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happy dead end
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「おまえがシルヴィオか」
シルヴィオが第一王子アルベルトと初めて顔を合わせたのは、五歳のときだった。
祖父が国王の補佐を務める関係上、同年齢ということもあって王子の遊び相手に抜擢されたのだ。シルヴィオとしては、知らない子と仲良くしろと言われて気が重いだけだったが——。
彼を目にした瞬間、息を飲んだ。
さらさらの艶やかな黒髪、宝石のように澄んだ紫の瞳、白くなめらかな肌、かたちのいい薄い唇、完璧といえるほど整った造形——いままで見たひとのなかでいちばんきれいだと思った。
「よろしくな」
「あ……」
ぼうっと見入っていたら、うっすらと笑みを浮かべて手を差し出された。
おずおずとその手をとったとき、そのやわらかさとあたたかさにビックリして鼓動が跳ねた。こうして彼に触れていることを何だか不思議に思いつつも、いつまでもドキドキが止まらなかった。
それからはたびたび父親に王宮へ連れていかれて、彼と過ごすようになった。
庭園を駆けまわって遊ぶこともあれば、勉強につきあわされることもある。合間にはケーキやクッキーなどのお菓子を食べたりした。そのうち彼の私室にお泊まりするようにもなった。
「今日は泊まっていけよ」
「うん、父上がいいって言ったら」
「あいつが断るわけないだろ」
生まれゆえか、性格ゆえか、彼には自然と他人を従わせるようなところがあった。
それをまわりのひとたちがどう感じているのかまではわからないが、ひっこみ思案なところのあるシルヴィオにはちょうどよかったようで、腹立たしいと思ったことは一度もなかった。
彼もシルヴィオと一緒にいるときはいつも楽しそうにしていたし、いつもうれしそうに迎えてくれた。同じ年頃の友人が他にいなかったというのもあるのだろう。まだ世界は二人きりだったのだ。
六歳になると、二人そろって王立学園の初等部に入学した。
入試を受けた記憶がないので、王子の学友ということで特別枠だったのかもしれない。在籍しているのは王族あるいは貴族の子息子女がほとんどだ。それもきっと王子がいるからだろう。
もっとも貴族だからといってお行儀がいいわけではない。王族とのつながりを求めるのは貴族のほうが貪欲かもしれない。男子もだが、女子は結婚できるということもあり積極的に群がってくる。
嫌だ、近づくな——。
そんなシルヴィオの気持ちを察しているわけではないだろうが、アルベルトは他の誰に対しても当たり障りのない対応をするだけで、決してなびかなかった。
「シルヴィオ、帰るぞ」
「うん」
隣にいることを許されているのはシルヴィオだけである。
彼がいたずらな笑顔を向けるのも、気の抜けた姿を見せるのも、自ら手を伸ばして触れるのも、たまに同じベッドで眠るのも——全部シルヴィオだけなのだ。
「ん、それカメラだよな?」
十歳をむかえて初めての休日、いつものように王宮のアルベルトのところへ遊びに行くと、首から下げていたものに気付いた彼が不思議そうに尋ねてきた。シルヴィオは頷き、その重量感のある無骨なカメラにそっと両手を添えながら言う。
「父上に誕生日プレゼントとして買ってもらったんだ」
これまで物を欲しがることなどほとんどなかった自分が、初めて父親にねだった。それだけ興味があったのだ。カメラそのものというより写真を撮るほうにだけれど。
「おまえが自分で撮るのか?」
「いま練習してるところ」
「じゃあ、撮れたら見せてくれよ」
「うん」
きのうカメラをもらってからたくさん撮って現像もしたが、あくまで練習だ。まだ自宅の敷地内だけなので撮りたいものは撮れていない。だから——。
「よかったらアルベルトを撮らせてほしいんだけど」
「あー……」
今日、カメラを持参したのはこのためである。
しかし彼の反応はあまり芳しくなかった。もしかしたら王族なので軽率に写真を残せないのかもしれない。そう思ったが、しばらくするとふっとわずかに目を細めて微笑を浮かべる。
「いいよ、おまえなら」
「本当?!」
シルヴィオはさっそくカメラを構えて彼を撮っていく。
ファインダー越しに見るのは新鮮でドキドキする。そっちに立ってほしい、あっちを向いてほしい、庭でも撮りたいなど、めずらしくわがままを言ってしまったが、彼は半ば呆れながらもつきあってくれた。
「人物を撮るのが好きなのか?」
「きれいなものを撮るのが好きなんだ」
「へぇ」
撮りたい景色はたくさんある。けれど撮りたい人物はたったひとりアルベルトだけである。こんなにきれいなひとを他に知らない。その姿を自分の手で残せることがうれしくてたまらなかった。
「よく撮れてるな」
最初のうちは下手くそと笑われたりもしたけれど、たくさん勉強して、たくさん撮影して、すこしずつカメラマンとしての腕を上げていった。アルベルトをきれいに撮りたいというその一心で。
写真の中のアルベルトはいろいろな顔を見せていた。壮絶なまでに美しかったり、やわらかく微笑んでいたり、おかしそうに破顔していたり、悪戯っぽく笑っていたり、ときには寝ていたり。
そのどれもが宝物だ。
ただきれいなだけでなく、そこには二人の関係性さえも如実に写し出されている。だからこそ尊くて。技術では本職に敵わないが、きっとシルヴィオにしか撮れない写真だと自負していた。
飽きもせず撮りつづけるのを、彼はたびたび呆れながらも笑って許してくれていた。
とても幸せだった。そしてそれがあたりまえのようにつづいていくのだと漠然と思っていた。このときはまだ変わっていくことなんて想像さえしていなかったのだ——。
中等部に上がるのを機に、アルベルトとシルヴィオは寮生になった。
共同生活で王子に社会性を身につけさせたいということらしい。当然ながらシルヴィオに拒否権はない。アルベルトとともに強制的に寮に放り込まれてしまった。個室なのが唯一の救いだが——。
「衝撃的な狭さだな」
備え付けのベッドと学習机だけでいっぱいいっぱいである。シルヴィオはともかく、王子であるアルベルトまでこんなに狭い個室だとは。これではいままでのように二人で過ごすことは難しい。
「まあ俺らにはどうしようもないし仕方ないか……入れよ」
え、入っていいのか??
