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第1話 今日からここで
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「ようこそ橘邸へ。今日からここで一緒に暮らすんだ」
車の後部座席から降りた遥たちの正面には、白亜の洋館がそびえている。
隣を見ると、七海がイルカのぬいぐるみを抱きしめて、不安そうに屋敷を仰ぎ見ていた。その小さな手に力がこもる。すこし前まで泣いていたせいか目元が赤く、いつもの元気もない。
だが、いつまでもここで立ちつくしているわけにはいかない。このあと面会の予定があるのだ。こちらの都合で急かしてしまうことを申し訳なく思いつつ、優しく肩を押して玄関へと促した。
坂崎七海と初めて会ったのは、一年半ほど前、彼女が十歳のときだった。
父親を殺した男の手がかりを求めて橘邸に不法侵入したのである。それも本物の拳銃を持って。六歳のときからずっと父の敵を取るためだけに生きてきたというが、小さな子供がひとりでできることではない。
そそのかして手を貸していたのは父親の同僚で親友だった男だ。孤児となった彼女を戸籍上死亡にしたうえで引き取り、銃の扱いを教えていた。しかも手を下した真犯人は彼自身だったというからタチが悪い。
その事件には遥の家族も大きく関係していた。直接の原因となったのは遥の血縁で、大本の原因を作ったのが遥の両親だ。そのことを知り、遥は責任を感じて彼女を引き取れないかと考えたのだ。
祖父の剛三に相談したところ、自分が里親になっても構わないと言ってくれた。ただし遥が一切の面倒を見るという条件で。金銭面については十分な個人資産があるし、できなくはないだろうと了承した。
しかしながら肝心の七海本人に激しく拒絶された。知らない人ばかりで嫌だと。遥が怖いと。学校にも行きたくないと。そんな状態にもかかわらず強引に事を運ぼうとして、ひどく追いつめてしまった。
マンションの一室に閉じ込められて、ろくな食事も与えられず、ひたすら人殺しの訓練をさせられていた——その彼女を真っ当に生きていけるようにしなければという使命感に囚われすぎていたのだ。
ひとまず彼女が懐いていた男に預け、一年半をかけてすこしずつ外の世界に触れさせていった。橘邸にも何度か連れてきた。そうやって幾度となく顔を合わせていくうちに、親しく話をしてくれるようにもなった。
だが、ここで暮らすことにはまだ抵抗があるらしい。
それでも腹を括るしかなかったのだろう。イルカのぬいぐるみを抱きしめたままではあるが、しっかりと前を見据えて入っていく。懐いていた男はひとりで遠い故郷に帰ってしまい、もうほかに行くあてはないのだから——。
「おなかが空いてるだろうけど、先にじいさんのところへ挨拶に行こう。一応、七海のお父さんになる人だからね」
絨毯の引かれた大階段をのぼりながら、隣の七海に告げる。
名前だけとはいえ、里親になってくれた剛三には挨拶をしておく必要がある。顔を合わせるのは初めてだが、たとえ彼に気に入られなかったとしても、いまさら反対などという事態にはならないはずだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。僕がついてるから」
「うん……」
さきほどまで抱きしめていたイルカのぬいぐるみは、執事の櫻井に預けたので手元にない。そのこともあってかひどく不安そうにしていたが、こくりと頷くと、気を取り直したように表情を引きしめた。
「掛けなさい」
剛三の執務室を訪ねると、待ち構えていた彼に応接用のソファを勧められた。遥は七海とともに並んで腰を下ろす。その正面に剛三が腰掛け、奥底まで探るようにじっと七海の瞳を見つめた。
「私が里親として君を迎え入れた橘剛三だ」
「よろしくお願いします、坂崎七海です」
七海は背筋を伸ばしたまま、多少ぎこちなくはあるが怯むことなく返事をした。めずらしく丁寧な言葉遣いだ。普段は目上の人に対してもぞんざいな話し方なので、彼女なりに気を使っているのだろう。
剛三はゆったりとソファに身を預けて、満足げに頷いた。
「よく食べて、よく遊んで、しっかりと勉学に励みなさい。遥の言うことをよく聞くようにな。困ったことがあれば、学校のことでも、勉強のことでも、家のことでも、何でも遠慮なく遥に言うといい」
「はい……?」
