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しおりを挟むその気配をレンは匂いで感じ取った。
何の匂い、と表現することは難しい。
何にも似ていない、それはただ物心ついた頃からそうと感じるRデータの気配だ。
そしてそうやって感じ取れるだけのものは、大抵が存在証明ではどうしようもない強度であることが多い。
はあ、とレンは息を吐いた。
調査依頼は、三十代後半の夫婦から。
住居は中央区のマンション。
数年前に区画整理された地域で、比較的雑多な雰囲気の中央区には珍しい広い公園に面した綺麗なマンションだった。
時刻は午後十時半過ぎ。
依頼人の夫婦は、マンションのエントランスで待っていた。
何かスポーツでもやっていそうな体格の良い夫と、線の細い小柄な妻。
夫は青白い顔をした妻の肩を抱いている。
夫の方は、やって来たレンたちを一瞥して安堵したように強張っていた表情を緩めた。
その時点で、もう匂う。
レンは定型の挨拶を適当に済ませて、夫に守られるようにして俯いている妻に視線を移した。
彼女は胸元で指先を握り込むようにして、ゆっくりと擦り合わせている。
寒いのか。
いや、指先に小さな絆創膏が貼ってあるところを見ると怪我が気になるのかもしれない。
どちらにせよ、全く落ち着かない様子だ。
随分お若いんですね、と呟く夫は、けれどレンの鋭い視線に言葉を続けることはしなかった。
軽い足取りでついてきたアルエットが、レンの傍でぴたりと動きを止める。
データ憑きとして同程度の感応力を有するはずの彼女も、恐らくは気づいただろう。
間違いなく、この妻が現象点である。
「早速ですが、ご自宅でお話を伺っても良いですか?」
疑問系ではあるが、レンはほぼ促すようにして彼らに移動を求める。
夫妻は瞬間びくりと肩を震わせた。
家は、と言いかける夫に、レンは先手を打って「安全上、ここでは対応出来ません」と告げる。
人が現象点であるのなら、最早どこにいてもRデータの影響下だ。
そしてRデータに周囲への配慮など到底求められるものではなく、この場合は影響を避けるため隔離された空間での対処が望ましい。
明らかに怯んだ様子の妻に対して、夫は僅かな沈黙の後意を決したように頷いた。
共用の長い廊下から、エレベーターに乗る。
少し先を歩く夫婦の後に続きながら、レンは手早く携帯端末で一通メールを送った。
「どうしたの?」
大人しくついて来ていたアルエットがとと、と小走りに駆け寄って来て隣に並んだ。
上目遣いにこちらを見上げる様子は、どうしても犬を連想させる。
ただ可愛い顔をしたって、中身は猛犬である。
レンはほとんど無感動にその問いに答える。
「一応対策班に連絡入れといた。今夜は調査ついでの証明で片がつきそうにないからな」
当然、能力的なことを言うのならばアルエットに任せれば良い話である。
けれどそれでは結局、アルエットの在り方は変わらない。
状況を見て、支援を求める。
僅かでも不確定要素があるのなら、単独行動はしない。
対策班ではないレンでさえわかるような基本的な行動方針を叩き込まなければ、結局のところアルエットは誰かとセットで仕事を出来るようにはならないだろう。
対策班に連絡と聞いて、アルエットは少しだけ眉を寄せた。
ああ不満なんだなと、レンは意外にもすんなり彼女の表情を理解した。
「何で? アンリエッタがいるよ」
「おいこら清々しいほど反省してないな! そもそも俺たちは対策班として行動してるわけじゃない。調査班として場合によってはきちんと対策班に連絡しとかないと、そういうことにはくっそシビアだぞ、連中は」
それは高すぎるプロ意識というやつだろうか。
調査班として越権行為であると見做されると、報告書の提出程度では許してもらえない。
対策班としては民間人の安全のためにも、見過ごせないことではあるのだろう。
この手のことで対策班への連絡を疎かにして良いことは、一つもない。
「アンリエッタは確かに最強の部類だけど、それにばっか気を取られてると足元掬われるぞ」
嫌味ではなく、ただ忠告としてレンはそう言う。
アルエットは、幸いアンリエッタを馬鹿にされたとは思わなかったようだ。
ただひたすらに不思議そうに、ゆっくりと瞬いた。
「でも、レンもいる」
「ーーーーは?」
レンは気の抜けた声を出して、まじまじとアルエットを見返した。
シナモンの色をした癖のない髪をさらさらと揺らして、彼女は笑う。
アンリエッタではない、他者を頼りにする言葉。
何故か、その言葉だけは彼女の口から出て来ないだろうと思っていた。
「レンは、難しい顔してなければもっと格好良いのにね」
それは何か大切な違和感だったような気がしたのに、一瞬でどうでも良くなった。