こんな狭いところに二人もいると窮屈ではないかと思ったが、入っていいのであれば喜んで入る。椅子はひとつだしどうしたらいいんだろうと戸惑っていると、彼は迷わずベッドに腰を下ろした。
「ベッドも狭いし二人で寝るのは無理だよなぁ」
「え……あ、ああ、そうだな……」
「おまえいつまで突っ立ってるんだ。座れよ」
ポンポンと隣を叩くので、言われるまま清潔なシーツにおずおずと腰を下ろした。これまで何度も同じベッドで寝ていたはずなのに、どうしてこれしきのことでドキドキするのかわからない。
「カメラ持ってきてるんだろう?」
「ああ、学園に持ち込まないならいいって言われたから」
「撮らねぇの?」
そう言って、アルベルトは挑発するような笑みを浮かべる。
その破壊力にシルヴィオの顔はぶわりと上気した。あわててこくこくと頷いて鞄からカメラを取り出そうとする。それを見て、アルベルトは声を立てて笑いながらベッドに寝転がった。
翌日から学校が始まった。
初等部から内部進学する生徒がほとんどなので見知った顔が多いものの、中等部から入学してくる生徒もいる。アルベルトは王子の肩書きに近づく輩がまた増えるとうんざりしていたが——。
「えっ? 王子様?!」
空から降ってきた少女が、あっさりとアルベルトの両腕におさまった。
正確には、男性教師ともめて踊り場から落ちた少女を、たまたま下にいたアルベルトが受け止めたのである。数段だったのでそれほど衝撃はなかったと思われるが、さすがに驚いていた。
「おまえ、階段なんかで暴れんなよ」
「ご、ごめんなさい……」
恐縮したように謝罪する小さな少女を立たせて、溜息をつく。
彼女ともめていた教師もいつのまにか傍らに来ていた。ひどく青ざめた顔をして。その意識は彼女ではなくアルベルトにばかり向いている。
「王子、お怪我はありませんか?」
「俺は何ともない」
「念のため病院へお連れいたします」
「いい、本当に何ともない」
「ですが……」
困ったように顔を曇らせる教師を置き去りにして、アルベルトは階段を上っていく。
こうなるといくら頼んでも病院へは行かないだろう。シルヴィオとしてもいささか心配なので、とりあえず様子を気にかけておこうと思いつつ、小走りで隣に並んだ。
「王子様、助けてくれてありがとう!」
シルヴィオの反対側からひょっこりと顔を覗かせたのは、さきほどの少女だ。
ふわふわのプラチナブロンドと透きとおった紫の瞳に、まず目を惹かれる。顔のつくりも整っていて、美しいというより幼くかわいらしい感じではあるが、美少女といっていいだろう。
だからといってアルベルトが心を惑わされることはないはずだ。これまでだってどんな美少女にもなびかなかった。実際、彼はどことなく警戒するような顔つきで視線を流している。
「たまたま俺のところに落ちてきただけで、積極的に助けようとしたわけじゃないから礼はいい。おまえ、見たことない顔だけど初等部の子か?」
「中等部だよ!」
少女は頬をふくらませるが、そのいかにも幼稚な姿を見るとますます初等部の子にしか見えない。だからだろうか。つい警戒が緩んでしまったようでアルベルトはおかしそうに笑う。
「悪かった悪かった。じゃ新入生だな」
「うん、王子様とおんなじクラスだよ」
「マジか……」
クラスは成績順に分かれており、アルベルトとシルヴィオは学年トップのAクラスだ。つまりこの幼く見える少女が成績上位者ということになる。
「よろしくね。わたしリリアナっていうの」
「俺はアルベルトだ。王子様って呼ぶのはやめろ」
「うん、仲良くしてね!」
すっかり気を許したかのように挨拶を交わす。
こんなことはいままでなかった。毒気を抜かれたというのもあるのだろうが、それだけでなく興味をひかれているのではないかと感じた。シルヴィオとしては気のせいであってほしかったけれど——。
リリアナ・フェレール。
元孤児で、十歳のときにフェレール侯爵の養女として迎えられた。以降、小学校に行くことなく家庭教師をつけて勉強し、王立学園中等部に成績上位で合格を果たす。現在十二歳。寮生。
残念ながら直感は当たっていたようだ。
なんとアルベルトはその日のうちに彼女について調べた。教師に聞いてまわり、一般に公開されていることしか教えてもらえなかったが、そもそもフルネームさえ知らなかったのだからひとまずは十分だろう。
「まさかあの狸親父の娘だったとはなぁ」
アルベルトがひどく複雑そうな面持ちでつぶやく。
狸親父とはもちろんフェレール侯爵のことだ。シルヴィオ自身は何度か顔を合わせた程度なのでよく知らないが、父であるネンツィ侯爵と政治的に対立している関係上、家で話題にのぼることは間々あった。
「そういえば女の子を養子にとったとか聞いたことがあったな」
確か二年ほどまえの話なので、時期的にもリリアナのことで間違いないだろう。
「父が言うには、フェレール侯爵やフェレール家の地位を上げるために、その養子を王家に嫁がせるつもりじゃないかと。実子は男ばかりの三兄弟だし」
「あの狸親父の考えそうなことだぜ」
そのために見目がよく、頭もよく、コミュニケーション能力の高い子を選んだに違いない。実際、アルベルトが興味を持ったのだから人選は間違っていなかった。
「それで君はどうするつもりだ?」
「タヌキの思惑になんかはまるかよ」
「そうか……」
だからといって彼女への興味が失せたわけではないだろう。自分の気持ちが自分の望んだようにならないことは、シルヴィオ自身がよく知っていた。
「ねえ、子供ってどうやってつくるの?」
リリアナが放った言葉に、放課後になったばかりの教室がざわついた。
聞かれたアルベルトは顔を真っ赤にしてギョッとしていたが、すぐに彼女の手を引いて図書館に駆け込み、ぶつくさとぼやきつつも適当な本をいくつか見繕って渡した。ひとりで読めと言い添えて。
こんなことをアルベルトにさせられるのは、きっと彼女だけだ。
翌日、恥ずかしそうにごめんねと謝ってくるあたりもまたタチが悪い。他意がないからなおのこと。アルベルトは何でもないかのように「おう」と返事をしながらも、その頬には赤みがさしていた。
