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第7話 後悔
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自室に戻ると、陽菜は明かりもつけずにベッドに倒れ込んだ。
喫茶店から自宅まで二十分ほど、身を切るような寒風にさらされて顔も指先も冷えきっている。暖房をつけていない部屋に入るだけでも十分あたたかく感じられた。すぐに血がめぐり始めたようでジンジンと疼く。
半信半疑だった。咲子が嘘をついているようには見えなかったが、勘違いや思い込みということもある。多々あった心当たりもすべて偶然かもしれない。総司がはっきりと否定してくれるなら、彼の言い分を信じてもいいと思っていた。たとえそれが真実でなくても。なのに――。
総司を怖いと思ったのは今日が初めてだった。激昂したとか豹変したとかいうわけではないが、言葉の端々から狂気が見え隠れした。逢坂遙人にどれほど執着しているかよくわかった。いつも陽菜を通して逢坂遙人を見ていたのだ。笑顔も優しさも恋心も情欲もすべて、陽菜ではなく逢坂遙人に向けられていたのだろう。
荷造りしかけの開いた段ボール箱が視界の端に映る。せっかく準備を進めていたが元に戻さなければならない。いや、もうここにはいられないかもしれない。洋菓子店のアルバイトも辞めてしまったのだ。いままでのアルバイトで貯めたお金でどこかへ引っ越して自立する。春になれば成人するのでいつまでも甘えてはいられない。
その前に、双方の両親にこの婚約がなくなったことを伝えなければならない。陽菜から言い出したことなので陽菜がけじめをつけるべきだろう。陽菜ではなく陽菜に移植された心臓が目当てだった、などと告げるのはさすがに憚られる。互いの信頼がなくなったという曖昧な言い方で納得してくれるだろうか。
じわりと涙がにじむ。
家族仲が良好とはいえないうえ、友人もいない陽菜にとって、総司の存在はあまりにも大きかった。知らない世界を見せてくれたのも、知らないことを教えてくれたのも、人間らしい感情を芽生えさせてくれたのも、いろいろな表情を引き出してくれたのも、そして人並みの恋を教えてくれたのも、すべて彼だった。
しかし、いずれも偽りの土台のうえに築き上げたものにすぎない。いまとなっては何もかも崩れてしまったように感じる。無力で空っぽだったあのころに逆戻りだ。頼るものも支えも何もない。ひとりぼっちがこんなに怖いなんて知らなかった。それでもひとりで生きていかなければならない。
涙がついと流れ落ちて白いシーツを濡らした。だが、あえて拭おうとはしなかった。いまだけは悲しみにひたらせてほしい。あしたからまた前を向いて進めるように――。
ヴヴヴヴヴヴヴ――。
いつのまにか眠りに落ちていた陽菜を呼び起こしたのは、かすかな振動音だった。携帯電話の着信である。ベッドの上に投げ置いてあった鞄の中から取り出し、ハッと息を飲む。ディスプレイには総司の名が表示されていた。出るべきかどうか暫し逡巡したが、話も聞かずに逃げるのは良くないと判断し、震える手でおずおずと通話ボタンを押す。
「はい」
『藤沢陽菜さんですか?』
「はい、そうですけど……」
電話の向こうから聞こえた声は総司のものではなかった。彼より幾分か年上のようだが聞き覚えはない。どういうことだろうかと無意識に眉を寄せる。
『私は、雲南警察署の安藤と言いますが』
「警察? えっ、あの、総司さんが何か……」
