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第五章
召喚獣
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フロントに外出する旨を伝えた後、単独で宿の外へ出たオーギュは、街の中を先に把握する為周囲を散策していた。
どこに何があるのかを知っておいて損は無い。
宿場区の敷地から抜け、人の波に揉まれながら観光客が行き交う商店区へ進む。
「あら、可愛い顔のお兄さん」
足を止められ、オーギュは武装した女に話しかけられる。重そうな鎧を軽々と身に纏う辺り、剣士なのだろう。
そのくせ胸はしっかり開いて女性らしさをフルに見せている。
アストレーゼンの街同様、なるべく人を避けながら歩いていたが、度々路上でたむろしている旅人の集団にぶつかる事もしばしばあった。珍しくはない。
「おいアヴェリ、道行く他人をナンパする癖を止めろ!これで何度目だよ」
「そんなにナンパしてないわよぉ。綺麗な顔だったから声を聞いてみたかっただけよ」
可愛い顔と言われた事が無いオーギュは、不審な表情で彼女に問う。むしろ、その言葉は果たして自分に向けられたものなのか疑問だ。
「…どうかなさいましたか?」
「あらぁ、声も好みだわ。ねぇ、あなたも旅人さん?それとも地元の人かしら?」
「いえ、私も旅人です」
見た感じ、同じ年齢位だろうか。その重厚感溢れる姿は、ベテランの様相だ。リシェのような若者では纏えない雰囲気がある。
帯同している仲間らも、やはり重装備だった。年季の入った武器を背にしている。
「そうなのね。残念。地元の子なら案内して欲しかったのにぃ」
「馬鹿言え、地元の子がこんなしっかりした魔導師の格好するかよ」
「兄ちゃん悪かったな。こいつの癖なもんで勘弁してやってくれ」
彼女の暴走を止めるのに慣れているのか、浅黒い肌の土埃に塗れた男はオーギュに謝った。
「いえ」
ぺこりと頭を下げ、その場からすぐに離れる。
理由はどうあれ、女性から声をかけられるのは悪い気はしないものだ。
露店から放たれるグルメ的な匂いが鼻を突く。同時に客を呼ぶ威勢の良い声。浮き足立つ旅行者の波。
…若干人酔いしてきた。
騒めく人の流れの中周辺を見回していると、住居が密集しているエリアに視線が止まる。道端に展開されている露店の他にも、別の違ったものが発見出来そうだ。
少し寄って行くか、と思い立った。
石畳を軽く蹴るように足早に進む。
開かれた露店通りとは違い、住宅街は往来する人間達は少なく見えた。歩きやすくて丁度良い。
たまに住人御用達の店舗がある他は、特に変わったものは無いようにも思える。
個人的には薬草の店があれば有り難いのだが。
目的も無い散歩を続けていると、古めかしい看板がやけに目に付くようになった。
木で作られた看板。そこに小刀で刻まれた文字の羅列。古臭くて、誰も興味を示さないそれは、オーギュの心を突いてしまう。
【魔法に関する道具の販売】と煤けた文字が辛うじて読み取れた。
順路は書かれていない。
看板はやけに目につくのに、どうやって行けばいいのだろう。そして、この店は今果たして存在するのか。
オーギュは看板を前にして悩む。
すると、不意に近くで気配を感じた。顔を上げてその気配のした方向に目を向ける。
「………?」
変わらぬ街の様子。誰も自分を見ている様子も無い。若干不思議に感じるものの、仕方なく先に進む事に決めた。
煉瓦造りの石畳に靴音を響かせ、小道を散策する。
あまり深入りすれば、来た道を見失ってしまう。
ある程度進んだら戻ろうか…と考えていると、何故か全身が暖かいものに包まれている感覚がした。
『…い、こちらに、来い』
「えっ?」
何なのだろうと訝しんでいると、頭の中で途切れ途切れの声が響いた。
今まで感じた事が無い感覚にオーギュは動揺し辺りを見回す。
『やっと見つけ…ここで、逃して、たまるか』
「意味が分かりません、どなたですか?」
優しく響く低い声だが、変に物騒な言葉だった。
逃してたまるかとは、どういう意味なのだろう。
『…わたしの、私の声が、聞こえるのか?』
「は…はあ」
側から見れば、オーギュがひたすら独り言を呟いている風になっていた。見回してもその声の主は見えず、まるで狐に化かされている気持ちに陥る。
『やっと、波長の合う人間と巡り会えたのだな』
「え…?え?」
その時。
オーギュの足は、自らの意思を無視し勝手に歩みを進めた。見慣れぬ道で不安げに進んでいたのに、まるで馴染みの店へ向かう感じで足は動いている。
「なっ…何!?」
気持ち悪い。
思考と体の動きがちぐはぐで、猛烈な違和感を覚えた。その違和感に拒否反応を示しつつも、先へ先へと歩いていく。
