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しおりを挟む三十一のシティからなる共和国内でも、湾岸に位置するオーバーシティはニルフェリア財団の本拠地と言っても過言ではない。
特に港湾区は、そのほとんどが財団所有地だ。
かのステルラ・ニルフェリアの血縁者によって組織されたニルフェリア財団は現在学園から病院、商業施設の経営とあらゆる分野に手を伸ばしている。
だが、財団の組織理念は当初から一つだけである。
Rデータの研究、および対処。
その一念をもって財団は全世界に拠点を持ち、「専門家」としての地位を確立している。
かく言うレンも、ニルフェリア財団第二研究区に所属する研究員である。
十六で研究員になって、三年目。
十九歳は共和国の法で立派な成人ではあるが、レンはいささか童顔の傾向にある。
放置気味の癖のない黒髪は大体いつも襟足を隠すほどの長さで、辛うじて見苦しくはないものの、どうにも誠実さに欠ける印象を残す。
加えて研究職らしい虚弱さが見て取れる体型とあって、未だに初対面の相手には所属の虚偽を疑われる始末だ。
それだけならまだしも、新人警備員に研究区への立ち入りを拒まれた苦い経験すらあった。
そのためレンは出勤時から、財団支給の黒いロングコートと手袋を欠かさない。
薄手ではあるが仕立ての良いコートは、パーカーの上から羽織っても大体それなりに見える優れものである。
更に左手に黒い手袋を嵌めれば、それは一般人でも知っている「財団関係者の制服」だ。
正確には、主にRデータと直接対峙する財団の対策班、そしてごく一部の調査員のみ着用を許された装備である。
レンは研究員であるが、Rデータの調査を任されているためこの「一部」に入る。
簡単に言うならば市警の制服と同じで、それだけで身分証になるのだ。
かくしてレンは端末を小脇に抱え、今日も黒いコートを翻して港湾区の公園を突っ切る。
アパートのある区画は少し古い区画で雑然とした面白みのない居住区だが、通り二本を海側に抜けると雰囲気が一変する。
土地が余っているのかと疑いたくなるような広大な公園は、海沿い約一キロに渡って続いている。
何があるというわけでもない。
けれど広さを利用してのランニングや散歩、ベンチも多く噴水もあることからピクニックにも利用されているようだ。
近くには財団運営のショッピングモールなんかもあって、最近は財団関係者だけでなく一般の利用者も増えている気がする。
秋季らしい落ち着いた色合いの花壇を横目に、レンは公園を抜けた。
道路を渡ると、その先がレンの職場である。
高い鉄柵にぐるりと囲まれたその区画は、ニルフェリア財団の本部だ。
本部、対策部、研究部の全てが集まっているため、オーバーシティの有名大学もびっくりの敷地面積を誇る。
とはいえぎゅうぎゅうに建物が聳えているわけではなく、公園と似た雰囲気で緑が多く、白とライトグレーを基調とした建物は圧迫感なく隣接している。
大型車両なんて滅多に入らないのに年中開け放たれている門扉は、Rデータに関わる組織として一般になるべく親しみやすく明るいイメージを持ってもらうためだろう。
「やあ、今日も重役出勤かな?」
門扉脇の警備室から、見知った顔の壮年男性が声をかけてくる。
レンはコートの内ポケットからホルダーに入れた所属証を出して見せて、「昨日も調査だったもので」と答えた。
「ああ、対策班の方もこの時期は忙しそうだしねぇ」
「年度が切り替わって、色々落ち着き出す今頃が、噂ってのは広がりやすいみたいですから」
Rデータは年中ところ構わず発生するものだが、中でも人の想像や噂から発生するような影核情報はこの時期が最も発生件数が多い。
秋季の一日を年度の区切りとする共和国では、その慌ただしさが過ぎた今頃がピークというわけだ。
むやみに噂を広めないようにという罰則規定はあるものの、人の口に戸は立てられない。
新入生や新入社員、或いは新居に越して来たばかりの人に「ここ、実はね」という奴が、掃いて捨てるほどいるのだ。
「お疲れさんなことだ。でもほら、対策班の新人もそろそろ相方を決めて本格的に活動始めるんだろう? ちょっとは楽になるんじゃないか?」
「や、別に俺は、調査苦じゃないんで、じゃんじゃん振ってもらって良いんですけどね」
そりゃまた、と呆れた顔をした警備員に軽く会釈だけして、レンは研究棟に向かった。