『失礼ですが、朝比奈総司さんとのご関係は』
「婚約者……いえ、元婚約者です」
自分で答えておきながら胸にズキリと痛みが走った。婚約者というのは以前の関係であり、今現在の関係を問われても答えようがない。もう彼とはただの他人になったのだ。
『実はですね――』
落ち着いた声で切り出されたその話を聞き、陽菜はベッドから跳ね起きる。嘘、そんな――心臓が発作を起こしたみたいにドクドクと収縮し、息をするのも困難になる。暖房も入っていない冷えた部屋にいるはずなのに、ぶわりと全身から汗が噴き出した。
「藤沢陽菜さんですか?」
「はっ……はい……」
タクシーを降りて救急センターに駆け込むと、この場に相応しくない雰囲気を醸し出しているスーツ姿の二人組に呼び止められた。息をきらしている陽菜に、彼らは軽く一礼して警察手帳を見せながら名乗る。二人とも雲南警察署の人で、そのうちの一人が電話をくれた安藤だった。
「あの、総司さんは……?!」
「処置中だと聞いています」
「どうしてこんなことに……」
心臓が締めつけられるように苦しくなるのを感じながら、うつむいて涙ぐむ。
総司は交通事故に遭ったと聞いた。陽菜が電話をもらってから数十分ほどになるが、いまだに処置中ということは軽傷ではないのだろう。彼に愛されていないことがわかったからといって、彼との別れを決意したからといって、すぐに嫌いになれるほど単純ではない。どうか無事でと祈る気持ちは本心からのものだ。
「そのことなんですが」
安藤が遠慮がちに切り出す。
「朝比奈さんは急に車道に飛び出してきたらしいのです。運転手以外の目撃証言もあるので間違いないと思います。車が来ていることに気付いていなかったのか、あるいは気付いていて飛び出したのかはわかりませんが」
それって、まさか――陽菜はすうっと血の気が引いていくのを感じた。
「わ……私のせいです……私があんな一方的に……」
「何か、お心当たりがあるのでしょうか」
「婚約を解消したいと言って……指輪も返して……」
「それは、いつ?」
「夜八時ごろ……駅前の喫茶店に呼び出しました」
震える声で答えると、安藤は頷いた。
「なるほど、朝比奈さんが事故に遭われたのは、時間から考えてもおそらくその喫茶店の帰りですね。指輪も持ち物の中にありました……しかし、藤沢さんとのことが原因という確証はありません。あまりご自分を責めないでください」
形式的な慰めは陽菜の心に響かなかった。
そもそも安藤は知らない。総司が病的なまでにハルの心臓に執着していたということを。ようやく結婚という形でハルを手に入れられるはずだったのに、陽菜に拒絶されてしまい、おそらく通常の精神状態ではいられなかったのだろう。故意に飛び出したのかどうかはわからないが、どちらにしても陽菜が追いつめたせいでこうなったのだ。
ふいに奥の横開きの扉が軽い音を立てて開き、中から女性の看護師が出てきた。よくある白いワンピースではなくパンツスタイルだ。安藤たちの前で足を止めて無表情で一礼すると、隣の陽菜に目を向ける。
「朝比奈さんのご家族の方でしょうか」
「いえ……」
陽菜が目を伏せてそう口ごもると、安藤が代わりに答える。
「彼女は婚約者です。いまご両親がこちらに向かっていますが、東京からなのでまだ時間がかかりますね。おそらく明け方ごろになると思います」
「わかりました」
淡々と答えて踵を返そうとする看護師に、陽菜は慌てて尋ねる。
「あの、総司さんの容体は?」
「……残念ながら、脳死です」
総司が、死んだ――?