小道を通り、開けた路上に抜けたと思いきや再び狭く古びた道に入っていく。建物と建物の隙間を進み、薄暗い通りをひたすら歩いた。
散乱するゴミを目にすると、あまりこちらは治安が良くないエリアなのだと顔を曇らせる。
灰色の法衣をなびかせて進んでいたが、ようやく足が止まる。
自分の意思が効かなくなる気分の悪さに抗っていたオーギュは、その先にある古めかしい木造の建物を前にしてはっと息を飲んだ。
「ここは」
バラック小屋と言った方が良さそうな、今にも壊れそうな建物の前には、魔法屋と手書きで書かれた看板が傾いていた。
ここが、さっきの案内板の店なのだろうか。
そして先程頭に浮かんできた謎の声の主は、果たして何者なのだろう。いかにも汚らしそうな風情の建物だが、魔法屋というものに興味もある。
躊躇いもあったが、滅多にない機会だ。
意を決し、オーギュは店の中へ進んだ。
その頃、リシェは敷地内でやたらと耳にしていた「何かと何かがぶつかり合う音」の正体を発見し、物珍しそうにそれを見続けていた。
シシオドシ、というものらしい。
どこからか引っ張ってきた水が、ちょろちょろと絶え間なく下部の細い筒に注がれている。その筒が流れる水を受け止め、その重みでゆっくり傾いた。
水は筒からその下の石造りの受け皿に流され、空っぽになると同時に筒と設置台がぶつかり、カコン!と気持ちの良い音が響き渡る。
ほう、と目を細めて感心した。
水の流れが奏でる爽やかな癒しの音は、心に染み込んでくる。
かれこれ三十分はこのシシオドシを眺めている。
流れる水の音と、気持ちの良い衝突音がとにかくたまらなかった。
この絶妙な音を袋に詰めて持ち帰りたい位に。
「…あの子、ずっとあれを見ているわね」
「悩みでもあるのかしら…」
宿泊客のヒソヒソ話も聞こえない程、彼は夢中になっていた。
同時刻。
怪しげな魔法屋の内部に足を進めたオーギュは、明るい外から、暗い店内へ入っていた。
あって無いような店内の小さな明かりを頼りに、周りを確認しながら進んでいく。
内部から漂う薬品と、野草のような匂いに噎せそうになりつつ、店の奥に居るはずの主に声をかけた。
「どなたかいらっしゃいますか?」
頭の中に響いていた声は、今は全く聞こえない。
古臭い棚には無数の古書が雑に陳列され、来客に見せるべき品物は埃被って煤けているのもある。無精な主人なのか、まともに掃除らしい掃除をしていないのだろう。
天井には何故か蝙蝠を干したようなものが数個ぶら下がっていて、非常に不気味だった。もしヴェスカが見れば卒倒するかもしれない。
「誰だい」
「………っ!」
明かりを頼りに進んでいたオーギュは、いきなり間近で聞こえた嗄れた声に息を飲んだ。
自分のすぐ右側で蠢く影。
「い、いらっしゃるならそう言って下さいよ」
仄暗い店内に目が慣れ、オーギュはその影へ声をかける。それは小さく、丸まったものだった。
「耳が遠いんだ。それに、ここに来る物好きもそう居ない。あんたみたいな変態くらいなもんさ」
店の主はゆっくりとした口調でオーギュに話しかける。
真っ黒なフードを深く被った小さな老婆は、商品と商品の間に挟まるようにして座っていた。
座ったまま動きが無ければ、変わった置物に間違われてしまいそうだ。
「変態って…」
「あんた、相当な手練れの魔法使いだろ。十分な変態さ。そこまでいくにはかなり時間を使ってきただろう」
「見ただけで分かるものなんですか?」
「年季の入った同業ならすぐ分かるさ。あんたみたいなのは稀だね。大した才能も無いのに、そこまで魔力を高めるなんて」
大した才能も無い。
その言葉に、自分でもよく分かっているオーギュは苦笑いする。見破られているのだ。
「分かりますか」
「そこまで自分を上げられるのも珍しい。今まで、血反吐吐く位の荒削りな努力をしてきたんだろう。…そうまでして、まだ物足りないのかい」
か細く見えるものの、彼女の目はやけにギラギラして見えた。
何年もの間魔術に携わると、加齢が進むにつれて生気が強まっていくのだろうか。
「お店の看板を見ていたら声が聞こえて来たんです。それで、こちらに引っ張られて」
理解し難い話をしながら、オーギュは説明した。
店内を漂うお香が鼻に纏わりつき、軽く咳込む。
「ほう…?」
「誰かが、私を呼んだ気がします」
老婆はしばらく無言になった。
古びた本棚や無造作に立て掛けられている数々の杖、魔力を引き出せる埃被った魔法石などの道具に囲まれながら、オーギュも同じように黙る。
すると、どこからかガタリと音を立てて動いた。
ぴくりと眉を動かし、その音がした方を向く。
「…あんたはまだ力が欲しいのかい」
「え?」
