出すように言った。やり場のないくやしさと悲しさをその言葉に込めた。
ジークは現実に引き戻された。そして、ある考えが彼を支配し始めた。こぶしに力を入れ、固く握りしめる。うつむいたその額に汗がにじんだ。
「俺のせい……、かも、しれない」
こらえきれなくなって、途切れ途切れに言葉を吐いた。
「君のせいだとは思っていないよ。いつでもどこでも一緒というわけにはいかないだろう」
カーテンごしに聞こえたサイファの声は、いたって冷静だった。しかし、反対にジークの感情は高ぶっていた。胃の中で何かが暴れまわるような気持ち悪さを感じ、少し前かがみになった。
「俺がセリカを怒らせたからだ。だから……」
「まさか! いくらなんでもそんなムチャクチャなこと……」
リックは言葉を詰まらせた。「ありえない」と断定することができなかった。ただ「あってほしくない」と願うだけで精一杯だった。
「どうやらおまえのせいではないようだ」
ジークは驚いて顔を上げた。いつの間にかラウルが戻ってきていた。
シャッと軽い音を立ててカーテンが開いた。そこからサイファとレイチェルが姿を現した。
サイファが何かを言いかけたが、ラウルがそれを遮った。ふたりにソファを勧め、自分自身も椅子に腰を下ろした。そして、腕を組み、静かに説明を始めた。
「状況から判断するとふたつのことがわかる。セリカがアンジェリカを刺したこと、それに抵抗するためにアンジェリカがとっさに魔導の力を暴発させたこと。このふたつはほぼ間違いないだろう」
サイファは、食い入るようにラウルを凝視しながら、努めて冷静に尋ねた。
「状況というのは?」
「ひとつは、セリカがナイフを握っていたこと。そしてそのナイフが著しく黒く焦げていたこと。もうひとつは、アンジェリカの足場だけ残し、まわりの床がえぐれていたこと。アンジェリカ自身もナイフの傷以外は受けていない。最後に、セリカの損傷は体の前面のみだということ。それも主に腕だ」
サイファは納得したように頷いた。
「でも、どうしてセリカさんは……」
レイチェルは、今にも泣き出しそうな震える声でつぶやいた。ラウルはそれに答えるように、話を続けた。
「今しがた、彼女の家に連絡を入れたのだが、彼女の祖父の様子が普通ではなかった。連絡を受けても驚きもせず、まっさきにアンジェリカの生死を確認してきたのだ。そして無事だとわかると、明らかに落胆したような返事をしていた」
「じゃあ、セリカはおじいさんの命令で……?」
信じられない気持ちを含みながら、リックはおそるおそる尋ねた。
「事態は、それよりももっと深刻かもしれない」
ラウルは不吉な言葉を返した。
「今さっき、ざっと調べてみたのだが、彼女の祖父は催眠術が使えるらしいな。ふたりきりになったとき、何らかのアクションを起こすようにインプットするというのは常套手段だ」
リックはその話を聞きながら、わずかに首をかしげた。
「もしそうだとして、セリカのおじいさんが、アンジェリカに何の恨みがあるんですか?」
ラウルはまっすぐサイファを見た。ふたりの視線が絡み合う。サイファはその視線に何かを感じとった。
「話してくれ。彼らには、私たちのことはだいたい話してある。心配は無用だ」
サイファに促され、ラウルは視線を落としてから口を開いた。
「セリカの父親は十年前に亡くなっている。アンジェリカが生まれた3日後だ」
「それって、まさか……」
レイチェルは目を見開いて、ラウルを見た。そして、そのままの姿勢で硬直した。彼女の顔から徐々に血の気が引き、小さな唇が小刻みに震え始めた。
サイファは、横にだらりと放り出された彼女の手を取り、自分の膝の上に乗せた。そしてその上に、自らの手を重ねた。彼女を落ち着かせたかったのと同時に、そうすることで彼自身も心を鎮めたかったのだ。
「まだ私の憶測でしかない。あとで彼女の祖父に直接聞いてみるが、そうだとしても素直に答えるとは思えないな」
ラウルはやや前かがみになり、まっすぐにサイファを見た。そして、重い声でつけ加えた。
「長い一日になるかもしれない」
