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第10話 離ればなれになっても
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「ハルナ……榛名希さんを、親元に帰さないでください」
聴取のために連れてこられた薄汚れた取調室で、千尋は最初にそう告げた。
向かいに座ろうとしていた男性刑事が動きを止めるが、すぐに胡乱な目になり、粗末なパイプ椅子を軋ませながらどっかりと腰を下ろす。
「おまえなぁ、そんなことを言える立場じゃないだろう」
いかにも面倒くさそうに顔をしかめてそう言うと、ガシガシと頭をかいた。
当然である。誘拐犯がいきなりこんなことを頼んでも聞き入れられるはずがない。呆れられるのが関の山だ。それでもこの状況で話を聞いてもらうには率直に切り出すよりほかになかった。
「彼女は幼少期からずっと両親に虐待されてきました。身体的にも、心理的にも。それを苦に自殺しようとまでしていました」
真剣な顔で、必要最小限のことを端的に伝える。
男性刑事はそれを聞いてわずかに目を見張っていたものの、すぐに微妙な面持ちになった。そのままゆっくりとパイプ椅子にもたれかかって腕を組み、何か探るように千尋を見つめる。
「あの子がそう言うのを、おまえさんは疑いもせずに信じたってわけか」
「……何が言いたいんですか」
千尋が低く問いかけると、何もないスチール机にすっと視線を落とし、どこかためらいがちに口を開く。
「ご両親によれば、あの子には昔から虚言癖があるそうだ」
「は……?」
虚言癖なんて大嘘だ。三週間も一緒に暮らしたのだからそのくらいはわかる。むしろこれでハルナの話に信憑性が増した。感情的に叫び出したくなるのを必死に抑えつつ、冷静に言葉を紡ぐ。
「嘘をついているのは両親のほうだと思います。自分たちに都合が悪いことを言われたときのために、予防線を張ってるんでしょう。ハルナと出会ったとき、実際に彼女の腕や背中にはいくつもの内出血がありました」
「…………」
男性刑事はわずかに眉を寄せる。
「父親は国家公務員でそれなりの地位についているひとだ。俺が実際に会ったのは一度だけだが、理知的で、礼儀正しく、そんなことをするような人物には見えなかった。娘さんのことも心配してたしな」
世間体を気にする、外面はいい——まさしくハルナが言っていたとおりの人物像だ。これまでもそうやって取り繕ってきたのだろう。家で暴力を振るいながら、それを悟られることのないよう上手く立ちまわって。
「だからといって、父親の言い分だけを一方的に信じるなんてありえない」
「もちろんあの子の言い分も無視するわけじゃないさ。本当に虐待されていたら見過ごすわけにはいかないからな。一応、しかるべきところにおまえさんの話も伝えておく。それでいいな?」
「……お願いします」
千尋は怒りをおさめて頭を下げる。
こちらの言い分はあまり信じてもらえなかったようだが、犯罪者の戯れ言と一蹴されなかっただけましだろう。あとは、しかるべきところとやらが対処してくれるのを願うしかない。
「随分な入れ込みようだな」
淡々とした、それでいてどこか呆れたような声音が耳に届く。
顔を上げると、パイプ椅子にもたれて腕を組んでいた男性刑事が、じとりと冷ややかなまなざしをこちらに向けていた。
「愛情に飢えた少女を手懐けるのは容易いだろう。自己肯定感の低い子であればなおさらだ。居場所を与えて優しくしてやるだけで信頼してくれる。愛してると囁いてやるだけで言いなりになってくれる。セックスだってし放題ってわけだ」
グッ、と千尋は奥歯をかみしめる。
下卑た言いように腹が立ったが、そう思われるであろうことは捕まるまえから覚悟していた。なにせ被害者は中学生の少女だ。身代金目的でなければ猥褻目的と考えるのが自然である。けれど——。
「そんな扱いはしていないし、そんなつもりもない」
睨むように強気に見つめ返して答える。
それでも男性刑事は身じろぎひとつしなかった。怜悧な目で、奥底まで探るように千尋の双眸を見つめて問う。
「じゃあ、おまえさんは何が目的で誘拐したっていうんだ。まさか同情しただけなんて言わねぇよなぁ。たとえ本人が望んだとしても、保護者に無断で未成年者を連れ去れば誘拐になる。そのくらいわかってただろう」
「……なりゆきです」
その声に、顔に、うっすらと自嘲が浮かんだ。
自己犠牲もいとわず見知らぬ子を救おうとするほど優しくない。それでも本気で死のうとしていることを知ったら放っておけなかった。そのうち見知らぬ子は見知らぬ子ではなくなり、情がわいた。もう自分から手を離すことなどできなくなっていた——どうするのが正解だったかはいまでもまだわからずにいる。
「でも、後悔はしていません」
静かながらも揺るぎのない声を落として、そっと息を継ぐ。
「ハルナがすこしでも生きることを楽しいと思ってくれたのなら、そのことで生きることへの希望を持ってくれたのなら、これがきっかけで保護されて幸せになってくれるのなら……オレは報われる」
それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのかもしれない。
男性刑事はうさんくさいものを見るような目になった。しかし反論はせず、溜息をつきながらスチール机に肘をついて身を乗り出すと、挑みかけるような鋭いまなざしで千尋を覗き込む。
「まあいいさ、これから聴取で洗いざらい話してもらう。覚悟しろよ」
「はい」
千尋としても望むところだ。
この三週間のことを洗いざらい話して信じさせてやる。ハルナが親から虐待を受けていたということも、そのせいで自殺しかけたことも、千尋と性的な関係はなかったということも。離ればなれになった彼女のために、最後に自分がしてやれることはこのくらいなのだから——。