全身から血の気が失せ、体中がガクガクと震え出し、その場にくずおれる。安藤や看護師の慌てた声が聞こえた気がしたが、何を言っているのかを理解する余裕はなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。陽菜がようやくすこし落ち着きを取り戻したとき、まわりにはいたのは安藤だけだった。彼には帰って休んだ方がいいと言われたが、とてもそんな気にはなれない。ここで総司の両親を待とうと決めた。邪魔にならないよう隅の長椅子にひっそりと座り、ただじっと待ち続ける。
安藤は遠からず近からずといった距離で見守るように立っていた。ときどきあたたかいペットボトルのお茶を差し入れてくれる。茫然自失になった陽菜のことを心配しているのだろう。もう大丈夫ですからと言ってみたが、仕事ですのでとそっけなく返された。
やがて彼の両親が到着して、看護師にどこかへ案内されていくのが見えた。総司の現状について説明を受けるのだろう。陽菜がいることには気付いていないようだが、いま声を掛けるつもりはなかった。会うのは彼らが現実を正しく理解してからだ。緊張と恐怖で体が冷たくなっていく。
永遠とも思えるくらい長い時間、膝の上でこぶしを握りながら待っていると、ゆっくりと扉が開いて彼の両親が出てきた。母親は小さく嗚咽を漏らし、父親も唇を引きむすびつつ目元を赤くしている。陽菜は椅子から立ち上がり二人の方へ足を進めた。
「陽菜さん……っ」
陽菜に気付くと、彼の母親はハンカチを握りしめてぶわりと涙をあふれさせた。しかし陽菜はこわばった顔のまますこし離れたところで足を止め、土下座をする。
「申し訳ありません、総司さんがこうなったのは私のせいです」
「えっ?」
「総司さんに婚約をなかったことにしたいと告げて、指輪を突き返しました。彼の大切にしているものを盾にとって、私を解放するように求めました。それで総司さんは絶望して車の前に飛び出したんです」
彼の両親の前で、彼を死に追いやった自分が泣くことは許されない。冷静に説明して謝罪しなければと思いながらも、声が震えるのは止められない。目も熱くじわりと潤んでくる。必死に堪えていないと涙がこぼれてしまいそうだ。額を冷たい床に押しつけたまま、まぶたは痙攣するように小刻みに震えている。
「婚約をなかったことにって、どうして……」
彼の母親の声に非難の色はなく、純粋に疑問に思ったことが口をついたような感じだった。だが、答えを用意していなかった問いに陽菜はあせる。彼の秘密を曝くかのようで正直に話すことに抵抗はあるが、こんな状況で嘘をつくのもごまかすのもいかがなものかと葛藤する。
「まさか、遙人くんのことを知ってしまったの?」
「えっ?」
どうして、それを――大きく目を見開いてはじかれたように顔を上げる。彼の母親はいまにも泣き出しそうに顔をゆがめていたが、突然、陽菜の前でひざまずいて土下座をした。すぐに彼の父親も並んで土下座をする。あまりのことに、陽菜は膝をついたままただ呆然とその光景を瞳に映した。
「陽菜さん、本当に申し訳ありません。悪いのは私たちの方なんです」
「ご存知だったんですか? 総司さんが、その……」
「あの子が遙人くんの心臓を追いかけていたことは何となくわかっていました。そして陽菜さんが遙人くんの心臓をもらった子なんだということも確信していました。陽菜さんを通じて遙人くんを見ているんだって、ようやく遙人くんを手に入れたんだって。でも何も言えなかったの。それであの子が人並みにきちんと生きてくれるならと……」
彼女は涙で声を詰まらせる。床についた手は震えていた。
その隣で、同じように平伏している父親が口を開く。
「陽菜さん、私たちはあなたを生贄にするつもりだったんだ」
「だから陽菜さんが責任を感じる必要はないの。あなたの心に大きな傷を負わせることになってしまって、謝って許してもらえるとは思わないけれど、できる限りの償いはさせていただきます」
陽菜は挨拶に行ったときのことを思い出していた。
息子をよろしくお願いしますと涙ながらに頭を下げていた彼の両親。何も持たない底辺の陽菜がこれほど歓迎されるなど、自分でもおかしいとは思っていた。彼らも陽菜ではなくハルの心臓を必要としていたのだ。陽菜自身には何の価値もない、そんなことは幼いころから十分に自覚していたはずなのに。
頭がぼんやりとする。今日一日でいろいろなことがありすぎてわけがわからなくなってきた。総司が亡くなったばかりだというのに悲しく感じない。目の前で土下座する二人を見ても何の感情も湧かない。そして、ぷっつりと糸が切れたように意識が途切れた。
