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しおりを挟むその区画は、オーバーシティ中央区の端に位置する居住区だった。
雰囲気としては、レンが住んでいるところと少し似ているだろうか。
古い石畳を、あまり数の多くない街灯が点々と照らしている。
建物は質素なバンガローが殆どで、後はせいぜい二階建て程度のアパートメントが数棟並んでいるのが見えるくらいだ。
モノレールの駅からも遠いため立地としてはあまり良くないが、入り組んだ街並みの割に道幅も広い。
典型的な、オーバーシティの古き良き居住区である。
Rデータの対処依頼は、区画奥のアパートの二階に住む住人からだった。
煉瓦造りの赤茶けた外観は、周囲の建物より新しい。
歩道に面した敷地には整えられた植木が見え、管理の良さが窺えた。
レンは愛用の端末を収めた鞄を片手に、アパートの階段を上る。
アルエットは何も言わず、数歩後を離れずついて来た。
「何が出るのかな?」
「何が出るって、さっき資料見ただろ?」
肩越しに振り返ると、アルエットは微笑んだまま頷く。
車内でアルエットに見せた端末の資料には、依頼人の個人情報からRデータの相談内容まで全て記載されている。
「うん。見た」
「…………」
これは、見たけど読んではいないやつだ。
ミーティアが言っていた「大変問題あり」とは、アンリエッタの挨拶に限った話ではないかもしれない。
共用の廊下を少し行くと、すぐ依頼人の部屋だった。
部屋の番号を確認してから、レンは扉脇のブザーを押す。
ビー、と風情のない電子音が鳴り響いたが、応答はなかった。
少し待ってから、もう一度ブザーを押す。
「……あれ?」
廊下側に窓がないため、室内の灯りで不在かどうか確かめることが出来ない。
けれど、レンたちの訪問は予め連絡してあるはずだ。
アルエットが全く躊躇いなく、ドアに耳を当てた。
「おいこら」
「ん、テレビの音だったら聞こえるよ。寝ちゃってるだけじゃないかな?」
「……あぁ、なるほど」
寝てはいないだろう。
状況を呑み込めたレンは、端末を取り出すと依頼人の通信端末宛てに電話をかけた。
一度目のコール音が終わるより早く、慌てた声で応答がある。
『は、はいッ!』
その声はドアに耳を当てていなくても、十分に聞こえるほどの大きさだった。
男性の声だ。
「ニルフェリア財団より依頼の件で参りました」
レンは端末と、扉の向こうにも声をかけた。
ばたん、がだだ、となかなかの騒音が響く。
レンはまだドアに顔を近づけたままのアルエットを、ぐいと後方へ引っ張る。
同時に、勢い良くドアが開いた。
顔を出したのは、レンと同年代と思しき青年だった。
染めてから時間が経ったのか、生え際だけが焦げ茶色の金髪は櫛を通しているとは思えないほど乱れっぱなしだ。
ちゃんとしていればそれなりに見栄えのする容姿のはずだが、目の下にはくっきりと隈が浮かび、寝不足の祟った肌は酷く荒れている。
服だけは、若者が好きそうな左右非対称の洒落たロングシャツにタイトパンツである。
いやそれが、彼の「普段」の名残なのだろう。
「ざ、財団。ホントに、来た。やっと」
彼はぽつぽつと呟いてから、くしゃりと顔を歪めたが流石に泣き出しはしなかった。
案の定彼の首には重たそうなヘッドホンがかかっていて、大音量で音楽がかかっているのが聴こえる。
だから、ブザーの音に気付かなかったのだろう。
音楽を楽しんでいたわけではない。
音に、異常に怯えている。
「レン・フリューベルと、アルエット・セルバークと申します。とりあえず、上がらせて頂いてもいいですか?」
所属証を見せて、レンは殊更ゆっくりと訊いた。
同じ年頃或いはもっと幼く見えているだろう二人に、疑問の言葉一つなく彼は「どうぞ」と二人を招き入れる。
資料ではそれほど緊急性が高いとは思えなかったが、精神的にはかなり追い詰められているようだ。
「失礼します」
踏み込んだ部屋は、とても明るかった。
情報では一人暮らしのようだが、キッチン、リビングは二人暮らしでも十分なほどの広さだ。
リビングの奥、ベッドルームに続く扉は開けっ放しになっている。
そして全ての部屋の、ありとあらゆる照明が点けられていた。
Rデータに対する典型的な忌避行動だ。
明るければ怖いことは起きない、という考えは多くの人間が有している。
言葉や想像がRデータに大きく影響を与えているため、その行動は実際一定の効果があると証明されている。
けれど、それを踏み越えてくるRデータも多い。
レンはちらりとテレビに視線をやった。
明らかに大きすぎる音で、賑やかな番組が流れている。
「どう、ですか?」
まだ部屋に入ったばかりなのに、青年は急かすようにそう問いかけた。
「もう見えたり、してるんですか? 今夜、始末してくれるんですよね? おれ、おれ、全然寝れてないし、もうキツくて」
「落ち着いて下さい。ご依頼から二日経っていますし、改めてお話を訊きたいのですが」
