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黒文鳥

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1章

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『対象、第三防壁を越えます! 反応追い切れません! まもなくロスト、救助を急いで下さい!』

 足首までしかない海水を蹴るようにしてその影を追いながら、そんなことはわかってるよ、と喚き散らしたい感情を飲み込む。
 空の色を映す浅い海。
 海底に積もる半透明の砂利に、踏み込む足が僅かに埋もれる。
 幾重もの防壁で囲われたこの広大な領域において、第三区画と称されるこの一帯は人工的に排除されたかのように障害物がなくただ足が浸かるほどの穏やかな海が広がっているだけ。
 最も人の活動に適している区画と言われるが、それは別段『人間に有利である』という意味ではない。
 滑るように疾走する黒い影が、大きく飛び跳ねて白い防壁にへばりついた。
 速い。
 膨らんだ腹部から突き出した四肢が、滑らかな石壁を容易く捉えて進む。

「……やだ、だめ、だめ。いや、嫌だぁッ!!」

 背後から、耳を塞ぎたくなるような少女の絶叫が響いた。
 あれに、目の前で友人を飲まれたのだ。
 その絶望は目を背けたくなるほどに身に迫って想像が出来た。
 大きく膨れ上がった腹部は、ただ影の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。
 間に合うだろうか。
 いや、間に合え。

「アトリ!」

 名前を呼ばれるのと同時に、左手をそちらに差し出した。
 傍を走っていた銀髪の青年は、当然とばかりにその手を掴む。
 瞬間。
 ばちりと意識が切り替わる。
 全身の血液が凍りつくような、凄まじいほどの魔力の流れ。
 それでも影は遠い。
 潰すのは、可能だろう。
 けれどそれは救助者も諸共である。
 繋いだ左手を離して、アトリは指先を影へと向けた。

「落とす! ユーグ、フォローよろしく!!」

「五秒は君が稼げ」

「くっそ無茶言うー!」

 ぐっとつま先に力を入れて失速する。
 すぐ脇を銀髪の相棒がすり抜けて行った。
 影はもう防壁を半分以上登っている。
 黒く歪な腕が上へ上へと伸ばされる。
 焦るな。
 焦点を合わせろ。
 決して過たず。
 
『撃て』

 強化した視力で、確かに影の腕が破裂したことを見届ける。
 バランスを崩したそれが墜落しないよう、残る腕の一本を壁に縫い付けるように撃ち抜く。
 長くは持たない。
 飛ばした魔力は淡く光る矢のように頼りない。
 
 一秒、二秒。
 
 ぶつりと、縫い付けていた影の腕が千切れる。
 抵抗もなくそれは落下を開始する。
 ユーグレイはまだそこに届かない。
 誰かが息を飲む。
 自分だろうか、背後で立ち竦む少女だろうか。
 アトリは受け取った魔力を限界まで視力に回した。
 痛みを伴うのは自身の脳の防衛反応であると理解している。
 けれど。
 なんとしても、五秒稼げ。
 その五秒の後は、相棒が何とかしてくれる。
 捉える光景はスピードを失い、音が消えた。
 
 もう一度で良い。
 
 白い防壁を背後に、緩やかに落ちていく黒い影。
 膨らんだ腹部はその重さのまま、真っ先に地面に叩きつけられるだろう。
 破裂して跡形もない腕と、根元が僅かに残っている腕。
 力なく開かれた細長い脚。
 その僅かに曲がった関節に目掛けて。
 
 撃つ。

 ぐるんと回転するようにして影は再度壁に縫い止められた。
 それだけ確認して、視力に回した魔力を散らす。

「……っう」

 瞳を閉じて、アトリは呻くように息を吐いた。
 後ろにいた少女が我に返ったように、それの落下地点へと駆けて行く。
 五秒は、稼いだだろう。
 腕と同じように射抜かれたところから脚が千切れ、落下を開始する。
 けれど、そこにはもうユーグレイがいる。
 それなら大丈夫だ。
 頭を振って、アトリはようやく走り出した。

