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2章
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しおりを挟む「いやぁ、皆さん仲良しですね」
第五防壁に繋がる連絡通路を、ラルフと並んで歩く。
リンとは少し前に別れたが、彼は第五防壁の客室に戻ると言うので帰路が一緒だ。
アルコールの入ったふわふわした声が、のんびりと響いた。
第四防壁の食堂は、何というか相変わらずだった。
暇な時間に仲間と交流を深めるなんてことをしないのが、ユーグレイだ。
久しぶりじゃん、と声をかけてくる同僚たちの中に、彼の姿はなかった。
ペアという関係はまあ色々あるものだから、気安く話しかけてくるような連中でもそこはあまり踏み込んでは来ない。
ただ新しい話題に飢えているのは確かだ。
可愛い子連れて、とか、調子どうなんだよ、とか詰め寄られる。
加えてラルフが「せっかくですので、ぱーっと」なんて宣言したものだから、後は真っ昼間から飲み会の流れになるのは当然だった。
リンとラルフを連れて途中で抜けて来たのだが、まだ食堂では馬鹿騒ぎの真っ最中だろう。
「すみません。こういう職場なんで、わかりやすい娯楽にはみんな目がないんですよ。大騒ぎして適度にガス抜きしないと、時々乱闘騒ぎが起こるもんで」
大目に見て下さいと言うと、彼は酷く大人の顔をして微笑んだ。
労りの滲む表情を、アトリは不思議に思いながらも見つめ返す。
「謝ることなんてありませんよ。私は、皆さんとお食事が出来てとても良かった。当たり前に仲間と笑い合って、言い合いをして、そういう普通の人たちが、この世界を守っているのだと実感出来て、本当に良かったと思っているんです」
「そう、ですか」
外の人間に、そんな風に言われると流石に面映い。
それすら見透かしたようにラルフは瞳を細める。
それから、彼は視線を通路の先へと送った。
照明の少ない連絡通路は、相変わらず薄暗い。
「アトリさんは、どこか、お身体の具合が良くないのですか?」
「…………え」
無意識に、足が止まった。
数歩先でラルフが振り返る。
「俺、どっか悪いように見えます?」
聞き返す言葉は、自分でも驚くほどに頼りない。
いや、正確に判断するなら今夜も多分辛いだろう。
でもそれを悟られるほど気を抜いていた訳でもない。
「いいえ、特には。大変元気そう、とは言いませんが、不調を抱えているようには見えませんね」
「じゃあ、何で」
アトリは歩き出す彼の隣に並ぶ。
先程よりも、歩調は緩やかだ。
少し声を落として、彼は答える。
「あまりお食事を召し上がっていなかったのが、気になりまして。お酒も飲んでいるように見せかけて、殆ど口をつけていませんでした。リンさんも、同僚の方の数人も、気付いていらっしゃるようでしたよ」
「それは、また。もうちっと、気を付けるべきでしたね」
あれだけ大騒ぎの飲み会になってしまえば、気にする人間もいないだろうと思ったのだが。
諦めて肩を竦めたアトリに、ラルフは眉を下げる。
自身の身体が痛むかのように、彼はゆるりと首を振った。
「辛いことを辛いと言うことは、悪いことではありません。差し出がましいようですが、もう少し周りの方を頼られてはどうでしょうか。少なくとも今日お会いした皆さんは、アトリさんの力になりたいと思われているようでしたし」
「………………」
沈黙したままのアトリを窺って、ラルフは言葉を重ねる。
「抱え込んでいると、いつかパンクしてしまいますよ? どうでしょう。私はそのうち国に帰る、何の関係もない外部の人間です。いっそだらだらと愚痴を言うには良い相手ではありませんか?」
「……お節介ですねー」
良く言われます、と笑った彼に、アトリは「でも、ありがとうございます」と素直に礼を言う。
その気遣いは、純粋に嬉しかった。
「まあ、治るあてがないんで愚痴も何もないんですけど。無理をしなければ死にはしないんで、大丈夫です」