七海はそう返事をしながらも、混乱したような怪訝な面持ちになっている。だが機会が掴めなかったのか、雰囲気に飲まれたのか、その場で尋ねることはなかった。
「ねえ、遥の言うことを聞けってどういうこと?」
執務室を辞した途端、七海は眉をひそめて遥に疑問をぶつけてきた。
事情を知らなければ、剛三が無責任に丸投げしたようにしか聞こえないだろう。おそらく彼はあえてそう聞こえるような言い方をしたのだ。単に面白がっているだけかもしれないが、もしかすると保護者としての遥を試しているのかもしれない。
「じいさんが橘財閥会長ってことは知ってる?」
「うん、大きい会社のいちばん偉い人って聞いた」
「そう、だから家のほうまで手がまわらないんだ」
「……それで僕のことを遥に押しつけたって?」
「押しつけられたんじゃなくて任されたの」
正確ではないが、そういうことにしておいたほうがいいだろうと判断した。遥自身が責任を感じて引き取らせてもらったなど、ましてや金銭面まですべて面倒を見ているなど、わざわざ告げる必要はない。
それでも七海は負い目を感じたらしく、神妙な顔でうつむいた。
「なんか……いろいろごめん……」
「七海が謝ることはないよ。そもそも嫌がる七海を連れてきたのはこっちなんだから。じいさんに言われたとおり、遠慮せずにここで楽しく暮らして、ちゃんと勉学に励んでくれればいい」
彼女に望むのはそれだけだ。感謝してほしいわけでも恐縮してほしいわけでもない。憂いなくあたりまえの生活をしてもらうために引き取ったのに、萎縮などされては本末転倒である。
「わかった。勉強は好きじゃないけど頑張るよ」
彼女はしばらく無言で目を伏せていたが、やがてしっかりと遥を見ながら頷き、かすかに笑みを浮かべてそう答えてくれた。
「じゃあ、挨拶も済んだしごはんにしよう」
「うん、おなかすいた!」
食事の話をすると元気になるのはいつものことだ。思わずくすりと笑い、はしゃぐ七海とともに一階のダイニングへ足を進める。きっとここでの食事も気に入ってもらえるだろう。
「あ、七海の部屋はここだよ。僕の部屋は隣」
ふいに長い廊下の途中で扉を示しながら言う。本当は食事のあとで案内するつもりだったが、通りかかったついでだ。七海はきょとんとして不思議そうに尋ねる。
「僕の部屋があるの?」
「もちろん」
もともとは双子の妹である澪の部屋だったが、結婚して家を出たので、代わりに七海の部屋にしたのである。他にも空き部屋はあるが、遥の部屋に近いほうが便利だろうと考えてのことだ。
扉を開けると、執事の櫻井に預けておいたイルカのぬいぐるみが、空っぽの本棚の上にちょこんと置かれているのが見えた。彼女にとっては父親の形見である。自分のもとに戻ったことで安堵しているようだった。
クローゼットには少ないながらも衣類が用意してあるし、ベッドと学習机もあるので、とりあえずはそれなりに暮らしていけるはずだ。もちろん足りないものがあることは十分承知している。
「学校関係のものとか、必要なものは追々そろえていこう」
「うん」
七海にもいろいろと欲しいものがあるだろうし、中学入学のための準備も必要だ。まずは制服と学生鞄、靴、それから——遥はちらりと隣に目を向け、彼女が中学生になった姿を想像した。
「七海ちゃん!」
鈴を転がすような声が聞こえて振り向くと、ひとりの少女が嬉しそうに甘い笑顔で駆け寄ってきた。ゆるいウェーブを描いた腰近くまであるピンクアッシュの髪が、ふわふわと揺れている。
彼女の名はメルローズ。遥の両親に実験体として拉致監禁されていた過去を持つ。わけあって故郷に帰ることができず、遥とは血縁上いとこになるということもあり、剛三が養女として引き取ったのだ。
彼女がここに来て一年半以上になる。最初はしゃべることさえままならなかったが、いまでは小学校に通い、友達にも恵まれて楽しく過ごしているようだ。七海が来ることも無邪気に喜んでくれた。
「今日から七海ちゃんが私のお姉ちゃんになるんだね。早く一緒に暮らしたいなって思ってたからうれしい。仲良くしてね」
「うん……」
対照的に、七海は困惑ぎみに顔を曇らせている。
メルローズに対してはいつもだいたいこんな反応だ。嫌っているのではなく苦手なだけというのが本人の弁である。それなら無理に仲良くする必要はない。適度に距離をとっておけばいいと彼女には言ってある。