数日後、東京で営まれた総司の葬儀にひっそりと参列した。
そのときに、あの日の原因を作った咲子に泣きながら謝られたが、彼女を責める気にはなれなかった。彼女だってこんな結果になるとは思いもしなかっただろう。ただ陽菜のことを心配して真実を伝えに来てくれただけなのだ。むしろ陽菜が至らないばかりにこんな結果になり申し訳なく思う。
もうすこし冷静になってから総司と話し合うべきだったのかもしれない。知ってしまった以上、ハルの身代わりとして甘んじることはできないが、あのようなきつい言い方で追いつめる必要はなかった。何よりも大切なハルの心臓を盾にとって脅すべきでなかった。次から次へと後悔が押し寄せてくる。
色とりどりの花に囲まれて眠る総司を見ていると、楽しくて幸せだった日々を思い出して目頭が熱くなり、涙がにじんでくる。あのときは確かに彼が好きだった。彼にとってはハルの心臓という価値しかなかったとしても、陽菜が彼に抱いていた気持ちは変わらないし否定したくもない。
葬儀のあと、彼の実家に招かれてすこし話をした。
彼が脳死判定されたあと、所持していた臓器移植意思表示カードに従って臓器提供したらしい。最後の最後まで遙人くんと同じになってあの子も本望でしょう、と彼の母親が力なく微笑みながら口にした言葉が、陽菜の胸をどうしようもなくざわめかせた。
彼の父親からは遺産を譲りたいという旨の話をされた。贅沢さえしなければ、一生お金に苦労しないですむくらいの財産だ。しかしながら陽菜は迷わず固辞した。それならばと当面の生活の援助を申し出てくれたが、それも固辞した。彼の両親にしてみればどうにか償いをしたいのだろうが、陽菜には陽菜の意地があった。
これからもいつでも遊びに来てほしい、困ったことがあったら頼ってほしい、などと二人に言われたが社交辞令だろう。たとえ本心だとしてももう来るつもりはなかった。ありがとうございます、と淡々と気持ちだけいただいて辞する。
重く立ちこめた鉛色の空の下、喪服の上から黒のロングコートに袖を通した。ふいに強くなった冷たい風から庇うように身をすくめるが、すぐに背筋を伸ばして歩き出す。閑静な住宅街にパンプスのささやかな靴音が響いた。
喫茶店から自宅まで二十分ほど、身を切るような寒風にさらされて顔も指先も冷えきっている。暖房をつけていない部屋に入るだけでも十分あたたかく感じられた。すぐに血がめぐり始めたようでジンジンと疼く。
半信半疑だった。咲子が嘘をついているようには見えなかったが、勘違いや思い込みということもある。多々あった心当たりもすべて偶然かもしれない。総司がはっきりと否定してくれるなら、彼の言い分を信じてもいいと思っていた。たとえそれが真実でなくても。なのに――。
総司を怖いと思ったのは今日が初めてだった。激昂したとか豹変したとかいうわけではないが、言葉の端々から狂気が見え隠れした。逢坂遙人にどれほど執着しているかよくわかった。いつも陽菜を通して逢坂遙人を見ていたのだ。笑顔も優しさも恋心も情欲もすべて、陽菜ではなく逢坂遙人に向けられていたのだろう。
荷造りしかけの開いた段ボール箱が視界の端に映る。せっかく準備を進めていたが元に戻さなければならない。いや、もうここにはいられないかもしれない。洋菓子店のアルバイトも辞めてしまったのだ。いままでのアルバイトで貯めたお金でどこかへ引っ越して自立する。春になれば成人するのでいつまでも甘えてはいられない。
その前に、双方の両親にこの婚約がなくなったことを伝えなければならない。陽菜から言い出したことなので陽菜がけじめをつけるべきだろう。陽菜ではなく陽菜に移植された心臓が目当てだった、などと告げるのはさすがに憚られる。互いの信頼がなくなったという曖昧な言い方で納得してくれるだろうか。
じわりと涙がにじむ。
家族仲が良好とはいえないうえ、友人もいない陽菜にとって、総司の存在はあまりにも大きかった。知らない世界を見せてくれたのも、知らないことを教えてくれたのも、人間らしい感情を芽生えさせてくれたのも、いろいろな表情を引き出してくれたのも、そして人並みの恋を教えてくれたのも、すべて彼だった。
しかし、いずれも偽りの土台のうえに築き上げたものにすぎない。いまとなっては何もかも崩れてしまったように感じる。無力で空っぽだったあのころに逆戻りだ。頼るものも支えも何もない。ひとりぼっちがこんなに怖いなんて知らなかった。それでもひとりで生きていかなければならない。