 
 腹を割かれた影は浅い海にゆらゆらと浮かんでいる。
 流れる血もない。
 臓器らしきものもなければ、肉だと断言出来る部位もない。
 無理に言うのなら、死んだ海月に少しばかり印象が近いだろうか。
 人を飲み込むまで、四肢さえ持たない魚影に似たものでしかなかったのだから不定形で変異するものであることは確かだ。
 生き物と定義するには、あまりに異常である。

 人魚。

 だから人間は、これをそう呼称する。
 幻想にのみ存在し、人智の及ばぬ神秘を纏うもの。
 人を襲い、連れ去るもの。
 人類の『敵』である。

『対象の沈黙、及び救助者の生存を確認しました。至急第三防壁に帰還願います』

 区画内に響く通信に、アトリは息を吐いた。
 泣きじゃくる少女が意識のない友人を抱き締めている。
 同じ年頃の女の子だ。
 顔色は良くないが微かに上下する胸元に視線をやって、やっと安堵する。
 
「外傷はない。気を失っているだけだ」

 人魚の腹を割いた青白い長剣を鞘に収めて、ユーグレイが淡々と言った。
 感情の読みにくい端正な顔に、冷ややかな碧眼。
 もう少し無事を喜べよと、言うだけ無駄だとアトリは理解している。
 相棒はまあ、悪い気なくこういう奴である。
 
「そりゃあ、ホント、何よりで」

 軽い言葉しか出て来なかったが、重く肺を潰すほどだった緊張感が抜けていく。
 第三防壁を越えると、次の第二防壁まではあまり距離がない。
 第二防壁の先は、侵入禁止区画である第一防壁。
 そして『0地点』がある。
 人を飲み込んだ人魚が目指す、不確定領域。
 そこまで連れ去られてしまえば、もうどうしようもない。
 足首に柔らかく打ちかかる海水に、思考が立ち戻る。
 
「とにかく第三まで帰ろう。ユーグ、その子をーー……」

 唐突に。
 ぐい、と背後から腕を掴まれた。
 遠慮のない、身体を引き倒すような悪意を持った力だった。
 こちらを見上げた少女の、呆然とした泣き顔。
 すでにこちらに一歩踏み出したユーグレイの、珍しく切羽詰まった表情。
 ああ、と状況を理解してアトリは苦笑する。
 一匹仕留めて安心してたら後ろにもう一匹いて丸呑みされて、なんて。
 レアケースもレアケースだが、まあ油断したこちらが悪い。
 第三区画がいかに人の活動に適していようと、そこは本来奴らの領域だ。
 人間が隙を見せる瞬間を、息を潜めて狙うのが人魚である。
 頭部がないくせにそういう知恵はあるのだから、厄介なことこの上ない。
 どう身体が持って行かれたのか。
 浅い海底に肩を打ちつけ、飛沫が上がった。
 視界を覆う黒い影。
 なるほど、これが人魚の捕食か。
 さぞ悍ましいものだろうと思ったが、案外黒いベールをかけられるようで危機感を覚えないもんだなとアトリは思った。

「……アトリ!!」

 鋭く、切り裂くようなユーグレイの声に、アトリは反射的に左手を伸ばした。
 彼と接触さえ出来れば、アトリは受け取った魔力を撃ち出せる。
 けれど能力上、アトリは自身で魔力を生成出来ない。
 つまりこの瞬間彼に触れることが出来なければ、もう、それでお終いだった。
 目を閉じているのか、それとも開いているのか。
 深い暗闇に飲まれた視界に、相棒の姿は映らない。
 それでも、まあユーグレイならこの手を掴んでくれるだろうという呑気な確信があった。
 不安になるほどの間もない。
 アトリの手より少しだけ大きい神経質そうな手が、思い切り左手を掴んだ。
 いつもはひんやりとした指先が、燃えるように熱い。
 いや、折れるから。
 いっそ人魚の方が優しい接触だったと思えるほどの力だった。
 指先がぐっと皮膚に食い込む。
 
 熱い。
 
 刹那身体を貫いた魔力の熱。
 受け取り切れない。
 器から溢れるほどのそれは。
 熱い。痛い。冷たい。
 ああ、違う。
 ばきん、と何かが壊れるような幻聴。
 
 アトリ。

 聞き慣れたその声に返事をすることも出来ず、ただその熱に意識が溶けていった。


 
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