しかしメルローズはそのことに気付いていないようで、仲良くなろうとしてぐいぐいと間合いを詰める。これでは逆効果でしかない。遥はさりげなく彼女の意識をそらそうと横から話しかける。
「メル、もう夜ごはん食べた?」
「うん、ひとりでさみしかった」
「ごめんね」
彼女はこくりと頷き、ほんのりと頬を染めて甘えるように抱きついてきた。すこし潤んだような鳶色の瞳でじっと見つめ、小首を傾げて尋ねる。
「あとでお部屋に行ってもいい?」
「構わないよ」
その頭にぽんと手を置くと、彼女は花が咲くように可憐に顔をほころばせる。鳶色の瞳にはもう遥しか映っていなかった。
「もしかして、メルも遥が面倒見てるのか?」
メルローズがひらりと身を翻して戻っていくのを見送ると、七海はちらりと横目を流して尋ねてきた。その表情から隠しきれない不安が垣間見える。
「いや、メルには専任の世話役がいるよ」
「雇ってるってこと?」
目をぱちくりさせて確認する彼女に、そうだよと首肯する。
メルローズに護衛を兼ねた世話役をつけたのは剛三だ。さすがに自分で引き取っておきながら遥に押しつけたりはしない。遥は血縁として彼女に寄り添うようにはしているが、面倒を見るのは七海だけである。だから心配などしなくていいのだが——。
「なに考え込んでるの?」
「ん……やっぱり養子と里子は違うんだなって。別にひがんでるとかじゃないんだ。違ってあたりまえだし納得しただけ」
養子のメルローズには世話役をつけて、里子の七海にはつけない。
実際には経緯が違うので単純に比べられるものではないが、この事実だけを見れば差別と思うのも仕方がないかもしれない。すべてを飲み込むかのように表情を消した七海を見つめ、淡々と言う。
「世話役より僕のほうが贅沢だと思うけど」
「…………?」
何を言いたいのかわからなかったらしく、七海はきょとんとして振り向いた。しばらく無言で見つめ合っていたかと思うと、急にブハッと吹き出し、おかしそうに肩を震わせて笑い出す。
「贅沢ってなんだよ。そういうこと自分で言うかな」
「事実だからね」
遥はわずかに口もとを上げた。
雇われの世話役より彼女のことを親身に考えられる自信はある。世話役がつかなかったことを嘆かせたりしない。そう決意を新たにし、いまだに笑い続けている彼女の肩に手をまわした。
車の後部座席から降りた遥たちの正面には、白亜の洋館がそびえている。
隣を見ると、七海がイルカのぬいぐるみを抱きしめて、不安そうに屋敷を仰ぎ見ていた。その小さな手に力がこもる。すこし前まで泣いていたせいか目元が赤く、いつもの元気もない。
だが、いつまでもここで立ちつくしているわけにはいかない。このあと面会の予定があるのだ。こちらの都合で急かしてしまうことを申し訳なく思いつつ、優しく肩を押して玄関へと促した。
坂崎七海と初めて会ったのは、一年半ほど前、彼女が十歳のときだった。
父親を殺した男の手がかりを求めて橘邸に不法侵入したのである。それも本物の拳銃を持って。六歳のときからずっと父の敵を取るためだけに生きてきたというが、小さな子供がひとりでできることではない。
そそのかして手を貸していたのは父親の同僚で親友だった男だ。孤児となった彼女を戸籍上死亡にしたうえで引き取り、銃の扱いを教えていた。しかも手を下した真犯人は彼自身だったというからタチが悪い。
その事件には遥の家族も大きく関係していた。直接の原因となったのは遥の血縁で、大本の原因を作ったのが遥の両親だ。そのことを知り、遥は責任を感じて彼女を引き取れないかと考えたのだ。
祖父の剛三に相談したところ、自分が里親になっても構わないと言ってくれた。ただし遥が一切の面倒を見るという条件で。金銭面については十分な個人資産があるし、できなくはないだろうと了承した。
しかしながら肝心の七海本人に激しく拒絶された。知らない人ばかりで嫌だと。遥が怖いと。学校にも行きたくないと。そんな状態にもかかわらず強引に事を運ぼうとして、ひどく追いつめてしまった。
マンションの一室に閉じ込められて、ろくな食事も与えられず、ひたすら人殺しの訓練をさせられていた——その彼女を真っ当に生きていけるようにしなければという使命感に囚われすぎていたのだ。
ひとまず彼女が懐いていた男に預け、一年半をかけてすこしずつ外の世界に触れさせていった。橘邸にも何度か連れてきた。そうやって幾度となく顔を合わせていくうちに、親しく話をしてくれるようにもなった。
