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第六章 それぞれの兆し

6-12 アリス ~脱出作戦

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 ヘンリエッタがジェイムスと姿を消した居間には、アイリーンとマネージャーのロザリー、それに私とマイクとが残っている。
 これまではフリッター運転手のヘインズに頼み、バンを使って駐車場から内緒で出入りしていたのだが、最近になってマスコミ連中が無断で駐車場の中にまで入り込むようになり、コンドミニアムの規制が厳しくなったのである。

 運転手が駐車場に降りるのは構わないが、運転手では無い者は駐車場で乗り降りできなくなったのである。
 違反者は罰金を取られてしまうし、度重なるとコンドミニアムの住民会議で取沙汰されることにもなる。

 私達が車を乗り降りする場所は、玄関のフロント前面だけになってしまった。
 裏口も無いわけではないが、しっかりとそこも見張られている。

 このためにヘインズに頼むことはできなくなっていた。
 従ってマスコミ関係者はその乗降場周辺で待っているのである。

「ところで、アイリーンたちはどうやってここへ来たの?」

「プロダクションの車で送ってもらいました。
 帰りはフリッターでも拾うつもりでした。」

「そう、じゃぁ、車を持って来てないんだね。
 いつもなら、マネージャーさんの車だったから。
 車が有るならどうしようかと思っていたけれど・・・。」

 黒縁メガネのロザリーが言い訳がましく言った。

「今日は定期点検で整備に出しているものですから・・・。」

「良し、じゃぁ、ここから無事に脱出する方法を考えなくっちゃね。
 アリス、君はとても高そうに見える衣装を着てくれるかい。
 それと、ヤーヴェロンを持って行くこと。
 アイリーンは、セロエディスの運搬を頼めるかな。
 僕は、ダルフェルだな。
 ロザリーは、自分のカバンでいいや。
 で、ロビーに降りたら外にいる記者連中に予め警告する。
 とっても高い楽器を持って今から出かけるけれど、もし、万が一にでも楽器が壊れるようなことが有れば弁償してもらいますので注意してくださいとね。
 値段は言わぬが花かな。」

 アイリーンが聞いた。

「あの、本当に高いものなんですか?」

「まぁ、記者さん連中にとっては高いものになるだろうね。」

 私はくすっと笑った。
 この家にある楽器は本当に高いものなのである。

 マイクが言った三つの楽器の購入費は、優に1000万ルーブを超える金額である。
 クレアラスで勤務する平均的なサラリーマンの年間収入はおよそで40万ルーブ前後であるから、その25年分の給与を超える楽器は、普通の者では買うことなどできない。

 プロの演奏者でもなかなか手が出ないのが実情である。
 10年ほど前のことではあるが、コローヌという工房が手掛けたヤーヴェロンの名器は、オークションで一丁が4500万ルーブの値がついたと聞いている。

 本来、楽器は演奏されてこそ価値のある物だが、これほどの値段になるとほとんどが個人の蔵に入って人目に触れることはない。
 年に一度か二度の演奏会で見ることが出来ればましな方である。

 ヘンリエッタを家まで送り届けたジェイムスが戻ってきたのは午後5時に間もないころである。
 部屋で待機していたハーマンとサラは、予めマイクに指示された機材を持って、地下駐車場に向かった。

 今日は、人数が多いので車は二台になる。
 浮上車は大きいので6人が乗れないことは無いのだが、楽器を持ちこむ分狭くなってしまう。

 一台はハーマンが、もう一台はサラが運転することになっている。
 二台の車が乗降場に配置に付いたのを確認して、4人はホールに降りた。

 流石にマスコミ関係者もホールの中までは入って来られないが、玄関の外には私達の姿を認めるや否や、かなりの人数が集まって来た。
 マイクは比較的大きなダルフェルのケースを如何にも大事そうに抱えており、私もアイリーンも同じ様に楽器のケースを抱えている。

 フロントの守衛に玄関専用のインターホンを使わせてもらった。
 通常は門限とされている夜間に緊急の用事で立ち入ろうとする部外者への対応に使われる物だが、拡声器としての利用も可能である。

「外で待機しているマスコミ関係の人に申し上げます。
 これから私どもは、玄関を出て車で或るところへ参らねばなりません。
 見てお分かりのように、我々は楽器を抱えております。
 あるいはご承知かも知れませんが、この楽器は非常に繊細なもので、些細なことで支障が生じたり、或いは壊れたりいたします。
 万が一にでも我々に接触することでそのような事態に陥ったならば、当然に損害賠償を請求させていただきます。
 これらの楽器は非常に高価なものであり、三つ併せるとこのグレイ・コンドミニアムの一部屋が買えるほどの金額になります。
 万が一にでも楽器に損害を被った場合、当事者及びその雇用主が請求対象者になるでしょう。
 それらが一人になるか或いは複数になるかはあなた方次第。
 既に貴方がたの頭上には4台のドローンが撮影を開始していますし、我々の車からも撮影を開始しています。
 損害賠償など気にしない方が有るかもしれませんが、その場合は我々も楽器を守るために相応の抵抗をさせていただきますので悪しからず。
 一応の警告は致しましたので、あなた方が知らなかったという抗弁は通用いたしません。」

 外で待っていた記者連中もこの通告には流石に困った。
 上空には確かにドローンが4基待機しており、カメラを地上に向けているのがわかるし、先ほど出てきた二台の運転手はカメラを構えて撮影を開始していた。

