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6章
7
しおりを挟む第四防壁の食堂は、どんな非常事態でも最後まで日常の空気が残っている場所である。
人間美味しいものを食べていれば大体落ち着くもので、過去には特殊個体の対処中に軽傷者が集まって必勝祈願と銘打った飲み会を開いていたこともあるから相当なものだ。
とはいえ防壁内の状況を無視して、という訳ではない。
あくまで現状を飲み込んだ上で食堂スタッフが努力して「いつも通り」を維持してくれていることを、多くの構成員が理解している。
だから結局何かあれば、ここの雰囲気にも多少の影響は出るのだ。
高い天井でくるくると回る大きなファン。
あたたかな食事の匂いに、忙しなく響く食器の音。
常と変わりない談笑と軽い言い合いで満たされた広い食堂には、ほんの微かに緊張感が漂っていた。
ユーグレイは気付いただろうか。
「それだけ食べられるのなら、本当に大丈夫なようだな」
それとなく周囲を窺いながら齧り付いたパンは、良いバターが入ったからとお勧めされたものだ。
食堂定番のクリームスープに白身魚のソテー。
食欲はあると言ったのに、いまいち信用されていない。
そもそも気にするべきはそこなのか。
やっと安心したように、ユーグレイも同じパンを口に運んだ。
「ペアを信頼しろって先輩に散々言われたろーが」
「そうだな。だがそもそも」
「俺の日頃の行いが悪いって? そーですね」
わかっているのなら良い、とばっさりと返される。
一応不貞腐れた顔はするが怒ってはいなかった。
どちらかといえば、この空気に飲まれないための軽口である。
静かにスープを飲むユーグレイは特別気にした様子もないが、決して気付いていない訳ではないようだ。
彼は「未帰還者が出た訳ではないだろうが」と、淡々と言った。
まあ、そうなると流石に皆もう少し静かになる。
「また謎の体調不良が増えてるとかじゃなきゃ良いけどな。誰かに聞く?」
アトリは椅子から腰を浮かせて、食事中の面々を見渡した。
手でも振って声を掛ければ誰かしら反応はしてくれるだろうが、そこまでの気力はない。
別に良いかと言いかけて、トレイを手に空席を探していた少女と目が合った。
ふわふわした金髪。
哨戒任務帰りだろうか、灰色のローブを羽織ったままの彼女は疲れの滲む表情をぱっと引っ込めた。
蜂蜜色の瞳が、アトリを映して大きく見開かれる。
心底嬉しそうに柔らかく綻ぶ顔。
足早にテーブルに近付いて来たリンは、子犬のように懐っこく笑った。
「こんばんは、アトリさん。……ユーグレイさんも、お久しぶりです」
可愛いな、と心底から思う。
なんて言っても、研修に一から付き合った大事な後輩だ。
いくつも不安を口にしていた彼女が無事にロッタとペアを組んでとっくに哨戒任務もこなしているのだと思うと、褒めちぎりたい衝動に駆られる。
頑張ってんな、なんて今更か。
「お疲れ、リン。哨戒戻りか?」
「はい、さっき海から戻って来て。あの、お隣、良いですか?」
言いつつ、リンは手にしたトレイをテーブルに置く。
勿論と頷くと彼女はぺこりと頭を下げて、それから奥のカウンターを振り返って「ロッタさん!」とペアを呼んだ。
「リンちゃん、席あった?」
同じメニューの載ったトレイを手に、シナモン色の髪を結い上げたロッタが顔を見せる。
彼女はアトリとユーグレイを見ると一瞬驚いたような顔をして、それから意味深に微笑んだ。
アトリの隣に座ったリンと向かい合うように、ロッタはユーグレイの隣にひょいと腰を下ろす。
どうやら予想外に賑やかな夕食になりそうだ。
「えっへへー、二人とも久しぶりだよねぇ。ね、ちゃんと仲良くしてたぁ?」
「まあ、いつも通りだけど」
「そぉ? アトリさん、疲れてない?」
ロッタのあっさりとした指摘に、咄嗟に否定の言葉が出て来ない。
よもやユーグレイ以外にもバレるほどなのだろうか。
リンが心配そうにこちらを窺うのがわかる。
「だめだよぉ、ユーグレイ。気持ちはわかるけどアトリさんに無理させちゃうのは、ロッタちょっといけないと思うなぁ」
何故かくすくすと笑ってユーグレイの顔を覗き込むロッタに、彼は微かに眉を寄せる。
けれど面倒なのか、ユーグレイは結局何も答えなかった。
確かに含みがある物言いではあったが、初対面の時のような攻撃性は全く感じられない。
単純に絡みたいだけなのだろうか。
色々ありはしたがロッタという少女も案外アトリたちに悪い印象は持っていないようで、気安く声をかけて来ることが多い。
「無理してないって。今日はユーグとは別行動で、データ整理してただけだし。二人こそ、疲れてんじゃねぇの?」
哨戒任務だから当然疲労はあるだろう。
少女たちは顔を見合わせて、深く頷いた。
同時に傾く小さな頭に、アトリは思わず笑ってしまう。
「ほら、お喋りも良いけどあったかいうちに食っちゃえよ」
アトリが促すと、彼女たちは確かにそうだとばかりに手元の皿に視線を落とした。
二人は「いただきます」と口を揃えてから、白いソースのかかったパスタにフォークを差し込んだ。
くるくるとフォークに巻きつけたパスタにふうと息を吹きかけてから、そっとそれを口に運んでいく。
美味しー、と口元を押さえてロッタがしみじみ言った。
「今日すっごい大変だったもんねぇ、リンちゃん」
「そう、ですね」
指先で口の端をそっと拭いて、リンは息を吐いた。
現場で何かあったのか。
傍観者の顔をしていたユーグレイが、アトリを見る。
わかっている。
「何かあったん?」
敢えて緊張感のない口調で問うと、リンは「その」と言い淀んだ。
ただ話したくない訳ではなかったのだろう。
彼女は手にしたフォークを置くと、自身のペアに視線を送ってから口を開いた。
「今日の哨戒中に、ロッタさんが大きな影を見たんです」
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