だが、ここで暮らすことにはまだ抵抗があるらしい。
それでも腹を括るしかなかったのだろう。イルカのぬいぐるみを抱きしめたままではあるが、しっかりと前を見据えて入っていく。懐いていた男はひとりで遠い故郷に帰ってしまい、もうほかに行くあてはないのだから——。
「おなかが空いてるだろうけど、先にじいさんのところへ挨拶に行こう。一応、七海のお父さんになる人だからね」
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名前だけとはいえ、里親になってくれた剛三には挨拶をしておく必要がある。顔を合わせるのは初めてだが、たとえ彼に気に入られなかったとしても、いまさら反対などという事態にはならないはずだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。僕がついてるから」
「うん……」
さきほどまで抱きしめていたイルカのぬいぐるみは、執事の櫻井に預けたので手元にない。そのこともあってかひどく不安そうにしていたが、こくりと頷くと、気を取り直したように表情を引きしめた。
「掛けなさい」
剛三の執務室を訪ねると、待ち構えていた彼に応接用のソファを勧められた。遥は七海とともに並んで腰を下ろす。その正面に剛三が腰掛け、奥底まで探るようにじっと七海の瞳を見つめた。
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七海は背筋を伸ばしたまま、多少ぎこちなくはあるが怯むことなく返事をした。めずらしく丁寧な言葉遣いだ。普段は目上の人に対してもぞんざいな話し方なので、彼女なりに気を使っているのだろう。
剛三はゆったりとソファに身を預けて、満足げに頷いた。
「よく食べて、よく遊んで、しっかりと勉学に励みなさい。遥の言うことをよく聞くようにな。困ったことがあれば、学校のことでも、勉強のことでも、家のことでも、何でも遠慮なく遥に言うといい」
「はい……?」
七海はそう返事をしながらも、混乱したような怪訝な面持ちになっている。だが機会が掴めなかったのか、雰囲気に飲まれたのか、その場で尋ねることはなかった。
「ねえ、遥の言うことを聞けってどういうこと?」
執務室を辞した途端、七海は眉をひそめて遥に疑問をぶつけてきた。
事情を知らなければ、剛三が無責任に丸投げしたようにしか聞こえないだろう。おそらく彼はあえてそう聞こえるような言い方をしたのだ。単に面白がっているだけかもしれないが、もしかすると保護者としての遥を試しているのかもしれない。
「じいさんが橘財閥会長ってことは知ってる?」
「うん、大きい会社のいちばん偉い人って聞いた」
「そう、だから家のほうまで手がまわらないんだ」
「……それで僕のことを遥に押しつけたって?」
「押しつけられたんじゃなくて任されたの」
正確ではないが、そういうことにしておいたほうがいいだろうと判断した。遥自身が責任を感じて引き取らせてもらったなど、ましてや金銭面まですべて面倒を見ているなど、わざわざ告げる必要はない。
それでも七海は負い目を感じたらしく、神妙な顔でうつむいた。
「なんか……いろいろごめん……」
「七海が謝ることはないよ。そもそも嫌がる七海を連れてきたのはこっちなんだから。じいさんに言われたとおり、遠慮せずにここで楽しく暮らして、ちゃんと勉学に励んでくれればいい」
彼女に望むのはそれだけだ。感謝してほしいわけでも恐縮してほしいわけでもない。憂いなくあたりまえの生活をしてもらうために引き取ったのに、萎縮などされては本末転倒である。
「わかった。勉強は好きじゃないけど頑張るよ」
彼女はしばらく無言で目を伏せていたが、やがてしっかりと遥を見ながら頷き、かすかに笑みを浮かべてそう答えてくれた。
「じゃあ、挨拶も済んだしごはんにしよう」
「うん、おなかすいた!」
食事の話をすると元気になるのはいつものことだ。思わずくすりと笑い、はしゃぐ七海とともに一階のダイニングへ足を進める。きっとここでの食事も気に入ってもらえるだろう。
「あ、七海の部屋はここだよ。僕の部屋は隣」
ふいに長い廊下の途中で扉を示しながら言う。本当は食事のあとで案内するつもりだったが、通りかかったついでだ。七海はきょとんとして不思議そうに尋ねる。
「僕の部屋があるの?」
「もちろん」