ちなみになぜわざわざアルベルトに聞いてきたのかというと、彼女に尋ねられた女友達が返答に困り、王子様に聞いてと丸投げして逃げたというのが真相らしい。まあ気持ちはわからないでもないが。
こんな調子で、リリアナのまわりはいつも騒がしい。
当たり障りなく接するつもりでいたはずのアルベルトも、何だかんだ巻き込まれっぱなしである。フェレール侯爵の思惑はともかく、彼女自身は考えなしに思ったまま行動しているようにしか見えない。
「あいつはほっとけない」
そんな認識になるのに時間はかからなかった。
まっすぐで、邪気がなくて、媚びなくて、危なっかしくて——いろんな意味で目が離せなくなってしまったのだろう。そんなアルベルトを、シルヴィオはただ隣で見ていることしかできなかった。
中等部に上がって数か月が過ぎた、とある休日。
アルベルトは家に帰ったが、シルヴィオは寮に残ってひとりで写真を撮っていた。寮のまわりには色とりどりの花壇があり、風景もきれいなので、その移ろいをカメラに収めたくてときどきこうしているのだ。
カシャッ——。
ファインダーを覗いて構図を決め、焦点を合わせ、シャッターを切る。写し出されるのは現実に他ならないが、そこにはまぎれもなく撮影者の意思が反映される。だからこそ自分は写真に惹かれるのだと思う。
「シルヴィオ!」
溌剌とした可愛らしい声に名を呼ばれる。
振り向くと、鞄を背負ったリリアナが手を振りながら駆けてきた。家に帰っていたが早めに寮に戻ってきたらしい。好奇心に目をキラキラさせて覗き込んでくる。
「何してるの?」
そう問われ、シルヴィオは手に持っていたカメラを掲げる。
「趣味で写真を撮ってる」
「へぇ、これ本格的なカメラだね」
「十歳の誕生日に買ってもらったんだ」
「じゃあもうベテランだ」
くるくると表情を変えながら彼女は無邪気におしゃべりする。シルヴィオの気持ちなんて知りもしないで。だがアルベルトの件さえなければきっと疎ましく思わなかった。彼女自身は決して嫌いではないのだ。
「お花を撮ってたの?」
「まあ……花とか風景とか」
「きれいだもんね」
そう言ってリリアナはそっと顔を上げると、遠くを見やる。
そのとき後ろから風が吹いて、プラチナブロンドがふわりとやわらかくなびいた。その顔にはこころなしか愁いを帯びた微笑が浮かぶ。
「よかったら君も撮るけど」
シルヴィオは目を奪われ、気付いたときにはそんなことを口走っていた。内心で焦ったものの、さすがにいまさら撤回するというわけにはいかない。
「え、いいの?」
「まあ……上手く撮れるかはわからないが」
「じゃあ撮ってもらおっかな!」
彼女はそう声をはずませると、カメラのほうにまっすぐ体の正面を向けて立ち、にっこりと笑う。まるで記念写真でも撮るかのように。瞬間、シルヴィオのカメラマンとしてのスイッチが入った。
「そうじゃない。カメラは意識しないで……ええと、そこらへんの花とか適当に見ててもらっていいか。こっちで勝手によさそうなところを見つけて撮るから」
「りょーかい」
彼女は素直にしゃがんで色とりどりの花を愛で始める。
「そういえばこんなふうに花壇の花をゆっくり見るなんて、王都に来てから一度もなかったかも。なんか故郷や教会のことをいろいろ思い出しちゃうなぁ」
ファインダー越しの彼女はハッとするほどうつくしかった。
そのみずみずしい姿を、色鮮やかな花とともにそっとフレームにおさめた。
次の休日は家に帰った。
撮影したままになっているフィルムを現像するためである。自宅に暗室があるので、そこを使わせてもらっているのだ。初めは失敗もしたが、いまはもう自分ひとりで難なく現像できる。
たくさんのアルベルトの写真、風景の写真、そして一枚だけリリアナの写真——。
シルヴィオは思わず眉を寄せるが、そのことを自覚するとそっと目を閉じて溜息をついた。
夕方になると寮に戻り、ひとけのない談話室でひとり静かに本を読んでいた。
「シルヴィオ!」
そこへ無邪気な笑顔を見せながらリリアナが駆けてきた。彼女は用がなくても気安く声をかけてくるし、アルベルトがいてもいなくても態度を変えない。そういうところは憎めないと思う。
「ちょうどよかった……これ」
シルヴィオは傍らの鞄から一枚の写真を取り出して手渡した。それを見るなり彼女はパッと顔をかがやかせる。
「このまえ撮ったのだ!」
「現像したからあげるよ」
「え、いいの?」
「もともとそのつもりだったから」
「じゃあ遠慮なくもらうね」
うれしそうに声をはずませると、なぜかあたりまえのように向かいのソファに腰を下ろした。そして手にした写真をまじまじと食い入るように見つめ始める。
「すごい、ほんとプロのカメラマンが撮ったみたいだね。ちょっと照れちゃうけど、こんなきれいに撮ってもらえてすっごくうれしい。今度、よかったら風景とか他の写真も見せてほしいな」
「ああ……それなら、いま持ってるから見せるよ」
複雑な思いはあるが、こうもまっすぐ賞賛してもらえると悪い気はしない。アルベルトの映っていない写真を何枚か鞄から取り出し、ローテーブルに置いた。すべて寮の近辺で撮ったものだ。
「わあ、やっぱりどれもきれい!」
彼女はわくわくした様子で一枚ずつじっくりと目を通していくが、その途中でハッとした表情になる。
「これはどこ?」
「向こうの林にある湖だ」
「へぇ、知らなかった」
学園の敷地内だが、学園とは反対側の外れなので知らないひとも多いかもしれない。白樺に囲まれた小さいながらも美しく静謐な湖である。その美しさゆえに彼女も興味をひかれたのかと思ったが——。
「故郷の湖と似てて、なんかちょっと思い出しちゃった」
境遇からして、おそらく遠い辺境の故郷には帰れていないのだろう。
シルヴィオは唾を飲む。そのあたりにうまく付け入ることができれば——そう思ったものの、どうすればいいかまではわからず、中途半端に右手をさまよわせたまま必死に頭をめぐらせていると。
ガシッ——!