涙がついと流れ落ちて白いシーツを濡らした。だが、あえて拭おうとはしなかった。いまだけは悲しみにひたらせてほしい。あしたからまた前を向いて進めるように――。
ヴヴヴヴヴヴヴ――。
いつのまにか眠りに落ちていた陽菜を呼び起こしたのは、かすかな振動音だった。携帯電話の着信である。ベッドの上に投げ置いてあった鞄の中から取り出し、ハッと息を飲む。ディスプレイには総司の名が表示されていた。出るべきかどうか暫し逡巡したが、話も聞かずに逃げるのは良くないと判断し、震える手でおずおずと通話ボタンを押す。
「はい」
『藤沢陽菜さんですか?』
「はい、そうですけど……」
電話の向こうから聞こえた声は総司のものではなかった。彼より幾分か年上のようだが聞き覚えはない。どういうことだろうかと無意識に眉を寄せる。
『私は、雲南警察署の安藤と言いますが』
「警察? えっ、あの、総司さんが何か……」
『失礼ですが、朝比奈総司さんとのご関係は』
「婚約者……いえ、元婚約者です」
自分で答えておきながら胸にズキリと痛みが走った。婚約者というのは以前の関係であり、今現在の関係を問われても答えようがない。もう彼とはただの他人になったのだ。
『実はですね――』
落ち着いた声で切り出されたその話を聞き、陽菜はベッドから跳ね起きる。嘘、そんな――心臓が発作を起こしたみたいにドクドクと収縮し、息をするのも困難になる。暖房も入っていない冷えた部屋にいるはずなのに、ぶわりと全身から汗が噴き出した。
「藤沢陽菜さんですか?」
「はっ……はい……」
タクシーを降りて救急センターに駆け込むと、この場に相応しくない雰囲気を醸し出しているスーツ姿の二人組に呼び止められた。息をきらしている陽菜に、彼らは軽く一礼して警察手帳を見せながら名乗る。二人とも雲南警察署の人で、そのうちの一人が電話をくれた安藤だった。
「あの、総司さんは……?!」
「処置中だと聞いています」
「どうしてこんなことに……」
心臓が締めつけられるように苦しくなるのを感じながら、うつむいて涙ぐむ。
総司は交通事故に遭ったと聞いた。陽菜が電話をもらってから数十分ほどになるが、いまだに処置中ということは軽傷ではないのだろう。彼に愛されていないことがわかったからといって、彼との別れを決意したからといって、すぐに嫌いになれるほど単純ではない。どうか無事でと祈る気持ちは本心からのものだ。
「そのことなんですが」
安藤が遠慮がちに切り出す。
「朝比奈さんは急に車道に飛び出してきたらしいのです。運転手以外の目撃証言もあるので間違いないと思います。車が来ていることに気付いていなかったのか、あるいは気付いていて飛び出したのかはわかりませんが」
それって、まさか――陽菜はすうっと血の気が引いていくのを感じた。
「わ……私のせいです……私があんな一方的に……」
「何か、お心当たりがあるのでしょうか」
「婚約を解消したいと言って……指輪も返して……」
「それは、いつ?」
「夜八時ごろ……駅前の喫茶店に呼び出しました」
震える声で答えると、安藤は頷いた。
「なるほど、朝比奈さんが事故に遭われたのは、時間から考えてもおそらくその喫茶店の帰りですね。指輪も持ち物の中にありました……しかし、藤沢さんとのことが原因という確証はありません。あまりご自分を責めないでください」
形式的な慰めは陽菜の心に響かなかった。
そもそも安藤は知らない。総司が病的なまでにハルの心臓に執着していたということを。ようやく結婚という形でハルを手に入れられるはずだったのに、陽菜に拒絶されてしまい、おそらく通常の精神状態ではいられなかったのだろう。故意に飛び出したのかどうかはわからないが、どちらにしても陽菜が追いつめたせいでこうなったのだ。
ふいに奥の横開きの扉が軽い音を立てて開き、中から女性の看護師が出てきた。よくある白いワンピースではなくパンツスタイルだ。安藤たちの前で足を止めて無表情で一礼すると、隣の陽菜に目を向ける。
「朝比奈さんのご家族の方でしょうか」
「いえ……」
陽菜が目を伏せてそう口ごもると、安藤が代わりに答える。
「彼女は婚約者です。いまご両親がこちらに向かっていますが、東京からなのでまだ時間がかかりますね。おそらく明け方ごろになると思います」
「わかりました」
淡々と答えて踵を返そうとする看護師に、陽菜は慌てて尋ねる。
「あの、総司さんの容体は?」
「……残念ながら、脳死です」
総司が、死んだ――?
