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黒文鳥

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4章

0.2

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「………………」

 何故か驚いたように見開かれた瞳。
 恐らくは何か言おうとして、アトリは戸惑ったように口を噤んだ。
 声が出ないのか。
 酷くしろと言われたから要望通りそれなりのことはした。
 責められる謂れはないが、喉にはかなりの負担がかかったのだろう。
 
「目が覚めたか、アトリ」

「ーーーーーー」

 アトリはのろのろと毛布を引き上げて口元を隠した。
 
「熱は大分下がったようだが……、何か飲むか?」

 返事どころか、アトリは頷きもしない。
 怒っているのか。
 いや、やはりまだ体調が戻っていないのかもしれない。
 だから現実的ではないと言ったのだ。
 ソファから腰を上げたフォックスも、ユーグレイの隣に立ってアトリの様子を窺う。

「無理そうでもなんか食っとけ? アトリさん。果物の缶詰とか買って来たし、何か食いたいもんあるなら特別に買い出しに行って来てやるよ?」

 年少者を慮るようにフォックスが優しく声をかける。
 その不調が何から来るものであれ、体力をつけておくに越したことはない。
 アトリはじっとこちらを見上げて、ようやく「水、飲みたい」と呟く。
 案の定酷い声だ。
 声を出した本人も驚いたようで、眉を顰めて咳き込む。
 
「ユーグレイさんにも言ったけどさぁ、アトリさんやっぱ無理しない方が良いんじゃない? 応援依頼した自分が言うのもなんだけどサ」

 ガラスのコップに水を注いで差し出す。
 アトリは重そうに身体を起こすと、それを両手で受け取った。
 
「そんなにヤバそうだったん? 聖女様の現状は」

 ゆっくりとではあるが一息に水を飲み干したアトリが、ぼんやりとした視線をフォックスに向ける。
 
「視たんだろう、アトリ」

「……視、た?」

 まだ意識がはっきりしないらしい。
 ユーグレイは息を吐いて、アトリの額に触れた。
 驚いたようにびくりと跳ねた身体。
 空になったコップがその手から滑り落ちる。
 それを片手で受け止めると、短く息を呑むような気配があった。
 見慣れた黒い瞳には、明らかに動揺が浮かんでいる。
 ユーグレイが怒るとでも思ったのか、「ごめんなさい」と消え入るような謝罪があった。
 
「…………何故謝る?」

 少なからず衝撃があった。
 体調不良が精神面にも影響を及ぼすのは理解が出来る。
 けれど今の反応は明らかに、ユーグレイに対する怯えがあった。
 他の誰かであるのならば全く構うことはない。
 けれどそれがアトリであるのなら、話は別だ。
 
「ーー君、どうした?」

 思わず問い詰める口調になった。
 ユーグレイの些細な挙動に怯えるのも、それを一切隠せていないのも。
 あまりに、アトリらしくない。

「ほい、そこまでそこまで。ユーグレイさん、病み上がりの相棒に詰め寄ってどうするよ。本調子じゃないのは当然でしょうが」

「……………」

 俯いたアトリに、フォックスは小さく肩を竦める。
 彼を呼んでおいて欲しいと言ったのはアトリだ。
 あの瞬間まで、目を覚ましたら早々にクレハ・ヴェルテットの保護に動くつもりであったことは明らかである。
 ユーグレイも可能な範囲であればアトリの意志を尊重したいとは思うが、これでは到底動ける訳がない。
 しん、と冷え切った沈黙が満ちる。
 アトリは毛布を掴んだまま、顔を上げなかった。

「うん。年長者権限で、この仕事はここまでとしよう。クレハ・ヴェルテットの保護に関してはこっちで動くから、二人は防壁に戻ってもらって大丈夫。ほらアトリさんがこうだと、ユーグレイさんは心配でそれどころじゃないでしょうよ。んで、アトリさんはちゃーんと病院で診てもらうこと!」

 でもこんなんなるまで頑張ってくれてありがとね、とフォックスはアトリの頭に手を置いて言った。
 ひく、と微かに震えた肩。
 返事はない。
 
「んじゃあ、自分は一旦戻るけど明日一応顔出すわ。言っとくけど、ケンカはすんなよ?」

 何かあったら遅くても連絡くれて良いから、とフォックスは付け加える。
 ユーグレイは礼を言って部屋の外まで彼を見送った。
 緩衝材になってくれた人がいなくなると、部屋には張り詰めたような気配が漂う。
 アトリは身動ぎ一つせず息を殺していた。
 まるで天敵に狩られる寸前の小動物のようである。
 ユーグレイは、ベッドから少し離れたところから「アトリ」と声をかけた。
 
「……本当に、大丈夫か?」

 何かしら反応をしなければならないとは思ったようだった。
 アトリは逡巡して、それから辛うじて頷く。
 
「君、自分の名前は、言えるな?」

 僅かにアトリは顔を上げる。
 何か、どうしようもない違和感と喪失感があった。
 記憶が混濁していると言われたら、確かにそうとも捉えられる様子ではある。
 けれど例えそういう事態に陥ったのだとして、こうもアトリという人間の本質が歪むものだろうか。

「………………、アトリ」

「僕の名前は、言えるか?」

「……ユー、グレイ」

 お前何の確認してんの、ユーグ。
 軽やかにそう返って来るはずの言葉は聞こえない。
 どうしたんだ、君は。

「いつものようには呼ばないのか?」

 彼は何か言いかけて、それから途方に暮れたように瞳を伏せた。
 ごめんなさい、とまた震えるような声で彼は謝る。
 背筋が凍るような感情。
 衝動のままにその身体を押さえつけて詰問しなかった自身が、いっそ信じられないほどだった。

「……いい。君はもう休め」

 そう口にした自分が他人のような感覚がある。
 ほっとしたように小さく息を吐く音がした。
 違う。
 恐ろしいほどの確信があった。
 爪が手のひらに食い込むほど強く、拳を握り込んだ。
 焦燥と切迫感で吐き気がする。

 ここにいるのは、誰だ。

 

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