いきなり横から手首をつかまれ、驚いて振り向くとそこにはアルベルトがいた。向けられた冷酷なまなざしに、ゾクリと背筋が凍りついて声も出せない。つかまれた手首はギリギリと軋む。
「あ、アルベルト!」
リリアナの無邪気な声で、彼のまとっていた不穏な空気は一瞬のうちに霧散した。何でもないかのようにすっとシルヴィオの手首を放すと、軽く手を上げて彼女に応じる。
「休日に戻ってくるなんてめずらしいね」
「ちょっと気になることがあってな」
「気になること?」
「おまえには教えない」
「そんな言い方することないじゃん」
不満げにぷくっと頬をふくらませる彼女を見て、アルベルトは笑った。しかしローテーブルに置かれたものに気付くと真顔になる。
「これ……」
「すごいよね。シルヴィオは写真が趣味なんだって」
「長年のつきあいなんだから知ってるっつうの」
いつものように軽口を叩きつつ、ローテーブルの上から一枚の写真を手に取る。それはリリアナを写したものだった。
「へぇ……よく撮れてるな」
「えへへへ、ちょっと照れちゃうな」
「シルヴィオの腕を褒めたんだぞ?」
「わ、わかってるよ!」
ほんのりと頬を色づかせてあわてる彼女を見て、アルベルトはまた笑った。そして手にしていた写真を彼女に返しながら言う。
「悪いがシルヴィオを連れてってもいいか?」
「うん、別にいいけど」
さきほどの彼の態度もあって、シルヴィオは二人きりになるのがすこし怖かった。それでも断るという選択肢はない。彼に目で促され、素直に傍らの鞄をつかんでソファから立ち上がった。
「あ、これ」
ローテーブルに置かれたままになっていた風景や花の写真を、リリアナがあわててまとめ始める。返そうとしているのだろうが、シルヴィオには最初から返してもらうつもりはなかった。
「全部あげるよ」
「えっ、こんなにたくさんいいの?」
「フィルムがあるから焼き増しできるし」
「ありがとう!」
彼女が笑顔で声をはずませた、そのとき——シルヴィオは隣のアルベルトに再び手首をつかまれた。すこし痛いくらいの力加減で。振り向くと、彼は作り物めいたにこやかな顔をリリアナに向けていた。
「じゃあな」
「うん、またね!」
すぐにアルベルトは身を翻し、シルヴィオの手首を引いてずんずんと歩き出す。その背中からは隠しきれない怒りがにじんでいた。
連れてこられたのはアルベルトの個室だった。
ベッドに座らされたものの、彼はそばで立ったまま腕を組んで見下ろしている。絶対零度のまなざしで。その怒りの理由はおおよそわかっているつもりだ。
「最近、リリアナへの態度が変わったからおかしいとは思ってたけど、まさか俺に内緒で写真まで撮ってたとはな」
「寮のまえで花の写真を撮ってるときにたまたま会って、流れで彼女も撮っただけだ」
嘘偽りない事実のみを答える。しかし、それがすべてでないことくらい彼にはわかっているのだろう。表情を変えることなくほんのわずかに目を細めた。
「おまえは俺しか撮らないのかと思ってたよ」
「他に撮りたいひとがいなかっただけだ」
「確かにリリアナは撮りがいがあるだろうな」
「…………」
核心に触れない追及に、じわじわと嬲られているような気持ちになり、腿の上に置いた手をギュッと静かに握りしめる。沈黙が降り、息を詰める苦しさに気が遠くなり始めたころ——。
「なあ、シルヴィオ……おまえ俺のことが好きなんだろう」
揺るぎのない声でそう言われた。
瞬間、頭の中がまっしろになる。とぼけることもごまかすこともできず、ただ凍りついたように固まってしまった。そんなシルヴィオを無表情で見下ろしたまま、彼は話をつづける。
「その気持ちを否定するつもりはないし拒絶もしない。ただ俺は王太子だ。いずれ誰かと結婚する。だからおまえの気持ちに応えることは絶対にないし、おまえが私情で俺の邪魔をすることも許さない」
そう言い放つと、そのまなざしがすっと鋭く研ぎ澄まされる。
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」
これは、おそらく最後通告だ。
あまりに突然のことで、それを受け入れるだけの覚悟はまだないが、そう正直に答えたらきっともう切り捨てられてしまう。これまでのように隣にいさせてはもらえない。それだけは、絶対に——。
「覚悟を決める……だから、隣にいさせてほしい」
いま言える精一杯の言葉を絞り出し、こわばった顔のまま縋るような心持ちで彼を見つめる。そこには冴え冴えとした紫の双眸があった。ゾクッとしながらも搦め捕られたように目をそらせない。
まるで時が止まったかのようだった。
気が遠くなりそうなくらい長く感じたものの、実際はそうでもなかったかもしれない沈黙のあと、アルベルトはふっとかすかに表情をゆるめた。そして腕組みを解きながら前屈みに覗き込んでくる。
えっ?
あまりの近さに思わず目をつむったそのとき、コツンと額がぶつかった。前髪越しではあるが、それでもほんのりとぬくもりが伝わってくる。シルヴィオはかすかに震える瞼をそっと開いた。
「忘れるなよ」
「……忘れない」
「約束だ」
吐息がふれあい、壊れそうなくらい心臓がバクバクと暴れる。
それが伝わってしまうのではないかと気を揉んでいると、すこし熱を帯びた頬にすべらかな手らしきものが触れ、彼の顔が動く。近すぎて何がどうなっているのかもわからないうちに、唇に微熱を感じた。
は……えっ……?