聴取のために連れてこられた薄汚れた取調室で、千尋は最初にそう告げた。
向かいに座ろうとしていた男性刑事が動きを止めるが、すぐに胡乱な目になり、粗末なパイプ椅子を軋ませながらどっかりと腰を下ろす。
「おまえなぁ、そんなことを言える立場じゃないだろう」
いかにも面倒くさそうに顔をしかめてそう言うと、ガシガシと頭をかいた。
当然である。誘拐犯がいきなりこんなことを頼んでも聞き入れられるはずがない。呆れられるのが関の山だ。それでもこの状況で話を聞いてもらうには率直に切り出すよりほかになかった。
「彼女は幼少期からずっと両親に虐待されてきました。身体的にも、心理的にも。それを苦に自殺しようとまでしていました」
真剣な顔で、必要最小限のことを端的に伝える。
男性刑事はそれを聞いてわずかに目を見張っていたものの、すぐに微妙な面持ちになった。そのままゆっくりとパイプ椅子にもたれかかって腕を組み、何か探るように千尋を見つめる。
「あの子がそう言うのを、おまえさんは疑いもせずに信じたってわけか」
「……何が言いたいんですか」
千尋が低く問いかけると、何もないスチール机にすっと視線を落とし、どこかためらいがちに口を開く。
「ご両親によれば、あの子には昔から虚言癖があるそうだ」
「は……?」
虚言癖なんて大嘘だ。三週間も一緒に暮らしたのだからそのくらいはわかる。むしろこれでハルナの話に信憑性が増した。感情的に叫び出したくなるのを必死に抑えつつ、冷静に言葉を紡ぐ。
「嘘をついているのは両親のほうだと思います。自分たちに都合が悪いことを言われたときのために、予防線を張ってるんでしょう。ハルナと出会ったとき、実際に彼女の腕や背中にはいくつもの内出血がありました」
「…………」
男性刑事はわずかに眉を寄せる。
「父親は国家公務員でそれなりの地位についているひとだ。俺が実際に会ったのは一度だけだが、理知的で、礼儀正しく、そんなことをするような人物には見えなかった。娘さんのことも心配してたしな」
世間体を気にする、外面はいい——まさしくハルナが言っていたとおりの人物像だ。これまでもそうやって取り繕ってきたのだろう。家で暴力を振るいながら、それを悟られることのないよう上手く立ちまわって。
「だからといって、父親の言い分だけを一方的に信じるなんてありえない」
「もちろんあの子の言い分も無視するわけじゃないさ。本当に虐待されていたら見過ごすわけにはいかないからな。一応、しかるべきところにおまえさんの話も伝えておく。それでいいな?」
「……お願いします」
千尋は怒りをおさめて頭を下げる。
こちらの言い分はあまり信じてもらえなかったようだが、犯罪者の戯れ言と一蹴されなかっただけましだろう。あとは、しかるべきところとやらが対処してくれるのを願うしかない。
「随分な入れ込みようだな」
淡々とした、それでいてどこか呆れたような声音が耳に届く。
顔を上げると、パイプ椅子にもたれて腕を組んでいた男性刑事が、じとりと冷ややかなまなざしをこちらに向けていた。
「愛情に飢えた少女を手懐けるのは容易いだろう。自己肯定感の低い子であればなおさらだ。居場所を与えて優しくしてやるだけで信頼してくれる。愛してると囁いてやるだけで言いなりになってくれる。セックスだってし放題ってわけだ」
グッ、と千尋は奥歯をかみしめる。
下卑た言いように腹が立ったが、そう思われるであろうことは捕まるまえから覚悟していた。なにせ被害者は中学生の少女だ。身代金目的でなければ猥褻目的と考えるのが自然である。けれど——。
「そんな扱いはしていないし、そんなつもりもない」
睨むように強気に見つめ返して答える。
それでも男性刑事は身じろぎひとつしなかった。怜悧な目で、奥底まで探るように千尋の双眸を見つめて問う。
「じゃあ、おまえさんは何が目的で誘拐したっていうんだ。まさか同情しただけなんて言わねぇよなぁ。たとえ本人が望んだとしても、保護者に無断で未成年者を連れ去れば誘拐になる。そのくらいわかってただろう」
「……なりゆきです」
その声に、顔に、うっすらと自嘲が浮かんだ。
自己犠牲もいとわず見知らぬ子を救おうとするほど優しくない。それでも本気で死のうとしていることを知ったら放っておけなかった。そのうち見知らぬ子は見知らぬ子ではなくなり、情がわいた。もう自分から手を離すことなどできなくなっていた——どうするのが正解だったかはいまでもまだわからずにいる。
「でも、後悔はしていません」
静かながらも揺るぎのない声を落として、そっと息を継ぐ。
「ハルナがすこしでも生きることを楽しいと思ってくれたのなら、そのことで生きることへの希望を持ってくれたのなら、これがきっかけで保護されて幸せになってくれるのなら……オレは報われる」
それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのかもしれない。
男性刑事はうさんくさいものを見るような目になった。しかし反論はせず、溜息をつきながらスチール机に肘をついて身を乗り出すと、挑みかけるような鋭いまなざしで千尋を覗き込む。
「まあいいさ、これから聴取で洗いざらい話してもらう。覚悟しろよ」
「はい」
千尋としても望むところだ。
この三週間のことを洗いざらい話して信じさせてやる。ハルナが親から虐待を受けていたということも、そのせいで自殺しかけたことも、千尋と性的な関係はなかったということも。離ればなれになった彼女のために、最後に自分がしてやれることはこのくらいなのだから——。
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