まだ短い付き合いだが、アルエットの性格上その不名誉な感想が揶揄でも何でもなく本心から出たものであるとわかるだけに、何だか腹立たしい。
レンの沈黙をどう捉えたのか、アルエットは「だから、ね」と呑気に話を続ける。
「私にはアンリエッタがいて、怖いものは何もない。でも知らないことはいっぱいある。レンにはシオがいて、いろんなことを知っている。存在証明ならレンが出来るし、それでだめならアンリエッタがいる。だからほら、他に誰かの助けなんて必要ないと思う」
「………………」
そういう真理だけは的確に突いてくるから、侮れない。
保有データの相性もあるが、「欠けている部分を補う」という面でレンとアルエットは極めてセットにしやすかったのだろう。
対策班のお偉方の考えそうなことである。
レンは否定も肯定もせず、ただ「どうだか」と肩を竦めた。
納得のいかない様子のアルエットも、前を歩く依頼人たちが振り返って渋々引き下がる。
八階の角部屋。
エレベーターから降りてここまでの廊下も、広く明るい。
異変は、まだ匂いしか感じられなかった。
自宅です、と暗く一言口にした夫が、僅かな躊躇の後鍵を開けた。
明るい。
当然の忌避行動で、照明は煌々と室内を照らしていた。
夫妻はレンとアルエットを促してから、まるで牢獄に入るかのように憔悴した表情で玄関の扉を閉めた。
「これは、また」
玄関から短い廊下を経て、広いリビングに出る。
外観もそうだが、内装も随分と洒落た造りである。
いわゆるそれなりの富裕層が住む場所なのだろう。
リビングの窓は大きく、中央にベッドと見紛うばかりのソファが置いてある。
壁掛けのテレビは最早スクリーンで、ワイン片手の鑑賞用か華奢な作りのサードテーブルまで備えてあった。
けれどレンの関心は当然そこには寄せられない。
「すごいね」
流石のアルエットも、今回はそう言って部屋を見渡した。
全て、開いている。
棚、引き出し、クローゼット、冷蔵庫ですら例外ではない。
それらが全て開けられていた。
家探しの痕跡でないとわかるのは、それが「開けられている」だけで中身は全てそのままだからだ。
レンは一通り室内を観察してから、「では」と夫妻に向き直った。
「財団への依頼から四日経っています。資料は預かっていますが、改めて少しお話を聞かせて頂いてもいいですか?」
夫妻は視線を交わすと、首を縦に振って語り出す。
その現象に遭遇したのは、やはり妻が先らしい。
夫は妻の様子がおかしいことに気づき、大丈夫だからと繰り返す彼女を問い詰めるようにして話を聞き出したようだ。
そしてそれから、彼もRデータの影響を受けることになる。
「一ヶ月前にご親族の方が亡くなっているそうですが」
壁側のチェストの上、飾られた写真を眺めるアルエットはもう室内の異様さに慣れたらしい。
相変わらずな彼女の行動を視界の隅に入れながら、レンは質問を続ける。
「……ええ、はい。妻の伯父にあたる方です。ご高齢で、病院でご家族の方に看取られました。私たちもお葬式に出たくらいで特別交流はなくて」
親族の死というのはRデータ発生の一因になりやすいが、どうも関連が薄い。
夫は妻を気遣いながら、「でも彼女は」と付け加える。
「Rデータに対して敏感で。子どもの頃からだそうで、これまでも頻繁に遭遇することがあったようです。だから伯父のお葬式の後から塞ぎ込んでいることが多くなって」
肝心の妻は時折怯えたように室内を見回しては、視線を落とすばかりだ。
何度も何度も指先を擦り、酷く落ち着かない。
葬儀の後から、と言うのなら関係はあるのだろうか。
死んだ何かが核になっているデータは、やはり総じて強度が高い。
霊核情報と分類されるそれは、対策班でも情報破壊で対処するしかないことが殆どである。
匂いで感じ取れるほどの強度を鑑みるならば、逝去した伯父が核と見るべきか。
思考を遮る、鈍い音。
痛い、と気の抜けるような小さな悲鳴が聞こえて、レンは肩を落とす。
「アルエット」
写真に見入っていて、引き出されたままのチェストの取手に手をぶつけたらしい。
彼女は三人の視線を受けて、一応「ごめんなさい」と謝る。
謝って、その引き出しを押し込む。
本来は閉じているものだ。
そしてたった今痛い思いをしたのだから、それは至極当然の行為だった。
何の問題もない。
ただ、この場でなければ。
ひゅ、と誰かが鋭く息を呑む。
だめ、やめて、と辛うじて言葉に聞こえるほどの音で、妻が叫んだ。
それはぎりぎりで保たれていた何かを引き裂くような絶叫。
アルエットはびく、と反射的に跳ねて。
かこんと引き出しが閉まった。
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