サイファもまっすぐに視線を返し、表情を引き締め目で頷いた。それと同時に、膝に乗ったレイチェルの手に、微かな力が入るのを感じた。彼は、無言で彼女を抱き寄せ、その頭に頬を寄せた。
ジークとリックは、三人の間に入り込む余地を見つけることができず、ただその場に立ちつくした。
ジークも例外ではなかった。今朝からずっと、体の奥底に鉛が沈んでいるような、いいようのないもやもやしたものを感じていた。しかし、アカデミーに近づくにつれ、彼は次第に思い出してきた。自分はどれほどここへ来たかったのか、ということを──。
「ここへ来るのも二ヶ月ぶりなんだな」
アカデミーの門をくぐり、校舎を仰ぎながら、ジークが感慨深く言った。
「新鮮な気持ちだよね。なんだか入学の日のことを思い出すなぁ」
リックもつられて顔をあげると、深く息を吸い込んだ。
「もしかして、全然来てなかったの?」
背後から、驚きを含んだ高い声が聞こえた。
「ああ。二ヶ月間まったくな」
ジークはそう言いながら、ゆっくりと振り返った。そこには、案の定、呆れ顔のアンジェリカが立っていた。
「どうりで全然会わなかったわけね」
小さく独り言のようにつぶやくと、ふたりの間をすり抜けて歩き出した。ジークとリックは顔を見合わせた。そして、すぐに小走りで彼女を追った。
「ますます、差を広げるわよ」
アンジェリカは、前を向いたまま口をとがらせた。
「アカデミーには行ってなかったけど、勉強してなかったわけじゃないぜ」
ジークも前を向いたままで反論した。そして、口の端を上げ、自信のほどをその顔に表した。
「ふ……ん。ならいいけど」
アンジェリカは軽く受け流した。
「なんだおまえ。信用してねぇな!」
ジークは彼女に振り向き、大きな声で叫んだ。それでもアンジェリカは冷静だった。ちらりとジークに目をやると、つんとして言った。
「いずれ結果は出るわ」
「ホントにかわいくねぇなっ」
「まあまあ。せっかく久しぶりに会ったんだから」
リックがなだめた。
「そういえばアンジェリカ。ちょっと背が伸びたんじゃない?」
アンジェリカは突然そう言われて、とまどいながらも、少しはにかんで見せた。
「休み前から2cmくらいかな」
「やっぱり?! そうかぁ、成長期だもんね」
ふたりのやりとりの間、ジークはぽかんと口を開けていた。彼女の身長が伸びていることなど、ジークは気づきもしなかった。それどころか、それを知ってもまだよくわからないでいる。そんな些細なことに気がついたリックに驚いた。しかし、それよりも、彼女が成長するということに、なぜだか不思議な違和感を覚えていた。
「なに?」
視線を感じとったアンジェリカが、ジークを見上げながら目を細め、訝しげに尋ねた。
「んなもん、普通わかるかよ!」
ジークは再び前を向き、どたどたと大股で歩き始めた。
「なに怒ってるのかしら。相変わらずわけがわからない」
アンジェリカは口をとがらせた。リックに顔を向け、首をかしげて見せた。しかし、リックはただにこにこと笑顔を浮かべているだけだった。
玄関口をくぐると、その中はたくさんの生徒であふれていた。毎日のようにアカデミーへ来ていたアンジェリカも、これには懐かしさを覚えざるをえなかった。休み中は人もまばらで、こんな活気はなかったのだ。
「いいよね。こういう活気って。負けてられないなって気になる」
リックは鼻から息を吸い込み、小さく気合いを入れた。だが、ジークはあまり興味がないようだった。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに口を開いた。
「そうかぁ? まあ俺は元々そこら辺にいる奴らには負けてないけどな」
「ちょっと違うような気がするけど」
リックは軽く首をかしげ、苦笑いをした。一方のアンジェリカは、冷めた目でジークを一瞥した。しかし、それとは逆に、口元はふいに緩みそうになる。彼女は慌てて口をとがらせ、それをごまかした。
ジークはまっすぐ前を向いたままで、そんなふたりの様子に気づいてもいなかった。
「あ……」