「死にはしない、ですか。それを、リンさんはご存知なのですか?」
流石に強張った声でラルフは問う。
ペアなのでしょう、と言われてアトリは首を振った。
「リンはペアじゃなくて、研修に付き合ってるだけです。元々ペアだったやつとは、ちょっと前に関係解消したんで」
今は一人ですね、とアトリは事実を述べる。
ラルフはアトリの目をじっと見てから、そうですか、とゆっくり頷く。
同情も憐憫もなく、ただ静かに響いたその声は酷く心地が良かった。
別に求められた訳でもないのに、するりと言葉が口をついて出る。
「何だかんだ優しいやつだから、色々あった後も会って話したいって言ってくれたんです。でも俺、どーしても、会っては話せなくて」
こんなことを話したって仕方がない。
自身の影に視線を落とす。
自業自得だってわかってるだろ。
「とても、大切な方なんですね」
「そう、ですね。俺もう身内はいないし、ペアっていうのが一番繋がりの強い関係性だったんで。何より優先したかったし、大切にしたかったんですけど」
そう出来なかったのは、自分だ。
ふっと灯りが強くなった気がして、アトリは顔を上げた。
連絡通路は少し前で終わり、いつの間にか第五防壁に入っていたようだ。
すぐ目の前には幅の広い階段があり、アトリの自室は階下にある。
何を未練がましく語っていたのかと、急に冷静になった。
じゃあ、と逃げるように立ち去ろうとしたアトリの手を、ラルフがするりと取った。
ぱっと視線を向けると、酷く真剣な目に射抜かれる。
「具合がよろしくないのは、そのストレスが原因ですか?」
「や、そうじゃ、ないんですけど」
「そうでしょうか? アトリさん、泣きそうな顔をしていますよ。無理をしなければ死にはしないなんて言っていた時より、よほど苦しそうです」
泣きそう、と言われて咄嗟に顔を背ける。
いや、視界は滲んだりはしていない。
「先ほどの言葉を、その方に伝えなくて良いのですか? 側にいて欲しい方なのでしょう?」
「んな重苦しいこと言って、どーすんですか。そもそも俺、ペア解消してくれって一方的に関係切った側ですよ。今更あいつだって、俺の顔なんて、見たくもないかもしれなーー」
声が震えるのがわかって、アトリは口を閉じる。
顔を背けたままで良かった。
自己嫌悪でどうにかなりそうだ。
本当に、どうしようもない。
「アトリさん」
落とした視線が、一歩踏み込んで来るラルフの足を捉えた。
逃げようか、いや、もう面倒だ。
宥めるように、大きな手が背中を撫でる。
この人はやはり相当なお人好しなんだろう。
「良ければあたたかい紅茶でも、飲まれますか? もう少し、お話をしたい気分なのですが」
「…………いえ、また今度、機会があったら」
完全に善意だろうその誘いを断るのは、少しだけ罪悪感を伴った。
しっかりしろ、と自身を叱咤する。
誰かとこの後の時間を過ごすなんて、馬鹿な真似は出来ない。
いつあの反応が襲ってくるのか、わからないのだから。
アトリは顔を上げて、ラルフを見た。
一歩身体を引くと、彼の手は自然と離れる。
残念そうな表情の彼は、それでも穏やかで優しい瞳をしていた。
「ありがとうございます、ラルフさん。俺がもうちょっと冷静に話せるようになったら、そん時は愚痴に付き合って下さい」
辛うじて笑ってそう言うと、ラルフは「もちろん」と頷いた。
「せっかくこうしてお会いしたのですから、何か力になれそうなことがあれば何時でも声をかけて下さい。ああ、紅茶は皇国から持って来た良いものですので、ぜひ今度リンさんも誘ってお茶会と洒落込みましょう」
それは、きっとリンも喜ぶだろう。
ラルフもそう思ったのか、鳶色の瞳が緩やかに弧を描く。
「では、おやすみなさい。アトリさん。どうぞゆっくりと休まれますよう」
大切な方と早く仲直りが出来るよう祈っております、とラルフは微笑んだ。
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