一瞬で離れてしまったが、それは驚くほどふわっとしていてやわらかかった。にわかには何が起こったのか飲み込めず、正面の彼を見つめたまま呆然としていると、彼がふっと口角を上げた。
「ありがたく思え。俺にとっては初めてのキスなんだぞ」
途端、シルヴィオはぶわりと顔が熱くなる。
言われてようやくキスされたのだと自覚した。芸術品のように美しい王太子のアルベルトに、ただの友人でしかない自分が。動揺のあまりおろおろと目を泳がせていると、彼はハハッと笑った。
「言っておくが、これが最初で最後だからな」
「えっ?」
シルヴィオはまだ混乱したままで頭が働いていなかった。その様子を察してか、彼は真面目な顔になって説明するように言葉を継ぐ。
「さっき話したとおり、俺がおまえのものになることはないし、おまえの気持ちに応えることもない。だが、おまえはすべて俺に明け渡せ」
そうだ、そういう約束だった。
つまりこのキスはいわば報酬の前払いというわけなのだろう。もしかしたらシルヴィオをつなぎ止めるためでもあるのかもしれない。いずれにしても、そうするだけの価値が自分にあると認めてくれたということで——。
「仰せのままに」
ベッドから降りて彼の足元にひざまずき、左胸に手をあてる。
もう迷いはなかった。彼が自分を必要としてくれるかぎり、そしてそばに置いてくれるるかぎり、私情を捨てて彼のために動こうと心に決めた。たとえそれがどんなにつらく苦しいことだとしても。
ただ、このときはまだ本当の意味ではわかっていなかった。その身を切るようなつらさも、胸をかきむしるような苦しさも——。
シルヴィオが第一王子アルベルトと初めて顔を合わせたのは、五歳のときだった。
祖父が国王の補佐を務める関係上、同年齢ということもあって王子の遊び相手に抜擢されたのだ。シルヴィオとしては、知らない子と仲良くしろと言われて気が重いだけだったが——。
彼を目にした瞬間、息を飲んだ。
さらさらの艶やかな黒髪、宝石のように澄んだ紫の瞳、白くなめらかな肌、かたちのいい薄い唇、完璧といえるほど整った造形——いままで見たひとのなかでいちばんきれいだと思った。
「よろしくな」
「あ……」
ぼうっと見入っていたら、うっすらと笑みを浮かべて手を差し出された。
おずおずとその手をとったとき、そのやわらかさとあたたかさにビックリして鼓動が跳ねた。こうして彼に触れていることを何だか不思議に思いつつも、いつまでもドキドキが止まらなかった。
それからはたびたび父親に王宮へ連れていかれて、彼と過ごすようになった。
庭園を駆けまわって遊ぶこともあれば、勉強につきあわされることもある。合間にはケーキやクッキーなどのお菓子を食べたりした。そのうち彼の私室にお泊まりするようにもなった。
「今日は泊まっていけよ」
「うん、父上がいいって言ったら」
「あいつが断るわけないだろ」
生まれゆえか、性格ゆえか、彼には自然と他人を従わせるようなところがあった。
それをまわりのひとたちがどう感じているのかまではわからないが、ひっこみ思案なところのあるシルヴィオにはちょうどよかったようで、腹立たしいと思ったことは一度もなかった。
彼もシルヴィオと一緒にいるときはいつも楽しそうにしていたし、いつもうれしそうに迎えてくれた。同じ年頃の友人が他にいなかったというのもあるのだろう。まだ世界は二人きりだったのだ。
六歳になると、二人そろって王立学園の初等部に入学した。
入試を受けた記憶がないので、王子の学友ということで特別枠だったのかもしれない。在籍しているのは王族あるいは貴族の子息子女がほとんどだ。それもきっと王子がいるからだろう。
もっとも貴族だからといってお行儀がいいわけではない。王族とのつながりを求めるのは貴族のほうが貪欲かもしれない。男子もだが、女子は結婚できるということもあり積極的に群がってくる。
嫌だ、近づくな——。
そんなシルヴィオの気持ちを察しているわけではないだろうが、アルベルトは他の誰に対しても当たり障りのない対応をするだけで、決してなびかなかった。
「シルヴィオ、帰るぞ」
「うん」
隣にいることを許されているのはシルヴィオだけである。
彼がいたずらな笑顔を向けるのも、気の抜けた姿を見せるのも、自ら手を伸ばして触れるのも、たまに同じベッドで眠るのも——全部シルヴィオだけなのだ。
「ん、それカメラだよな?」
十歳をむかえて初めての休日、いつものように王宮のアルベルトのところへ遊びに行くと、首から下げていたものに気付いた彼が不思議そうに尋ねてきた。シルヴィオは頷き、その重量感のある無骨なカメラにそっと両手を添えながら言う。
「父上に誕生日プレゼントとして買ってもらったんだ」
これまで物を欲しがることなどほとんどなかった自分が、初めて父親にねだった。それだけ興味があったのだ。カメラそのものというより写真を撮るほうにだけれど。
「おまえが自分で撮るのか?」
「いま練習してるところ」
「じゃあ、撮れたら見せてくれよ」
「うん」
きのうカメラをもらってからたくさん撮って現像もしたが、あくまで練習だ。まだ自宅の敷地内だけなので撮りたいものは撮れていない。だから——。
「よかったらアルベルトを撮らせてほしいんだけど」
「あー……」
今日、カメラを持参したのはこのためである。
しかし彼の反応はあまり芳しくなかった。もしかしたら王族なので軽率に写真を残せないのかもしれない。そう思ったが、しばらくするとふっとわずかに目を細めて微笑を浮かべる。
「いいよ、おまえなら」
「本当?!」
シルヴィオはさっそくカメラを構えて彼を撮っていく。
ファインダー越しに見るのは新鮮でドキドキする。そっちに立ってほしい、あっちを向いてほしい、庭でも撮りたいなど、めずらしくわがままを言ってしまったが、彼は半ば呆れながらもつきあってくれた。
「人物を撮るのが好きなのか?」
「きれいなものを撮るのが好きなんだ」
「へぇ」
撮りたい景色はたくさんある。けれど撮りたい人物はたったひとりアルベルトだけである。こんなにきれいなひとを他に知らない。その姿を自分の手で残せることがうれしくてたまらなかった。
「よく撮れてるな」
最初のうちは下手くそと笑われたりもしたけれど、たくさん勉強して、たくさん撮影して、すこしずつカメラマンとしての腕を上げていった。アルベルトをきれいに撮りたいというその一心で。
写真の中のアルベルトはいろいろな顔を見せていた。壮絶なまでに美しかったり、やわらかく微笑んでいたり、おかしそうに破顔していたり、悪戯っぽく笑っていたり、ときには寝ていたり。
そのどれもが宝物だ。
ただきれいなだけでなく、そこには二人の関係性さえも如実に写し出されている。だからこそ尊くて。技術では本職に敵わないが、きっとシルヴィオにしか撮れない写真だと自負していた。
飽きもせず撮りつづけるのを、彼はたびたび呆れながらも笑って許してくれていた。
とても幸せだった。そしてそれがあたりまえのようにつづいていくのだと漠然と思っていた。このときはまだ変わっていくことなんて想像さえしていなかったのだ——。
中等部に上がるのを機に、アルベルトとシルヴィオは寮生になった。
共同生活で王子に社会性を身につけさせたいということらしい。当然ながらシルヴィオに拒否権はない。アルベルトとともに強制的に寮に放り込まれてしまった。個室なのが唯一の救いだが——。
「衝撃的な狭さだな」
備え付けのベッドと学習机だけでいっぱいいっぱいである。シルヴィオはともかく、王子であるアルベルトまでこんなに狭い個室だとは。これではいままでのように二人で過ごすことは難しい。
「まあ俺らにはどうしようもないし仕方ないか……入れよ」
え、入っていいのか??
