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第三章 新たなる展開
3-11 マルス ~交友 その四(運命の人)
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だが、次に続いた言葉は衝撃的だった。
「でも、他の人ならば読める。
マルビスにいる人でアンリ殿には及ばないけれど強い光を持つ者がいてね。
その内の一人がベクリアさんだ。
彼女の意識も読めない。
だから周囲の人の意識を読んで知った。
彼女は本当に未来が予知できるのかもしれないが、そこは判らない。
どうでもよいことの占いは良く外れるけれど、大事なことは良く当たるようだ。」
「じゃぁ、マルス様は光を持った人の意識は読めないけれど、ここに居ながら遠くにいる他の人の意識は読めると言うこと?」
「正確に言うと一定の大きさの光を持たない人の意識は読める。
どんな人でも皆それぞれの光を持っている。
但し、その大きさと強さが異なる。
普通の人の光は、日中に見るとほとんど見えないくらい薄い。
でもアンリ殿達の光は、直射日光の中でも識別できる。
この半年ほどの間に判ったことだから例外はあるかもしれないけれど、今のところ例外は無い。」
「で?」
「僕が、先の褒章式典の後、王都からカルベックに戻ったのは知っているね。
アンリ殿もわざわざ別れの挨拶に来てくれた。」
アンリは頷いた。
「カルベックに着いて、二日ほどしてからかな。
僕はそれまで眠っていた力が覚醒して、大きな力を得ることができた。
だが、その覚醒は周囲の生き物全てに生命の危険を伴うような副次効果が伴うものだった。
理由は判らないけれど、何となくそのことが予期できたので、僕は人里離れた場所に行き、そこで覚醒した。
覚醒した瞬間は、途轍もない力が放出され、その場に大きな破壊の爪跡が残った。
覚醒はとても疲れるもので、僕は暫く大地に横たわって寝ていた。
目覚めた時、周囲の意識が全て押し寄せてきてパニックに陥った。
でもその中で、サディス公爵一家を狙う刺客団の意識も識別できた。
で、アンリ殿達を救うために動いた。」
「あ、ちょっと待って、その覚醒の日って、もしかして私たちの王都から出立した日なのかしら?」
マルスは頷いた。
驚愕の表情を浮かべながらアンリが言った。
「じゃぁ、あの日はカルベックに居たのね。
それなのに、アズラン峠にマルス様は騎馬で現れた。
いくら早い馬でもカルベックからアズラン峠までは丸々一日かかるはず。
なのに、マルス様が峠の頂上付近で待っていたのは正午前のこと。
一体どうやって・・・。」
「遠くの場所に一瞬で移動できるからだよ。
あの朝、最初にオズラン峠に行き、刺客を始末してから頂上で待っていた。」
「じゃぁ、じゃぁ、
マルス様がお独りで80名もの賊をお斬りになったのね。
人の噂で大掛かりな仕掛けが設けられていて、その周囲に多数の濃緑色の衣装を着て覆面姿の男たちが殺されていたらしいけれど。
大曲の急斜面の頂部に80体、王都側の街道沿いに3体の身元が分からない商人の遺体が有ったそうだけれど・・・。
あれも?」
マルスはまたも静かに頷いた。
そうして静かに言った。
「刺客とは言え、僕の手は多くの人の命を奪っている。
でも急斜面から丸太や大石が公爵一家を襲うのを防ぐにはその方法しかなかった。
仮に丸太や岩の落下から免れて、幸運にも被害を受けなかったとしても、彼らが剣で襲うのは避けられなかったからね。
百名の警護の騎士では80名の賊には対応できなかっただろう。
彼らは長年暗殺だけを生業にしてきた百戦錬磨の腕利きの刺客だった。
一人で並みの騎士を三人片づけるのにさほど時間はかからなかったはずだ。
だから止むを得ずその命を絶った。
そんな僕を軽蔑するかい。」
「マルス様、私と私の家族を救うために敢えて自らの手を血で汚した貴方を軽蔑などできないわ。
あなたに助けられたのは二度目ね。
それに岩崩れ、意味がようやく分かった。
お母様が占ってもらった中にもう一つ意味不明のものがあったの。
私の夫になる人は岩が崩れるのを防ぐと言われたらしいの。
でも何の意味か分からなかった。」
そうして、アンリはマルスの目をしっかりと見ながら言った。
「やっぱり、マルス様は私の夫になるべき人です。
運命の糸が私たちをしっかりとつなぎとめていますから、私は、占いを、そうしてマルス様を信じます。」
「じゃぁ、少し試みをやってみよう。
一度にはできないけれど、アンリ殿の能力を開花させるための第一段階だと思ってくれますか?」
アンリはしっかりと頷いた。
「何をすればいい?」
「向き合って、手をつないでくれる。」
マルスは両手を差し出した。
アンリはその手に自分の両手を重ねた。
舞踏会の時も感じていたが、マルスの手はとても大きくて力強い掌だったが、騎士のようにごつごつとした手ではない。
「目をつぶってくれるかい。」
アンリは、目を閉じた。
マルスの手の暖かさが余計に感じ取れる。
「アンリ殿、これから試みようとするのは、多分五感の外にある感覚なんだ。
だから、この手の感触も、瞼を閉じても見えるだろう光も、室内外の音も、そうして温度、更には匂いや味覚も遮断してほしい。
全てを消し去ったところにアンリ殿の隠された力があるはずだ。」
アンリはそう言われて戸惑った。
「だって、どうやればいいの?