「魔導師として、力を更につけたいのかと聞いてるんだよ」
老婆は音を立てた方をちらりと見遣ると、こちらに向けて何かが転がってきた。同時に、オーギュの左の足元に古びた小瓶がぶつかる。
それを拾い、彼は老婆に手渡した。
中身の分からない小瓶は欠けがあったものの、保存の役割を果たしている状態にあった。薄れた赤い紋様が描かれているが、何を意味するのか分からない。
老婆は薄汚れた瓶を見ながら、「そいつさ」と説明する。
「は?」
「あんたを呼んだのはその瓶の中身。宿り主を探し続けて、何百年の間眠っていた変わり者の獣だ」
「これが、ですか…?」
「鍛錬に鍛錬を重ねた魔導師は、神獣をも手懐ける事が出来るという。その神獣が術者を受け入れ力を貸す事によって、術者の魔力も更に強まる。昔の学者はその神獣の呼称を召喚獣と名付け、術者は神獣召喚士と呼ばれていた」
オーギュの手にある小瓶は、次第に熱がこもる。
老婆はそれを見ると、ふんと鼻を鳴らした。
「知らんうちにそいつを手懐けたのかい」
「知りませんよ。召喚獣の話も初耳です」
知っていたとしても、自分がその神獣を手懐ける事が出来るのかどうかは自信が持てない。
だが、もし相手が自分を受け入れてくれれば、自らの魔法の力を更に強める事が出来る。魔法に関しては、どこまでも貪欲なオーギュには、召喚獣の話はかなり興味深い話だ。
「瓶の中身がはしゃいでおる。えり好みしていた奴がこんな状態とは、随分珍しいものだ」
「………」
「物は試しだ。獣からの試練を受けてみるか?」
ごくりと喉が鳴った。
自分を呼び寄せたものがこの手の中にある瓶ならば、その実体を見てみたい。果たして受け入れてくれるのだろうか。
…駄目で元々だ。
普段冷静沈着なオーギュは、胸の高鳴りを押さえるのに必死になりながら「…ええ」と考えるよりも先に受諾の言葉を口走っていた。
「折角なので」
「…ほう。失敗したら、下手をすればかなり体力を消耗するが、問題無いな?」
「大丈夫です。こちらには休暇で来たようなものですし、休めば問題ありません」
老婆は面倒そうなニュアンスでそうかと告げると、オーギュが立っていた近くの床を杖の先で強く突いた。
突いた先に、ぱっくりと大人一人が入れる大きさの穴が出現する。
「これ…いきなり落とし穴ですか?」
真っ黒な穴を見下ろしながら、オーギュは眉を寄せた。奥が見えないので不安を煽る。
「地下に亜空間を作った。そこでその神獣の試練を受けて来い。一時間以上経っても出て来なかったら引き上げてやる」
「………」
「やるのか?やらんのか?」
「やりますよ。この瓶の中身が私を呼んだのなら、少なくとも私を悪いようには思ってないでしょうから」
やや緊張しながらオーギュは老婆に言い、その穴の中へ足を突っ込む。スッと全身の力が抜けるような感触がした。
真っ暗な空洞は彼を吸い込んでいく。それはまるで、長い滑り台に乗せられた気分になる。
しばらく落下に身を任せていると、やがて明るい空間が見えてきた。
迫り来る眩しさを感じ、オーギュは目を細める。
全身に回ってくる違和感は、魔法で作られた空間のせいなのだろうか。老婆から放たれた魔力は、オーギュの体にはやや負担がかかるようだ。
魔法の力を使いながら落下の抵抗を避けると、やがて真っ白い亜空間の広間へと落とされてしまった。
天井から吐き出され、つい膝を突く。軽い膝の痛みに眉を寄せながら、周囲を見回した。
「うう…」
落ちた衝撃で手元から離れた小瓶は、彼の目の前で緩やかに転がっている。
その小瓶に描かれた紋様は、赤い輝きを放っていた。オーギュは瓶を掴む。
「あなたが私を呼んだんですね」
何故か確信を持っていた。
瓶の中身はしばらく黙っていたが、やがてオーギュの頭の中に声が響く。
『…瓶の蓋を外せ。話はそれからだ』
ごくりと喉が鳴った。
外したら、喰われるのかもしれない。
召喚獣というものを知らなかったオーギュにとって、安易に相手の言われるままに従っていいものなのだろうかと警戒心が働いた。
「私に危害を与えたりしないと約束して下さるなら、開けましょう」
これでもし、約束を反故にするなら戦うしかない。
…胸が緊張で高鳴り、喉が渇いてきた。
オーギュの条件に、瓶の中の獣は『随分警戒するもんだな』と呆れた口調で返す。
「あなたの姿が分からないから警戒しているのです。召喚獣というものの実体を知らないのだから当然でしょう?丸腰で動物の檻の中に放り出されたようなものです」
『ふん…生身の人間には興味が無い。そのまま喰ったりはしないから安心しろ。それとも、喰って欲しかったのか?』
生身の人間には興味が無いとはどういう意味なのだろうか。
とりあえず、いきなり喰うというのは無いらしい。