こんな狭いところに二人もいると窮屈ではないかと思ったが、入っていいのであれば喜んで入る。椅子はひとつだしどうしたらいいんだろうと戸惑っていると、彼は迷わずベッドに腰を下ろした。
「ベッドも狭いし二人で寝るのは無理だよなぁ」
「え……あ、ああ、そうだな……」
「おまえいつまで突っ立ってるんだ。座れよ」
ポンポンと隣を叩くので、言われるまま清潔なシーツにおずおずと腰を下ろした。これまで何度も同じベッドで寝ていたはずなのに、どうしてこれしきのことでドキドキするのかわからない。
「カメラ持ってきてるんだろう?」
「ああ、学園に持ち込まないならいいって言われたから」
「撮らねぇの?」
そう言って、アルベルトは挑発するような笑みを浮かべる。
その破壊力にシルヴィオの顔はぶわりと上気した。あわててこくこくと頷いて鞄からカメラを取り出そうとする。それを見て、アルベルトは声を立てて笑いながらベッドに寝転がった。
翌日から学校が始まった。
初等部から内部進学する生徒がほとんどなので見知った顔が多いものの、中等部から入学してくる生徒もいる。アルベルトは王子の肩書きに近づく輩がまた増えるとうんざりしていたが——。
「えっ? 王子様?!」
空から降ってきた少女が、あっさりとアルベルトの両腕におさまった。
正確には、男性教師ともめて踊り場から落ちた少女を、たまたま下にいたアルベルトが受け止めたのである。数段だったのでそれほど衝撃はなかったと思われるが、さすがに驚いていた。
「おまえ、階段なんかで暴れんなよ」
「ご、ごめんなさい……」
恐縮したように謝罪する小さな少女を立たせて、溜息をつく。
彼女ともめていた教師もいつのまにか傍らに来ていた。ひどく青ざめた顔をして。その意識は彼女ではなくアルベルトにばかり向いている。
「王子、お怪我はありませんか?」
「俺は何ともない」
「念のため病院へお連れいたします」
「いい、本当に何ともない」
「ですが……」
困ったように顔を曇らせる教師を置き去りにして、アルベルトは階段を上っていく。
こうなるといくら頼んでも病院へは行かないだろう。シルヴィオとしてもいささか心配なので、とりあえず様子を気にかけておこうと思いつつ、小走りで隣に並んだ。
「王子様、助けてくれてありがとう!」
シルヴィオの反対側からひょっこりと顔を覗かせたのは、さきほどの少女だ。
ふわふわのプラチナブロンドと透きとおった紫の瞳に、まず目を惹かれる。顔のつくりも整っていて、美しいというより幼くかわいらしい感じではあるが、美少女といっていいだろう。
だからといってアルベルトが心を惑わされることはないはずだ。これまでだってどんな美少女にもなびかなかった。実際、彼はどことなく警戒するような顔つきで視線を流している。
「たまたま俺のところに落ちてきただけで、積極的に助けようとしたわけじゃないから礼はいい。おまえ、見たことない顔だけど初等部の子か?」
「中等部だよ!」
少女は頬をふくらませるが、そのいかにも幼稚な姿を見るとますます初等部の子にしか見えない。だからだろうか。つい警戒が緩んでしまったようでアルベルトはおかしそうに笑う。
「悪かった悪かった。じゃ新入生だな」
「うん、王子様とおんなじクラスだよ」
「マジか……」
クラスは成績順に分かれており、アルベルトとシルヴィオは学年トップのAクラスだ。つまりこの幼く見える少女が成績上位者ということになる。
「よろしくね。わたしリリアナっていうの」
「俺はアルベルトだ。王子様って呼ぶのはやめろ」
「うん、仲良くしてね!」
すっかり気を許したかのように挨拶を交わす。
こんなことはいままでなかった。毒気を抜かれたというのもあるのだろうが、それだけでなく興味をひかれているのではないかと感じた。シルヴィオとしては気のせいであってほしかったけれど——。
リリアナ・フェレール。
元孤児で、十歳のときにフェレール侯爵の養女として迎えられた。以降、小学校に行くことなく家庭教師をつけて勉強し、王立学園中等部に成績上位で合格を果たす。現在十二歳。寮生。
残念ながら直感は当たっていたようだ。
なんとアルベルトはその日のうちに彼女について調べた。教師に聞いてまわり、一般に公開されていることしか教えてもらえなかったが、そもそもフルネームさえ知らなかったのだからひとまずは十分だろう。
「まさかあの狸親父の娘だったとはなぁ」
アルベルトがひどく複雑そうな面持ちでつぶやく。
狸親父とはもちろんフェレール侯爵のことだ。シルヴィオ自身は何度か顔を合わせた程度なのでよく知らないが、父であるネンツィ侯爵と政治的に対立している関係上、家で話題にのぼることは間々あった。
「そういえば女の子を養子にとったとか聞いたことがあったな」
確か二年ほどまえの話なので、時期的にもリリアナのことで間違いないだろう。
「父が言うには、フェレール侯爵やフェレール家の地位を上げるために、その養子を王家に嫁がせるつもりじゃないかと。実子は男ばかりの三兄弟だし」
「あの狸親父の考えそうなことだぜ」
そのために見目がよく、頭もよく、コミュニケーション能力の高い子を選んだに違いない。実際、アルベルトが興味を持ったのだから人選は間違っていなかった。
「それで君はどうするつもりだ?」
「タヌキの思惑になんかはまるかよ」
「そうか……」
だからといって彼女への興味が失せたわけではないだろう。自分の気持ちが自分の望んだようにならないことは、シルヴィオ自身がよく知っていた。
「ねえ、子供ってどうやってつくるの?」
リリアナが放った言葉に、放課後になったばかりの教室がざわついた。
聞かれたアルベルトは顔を真っ赤にしてギョッとしていたが、すぐに彼女の手を引いて図書館に駆け込み、ぶつくさとぼやきつつも適当な本をいくつか見繕って渡した。ひとりで読めと言い添えて。
こんなことをアルベルトにさせられるのは、きっと彼女だけだ。
翌日、恥ずかしそうにごめんねと謝ってくるあたりもまたタチが悪い。他意がないからなおのこと。アルベルトは何でもないかのように「おう」と返事をしながらも、その頬には赤みがさしていた。