わからないわ。」
「そうだね、隠遁者が良く講ずると言われる方法が良いかもしれない。
すべてを忘れて瞑想に入るんだ。
無を感じ取るよう努力するんだ。」
「うーん、・・・。
やってみる。」
暫し、無言が続いた。
その間、マルスの身体は微動だにせず、アンリの手は一度もぶれたりしなかった。
そのお蔭でアンリは手の存在を忘れることができた。
だが雑念を追い払うことはできなかった。
それでも一瞬なにか虚無を見たような気がした。
ほんの一瞬だったが、その瞬間、何か暖かいような気配が意識に触れたような気がした。
「もういいよ。」
マルスの言葉が届いた。
「何かに触れることができたようだね。
今日のところはそこまででいい。
多分何かが変わる。
こういうことは時間をかけてする方がいいと思うからね。」
アンリはほっと溜息をついた。
「あ、そうだ。
マルス様に相談しようと思っていたことがあるの。
実は、婚礼の宴には赤の楽師団が招かれているの。
で、婚礼の日の翌日に楽師団の長とモルゼックの奏者をお招きして、私の演奏を聴いていただくことになっているの。
母がその手配をしてくれたのよ。
何を演奏したらいいかまだ迷っていて、マルス様の意見をお聞きしたいの。」
「じゃぁ、ちょっと手を見せてくれる。」
マルスはアンリの手のひらをじっくりと見ていた。
「人差し指と小指の間をできるだけ広げて見てくれる?」
アンリはそのまま指をできるだけ広げた。
「うん、もう少ししたらならモルゼックの運指が楽にできるようになるけれど、まだだね。
やはり、タムセールはできるだけ遠慮した方がいい。
ラセールよりも少しテンポの遅いクラセールならもうできるかもしれないね。
アンリ殿大きく息を吸って、それからゆっくりと息を吐き出してくれる。」
アンリは言われた通り、息を吸いゆっくりと吐いた。
「ほう、文では少し武芸の練習もしていると書いてあったけれど、その成果が表れている。
この分では、1年経たずにタムセールも十分に演じられるかもしれない。
ならば、クラセールの湖上の舞という曲があるけれど、今のアンリ殿なら演奏できるかもしれない。
知っているかい?」
「聞いたことはあるけれど練習はしたことが無いわ。」
「じゃぁ、少し練習しようか。
譜面はある?」
「ええ、確かあったと思います。
ちょっと待ってくださいな。」
アンリは立ち上がって、部屋の隅にある書棚に整理されている譜面置き場に向かった。
目当てのものを見つけて、マルスの方に向きかけて、目を見開き、手にした譜面を床に落としてしまった。
「凄いわ。
マルス様、マルス様の光が見えるわ。
色々な光が波打って、言葉では言い表せないほど綺麗。
それに、それに・・・。
とっても大きいわ。
光が天井を突き抜けている。
とても信じられない。」
マルスは微笑んだ。
「どうやら試みがアンリ殿に少し変化を与えたようだね。
それが見えると言うことはアンリ殿も何らかの能力を秘めているということだよ。
でも今は譜面を拾って、モルゼックの練習をしよう。」
「あ、そうでしたね。」
アンリは譜面を拾い、更に同じ棚に置いてあるモルゼック二つを手に持った。
アンリは当然のようにマルスの隣に腰を降ろした。
「さて、アンリ殿。
曲は聞いて知っているかもしれないけれど、最初に譜面を見て曲想を掴むところから始めよう。
楽譜から仮想の音を聞くようにするんだ。
一度、そうしておけばどのように音を出せばいいかがわかる。
そうして実際に音を出してみて、手直しをする。」