全身から血の気が失せ、体中がガクガクと震え出し、その場にくずおれる。安藤や看護師の慌てた声が聞こえた気がしたが、何を言っているのかを理解する余裕はなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。陽菜がようやくすこし落ち着きを取り戻したとき、まわりにはいたのは安藤だけだった。彼には帰って休んだ方がいいと言われたが、とてもそんな気にはなれない。ここで総司の両親を待とうと決めた。邪魔にならないよう隅の長椅子にひっそりと座り、ただじっと待ち続ける。
安藤は遠からず近からずといった距離で見守るように立っていた。ときどきあたたかいペットボトルのお茶を差し入れてくれる。茫然自失になった陽菜のことを心配しているのだろう。もう大丈夫ですからと言ってみたが、仕事ですのでとそっけなく返された。
やがて彼の両親が到着して、看護師にどこかへ案内されていくのが見えた。総司の現状について説明を受けるのだろう。陽菜がいることには気付いていないようだが、いま声を掛けるつもりはなかった。会うのは彼らが現実を正しく理解してからだ。緊張と恐怖で体が冷たくなっていく。
永遠とも思えるくらい長い時間、膝の上でこぶしを握りながら待っていると、ゆっくりと扉が開いて彼の両親が出てきた。母親は小さく嗚咽を漏らし、父親も唇を引きむすびつつ目元を赤くしている。陽菜は椅子から立ち上がり二人の方へ足を進めた。
「陽菜さん……っ」
陽菜に気付くと、彼の母親はハンカチを握りしめてぶわりと涙をあふれさせた。しかし陽菜はこわばった顔のまますこし離れたところで足を止め、土下座をする。
「申し訳ありません、総司さんがこうなったのは私のせいです」
「えっ?」
「総司さんに婚約をなかったことにしたいと告げて、指輪を突き返しました。彼の大切にしているものを盾にとって、私を解放するように求めました。それで総司さんは絶望して車の前に飛び出したんです」
彼の両親の前で、彼を死に追いやった自分が泣くことは許されない。冷静に説明して謝罪しなければと思いながらも、声が震えるのは止められない。目も熱くじわりと潤んでくる。必死に堪えていないと涙がこぼれてしまいそうだ。額を冷たい床に押しつけたまま、まぶたは痙攣するように小刻みに震えている。
「婚約をなかったことにって、どうして……」
彼の母親の声に非難の色はなく、純粋に疑問に思ったことが口をついたような感じだった。だが、答えを用意していなかった問いに陽菜はあせる。彼の秘密を曝くかのようで正直に話すことに抵抗はあるが、こんな状況で嘘をつくのもごまかすのもいかがなものかと葛藤する。
「まさか、遙人くんのことを知ってしまったの?」
「えっ?」
どうして、それを――大きく目を見開いてはじかれたように顔を上げる。彼の母親はいまにも泣き出しそうに顔をゆがめていたが、突然、陽菜の前でひざまずいて土下座をした。すぐに彼の父親も並んで土下座をする。あまりのことに、陽菜は膝をついたままただ呆然とその光景を瞳に映した。
「陽菜さん、本当に申し訳ありません。悪いのは私たちの方なんです」
「ご存知だったんですか? 総司さんが、その……」
「あの子が遙人くんの心臓を追いかけていたことは何となくわかっていました。そして陽菜さんが遙人くんの心臓をもらった子なんだということも確信していました。陽菜さんを通じて遙人くんを見ているんだって、ようやく遙人くんを手に入れたんだって。でも何も言えなかったの。それであの子が人並みにきちんと生きてくれるならと……」