ちなみになぜわざわざアルベルトに聞いてきたのかというと、彼女に尋ねられた女友達が返答に困り、王子様に聞いてと丸投げして逃げたというのが真相らしい。まあ気持ちはわからないでもないが。
こんな調子で、リリアナのまわりはいつも騒がしい。
当たり障りなく接するつもりでいたはずのアルベルトも、何だかんだ巻き込まれっぱなしである。フェレール侯爵の思惑はともかく、彼女自身は考えなしに思ったまま行動しているようにしか見えない。
「あいつはほっとけない」
そんな認識になるのに時間はかからなかった。
まっすぐで、邪気がなくて、媚びなくて、危なっかしくて——いろんな意味で目が離せなくなってしまったのだろう。そんなアルベルトを、シルヴィオはただ隣で見ていることしかできなかった。
中等部に上がって数か月が過ぎた、とある休日。
アルベルトは家に帰ったが、シルヴィオは寮に残ってひとりで写真を撮っていた。寮のまわりには色とりどりの花壇があり、風景もきれいなので、その移ろいをカメラに収めたくてときどきこうしているのだ。
カシャッ——。
ファインダーを覗いて構図を決め、焦点を合わせ、シャッターを切る。写し出されるのは現実に他ならないが、そこにはまぎれもなく撮影者の意思が反映される。だからこそ自分は写真に惹かれるのだと思う。
「シルヴィオ!」
溌剌とした可愛らしい声に名を呼ばれる。
振り向くと、鞄を背負ったリリアナが手を振りながら駆けてきた。家に帰っていたが早めに寮に戻ってきたらしい。好奇心に目をキラキラさせて覗き込んでくる。
「何してるの?」
そう問われ、シルヴィオは手に持っていたカメラを掲げる。
「趣味で写真を撮ってる」
「へぇ、これ本格的なカメラだね」
「十歳の誕生日に買ってもらったんだ」
「じゃあもうベテランだ」
くるくると表情を変えながら彼女は無邪気におしゃべりする。シルヴィオの気持ちなんて知りもしないで。だがアルベルトの件さえなければきっと疎ましく思わなかった。彼女自身は決して嫌いではないのだ。
「お花を撮ってたの?」
「まあ……花とか風景とか」
「きれいだもんね」
そう言ってリリアナはそっと顔を上げると、遠くを見やる。
そのとき後ろから風が吹いて、プラチナブロンドがふわりとやわらかくなびいた。その顔にはこころなしか愁いを帯びた微笑が浮かぶ。
「よかったら君も撮るけど」
シルヴィオは目を奪われ、気付いたときにはそんなことを口走っていた。内心で焦ったものの、さすがにいまさら撤回するというわけにはいかない。
「え、いいの?」
「まあ……上手く撮れるかはわからないが」
「じゃあ撮ってもらおっかな!」
彼女はそう声をはずませると、カメラのほうにまっすぐ体の正面を向けて立ち、にっこりと笑う。まるで記念写真でも撮るかのように。瞬間、シルヴィオのカメラマンとしてのスイッチが入った。
「そうじゃない。カメラは意識しないで……ええと、そこらへんの花とか適当に見ててもらっていいか。こっちで勝手によさそうなところを見つけて撮るから」
「りょーかい」
彼女は素直にしゃがんで色とりどりの花を愛で始める。
「そういえばこんなふうに花壇の花をゆっくり見るなんて、王都に来てから一度もなかったかも。なんか故郷や教会のことをいろいろ思い出しちゃうなぁ」
ファインダー越しの彼女はハッとするほどうつくしかった。
そのみずみずしい姿を、色鮮やかな花とともにそっとフレームにおさめた。
次の休日は家に帰った。
撮影したままになっているフィルムを現像するためである。自宅に暗室があるので、そこを使わせてもらっているのだ。初めは失敗もしたが、いまはもう自分ひとりで難なく現像できる。
たくさんのアルベルトの写真、風景の写真、そして一枚だけリリアナの写真——。
シルヴィオは思わず眉を寄せるが、そのことを自覚するとそっと目を閉じて溜息をついた。
夕方になると寮に戻り、ひとけのない談話室でひとり静かに本を読んでいた。
「シルヴィオ!」
そこへ無邪気な笑顔を見せながらリリアナが駆けてきた。彼女は用がなくても気安く声をかけてくるし、アルベルトがいてもいなくても態度を変えない。そういうところは憎めないと思う。
「ちょうどよかった……これ」
シルヴィオは傍らの鞄から一枚の写真を取り出して手渡した。それを見るなり彼女はパッと顔をかがやかせる。
「このまえ撮ったのだ!」
「現像したからあげるよ」
「え、いいの?」
「もともとそのつもりだったから」
「じゃあ遠慮なくもらうね」
うれしそうに声をはずませると、なぜかあたりまえのように向かいのソファに腰を下ろした。そして手にした写真をまじまじと食い入るように見つめ始める。
「すごい、ほんとプロのカメラマンが撮ったみたいだね。ちょっと照れちゃうけど、こんなきれいに撮ってもらえてすっごくうれしい。今度、よかったら風景とか他の写真も見せてほしいな」
「ああ……それなら、いま持ってるから見せるよ」
複雑な思いはあるが、こうもまっすぐ賞賛してもらえると悪い気はしない。アルベルトの映っていない写真を何枚か鞄から取り出し、ローテーブルに置いた。すべて寮の近辺で撮ったものだ。
「わあ、やっぱりどれもきれい!」
彼女はわくわくした様子で一枚ずつじっくりと目を通していくが、その途中でハッとした表情になる。
「これはどこ?」
「向こうの林にある湖だ」
「へぇ、知らなかった」
学園の敷地内だが、学園とは反対側の外れなので知らないひとも多いかもしれない。白樺に囲まれた小さいながらも美しく静謐な湖である。その美しさゆえに彼女も興味をひかれたのかと思ったが——。
「故郷の湖と似てて、なんかちょっと思い出しちゃった」
境遇からして、おそらく遠い辺境の故郷には帰れていないのだろう。
シルヴィオは唾を飲む。そのあたりにうまく付け入ることができれば——そう思ったものの、どうすればいいかまではわからず、中途半端に右手をさまよわせたまま必死に頭をめぐらせていると。
ガシッ——!
