ひとつ屋根の下

瑞原唯子

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第21話 激情

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 僕の願いは——。
 願ってはならないことを願いそうになる自分を戒めながら、遥は賽銭箱の前で手を合わせる。そうなるともう他に願いたいことなんて思い浮かばない。それがいまの自分ということだ。
 そっと隣に目を向けると、着物姿の七海がおしとやかに両手を合わせて拝んでいた。その横顔はいつになく大人びて見える。武蔵に関することを何か願っているのかもしれない。
「行こうか」
「うん」
 七海がそっと目を開けたのを見計らって声をかけると、彼女は笑顔で振り向いた。吐く息はかすかに白い。薄曇りの早朝、ちらほらと初詣客が来ている小さな神社を、二人並んであとにした。

 七海が武蔵と付き合い始めてから五か月が過ぎた。
 保護者としてはいままでと変わらず接しているが、それ以外では若干距離を置くようになっていた。朝のトレーニングも武蔵に任せている。未練があるからこそ近くにはいられなかった。
 それでも二人の動向はどうしても気になってしまう。見たくもないくせに親しげな様子を目で追い、聞きたくもないくせに隣の部屋に聞き耳を立て、ときどき使用人にも報告させる始末だ。
 二人が恋人として過ごしているのは主に武蔵の居室だが、七海の部屋のときもある。いずれにしても護衛係が声の届くところで待機しているので、最初のうちは二人とも落ち着かなかったらしい。
 しかし次第に慣れ、いつしか意識することなく過ごせるようになっていた。体を寄せ合いながらおしゃべりをして、お茶をして、笑い合って——遥のときよりもよほど恋人らしくしている。
 ただ、二人で遊びに出かけたことはこれまで一度もない。武蔵が自由な外出を制限されているからだ。七海としては寂しく思うこともあるだろうが、何も言わず素直に聞き分けている。
 初詣に誘ったのはそういう事情があったからだ。毎年楽しみにしていたので連れて行ってやりたい。それは保護者としての思いといってもいいだろう。もちろんおかしな下心はない。
 七海はすこし驚いていたものの笑顔で頷いてくれた。そしてこの元日、そろって和服を着て近所の小さな神社へ出かけたのだ。メルローズも誘ったが友達と先約があるとのことで、二人きりである。

「今日はじいさん居間にいるはずだから、そのまま挨拶してきなよ」
 寄り道せずに帰り、あたたかい玄関でほっと息をつくと、外套を脱ぎながら七海に告げる。そのままというのは着物のままという意味だ。毎年のことなので勝手はわかっているだろう。
「遥は一緒に行かないの?」
「あとで行くよ」
 初詣に行ったあとはいつも一緒に挨拶をしていた。だから一人で行かせることを不思議に思ったのだろう。怪訝な顔をしている七海をそこに残して、遥はひとり先に廊下を進んでいった。

「え、なんで着物なんか着てるんだ?」
 遥がひとりで向かったのは武蔵の居室である。扉を開けてくれた護衛係二人に会釈して中に入ると、武蔵はソファに座ったまま目を見張り、驚いたように紺色の着物と羽織を眺めてそう言った。
「正月だからだよ」
「ああ……」
 着飾ることに興味がないのは武蔵も知っている。公の場では必要に応じてそれなりのものを身に着けているが、あくまで身だしなみでしかない。初詣で和服を着るようになったのは七海にせがまれてのことだ。
 武蔵に促されて二人向かい合う形でソファに座る。そのとき執事の櫻井が二人分の紅茶と菓子を運んできた。手際よくローテーブルに並べて退出するのを見届けると、遥は静かに切り出す。
「ちゃんと話すのは久しぶりだね」
「ああ、あのとき以来か」
 あのとき——七海と付き合い始めたのを知ってジムで話をしたときだ。話というより口論だったかもしれない。喧嘩別れのようにジムをあとにしてからというもの、没交渉が続いていた。
 今日は話があるからこの居室にいてほしいと遥のほうから頼んだ。そのときは使用人を通していたので直に話していない。あらためて向かい合って言葉を交わすとやはりすこし緊張する。
 武蔵も同じなのだろう。沈黙が続くにつれて表情がこわばっていくのがわかる。しかし目を伏せたままごくりと唾を飲み下すと、遥の顔色を窺うようにちらりと視線を上げ、口を開く。
「俺を非難しに来たんだろう?」
「もうそんな気はないよ。いつまでも気まずいままでいたくなかっただけ。七海が幸せにしているなら何も言うことはないし、それが続くよう支援もしたい。何があっても七海の味方でいようって決めたから」
 虚勢もあるが、言ったことに嘘はない。
 武蔵にとっても悪い話ではないだろう。七海との将来に手続上あるいは外交上の問題があることくらい、彼ならわかっているはずだ。しかし何が不満なのか当惑したように眉をひそめた。
「もしかして聞いてないのか?」
「何を?」
 聞き返すと、固く口を引きむすんでうつむいてしまった。しばらくそのままの姿勢で何か考え込んでいたが、やがて背筋を伸ばし、意を決したようにまっすぐ遥を見つめて告げる。
「おととい七海と別れた」
「……は?」
 何を言っているのかにわかに理解できなかった。
 武蔵は考えながら慎重に言葉を継いでいく。
「七海のことはいまでも好きだ。でもそれはあくまで家族や仲間みたいな感覚で、恋人としてじゃなかった。付き合ううちに馴染んでくるかと思ってたけど、どうしても違和感が拭えなくて……それで別れた」
 その説明を聞くうちに、遥はだんだんと鼓動がうるさくなるのを自覚した。そのうち息もできないくらい苦しくなり、じわりと汗がにじみ、腿の上で震えんばかりにこぶしを握りしめる。
「つまり、武蔵が捨てたってこと?」
「俺から別れてくれと言った」
 そう答えた武蔵をグッと歯噛みして睨めつけると、地を這うような声を絞り出す。
「やることやっておいて、いまさら……」
「抱いて初めてわかったんだから仕方ないだろう。話してるだけのときは普通に楽しかったし、こんな違和感を感じるなんて思いもしなかった。澪には感じたこともなかったのにな」
 瞬間、全身の血が沸騰したかのように感じた。
 気付けばローテーブルに飛び乗り、武蔵の頬に力いっぱいこぶしを叩き込んでいた。護衛係のひとりにあわてて羽交い締めにされる。蹴散らしたティーセットは床にまで派手に飛び散っていた。
 武蔵は顔をしかめながら殴られた頬に手を当て、体を起こした。こちらには目も向けずに放してやれと護衛係に告げる。護衛係はすこし迷っていたようだが、言われるまま拘束を解いた。
 遥はジンジンと疼くこぶしをきつく握りしめ、奥歯を食いしばった。
「最悪だ。何で帰ってきたんだ……武蔵さえいなければ……」
「七海の心を掴めなかったのはおまえ自身だろうが」
 カッとして再び武蔵に殴りかかる。
 だが片手で軽くこぶしを受け流されたかと思うと、逆に頬を殴りつけられた。勢いよく吹っ飛ばされて床に転がり、小さく呻く。焼けるような頬の痛みとひどい目眩で、すぐには起き上がれない。その無様な姿を、武蔵がソファに座って冷ややかに見下ろしていた。
「殴られてやるのは一度だけだ」
「……もう顔も見たくない」
 目の奥がじわりと熱くなり視界がぼやける。頭がグラグラするの感じつつもどうにか立ち上がり、手を貸そうとする護衛係を払いのけると、何度もよろけながらフラフラと部屋をあとにした。