オーギュは分かりましたと口にすると、瓶の口部分のぐるぐる巻きにされていた古い紐を解いた。
紐は古過ぎている為に劣化し、汚れに塗れてべたつきがあった。
「どれだけ放置されていたんですか、これ…」
やや潔癖症のオーギュは眉間に皺を寄せながら紐を取り除くと、蓋を遠慮なく開封した。
…同時に。
『ああ、やっと…!やっと、出られるのだな…!!』
歓喜の声が上がり、瓶の中から煙のようなものが激しく放出された。放出というよりは、噴射というのが正解かもしれない。
余程待ち望んでいたのだろう。全身が弾かれそうな勢いだった。その凄まじい反動に怯み、尻餅をついた状態のままでオーギュは瓶から手を離す。
「く…っあ!!」
もうもうとする空間の中。
鼻と口を手で押さえ、その瓶の中身を見ようと目を凝らしていたオーギュの前に、ようやくその実体が姿を現していった。
『お前のような術者が現れるのを待っていた甲斐があった。礼を言うぞ』
「………っ!?」
灰色の皮膚を持つ強靭な体躯と、銀の鬣が揺れる大きな獣。鋼のような光沢を讃えた二つの逆立つ角を持つ重厚感溢れる姿は、気品さえ感じさせてくる。
頑丈で太い爪先は、ほんのりと赤みを見せつつ、それまで閉じ込められていた割にはしっかりと地面に足を着けていた。
眼前に現れたその獣は、頭を振るった後で金色の丸い瞳をオーギュに向ける。
「あ、あなたが…あの瓶の中に…?」
ふんわりと銀の毛を揺らし、召喚獣は伏し目がちに頭を軽く垂れた。
『そうだ』
「私の力になって頂けるんですか?」
オーギュの問い掛けに、彼はじっとこちらを見る。
『お前が望むなら』
数歩、こちらに歩み寄る。オーギュは彼の動きを見ながら、尻餅をついたままで固唾を飲んでいた。
『条件がある。私に、お前の全てを見せろ。その上で私の意に叶う相手だと判断出来れば、私の力をお前に貸してやろう』
「全て…?」
「私はお前がどれ程の術者か、私の力を存分に駆使出来るのかを知りたい。そして悪用しない性質かどうか、その類い稀なる力を付けるにはどの位苦労してきたのか、過去の全てを知り尽くした上で判断をしたい。それには相当な苦痛を強いられるだろう。お前の知られたく無い過去の事を抉るかもしれない。お前はただ、私がお前の全てを見ている間だけ耐えるといい』
苦痛に耐えきれた者だけが、召喚獣を扱う事が出来るという老婆の言葉を思い出す。
その苦痛とは、どれ程の痛みなのか。
「苦痛が如何程のものか判断しにくいのですが」
『そうか。ならば、やってみるとするか』
獣はそう言うと、オーギュに近付いた。
「…な、何を?」
自分より大きな獣が、上から覆い被さる形でのし掛かってくる。その重さときたら。
うぐ、とオーギュは呻きながらも両腕を前にして押し返そうと試みる。
こいつは、人間の大きさと耐えられる重みを理解していないのではないかと思いつつ、あまり力を押し付けないで下さいと忠告した。
『この程度で弱音を吐くのか。人間は非力だな』
「その図体で体重かけられれば潰れます!」
『我儘な奴だ』
我儘という問題ではない。
獣はオーギュの頭に軽く右の前足で触れる。それでも彼の足は大きく、オーギュは身をよじりながら「大きさを考えなさいよ」と呻いた。
『加減が難しいのだ。少し我慢しろ』
獣は真っ直ぐ金色の目を向けてきた。
オーギュは彼を見上げたまま、怪訝そうな表情を見せる。
一体何をさせられるのか…と不安だったが、次第に急激な眠気に襲われた。
「あ…」
『お前の名は、何という?』
ぼんやりと頭が霞がかる中、どうにか気を保とうと口を開き、名を名乗る。
「オーギュスティン=フロルレ=インザークです」
『ふん…仰々しい名前だ』
召喚獣は軽く吐き捨てるように言うと、今から辛くなるぞと囁いた。
頭のどこかでチクリと痛みが走る。
その瞬間、オーギュの脳内でざあっと不気味な音が走りだした。
「…っああああぁああ!!」
全身が強張り、同時に激痛が襲い掛かってきた。
「ひ…っあ、痛ぁあああ」
ひたすら全身をきつく叩かれているような刺激。
今までこんなに痛みを感じた事は無かったオーギュは、獣を上にしながら仰け反ったり転がったりと苦悶の様子を見せる。
獣は目をスッと細め、眼前で苦痛を訴える哀れな人間を眺めていた。
『我慢出来ないのか。脆弱なものだな』
「は…っ、はあっ」
奥歯を噛み締めながら、オーギュは獣を見上げる。
脆弱と言われたのが腹立たしいのか、端正な顔を歪めながら強がる言葉を口にした。
ふう、ふうと呼吸を整えつつ、獣をきつく睨んで上体を起こす。
「馬鹿に、するな」
獣は一瞬驚いたように目を見開く。
『ほう…あれだけ痛がっていたのに随分強がるな』