突然、彼は小さく声をあげた。そして、規則的だった足の動きが、前に踏み出すことを躊躇するように緩やかになった。
アンジェリカは、声につられて何気なく振り向いた。ジークは奥歯を強く噛み締め、ややうつむきながらも、ちらちらと前を気にしていた。前に目をやると、そこには同じようにうつむいているセリカが立っていた。彼女の顔には、暗い陰が差していた。
「なにか、あったの?」
初めはジークに尋ねたが、答えが返ってこなかった。続いて、反対側のリックを覗き込んだ。
「いや、僕の口からはちょっと……」
リックは横目でジークを気にしながら、苦笑いして首を傾げた。アンジェリカは、自分の知らないところで何かが起こったのだと察した。気にはなったが、ジークにも、リックにも、それ以上尋ねることはできなかった。
ジークは立ち止まっているセリカと無言ですれ違った。彼女の姿が視界から消えると、ゆっくりと顔を上げ、ほっとしたように大きく息をついた。
「そういえば、あしたは試験だな」
唐突に、ややぎこちなく切り出すと、リックも慌ててそれに同調した。
「そうだったね。でも今回はペーパーだけだから心配はないよね」
彼の言葉で、アンジェリカは期末試験での出来事を思い出してしまった。きゅっと胸を締めつけられる。しかし、彼に悪気がないことはわかっていたので、あえて気がつかないふりをした。
だが、ジークは違った。
「おまえ、ケンカ売ってんのか?」
あからさまに不愉快だという表情を、リックに向けた。そのときようやくリックは気がついた。
「ごめん! そういうつもりじゃなかったんだけど……。本当にゴメン! アンジェリカもごめんね」
「あ、私は別に……」
アンジェリカは何と答えていいのかわからず、消え入りそうな声でそう答えることしかできなかった。ジークは謝られて、すっかり機嫌が直っていた。
「今度またVRMで対決することがあっても、この前のようなことにはならないぜ。ていうか、負けねぇぜ」
初めはリックに向かって言っていたが、途中でアンジェリカに視線を移した。そして、強気にニヤリと笑ってみせた。彼はすっかりいつもの調子を取り戻していた。
アンジェリカは安堵した。それと同時に、負けず嫌いの性分が顔を出した。
「私だって、負けるわけにはいかないんだから」
まっすぐにジークを見て、きっぱりと言い放った。
「ずいぶん大口を叩いているな」
彼の背後から、冷たい声が降ってきた。あまり聞きたくなかった声だ。頭頂から首筋、背中へと、何かが走ったような感覚に襲われた。奥歯に力を入れ、眉をひそめながら、ゆっくりと振り返る。
やはり、ラウルだった。
左脇に書物を抱え、無表情でジークを見おろしていた。
「おまえがそう簡単にアンジェリカに勝てるとは思えないがな」
「さぁ、それはどうかな」
ジークは、ラウルの圧倒的な存在感に気おされながらも、負けじと必死に強気を保っていた。しかし、ラウルは気が抜けるほどあっさりとした返事をした。
「そうか。それは楽しみだ」
その言葉が本気なのか嫌味なのか、ジークにはわからなかった。感情がまったく読み取れない。難しい顔で考え込んだ。ラウルはその脇を追い越し、さっと行ってしまった。ジークは眉をひそめ、ラウルの後ろ姿を睨んだ。
「何しに来たんだか、アイツ」
「通りかかっただけでしょ」
アンジェリカは軽く答えると、急にジークに背を向けた。
「おい、どこ行くんだよ」
ジークの呼び声に、アンジェリカは顔だけ振り向き、睨みながら右手で上のプレートを指さした。
「……トイレか」
ふたりは並んで壁にもたれかかりながら、アンジェリカを待っていた。ジークは腕を組んで、何か考えごとをしているようだった。リックは彼の邪魔をしないように、おとなしく雑踏を眺めていた。
「担任って、ずっと変わらないものなのか?」
ジークが唐突に疑問を口にした。
「さあ……。でもなんで?」
リックはジークに振り向いた。
「なんでって、おまえはアイツが担任でもいいのか?」
「僕は別にイヤじゃないけど?」
「ああそうか。めでたいヤツだな」
ジークは乾いた笑いを浮かべると、投げやりに言った。
──ドドーン!