「え……ちょっと、それどうしたんだよ!」
 廊下の角を曲がったところで七海と出くわした。剛三や他の家族への挨拶をすませて部屋に戻るところだろうか。まだ着物姿のままである。遥の有りさまを目にするとギョッとしていた。
 あらためて意識すると確かにひどい状態だ。着物は着崩れているうえ裾に紅茶までかかっているし、遥自身は立つのがやっとだし、何より殴られた頬が腫れてじくじくと熱を持っている。
 どうにか姿勢を正して、たいしたことはないかのように取り繕うが、頬がこれではあまり説得力がないかもしれない。七海のひどく心配そうなまなざしから逃れるように、そっと目をそらす。
「おととい武蔵と別れたって聞いたけど」
「……まさか、それで殴り合い?」
 いきなり核心を突かれるとは思わず、絶句した。
 それが肯定を意味することくらい誰にでもわかる。七海は泣きそうになるのをこらえるように眉を寄せた。だが遥がじっと見つめていることに気付くと、ぎこちなく笑みを浮かべてごまかす。
「何やってんだよもう。手当てしてもらおう?」
 笑い飛ばすように言うと、手を引いて連れて行こうとするが、遥はギュッと手を握り返して引き留めた。
「七海……戻っておいでよ」
「え?」
 何のことを言っているかわからなかったのだろう。彼女はきょとんと不思議そうな顔をして振り向いた。遥はしっかりと繋ぎ止めるように手を握りしめたまま、その目を見つめて明確に告げる。
「もう一度、僕と付き合おう」
 七海は息を飲んだ。暫しの沈黙のあと、微妙に目を伏せて自嘲を浮かべる。
「そんな虫のいい話ないよ」
「僕がいいって言ってるんだ」
「遥にひどいことしたのに」
「七海は何も悪くない」
「でも自分が許せないんだ」
「僕が許すよ」
 真剣な気持ちを伝えようと握る手に力をこめながら、みっともないくらい必死に言いつのる。けれど七海は応じようとしない。困ったように目をそらして逡巡したあと、きまり悪そうに言う。
「ごめん、まだ武蔵のことが好きだからさ」
「…………」
 もどかしく思うものの、一方的に別れを告げられたばかりなのだから、気持ちの整理がつかないのも無理はない。それでもいつかは遥のもとへ戻ってきてくれる。そう信じたいが——。
 彼女を掴んでいた手から無意識に力が抜けていく。しかし離れかけた瞬間、彼女のほうからしっかりと強く握りなおしてきた。ハッとする遥に、気まずさをにじませながら曖昧に微笑みかける。
「手当てしに行こう?」
「ああ……」
 今度は手を引かれるまま素直に歩いた。
 つないだ手がやけに熱く感じる。熱を持っているのは七海なのか、遥なのか、あるいはどちらともなのか——ぼんやりとそんなことを考えながら、ただ黙ってそのぬくもりに甘えていた。
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