正直に言えば、それなりにヤバいRデータであれば一瞬でわかる。
けれど青年の部屋には、あまり濃い気配がないのだ。
それこそ、発生したばかりのRデータの核のような弱々しいものしか感じない。
アルエットも同様のようだ。
彼女は興味なさそうに、テーブルの上に積まれた雑誌や部屋の隅にまとめられた衣類など視線を落とし、うろうろと部屋の中を歩き回っている。
青年はだいぶ参っているようだが、やはりRデータとしてはそう強いものではなさそうだ。
「あ、ああ、そうですよね。えっと、でも、話しても大丈夫ですか?」
怖い話をしていると寄って来るというやつだ。
一般人にも良く知られている真実だが、何なら彼が話すことでRデータが出て来るなら楽が出来る。
レンは「どうぞ」と促した。
「状況も、変わっているようですし」
そう付け加えると、青年は疲れ切ったように息を吐いた。
「……最初は、影だったんです」
ふと気が付いた時に、視界の隅を黒い影が通る。
最初は別段気にしていなかったし、目の錯覚か何かだろうと思っていたそうだ。
それが、どこにいてもかなりの頻度で起こる。
実際に見てやろうと視線を向けると、影はすっと消えてしまう。
けれど、視線を感じる。
誰かいるような感じがする。
意識しないようにと思っても、限界があった。
確かに、「いる」のだ。
実際にここまで悩まされる人間は多くはないだろうが、人はRデータに慣れている。
Rデータかもしれない、と財団に相談を寄せたのは、その現象を初めて目にしてから二週間経ってからだった。
「……財団に、相談してから、やっぱりRデータなんだろうなって。そう実感したら、怖くなって……。そしたら、何か、足音まで聞こえるようになって」
怖い怖いと思っていると、それがRデータに変異を齎す。
彼は影を「幽霊みたいなもの」と認識したのだろう。
そこにいるなら、足音もするかもしれない。
足音が聴こえたら、怖い。
それがそのまま、Rデータに情報として付随してしまっている。
「わかり、ます? 素足で室内を歩く時の、あの、ぺたって音。それが、ずっと、ずっとずっとずっとずっと」
殆ど悲鳴のように言い切って、青年は顔を覆った。
彼の左手の中指には、ガーゼが巻かれている。
殆ど眠れていないなら、注意力も散漫になっているはずだ。
調理中包丁で、硝子を割って、剃刀で。
Rデータの被害に合っている人は、よくやるのだ。
「何で……、バカなことしたんだろ、おれ。そんなつもりじゃなかったのに」
呻くように、青年が呟いた。
「何か、心当たりでも?」
気付かずRデータと遭遇することもあるが、原因があることの方が多い。
青年はレンの問いにはっとしたように顔を上げた。
けれど生気のない顔で「いえ」と弱く否定する。
「いえ、えっと、友人と話を、して。怖い話、なんかを面白半分で」
「ん? じゃ、それが原因なんじゃないですか?」
「あ、はい。そう……、ですね」
駄目だ。
思考能力も落ちていそうだ。
このままだと、アパートの階段から落ちて大怪我でもしそうである。
「弱そう」
唐突に、アルエットが口を挟んだ。
言葉が少なくて意味がわからなかったが、「そんなに怖がらなくてもいいのに」と付け加えた辺り、Rデータとしては大したことないと言いたかったらしい。
「だって、放っておいても消えちゃいそうだよ?」
アルエットは手持無沙汰なのか、窓際に寄って締め切られたカーテンを片手でゆらゆらと揺らす。
他人様の家で、随分と自由なことを。
「二人もデータ憑きがいるのに、全然反応しないし」
それは、確かに彼女の言うとおりだ。
データ憑きはその感応力の高さゆえ、Rデータを刺激しやすい。
それが二人も揃って、今のところ影が見えるどころか気配も弱い。
「まあ、情報強度は低いだろうけど変異性は確認出来た。放っておいても消えるかどうかは、怪しいとこだと思う」
表情は変わらないが、「つまらない」と言いたげなアルエットに、レンは釘を刺した。
彼女はもちろん不満ではないとばかりに、「そっか」と頷く。
「情報の、何が低いんですか? 危険性ですか? え、大丈夫ってことですか?」
少しばかり蚊帳の外だった青年が、焦ったように質問を重ねた。
「ああ、すみません。Rデータの基礎情報が弱そうだって話です。どうしようもないものではないですから、そこは安心して下さい」
レンの説明で、彼は強張った頬を緩める。
情報強度とは、大雑把にはRデータの強さを示す財団の専門用語だ。
現象の強さ、弱さに対して「情報強度が高い、低い」という言い方をする。
今回のようなRデータであれば、影が視界を彷徨き足音がする程度で、存在を訴えてはいるが完全な害意まではまだ持っていないと考えられる。
情報強度が低ければ、存在証明で十分に対処出来る。
「とりあえず、始めましょうか」
レンは左手の手袋を嵌め直して、言った。
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