突然、激しい爆音とともに大量の粉塵が舞い上がり、彼らの視界をさえぎった。ざわめきがそこら中から沸き上がる。誰も何が起こったのかわからなかった。
ジークとリックは嫌な予感がした。
「アンジェリカ!」
ジークは口に手の甲をあて、目を細めながら、粉塵の中へ飛び込んでいった。壁が崩れ、瓦礫が小さな山を作っている。その瓦礫の下に、誰かが倒れているのがうっすらと見えた。体の半分が瓦礫に埋もれているようだ。
「アンジェリカ?!」
ジークはその人影に駆け寄り屈み込んだ。しかし、それはアンジェリカではなくセリカだった。
「しっかりしろ!」
声を掛けながら、彼女の上に乗ったコンクリート片を取り除いていく。あとから駆けつけた生徒たちもそれを手伝った。
「こっちにもいるぞ!」
誰かが奥の方から叫んだ。ジークは「頼む」と言い残すと、声のする方へ飛んでいった。
「アンジェリカ!」
今度は確かにアンジェリカだった。体をくの字に折り曲げ、右の脇腹を両手で押さえている。そして、その指の間から鮮血が流れ、彼女のまわりに赤い水たまりを作っていた。
突然の出来事に、ジークは頭の中が真っ白になった。何が起こっているのかわからなかった。何をすればいいのかわからなかった。世界が遠く離れていくようだった。誰かが「止血!」と叫ぶ声も遥か遠くに聞こえた。
「先生が来たよ! 通して!」
人だかりの後ろで、リックが声を張り上げた。ラウルは生徒たちを強引に押しのけて現場に向かった。まずアンジェリカの元へ行き、傷口、脈などを、素早く診ていった。そして、勢いよく立ち上がると、持っていた担架のひとつをジークに投げてよこした。
「それでアンジェリカを私のところへ運べ」
ラウルはそう命令しながら、もうひとりの患者のもとへ向かった。
「ジーク、行こう」
リックに促されて、ジークは我にかえった。慌てて担架を広げた。
ジークとリックは、ラウルの医務室へアンジェリカを運び込んだ。セリカも他の生徒によって、ここに運び込まれた。
ジークたちは片隅で黙って突っ立っていた。クリーム色の薄いカーテンで仕切られた向こう側に、ふたつのベッドとラウルの影が見えた。ラウルは忙しく動きまわり、手際よくふたりの処置をしているようだった。
──ガラガラガシャン。
激しい音がして扉が開き、そこからサイファとレイチェルが姿を現した。それと同時に、仕切りの向こうからラウルが出てきた。
「アンジェリカは?! 無事か?!」
サイファはラウルを目にすると、一目散に駆け寄った。
「ああ、命に別状はない。そのうち意識は戻るだろう」
ラウルは冷静にそう答えると、親指でカーテンの方を指した。サイファは急いでカーテンの内側へ入っていった。レイチェルはラウルをじっと見つめていた。その大きな瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。ラウルがその細い肩に手をのせると、彼女はこくりと頷いた。ゆっくりとカーテンをくぐり、アンジェリカのベッド際へ歩いていった。
「しばらく待っていてくれ」
ラウルはカーテン越しに声を掛け、医務室から出ていった。
ジークは、わずかに開いたカーテンの隙間から、ベッドに横たわるアンジェリカの姿を見た。もとより白い肌が、血の気を失い、よりいっそう白さを増していた。まるで人形のようで、まったく生気が感じられなかった。ジークの鼓動が不安でどんどん大きくなっていった。
──ラウルが大丈夫だと言っていた、大丈夫だ、大丈夫なんだ……。
懸命に自分にそう言い聞かせた。そうしなければ自分を保つことができなかった。
長い沈黙が続いた。
ジークには、外のざわめきが別世界のことのように聞こえていた。
「どうしてこんなことに……」
ふいに沈黙が破られた。サイファは胸の奥から絞り出すように言った。やり場のないくやしさと悲しさをその言葉に込めた。
ジークは現実に引き戻された。そして、ある考えが彼を支配し始めた。こぶしに力を入れ、固く握りしめる。うつむいたその額に汗がにじんだ。
「俺のせい……、かも、しれない」
こらえきれなくなって、途切れ途切れに言葉を吐いた。