アンリにとっては初めての方法だった。
これまで楽師に教わったのは、楽師が演奏するのをできるだけ真似するようにすることだけだった。
最初に譜面をよく読んで曲想を掴むなどと教えてくれた楽師は一人もいない。
アンリは必死に目で楽譜を追い、その音を頭の中で再現させた。
暫くして、アンリが顔を上げた。
「多分掴めたと思います。
これってひょっとすると別れの曲なのかしら。」
「湖上の舞は、恋人と別れなければならない踊り子が、出港する湖上の船の中で恋人との再会を願って神に捧げる舞を踊る風景を描写したものだよ。
だから惜別の情とともに踊り子の切ない感情が表現できなければならないね。」
アンリはゆっくりと頷いた。
「最初にアンリ殿が思ったままを演奏してみるといい。
その後で、僕の解釈も演奏しよう。
それでアンリ殿の演奏に訂正があれば手直しをするといい。」
アンリは、譜面を見ながら演奏を始めた。
初見で演奏すること自体初めてのことであるが、曲自体は知っている上に、譜面をおさらいすることで次に出すべき音がわかっていた。
一回目の演奏が終わると、マルスが言った。
「アンリ殿の演奏で概ね大丈夫だけれど、いくつかほんの少しだけれど修正した方がいい場所もある。」
マルスは譜面の特定の場所を示しながら言った。
「こことここは、音をもう16分の1だけ伸ばした方がいい。
譜面では読み切れない情感が表現できる。
それとは逆に、ここは狂おしく舞い踊る踊り子の情景だから、逆に音を区切るように演奏した方がいい。
それと全体に音量が均一になりがちだけれど、多分練習で慣れて来れば、アンリ殿の解釈で音量の適正な調整ができるはず。
じゃぁ、少し聴いてくれるかな。」
マルスは、音階のずれているはずのモルゼックを手に取った。
マルスが演奏を始めるとアンリの周囲で時が止まった。
物悲しいモルゼックの音色が、目の前にその情景を映すようにアンリの情感を揺さぶった。
特に最後の部分で船が次第に遠くなる情景とその甲板で舞う踊り子の哀れさが身に詰まされて涙が溢れた。
「でも、他の人ならば読める。
マルビスにいる人でアンリ殿には及ばないけれど強い光を持つ者がいてね。
その内の一人がベクリアさんだ。
彼女の意識も読めない。
だから周囲の人の意識を読んで知った。
彼女は本当に未来が予知できるのかもしれないが、そこは判らない。
どうでもよいことの占いは良く外れるけれど、大事なことは良く当たるようだ。」
「じゃぁ、マルス様は光を持った人の意識は読めないけれど、ここに居ながら遠くにいる他の人の意識は読めると言うこと?」
「正確に言うと一定の大きさの光を持たない人の意識は読める。
どんな人でも皆それぞれの光を持っている。
但し、その大きさと強さが異なる。
普通の人の光は、日中に見るとほとんど見えないくらい薄い。
でもアンリ殿達の光は、直射日光の中でも識別できる。
この半年ほどの間に判ったことだから例外はあるかもしれないけれど、今のところ例外は無い。」
「で?」
「僕が、先の褒章式典の後、王都からカルベックに戻ったのは知っているね。
アンリ殿もわざわざ別れの挨拶に来てくれた。」
アンリは頷いた。
「カルベックに着いて、二日ほどしてからかな。
僕はそれまで眠っていた力が覚醒して、大きな力を得ることができた。
だが、その覚醒は周囲の生き物全てに生命の危険を伴うような副次効果が伴うものだった。
理由は判らないけれど、何となくそのことが予期できたので、僕は人里離れた場所に行き、そこで覚醒した。