「私を主人にしたいのでしょう?強力な術者で無ければ、あなたは満足しないのでしょうから」
オーギュは獣の鬣に手を伸ばし、ぎゅっと掴んで自らの眼前に引っ張る。
「私なら、あなたを使いこなせる。他の術者では到底無理です。…私以上の魔導師など存在しないのですからね。この機を逃すと、あなたはまた何百年も眠りにつく事になります」
『随分自信があるじゃないか』
その間にも全身に激痛が走り、びくりとオーギュの眉が動く。
「あなたはそう思って、私をここまで呼んだのでしょう!」
獣は頭を軽く振るってオーギュの手を払うと、『まだ、決めた訳ではない』と突き放した。
『私が欲しいか、オーギュスティン』
彼はそう言うと、自らの右足の爪を光らせる。
「…あなたが私を欲しがっているのでしょう?」
『傲慢な人間だな、お前は。どうしてもそっちに持っていきたいのか』
「主導権は私にあるんですよ。あなたは私という術者が居なければ出て来れないのでしょう?」
『ああ、そうだ。お前みたいな術者は滅多に居ないからな。それには更に条件がある。条件を飲まなければ、お前との縁はこれまでだ』
全身から汗が噴き出してくる。
激痛の原因が骨からくるのか、それとも違う何かがあるのか全く分からない。
痛みはなかなか治らないまま、オーギュは獣の要求を待った。
『お前を喰わせろ』
相手の言葉はシンプルだが、全く意味が分からなかった。オーギュは目を見開いたまま、頭に伝達された情報を理解しようと時間をかける。
「は…?」
『意味が分からんか?お前を喰わせろと言ったんだ。今、ここで私はお前を喰らう。この力を得たいなら受け入れろ』
「死ぬじゃないですか!それに生身の人間に興味は無いって言いましたよね!?」
馬鹿な事を、と吐き捨てるオーギュ。矛盾もいい所だ。
『ああ、確かにそう言ったな。だが本当に生身の人間を喰う趣味は無いのだ。しかしお前が私の力を欲するなら話は別だ』
「………」
『私に喰らわれた後、お前は私の力で再生する。お前は私の物となり、同時に私もお前のものになる。私が最後に欲しいのは術者の魂。私はこの先もずっと、強い魔導師の魂を糧に生きなければならない』
「た、魂…?」
『お前は肉体的に死んでも、私の中で魂は生き続ける。この獣と一心同体になりたくなければ、この話は無しだ』
怪訝そうな様子を見せていたオーギュは、しばらく黙っていた。
死んだ時までは分からない。そこまでは考えてもいなかった。誰でもそうだろう。
間を開けた後、オーギュは「構いません」と返す。
どうせ死ねば無になるだけだ。
『そうか。そうだな。…身内から爪弾きにされてきたお前には、願ったり叶ったりだろう、オーギュスティン。私は常にお前と共に行き、死んでも離れる事は無い』
「え…」
『私は先程お前の全てを見た。だから分かる。身内に認めて貰いたくて努力を重ねて培ってきた力を、このまま埋もれさせるには実に勿体無い。私なら存分にお前の能力を引き出せる』
甘い誘いにも聞こえてくる。
もしかしたら騙されているのではないだろうか、とすら思えた。
獣はオーギュの首筋に鼻先を掠めさせ、悪くはしないと低い声で囁く。
びくりと身を縮こませ、オーギュは軽く呻いた。
「甘い事を言って、凋落させる気ですか?」
『…お前には見返したい相手も居るだろう』
見返したい相手という言葉に、一瞬思考が停止する。
どれだけ努力重ねても、未だに越えられずにいる相手。真っ白な法衣を身に付け、日の光のように穏やかに笑う幼馴染のロシュの姿が浮かんだ。
獣は口を少し開き、舌をオーギュの首筋に擦り付ける。ざらりとした舌先に、全身はごわついた。
「…っは…!!」
『一緒に居れば、お互い更に力は伸びる。お前はまた力を増幅させる為に努力するのだろう?私はそんな魔導師の主人が欲しいのだ』
獣の爪が、オーギュの体を一気に裂く。
先程よりも更に鋭い痛みが全身を襲い、声を上げる間も無いまま自分の体から血が吹き出ていた。
「あ…あ…」
『耐えろ、術者』
目の前が真っ赤になる。獣が自分の体を貪り始めるのが分かった。
全身の力が抜けていく。獣を掴んでいた手の力も緩み、無抵抗のまま横たわった。
自分を獣が喰らうというショッキングな様相を目の前にしながら、オーギュは意識が朦朧としてきたのが分かる。
「はぁっ、あ…ぐっ」
『お前は美味だ。今までの魔導師よりも魂が上質だな。喰らい甲斐がある。美味い、堪らん』
ぴちゃぴちゃと血肉の鳴る音と共に、痛みも感覚も麻痺してくる。生臭い匂いも感じない。喰われているという事だけが頭に残っていた。
そして、オーギュの世界が暗転した。
ハッと意識が戻る。
体を勢い良く起こし、オーギュは真っ白い空間の中で周囲を見回した。
『目が覚めたか?』
「え…」