四つある研究棟の一つが、レンの所属する第二研究区である。
ライトグレーの外壁と二面がガラス張りになった一階部分が、解放感と清潔感を押し付けて来る。
が、五階建てのその内部は十三の研究室と資料室、書庫、会議室などが詰まった研究員の巣窟だ。
ミーティア・ニルフェリア主任を筆頭とした、第二研究区。
Rデータの現象をデータとして集め、解析、管理すること。
対策班によるRデータの対処を全てデータ化、記録すること。
ステルラ・ニルフェリアの構築したRデータ対処システムの解明すること。
第二研究区は、主にこれらを目的としている。
アパートの一室よりやや狭い研究室を更に圧迫する本棚から、資料ファイルを引き出す。
来客用のソファに積まれたいくつかの本を崩すようにして取って、レンはデスクに向かった。
他の研究員たちの例に漏れず、レンの研究室もほとんど本と紙に埋もれている。
デスクチェアに腰掛け、端末を開くと完成間近の報告書に改めて目を通した。
地道な作業である。
Rデータというのは、それぞれが独立している。
完全に性質が一致するRデータというものは存在しない。
けれど傾向はある。
何が核となったものか、どのような条件で現象が起こるのか、そしてどのような対処が行われたのか。
分析は常に次の対処のために用いられる。
地道だが、決して無為な作業ではない。
片手でキーボードを叩きながら、ふと研究室の外から響く高いヒールの音に気づく。
かつかつ、とどこか軽快に近づいてくるのは、恐らくは気分転換にしょうもないことを語りに来たミーティア主任だろう。
残念なことに、この手の予想は外さないレンである。
いや、いっそRデータの方が質が良い。
こういうご機嫌な足音を立てる時ほど、彼女は実際機嫌が悪い。
「やあ! レン・フリューベル君。ご機嫌かな!」
一瞬の静寂の後、ばん、と勢い良くドアを開けて、開口一番彼女はそう言った。
ミーティア・ニルフェリア。
ゆるくサイドで纏めた栗色の髪は、鎖骨を隠すほど。
フレームの華奢な眼鏡でやや印象は柔らかいが、髪より色合いの深い瞳は切れ長で鋭い。
ぴしりとしたグレーのジャケットに、タイトスカート。そして惜しげもなく晒した長い脚にハイヒール。
型に嵌めたような「仕事の出来る女史」といった外見である。
まあ、外見だけだ。
中身は重度のゲーム中毒者で、研究員たちに負けず劣らずの変人。
無論尊敬して然るべき面は多々あるが、ノックもせず殆ど押し入るみたいな訪問で「ご機嫌かな!」もくそもない。
「主任は、どこぞに礼儀作法落としてきたんですかね」
レンは報告書を慎重に上書きして、端末を閉じた。
主任が来襲すると、大体一時間程度は全く仕事にならない。
うっかり報告書に、主任仕事しろとか記載しそうである。
うん、それもありだろうか。
「そう冷たいことを言うものではないよー。君と私の仲だ。礼儀作法とか、まとめて売却しちゃったぞ」
「は? 何で売っちゃ不味いもの売り払ってんですか?」
ミーティアは「いらない装備は即売る派でさ」と言いながら、つかつかと研究室に踏み込むと来客用のソファにどさりと腰を下ろした。
本の山が崩れるのも気にしない。
持て余し気味の長い脚はだらしなく開かれ、天井を仰いだ彼女の唇から少しばかり形容しがたい音が紡がれる。
捕捉するが、ミーティア・ニルフェリアという女性は三十後半の独身女性。
が、こうなると最早庇いようもない。
真正のおやじである。
「君ぃ、何か、失礼なこと考えてるだろう?」
「思い当たることがあるなら改善しましょうか。それとも俺、語った方が良いです? 主任の気分転換の時間フルで語れる自信ありますけど」
デスクチェアをくるりと回転させて、レンはミーティアの方へ身体を向けた。
彼女は一向に姿勢を正す様子もなく、綺麗な眉をついと上げて不思議そうな表情をする。
「気分転換? いやいや、今日は違うんだよ。レン君」
「はい?」
「ああ、まずは先に言っておこうか。この件に関しては、私は全く反対の立場だったんだ。だから、色々文句があったとしても、私に当たらないでおくれよ?」
「……――なん、ですか?」
「いやぁ、だからね」
言いかけて、ミーティアは視線をドアの向こうへやった。
彼女が乱暴に開けたドアは、半分以上開いている。
「ありゃ、遠慮しないで入りたまえよ」
そう、ゆるりと声をかけた。
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