いきなり横から手首をつかまれ、驚いて振り向くとそこにはアルベルトがいた。向けられた冷酷なまなざしに、ゾクリと背筋が凍りついて声も出せない。つかまれた手首はギリギリと軋む。
「あ、アルベルト!」
リリアナの無邪気な声で、彼のまとっていた不穏な空気は一瞬のうちに霧散した。何でもないかのようにすっとシルヴィオの手首を放すと、軽く手を上げて彼女に応じる。
「休日に戻ってくるなんてめずらしいね」
「ちょっと気になることがあってな」
「気になること?」
「おまえには教えない」
「そんな言い方することないじゃん」
不満げにぷくっと頬をふくらませる彼女を見て、アルベルトは笑った。しかしローテーブルに置かれたものに気付くと真顔になる。
「これ……」
「すごいよね。シルヴィオは写真が趣味なんだって」
「長年のつきあいなんだから知ってるっつうの」
いつものように軽口を叩きつつ、ローテーブルの上から一枚の写真を手に取る。それはリリアナを写したものだった。
「へぇ……よく撮れてるな」
「えへへへ、ちょっと照れちゃうな」
「シルヴィオの腕を褒めたんだぞ?」
「わ、わかってるよ!」
ほんのりと頬を色づかせてあわてる彼女を見て、アルベルトはまた笑った。そして手にしていた写真を彼女に返しながら言う。
「悪いがシルヴィオを連れてってもいいか?」
「うん、別にいいけど」
さきほどの彼の態度もあって、シルヴィオは二人きりになるのがすこし怖かった。それでも断るという選択肢はない。彼に目で促され、素直に傍らの鞄をつかんでソファから立ち上がった。
「あ、これ」
ローテーブルに置かれたままになっていた風景や花の写真を、リリアナがあわててまとめ始める。返そうとしているのだろうが、シルヴィオには最初から返してもらうつもりはなかった。
「全部あげるよ」
「えっ、こんなにたくさんいいの?」
「フィルムがあるから焼き増しできるし」
「ありがとう!」
彼女が笑顔で声をはずませた、そのとき——シルヴィオは隣のアルベルトに再び手首をつかまれた。すこし痛いくらいの力加減で。振り向くと、彼は作り物めいたにこやかな顔をリリアナに向けていた。
「じゃあな」
「うん、またね!」
すぐにアルベルトは身を翻し、シルヴィオの手首を引いてずんずんと歩き出す。その背中からは隠しきれない怒りがにじんでいた。
連れてこられたのはアルベルトの個室だった。
ベッドに座らされたものの、彼はそばで立ったまま腕を組んで見下ろしている。絶対零度のまなざしで。その怒りの理由はおおよそわかっているつもりだ。
「最近、リリアナへの態度が変わったからおかしいとは思ってたけど、まさか俺に内緒で写真まで撮ってたとはな」
「寮のまえで花の写真を撮ってるときにたまたま会って、流れで彼女も撮っただけだ」
嘘偽りない事実のみを答える。しかし、それがすべてでないことくらい彼にはわかっているのだろう。表情を変えることなくほんのわずかに目を細めた。
「おまえは俺しか撮らないのかと思ってたよ」
「他に撮りたいひとがいなかっただけだ」
「確かにリリアナは撮りがいがあるだろうな」
「…………」
核心に触れない追及に、じわじわと嬲られているような気持ちになり、腿の上に置いた手をギュッと静かに握りしめる。沈黙が降り、息を詰める苦しさに気が遠くなり始めたころ——。
「なあ、シルヴィオ……おまえ俺のことが好きなんだろう」
揺るぎのない声でそう言われた。
瞬間、頭の中がまっしろになる。とぼけることもごまかすこともできず、ただ凍りついたように固まってしまった。そんなシルヴィオを無表情で見下ろしたまま、彼は話をつづける。
「その気持ちを否定するつもりはないし拒絶もしない。ただ俺は王太子だ。いずれ誰かと結婚する。だからおまえの気持ちに応えることは絶対にないし、おまえが私情で俺の邪魔をすることも許さない」
そう言い放つと、そのまなざしがすっと鋭く研ぎ澄まされる。
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」
これは、おそらく最後通告だ。
あまりに突然のことで、それを受け入れるだけの覚悟はまだないが、そう正直に答えたらきっともう切り捨てられてしまう。これまでのように隣にいさせてはもらえない。それだけは、絶対に——。
「覚悟を決める……だから、隣にいさせてほしい」
いま言える精一杯の言葉を絞り出し、こわばった顔のまま縋るような心持ちで彼を見つめる。そこには冴え冴えとした紫の双眸があった。ゾクッとしながらも搦め捕られたように目をそらせない。
まるで時が止まったかのようだった。
気が遠くなりそうなくらい長く感じたものの、実際はそうでもなかったかもしれない沈黙のあと、アルベルトはふっとかすかに表情をゆるめた。そして腕組みを解きながら前屈みに覗き込んでくる。
えっ?
あまりの近さに思わず目をつむったそのとき、コツンと額がぶつかった。前髪越しではあるが、それでもほんのりとぬくもりが伝わってくる。シルヴィオはかすかに震える瞼をそっと開いた。
「忘れるなよ」
「……忘れない」
「約束だ」
吐息がふれあい、壊れそうなくらい心臓がバクバクと暴れる。
それが伝わってしまうのではないかと気を揉んでいると、すこし熱を帯びた頬にすべらかな手らしきものが触れ、彼の顔が動く。近すぎて何がどうなっているのかもわからないうちに、唇に微熱を感じた。
は……えっ……?
一瞬で離れてしまったが、それは驚くほどふわっとしていてやわらかかった。にわかには何が起こったのか飲み込めず、正面の彼を見つめたまま呆然としていると、彼がふっと口角を上げた。
「ありがたく思え。俺にとっては初めてのキスなんだぞ」
途端、シルヴィオはぶわりと顔が熱くなる。
言われてようやくキスされたのだと自覚した。芸術品のように美しい王太子のアルベルトに、ただの友人でしかない自分が。動揺のあまりおろおろと目を泳がせていると、彼はハハッと笑った。
「言っておくが、これが最初で最後だからな」
「えっ?」
シルヴィオはまだ混乱したままで頭が働いていなかった。その様子を察してか、彼は真面目な顔になって説明するように言葉を継ぐ。
「さっき話したとおり、俺がおまえのものになることはないし、おまえの気持ちに応えることもない。だが、おまえはすべて俺に明け渡せ」
そうだ、そういう約束だった。
つまりこのキスはいわば報酬の前払いというわけなのだろう。もしかしたらシルヴィオをつなぎ止めるためでもあるのかもしれない。いずれにしても、そうするだけの価値が自分にあると認めてくれたということで——。
「仰せのままに」
ベッドから降りて彼の足元にひざまずき、左胸に手をあてる。
もう迷いはなかった。彼が自分を必要としてくれるかぎり、そしてそばに置いてくれるるかぎり、私情を捨てて彼のために動こうと心に決めた。たとえそれがどんなにつらく苦しいことだとしても。
ただ、このときはまだ本当の意味ではわかっていなかった。その身を切るようなつらさも、胸をかきむしるような苦しさも——。
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