「君のせいだとは思っていないよ。いつでもどこでも一緒というわけにはいかないだろう」
カーテンごしに聞こえたサイファの声は、いたって冷静だった。しかし、反対にジークの感情は高ぶっていた。胃の中で何かが暴れまわるような気持ち悪さを感じ、少し前かがみになった。
「俺がセリカを怒らせたからだ。だから……」
「まさか! いくらなんでもそんなムチャクチャなこと……」
リックは言葉を詰まらせた。「ありえない」と断定することができなかった。ただ「あってほしくない」と願うだけで精一杯だった。
「どうやらおまえのせいではないようだ」
ジークは驚いて顔を上げた。いつの間にかラウルが戻ってきていた。
シャッと軽い音を立ててカーテンが開いた。そこからサイファとレイチェルが姿を現した。
サイファが何かを言いかけたが、ラウルがそれを遮った。ふたりにソファを勧め、自分自身も椅子に腰を下ろした。そして、腕を組み、静かに説明を始めた。
「状況から判断するとふたつのことがわかる。セリカがアンジェリカを刺したこと、それに抵抗するためにアンジェリカがとっさに魔導の力を暴発させたこと。このふたつはほぼ間違いないだろう」
サイファは、食い入るようにラウルを凝視しながら、努めて冷静に尋ねた。
「状況というのは?」
「ひとつは、セリカがナイフを握っていたこと。そしてそのナイフが著しく黒く焦げていたこと。もうひとつは、アンジェリカの足場だけ残し、まわりの床がえぐれていたこと。アンジェリカ自身もナイフの傷以外は受けていない。最後に、セリカの損傷は体の前面のみだということ。それも主に腕だ」
サイファは納得したように頷いた。
「でも、どうしてセリカさんは……」
レイチェルは、今にも泣き出しそうな震える声でつぶやいた。ラウルはそれに答えるように、話を続けた。
「今しがた、彼女の家に連絡を入れたのだが、彼女の祖父の様子が普通ではなかった。連絡を受けても驚きもせず、まっさきにアンジェリカの生死を確認してきたのだ。そして無事だとわかると、明らかに落胆したような返事をしていた」
「じゃあ、セリカはおじいさんの命令で……?」
信じられない気持ちを含みながら、リックはおそるおそる尋ねた。
「事態は、それよりももっと深刻かもしれない」
ラウルは不吉な言葉を返した。
「今さっき、ざっと調べてみたのだが、彼女の祖父は催眠術が使えるらしいな。ふたりきりになったとき、何らかのアクションを起こすようにインプットするというのは常套手段だ」
リックはその話を聞きながら、わずかに首をかしげた。
「もしそうだとして、セリカのおじいさんが、アンジェリカに何の恨みがあるんですか?」
ラウルはまっすぐサイファを見た。ふたりの視線が絡み合う。サイファはその視線に何かを感じとった。
「話してくれ。彼らには、私たちのことはだいたい話してある。心配は無用だ」
サイファに促され、ラウルは視線を落としてから口を開いた。
「セリカの父親は十年前に亡くなっている。アンジェリカが生まれた3日後だ」
「それって、まさか……」
レイチェルは目を見開いて、ラウルを見た。そして、そのままの姿勢で硬直した。彼女の顔から徐々に血の気が引き、小さな唇が小刻みに震え始めた。
サイファは、横にだらりと放り出された彼女の手を取り、自分の膝の上に乗せた。そしてその上に、自らの手を重ねた。彼女を落ち着かせたかったのと同時に、そうすることで彼自身も心を鎮めたかったのだ。
「まだ私の憶測でしかない。あとで彼女の祖父に直接聞いてみるが、そうだとしても素直に答えるとは思えないな」
ラウルはやや前かがみになり、まっすぐにサイファを見た。そして、重い声でつけ加えた。
「長い一日になるかもしれない」
サイファもまっすぐに視線を返し、表情を引き締め目で頷いた。それと同時に、膝に乗ったレイチェルの手に、微かな力が入るのを感じた。彼は、無言で彼女を抱き寄せ、その頭に頬を寄せた。
ジークとリックは、三人の間に入り込む余地を見つけることができず、ただその場に立ちつくした。
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