彼女は涙で声を詰まらせる。床についた手は震えていた。
その隣で、同じように平伏している父親が口を開く。
「陽菜さん、私たちはあなたを生贄にするつもりだったんだ」
「だから陽菜さんが責任を感じる必要はないの。あなたの心に大きな傷を負わせることになってしまって、謝って許してもらえるとは思わないけれど、できる限りの償いはさせていただきます」
陽菜は挨拶に行ったときのことを思い出していた。
息子をよろしくお願いしますと涙ながらに頭を下げていた彼の両親。何も持たない底辺の陽菜がこれほど歓迎されるなど、自分でもおかしいとは思っていた。彼らも陽菜ではなくハルの心臓を必要としていたのだ。陽菜自身には何の価値もない、そんなことは幼いころから十分に自覚していたはずなのに。
頭がぼんやりとする。今日一日でいろいろなことがありすぎてわけがわからなくなってきた。総司が亡くなったばかりだというのに悲しく感じない。目の前で土下座する二人を見ても何の感情も湧かない。そして、ぷっつりと糸が切れたように意識が途切れた。
数日後、東京で営まれた総司の葬儀にひっそりと参列した。
そのときに、あの日の原因を作った咲子に泣きながら謝られたが、彼女を責める気にはなれなかった。彼女だってこんな結果になるとは思いもしなかっただろう。ただ陽菜のことを心配して真実を伝えに来てくれただけなのだ。むしろ陽菜が至らないばかりにこんな結果になり申し訳なく思う。
もうすこし冷静になってから総司と話し合うべきだったのかもしれない。知ってしまった以上、ハルの身代わりとして甘んじることはできないが、あのようなきつい言い方で追いつめる必要はなかった。何よりも大切なハルの心臓を盾にとって脅すべきでなかった。次から次へと後悔が押し寄せてくる。
色とりどりの花に囲まれて眠る総司を見ていると、楽しくて幸せだった日々を思い出して目頭が熱くなり、涙がにじんでくる。あのときは確かに彼が好きだった。彼にとってはハルの心臓という価値しかなかったとしても、陽菜が彼に抱いていた気持ちは変わらないし否定したくもない。
葬儀のあと、彼の実家に招かれてすこし話をした。
彼が脳死判定されたあと、所持していた臓器移植意思表示カードに従って臓器提供したらしい。最後の最後まで遙人くんと同じになってあの子も本望でしょう、と彼の母親が力なく微笑みながら口にした言葉が、陽菜の胸をどうしようもなくざわめかせた。
彼の父親からは遺産を譲りたいという旨の話をされた。贅沢さえしなければ、一生お金に苦労しないですむくらいの財産だ。しかしながら陽菜は迷わず固辞した。それならばと当面の生活の援助を申し出てくれたが、それも固辞した。彼の両親にしてみればどうにか償いをしたいのだろうが、陽菜には陽菜の意地があった。
これからもいつでも遊びに来てほしい、困ったことがあったら頼ってほしい、などと二人に言われたが社交辞令だろう。たとえ本心だとしてももう来るつもりはなかった。ありがとうございます、と淡々と気持ちだけいただいて辞する。
重く立ちこめた鉛色の空の下、喪服の上から黒のロングコートに袖を通した。ふいに強くなった冷たい風から庇うように身をすくめるが、すぐに背筋を伸ばして歩き出す。閑静な住宅街にパンプスのささやかな靴音が響いた。
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