『良く耐え抜いたものだ』
目の前に居るのは、銀色の髪の精悍な青年。何故かその姿は、象牙色の逞しい筋肉を惜しみなく曝けだしている。
オーギュは不審な顔で彼を見上げた。
「どなたですか?」
『先程お前を喰っただろう?』
彼はオーギュを押し倒す。
どうやら喰われたのは本当だったようだ。夢なのかと思っていた。
『契約完了だ、オーギュスティン。私はお前だけに力を貸してやる。存分に私を味わうがいい』
銀色の肩まで伸びた髪がさらりと流れる。
頭が追い付いていかないオーギュは、ひたすら時系列を整理しようとしていたが、彼の様子が変な事に気付く。
「ちょっ…何を!」
彼はオーギュの下腹に顔を寄せてきた。そこで、自分も丸裸だった事を理解する。
意味が分からない。
『久しぶりに出られたからな。腹が減ったのだ』
「腹が減った…!?さっき、食べましたよね?」
『あれは儀式みたいなものだ。現界での糧になるものは、主人から貰い受ける』
真っ白い空間で、全裸の男二人が変にくっついている異常事態。
オーギュは顔を真っ赤にしながら抵抗した。
「糧になるもの!?…な、何をあげれば」
人間に化した獣は、均整の取れた顔でふっと笑う。
そして答えぬまま、オーギュの下腹に顔を埋めるとあり得ない場所を口に含んだ。
「ひい!?…や、やめ…何をするんっ」
『お前の精を頂く』
「は!?どうし、てっ…放して、放しなさいっ」
オーギュは恥ずかしさと嫌な感覚に抗い、相手の頭を押し退けようと試みる。
だが彼も久々の空腹に、夢中になって吸い付き離れない。ぴちゃぴちゃと音を立てながらひたすら口で愛撫してくる。
「あっ…ひぁっ」
『…よし、硬くなってきたぞ。たんまり頂くからな、オーギュスティン』
「や…やめなさいっ、こんな事許可してないっ」
完全に固定されながら、オーギュのしなやかな裸体は獣によって快感と嫌悪感に支配されていた。
「は…は…っ、あうっ」
『いい声だ。鳴けば鳴く程、いい精が出るだろう』
「い…いやだ、いやっ…」
『もう遅い』
獣の手が伸び、主であるオーギュの胸の突起をきつく抓りだす。その瞬間、体は刺激に耐え切れず甘い叫びを上げていた。
「ああっ…!」
『…ふむ、お前はここが好きなのだな?』
覚えておこうと彼はにやりと笑った後、再び下腹に吸い付いてきた。
精を飲むという発言をようやくオーギュは理解する。
彼は自分が放出した精液を飲むつもりなのだと。
そう思うと同時に、全身が敏感になった。
「だ、駄目です!これ以外は、無いのですか!?」
『無い。黙って飲ませろ。今は腹が減って仕方ないのだ。それにお前のは上質な味がする』
「嘘…っあ、はぁあああっ!」
獣はオーギュの屹立しきった部分に手を当てると、上下に扱き始めていた。
顔を真っ赤にしながらも意識を保とうとするオーギュ。扱き上げた後に、獣はまたぱくりと口に含みゆっくりと吸いついてきた。
「ひいっ!!」
黒い髪を乱しながら、オーギュは悲鳴を上げていた。恥ずかしくて死にそうだ。
獣は次第に変化するオーギュ自身を嬉しそうに眺め、愛おしげに舌先を滑らせる。
『私に飲まれたくてうずうずしているのが分かる。沢山可愛がってやるぞ』
ひくひくと顔を引きつらせ、オーギュは自らの下で夢中になって貪る獣の頭を剥がそうとしていた。
だが口内でねちっこく責め、絶え間無く襲う刺激に力が弱まってきた。
「こんなっ…こんなの、おかしいですっ」
体を仰け反らせながらオーギュは呻いた。
「はあっ、あっ…んうっ…んんっ」
『そうだ。そのまま受け入れろ。楽になる』
全身が熱く、汗か飛び散る。
ただ力を欲する為に召喚獣に会ったのに、何故こんな事になるのか。
次第に腰が浮き沈みし、変な感覚に陥ってきた。
『気持ち良くなってきたか?』
「違い…ますっ」
『嘘つけ。先程よりも溢れてきたぞ』
獣はオーギュの腰をしっかり両腕で固定すると、音を更に立てて愛撫してきた。
逃れられない状況下に置かれ、オーギュは全身が緊張し一気に快感に苛まれてしまう。
「はあぁあっ、あうっ…や、やめて、やめて下さい!!出るっ、出てしまうっ」
ついに口から恥ずかしい言葉を発し、悶えながら悲痛な叫びを上げた。獣はそれを聞くなり頭を動かし更に吸い付いていく。
オーギュの尻を鷲掴みにし、軽く揉みながら彼は『構わんから出せ』と期待を込めて返した。
「嫌だっ、いや…やあっ、出ちゃ…あっ」
わざとらしく響かせてくる水音を聞きながら、オーギュは更に感度を強めていった。
下腹に意識が集中していく。熱く、甘く痺れ出し、オーギュの中から獣の口内へ向かって流れる感触がした。
慣れていない訳ではない。ただ、この異常な状況は受け入れ難かった。知らないうちに普段は出さない甘い呻き声が漏れている。眼鏡がズレているのにも気付かず、ひたすら喘ぎ続けていた。