 しかもマイクとアリスはステージ衣装のような礼装に身を固めており、それに触れるだけでも毀損行為に当たりそうな雰囲気である。
 報道を巡る種々の民事事件はあるが、中でも予め十分承知の上で高価な衣類に触れて毀損したような場合、故意の器物損壊に問われて刑務所入りした事例があるのである。

 無論法外な損害賠償も請求された。
 例え背後から押されたにしても過失の言い訳は裁判で認められなかった。

 仮にマイクの言う通り、ドラン・コンドミニアムの一室が買える額となると1億ルーブを超える。
 記者やレポーターの生涯給与でも追いつかない額になる。

 これには流石の突撃レポーターたちも尻込みせざるを得ない。
 私達が玄関のドアを通って外に出ても2トラン以上に近づくものは一人もいなかった。

 私達は、車まで悠々と辿り着き、ドアを開けて楽器のケースを抱えたまま乗り込んだ。
 ドアを閉めると、私とアイリーンの乗った車にはサラが、マイクとロザリーの乗り込んだ車にはハーマンがそれぞれ運転席に収まり、車が動き出した。

 マスコミ連中も一斉に自分たちの浮上車に走り寄って行く。
 無論追いかけて来る筈である。

 ドローンは、そのままペントハウスへ戻って行った。
 ドローンを操縦しているのは、家に残っているジェイムスであった。

 20分後には、二台の車はマリオン・ホテルに到着した。
 ロビーでは多数のモデル達が、豪奢な毛皮のコートを着て待機していた。

 私達が車から降りる前にそのモデル達がロビーから走り寄って二台の車をガードする。
 驚いたことに彼女たちがコートの前を開けると全員が下着姿である。

 そこへ追いかけてきた報道陣が着いたが、流石に下着姿のモデル達には手が出ない。
 下手に触れようものならセクハラで訴えられるのは間違いないからである。

 彼らが完全に足止めされている間に私達は、マリオン・ホテルに無事に入った。
 それを確認してモデル達は一斉にホテルのロビーに駆け戻ってきた。

 クレアラスの11月は結構寒い。
 そんな中でコートを羽織っているとはいえ下着姿で身を晒してはかなり寒かったはずだ。

 それでも、モデル達はキャーキャー言いながら陽気に笑っている。
 宴会場はマリオン・ホテルでも一番大きなホールであったが、それでも多数のモデル達で一杯になっていた。

 私達が中に入るとみんなが笑顔と拍手で迎えてくれた。
 モデル達全員が着飾っていた。

 先ほど下着姿になっていた娘達も着替えてホールに戻ってくるとそれも拍手と歓声で迎えられた。
 モデルは女性が多い。

 10人いればその内の7人か8人までは間違いなく女性である。
 実に華やかであった。

 定刻になって、ミシェルが簡単に挨拶をし、私達飛び入りを紹介してくれた。
 一人一人名前を紹介すると一斉に歓声が上がる。

 華やかな世界に慣れているはずのアイリーンとロザリーもこの雰囲気には少々圧倒されている。
 普段の虚構のモデルを離れて自然な姿の彼らがあった。

 私とマイクはみんなに演奏をプレゼントした。
 クラシックではなくポピュラーな曲や流行のダンスパップを演奏すると、みんなが歌い、そうして踊った。

 宴会場は即席のディスコ・ホールとなり、アイリーンまでもが若いモデルと一緒にはしゃいでいた。
 二時間はアッと言う間に過ぎ去り、未成年のモデルとアイリーンたちは帰らねばならない時間がやって来た。

 私とマイクもそれに合わせてみんなに別れを告げた。
 ホテルの玄関先にはマスコミが待ち構えていたが、楽器を持った私達には手を出さなかった。

 ホテルから大勢のスタッフが出てきて私達のガードに当たってくれたこと、モデル達が大勢出て来て到着した時と同様に私達をガードしてくれたことが功を奏していた。
 そうしてアイリーンとロザリーを彼らのマンションまで送り届けたのである。

 アイリーンはクレアラスの北方700セトランにある中規模都市コルナールに両親が家を持っているが、滅多に家の方へは帰れない。
 クレアランス市内にプロダクションが借り受けたマンションにマネージャーのロザリーと一緒に仮住まいなのである。

 マンションにはメイドもいるから家事の心配はないし、時折両親がコルナールから出てきた折に泊まって行く部屋もあるようだ。
 一応この秋にハイスクールは卒業したと言っても、アイリーンは18歳の未成年なのだ。

 私達も無事に家に帰りついた。
 玄関前では到着時に合わせて再度4基のドローンが監視をしていた。

 このドローンは最新型であり、通常は警備のためにペンションハウスの四隅に配置してあるものである。
 記者連中もドローンの型式を見ただけでどの程度の性能かはわかっていた。

 各ホロビデオ局が持っている最新型ドローンと同じであり、高精細のホロビデオカメラを搭載しているものである。
 高額なのが玉に傷であり、1基120万ルーブもする。

 浮上車どころか高級仕様のフリッター一台が買えてしまうので、各局とも数台しか持っていない代物なのである。
従って余程の事件性が無ければそのドローンは取材には使わせてもらえない。
 それが4台も彼らの監視配置についていれば、彼らも無茶はできない。

 この日からコンドミニアムの周囲に屯していたマスコミ関係者は潮が引くようにいなくなった。
 いままでのような突撃スタイルの取材が出来ないとなれば彼らがコンドミニアムの玄関で待ち構えている理由が無くなったからである。
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