覚醒した瞬間は、途轍もない力が放出され、その場に大きな破壊の爪跡が残った。
覚醒はとても疲れるもので、僕は暫く大地に横たわって寝ていた。
目覚めた時、周囲の意識が全て押し寄せてきてパニックに陥った。
でもその中で、サディス公爵一家を狙う刺客団の意識も識別できた。
で、アンリ殿達を救うために動いた。」
「あ、ちょっと待って、その覚醒の日って、もしかして私たちの王都から出立した日なのかしら?」
マルスは頷いた。
驚愕の表情を浮かべながらアンリが言った。
「じゃぁ、あの日はカルベックに居たのね。
それなのに、アズラン峠にマルス様は騎馬で現れた。
いくら早い馬でもカルベックからアズラン峠までは丸々一日かかるはず。
なのに、マルス様が峠の頂上付近で待っていたのは正午前のこと。
一体どうやって・・・。」
「遠くの場所に一瞬で移動できるからだよ。
あの朝、最初にオズラン峠に行き、刺客を始末してから頂上で待っていた。」
「じゃぁ、じゃぁ、
マルス様がお独りで80名もの賊をお斬りになったのね。
人の噂で大掛かりな仕掛けが設けられていて、その周囲に多数の濃緑色の衣装を着て覆面姿の男たちが殺されていたらしいけれど。
大曲の急斜面の頂部に80体、王都側の街道沿いに3体の身元が分からない商人の遺体が有ったそうだけれど・・・。
あれも?」
マルスはまたも静かに頷いた。
そうして静かに言った。
「刺客とは言え、僕の手は多くの人の命を奪っている。
でも急斜面から丸太や大石が公爵一家を襲うのを防ぐにはその方法しかなかった。
仮に丸太や岩の落下から免れて、幸運にも被害を受けなかったとしても、彼らが剣で襲うのは避けられなかったからね。
百名の警護の騎士では80名の賊には対応できなかっただろう。
彼らは長年暗殺だけを生業にしてきた百戦錬磨の腕利きの刺客だった。
一人で並みの騎士を三人片づけるのにさほど時間はかからなかったはずだ。
だから止むを得ずその命を絶った。
そんな僕を軽蔑するかい。」
「マルス様、私と私の家族を救うために敢えて自らの手を血で汚した貴方を軽蔑などできないわ。
あなたに助けられたのは二度目ね。
それに岩崩れ、意味がようやく分かった。
お母様が占ってもらった中にもう一つ意味不明のものがあったの。
私の夫になる人は岩が崩れるのを防ぐと言われたらしいの。
でも何の意味か分からなかった。」
そうして、アンリはマルスの目をしっかりと見ながら言った。
「やっぱり、マルス様は私の夫になるべき人です。
運命の糸が私たちをしっかりとつなぎとめていますから、私は、占いを、そうしてマルス様を信じます。」
「じゃぁ、少し試みをやってみよう。
一度にはできないけれど、アンリ殿の能力を開花させるための第一段階だと思ってくれますか?」
アンリはしっかりと頷いた。
「何をすればいい?」
「向き合って、手をつないでくれる。」
マルスは両手を差し出した。
アンリはその手に自分の両手を重ねた。
舞踏会の時も感じていたが、マルスの手はとても大きくて力強い掌だったが、騎士のようにごつごつとした手ではない。
「目をつぶってくれるかい。」
アンリは、目を閉じた。
マルスの手の暖かさが余計に感じ取れる。
「アンリ殿、これから試みようとするのは、多分五感の外にある感覚なんだ。
だから、この手の感触も、瞼を閉じても見えるだろう光も、室内外の音も、そうして温度、更には匂いや味覚も遮断してほしい。
全てを消し去ったところにアンリ殿の隠された力があるはずだ。」
アンリはそう言われて戸惑った。
「だって、どうやればいいの?