「ひ…っ、あはぁっ、あうっ…んっ」
腰の浮き沈みが止まらない。気持ち良過ぎてこのまま浸りたくなるのと、一刻も早くこの状況から逃れたい気持ちがせめぎ合う。
情けなさも相まって、オーギュは苦悩していた。
「ああっ…もうっ…だめ、ですっ」
すると獣は下腹から頭を離す。
えっ、とオーギュは彼に目を向けた。獣は右手を伸ばし、オーギュの胸の突起に指を絡め軽く弄り始める。左手は屹立している箇所の付け根をしっかり止めていた。
出そうだったのをいきなり堰き止められる。もう少しだったのに、と絶望感がオーギュを襲った。
何故そんな事をするのか。
「は…っ!!」
『濃厚な精を飲みたいからな』
「もういいでしょうっ、放して下さい!お願い、放して!!」
さっきは出せと言ったのに。
こんな事なら、あの時さっさと出して終わらせれば良かったと目をぎゅうっと閉じる。
一方、獣は体をゆっくり起こすと、オーギュの熟れきった全身を眺めた。細くしなやかな肉体は、全身に回る快楽に苛まれながら波打っている。
汗で光る術者の理想的な肉体は、召喚獣側には魅力的だ。
この体を好き放題出来る事が堪らなく嬉しい。
彼はオーギュの首筋に顔を埋め、その体を堪能するかのように全身を撫でていく。
「ひ…いや、だ…お願いですから、早く終わらせて」
出したい。とにかく出したい。
「お願いです…はや、く」
オーギュは目の前で自分の体を貪る獣を見上げながら言った。はあはあと荒い呼吸を繰り返し、迫り続ける快楽を押さえながら。
全身を荒れ狂う甘やかな感覚が苦痛だった。
獣はその美しい顔を変えぬまま、『随分と可愛く頼むようになったな』と驚いた。
『もう少し堪能したい所だが』
オーギュはぶんぶんと首を振って嫌がった。
獣は軽く溜息をつくと、彼の胸元に頭を埋める。
「はや…く、早く…っ」
相変わらず獣の左手はオーギュの根元をきつく束縛していた。その状態のままで、彼は小さく固まっていたオーギュの乳首を舐め始める。
「ひいいい!?」
一気に快感が増幅した。
惨めな気持ちと、恥ずかしさで気がおかしくなる。
「やめなさい、お願いですから!体が変になるっ」
しかし相手は黙ったまま、ひたすら乳首を舌先で弄り続けていた。ぞわぞわと全身の毛が逆立っていく。
「はあっ、ああっ…もう、やめて下さい…」
こんな責め苦は耐えられない。恥ずかしげもなく薄い唇から涎を垂らし、惨めな姿を露わにしてしまうなど許されない様相を獣に見せながら早く済ませて欲しいと願うのみ。
次第に弱々しくなるオーギュの口調を聞くと、獣はゆっくり口を離した。そしてふっと強気な笑みを浮かべる。
終わらせてくれるのだろうかと期待した。
『ここまで焦らされたのだ。さぞかし美味だろう』
生々しい匂いを放つオーギュの下腹に、獣は再び頭を埋める。そしてようやく唇をその先端に付けた。
「ああっ…」
汁音を立て、獣は固定していた左手の力を優しく解いた。しっかり口内へ含んで、固まっていたオーギュに舌を滑らせたその瞬間。
一気に快楽が押し寄せてきた。
「あ、あ…っ!!駄目です、出るっ…!」
何だ、早いな…と思っていた獣の口内へ、勢い良く熱いものが噴射された。
彼は快楽にとにかく弱いのだろう。
「んっ…!!」
そしてあまり自分を慰める事をしないのか、多量で濃い。獣は夢中で吐き出したそれを飲んだ。
生暖かく濃厚な精は、久しぶりに表に出て来た彼には最高のご馳走となった。それが高い魔力を持つ魔導師のものなら尚更だ。
「やっ…あ、はあっ…」
眼前の魔導師は全てを吐き出すと全身の力が抜けたのかようやく強張りを失っていた。
「はあっ…は…」
精を堪能し、ようやく獣は顔をオーギュの下腹から離す。真っ赤な舌を見せ、満足げな表情を見せた。
『気に入ったぞ、オーギュスティン』
「………?」
『こんなにも濃い精を飲めるとは。そしてこんなにまで高い魔力を持つ主だとはな』
疲れ果て、うっすらと汗を浮かべながらやや放心状態のオーギュは嬉しそうに言ってくる獣を黙って見上げる。
色々あり過ぎて、彼の頭は既に考える事を放棄していた。そんな主を無視するかの如く、獣は人型から元の召喚獣に姿を変化させた。
「…では、私はあなたの主人になれたのですね?」
ようやくオーギュは吐息混じりに彼に問う。
まだ残滓の匂いを察知したのか、『そうだ』と告げながら獣の大きな舌を使いオーギュの内股を拭った。
「あっ…!何っ!?」
ざらつく大きな舌はぬめぬめと体を擦る。
『私はお前のものだ。好きな時にこの力を使うと良い。呼ばれれば、すぐに出られるからな』
「はあっ、あ…いっ」
全身が獣の舌に這い回られ、感度が良過ぎるオーギュはまた快感に襲われた。