もともとは双子の妹である澪の部屋だったが、結婚して家を出たので、代わりに七海の部屋にしたのである。他にも空き部屋はあるが、遥の部屋に近いほうが便利だろうと考えてのことだ。
扉を開けると、執事の櫻井に預けておいたイルカのぬいぐるみが、空っぽの本棚の上にちょこんと置かれているのが見えた。彼女にとっては父親の形見である。自分のもとに戻ったことで安堵しているようだった。
クローゼットには少ないながらも衣類が用意してあるし、ベッドと学習机もあるので、とりあえずはそれなりに暮らしていけるはずだ。もちろん足りないものがあることは十分承知している。
「学校関係のものとか、必要なものは追々そろえていこう」
「うん」
七海にもいろいろと欲しいものがあるだろうし、中学入学のための準備も必要だ。まずは制服と学生鞄、靴、それから——遥はちらりと隣に目を向け、彼女が中学生になった姿を想像した。
「七海ちゃん!」
鈴を転がすような声が聞こえて振り向くと、ひとりの少女が嬉しそうに甘い笑顔で駆け寄ってきた。ゆるいウェーブを描いた腰近くまであるピンクアッシュの髪が、ふわふわと揺れている。
彼女の名はメルローズ。遥の両親に実験体として拉致監禁されていた過去を持つ。わけあって故郷に帰ることができず、遥とは血縁上いとこになるということもあり、剛三が養女として引き取ったのだ。
彼女がここに来て一年半以上になる。最初はしゃべることさえままならなかったが、いまでは小学校に通い、友達にも恵まれて楽しく過ごしているようだ。七海が来ることも無邪気に喜んでくれた。
「今日から七海ちゃんが私のお姉ちゃんになるんだね。早く一緒に暮らしたいなって思ってたからうれしい。仲良くしてね」
「うん……」
対照的に、七海は困惑ぎみに顔を曇らせている。
メルローズに対してはいつもだいたいこんな反応だ。嫌っているのではなく苦手なだけというのが本人の弁である。それなら無理に仲良くする必要はない。適度に距離をとっておけばいいと彼女には言ってある。
しかしメルローズはそのことに気付いていないようで、仲良くなろうとしてぐいぐいと間合いを詰める。これでは逆効果でしかない。遥はさりげなく彼女の意識をそらそうと横から話しかける。
「メル、もう夜ごはん食べた?」
「うん、ひとりでさみしかった」
「ごめんね」
彼女はこくりと頷き、ほんのりと頬を染めて甘えるように抱きついてきた。すこし潤んだような鳶色の瞳でじっと見つめ、小首を傾げて尋ねる。
「あとでお部屋に行ってもいい?」
「構わないよ」
その頭にぽんと手を置くと、彼女は花が咲くように可憐に顔をほころばせる。鳶色の瞳にはもう遥しか映っていなかった。
「もしかして、メルも遥が面倒見てるのか?」
メルローズがひらりと身を翻して戻っていくのを見送ると、七海はちらりと横目を流して尋ねてきた。その表情から隠しきれない不安が垣間見える。
「いや、メルには専任の世話役がいるよ」
「雇ってるってこと?」
目をぱちくりさせて確認する彼女に、そうだよと首肯する。
メルローズに護衛を兼ねた世話役をつけたのは剛三だ。さすがに自分で引き取っておきながら遥に押しつけたりはしない。遥は血縁として彼女に寄り添うようにはしているが、面倒を見るのは七海だけである。だから心配などしなくていいのだが——。
「なに考え込んでるの?」
「ん……やっぱり養子と里子は違うんだなって。別にひがんでるとかじゃないんだ。違ってあたりまえだし納得しただけ」
養子のメルローズには世話役をつけて、里子の七海にはつけない。
実際には経緯が違うので単純に比べられるものではないが、この事実だけを見れば差別と思うのも仕方がないかもしれない。すべてを飲み込むかのように表情を消した七海を見つめ、淡々と言う。
「世話役より僕のほうが贅沢だと思うけど」
「…………?」
何を言いたいのかわからなかったらしく、七海はきょとんとして振り向いた。しばらく無言で見つめ合っていたかと思うと、急にブハッと吹き出し、おかしそうに肩を震わせて笑い出す。
「贅沢ってなんだよ。そういうこと自分で言うかな」
「事実だからね」
遥はわずかに口もとを上げた。
雇われの世話役より彼女のことを親身に考えられる自信はある。世話役がつかなかったことを嘆かせたりしない。そう決意を新たにし、いまだに笑い続けている彼女の肩に手をまわした。
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