わからないわ。」
「そうだね、隠遁者が良く講ずると言われる方法が良いかもしれない。
すべてを忘れて瞑想に入るんだ。
無を感じ取るよう努力するんだ。」
「うーん、・・・。
やってみる。」
暫し、無言が続いた。
その間、マルスの身体は微動だにせず、アンリの手は一度もぶれたりしなかった。
そのお蔭でアンリは手の存在を忘れることができた。
だが雑念を追い払うことはできなかった。
それでも一瞬なにか虚無を見たような気がした。
ほんの一瞬だったが、その瞬間、何か暖かいような気配が意識に触れたような気がした。
「もういいよ。」
マルスの言葉が届いた。
「何かに触れることができたようだね。
今日のところはそこまででいい。
多分何かが変わる。
こういうことは時間をかけてする方がいいと思うからね。」
アンリはほっと溜息をついた。
「あ、そうだ。
マルス様に相談しようと思っていたことがあるの。
実は、婚礼の宴には赤の楽師団が招かれているの。
で、婚礼の日の翌日に楽師団の長とモルゼックの奏者をお招きして、私の演奏を聴いていただくことになっているの。
母がその手配をしてくれたのよ。
何を演奏したらいいかまだ迷っていて、マルス様の意見をお聞きしたいの。」
「じゃぁ、ちょっと手を見せてくれる。」
マルスはアンリの手のひらをじっくりと見ていた。
「人差し指と小指の間をできるだけ広げて見てくれる?」
アンリはそのまま指をできるだけ広げた。
「うん、もう少ししたらならモルゼックの運指が楽にできるようになるけれど、まだだね。
やはり、タムセールはできるだけ遠慮した方がいい。
ラセールよりも少しテンポの遅いクラセールならもうできるかもしれないね。
アンリ殿大きく息を吸って、それからゆっくりと息を吐き出してくれる。」
アンリは言われた通り、息を吸いゆっくりと吐いた。
「ほう、文では少し武芸の練習もしていると書いてあったけれど、その成果が表れている。
この分では、1年経たずにタムセールも十分に演じられるかもしれない。
ならば、クラセールの湖上の舞という曲があるけれど、今のアンリ殿なら演奏できるかもしれない。
知っているかい?」
「聞いたことはあるけれど練習はしたことが無いわ。」
「じゃぁ、少し練習しようか。
譜面はある?」
「ええ、確かあったと思います。
ちょっと待ってくださいな。」
アンリは立ち上がって、部屋の隅にある書棚に整理されている譜面置き場に向かった。
目当てのものを見つけて、マルスの方に向きかけて、目を見開き、手にした譜面を床に落としてしまった。
「凄いわ。
マルス様、マルス様の光が見えるわ。
色々な光が波打って、言葉では言い表せないほど綺麗。
それに、それに・・・。
とっても大きいわ。
光が天井を突き抜けている。
とても信じられない。」
マルスは微笑んだ。
「どうやら試みがアンリ殿に少し変化を与えたようだね。
それが見えると言うことはアンリ殿も何らかの能力を秘めているということだよ。
でも今は譜面を拾って、モルゼックの練習をしよう。」
「あ、そうでしたね。」
アンリは譜面を拾い、更に同じ棚に置いてあるモルゼック二つを手に持った。
アンリは当然のようにマルスの隣に腰を降ろした。
「さて、アンリ殿。
曲は聞いて知っているかもしれないけれど、最初に譜面を見て曲想を掴むところから始めよう。
楽譜から仮想の音を聞くようにするんだ。
一度、そうしておけばどのように音を出せばいいかがわかる。
そうして実際に音を出してみて、手直しをする。」
アンリにとっては初めての方法だった。
これまで楽師に教わったのは、楽師が演奏するのをできるだけ真似するようにすることだけだった。
最初に譜面をよく読んで曲想を掴むなどと教えてくれた楽師は一人もいない。
アンリは必死に目で楽譜を追い、その音を頭の中で再現させた。
暫くして、アンリが顔を上げた。
「多分掴めたと思います。
これってひょっとすると別れの曲なのかしら。」
「湖上の舞は、恋人と別れなければならない踊り子が、出港する湖上の船の中で恋人との再会を願って神に捧げる舞を踊る風景を描写したものだよ。
だから惜別の情とともに踊り子の切ない感情が表現できなければならないね。」
アンリはゆっくりと頷いた。
「最初にアンリ殿が思ったままを演奏してみるといい。
その後で、僕の解釈も演奏しよう。
それでアンリ殿の演奏に訂正があれば手直しをするといい。」
アンリは、譜面を見ながら演奏を始めた。
初見で演奏すること自体初めてのことであるが、曲自体は知っている上に、譜面をおさらいすることで次に出すべき音がわかっていた。
一回目の演奏が終わると、マルスが言った。
「アンリ殿の演奏で概ね大丈夫だけれど、いくつかほんの少しだけれど修正した方がいい場所もある。」
マルスは譜面の特定の場所を示しながら言った。
「こことここは、音をもう16分の1だけ伸ばした方がいい。
譜面では読み切れない情感が表現できる。
それとは逆に、ここは狂おしく舞い踊る踊り子の情景だから、逆に音を区切るように演奏した方がいい。
それと全体に音量が均一になりがちだけれど、多分練習で慣れて来れば、アンリ殿の解釈で音量の適正な調整ができるはず。
じゃぁ、少し聴いてくれるかな。」
マルスは、音階のずれているはずのモルゼックを手に取った。
マルスが演奏を始めるとアンリの周囲で時が止まった。
物悲しいモルゼックの音色が、目の前にその情景を映すようにアンリの情感を揺さぶった。
特に最後の部分で船が次第に遠くなる情景とその甲板で舞う踊り子の哀れさが身に詰まされて涙が溢れた。
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