余程オーギュの肉体が気に入ったのだろう。獰猛な獣の姿のまま、まるでペットのようにじゃれついてくる。
硬い肌は熱を孕み、汗ばむ鬣も湿気を感じさせる。
「や…放しなさ」
これでもかという程舐められ、研ぎ澄まされた快感はオーギュを更に苦しめた。
「いっ…!!」
先程より気持ちがいい。
獣を相手にしている背徳感のせいなのか、オーギュは吐き出したにも関わらず再び限界を感じた。
喉の奥から今まで出した経験の無い嬌声が発せられ、体内からまた獣が欲していた欲を放出させる。
吐き出した感触と同時に、ぶつりと意識は飛んでいた。
…宿の中に常設されているレストランの前で、ショーケースにあるサンプルをまじまじと見つめるリシェの姿をようやく発見したロシュは、ほっと安堵しながらゆっくりと近付く。
ショーケースの中はフルーツやケーキなどをふんだんに詰めたパフェ類の数々。
アストレーゼンではあまり見ないサンプルが珍しくて堪らないのだろう。
あまりの凝視っぷりに、レストランの従業員や宿泊客らがリシェに向けて不審そうにちらちら視線を送っていた。
まるで親に買って貰えないでいる子供のようにも見える。その姿に、ついくすっとロシュは吹き出した。
「リシェ」
リシェは甘い物が好きなのかもしれない。
穏やかなロシュの声を聞き、ぴくりとリシェは反応した。あっ、と照れ臭そうな表情を見せるも、すぐに大人びた顔つきになる。
さも興味がありませんと言わんばかりにロシュの方へ体を向けた。
「美味しそうなパフェですねぇ」
「は…はあ」
「ずっと眺めていたんですか?」
リシェは顔を若干紅潮させ、ぷるぷると首を振る。
「い、いえ違います」
卑しい姿を見られたと思われたくなかった。
だがひたすら眺め続けていたのを見ていたロシュは、隠さなくてもいいのにと苦笑する。
「小腹が空きましたから食べましょうか」
「おっ…俺、払いますから!」
顔を上げ、リシェは慌ててロシュが支払おうとするのを止めた。だがダメですと逆に言われてしまう。
「ここは大人として、私が払います」
「俺、食べようか我慢しようか考えていたんです。晩御飯があるから食べるのはやめようかなって。だ、だから決して払えなくて見ていた訳では」
自分はロシュに集りたいつもりは無いのだと言いたかった。
ロシュはリシェの目線に合わせて屈み、彼の頭に手を軽く置くと華やかな笑みを浮かべた。
「私はあなたと一緒にフルーツたっぷりのパフェを食べたいのですよ。私の我儘に付き合って貰えますか、リシェ?」
そう言われてしまうと、返す言葉が見つからない。
「あなたがそう仰るなら…」
渋々そんな言い方をする割には、リシェの目の色は輝いているようにも見える。やはりまだ子供だ。
ケースの中のスイーツを見比べながら、二人でそれぞれ気に入った商品を選んだ後ようやくレストランの従業員に声をかけた。
リシェが選んだのはミニサイズのケーキが乗ったフルーツてんこ盛りのパフェ。バニラアイスと生クリームが交互に盛り付けられ、間にフルーツが挟まれて仕上げにチョコソースがふんだんにかかっている。見るだけでわくわくしてきそうだ。
一方でロシュが頼んだのはパンケーキの上にアイスとフルーツ、そしてレアチーズケーキのワンプレート乗せ。パフェが妙に大きいのでシェアしながら食べる事にした。
座席に着き、お茶を数口飲む。
時刻は夕方に近い。チェックインを済ませた旅人の姿が往復している。
「そういえば、オーギュ様は別としてヴェスカはどこに行ったんですか?」
「ヴェスカですか?途中まで一緒に居たんですけど、この宿の主人が高い所の照明に手が届かなくて困っていまして…彼が手伝うって作業し始めたのですよ。ついでに何かやれる事は無いかと、完全に作業に入ってしまって…ロシュ様はリシェの所に行っても構いませんよと」
ヴェスカなりに気を使ったのかもしれない。
単に雑用をこなすのが好きなのもあるなとリシェは思った。
ヴェスカは昔から黙っているのが嫌いなタイプなのだ。
「あいつらしいです」
程なくして、注文した商品が席に届いた。同時に、リシェの表情は素直な明るい顔になる。
そんな彼を見て、ロシュはにっこり微笑んだ。
「あなたは甘い物がお好きなんですね」
「いや、そういう訳では」
「そんな事言って。顔はちゃんと正直でしたよ」
指摘されたリシェは、ロシュから軽く目を逸らすとぺちぺちと顔を叩く。
知らぬ間にニヤニヤしていたのだろうか。
「ほら、あまり叩いちゃうと赤くなりますよ」
食べましょう、とロシュはナイフとフォークを手に取った。
口一杯に広がる甘い味とフルーツの甘酸っぱさは、溜まっていた疲れを吹き飛ばし一瞬で幸せな気分にさせてくれる。
「ほいひぃ」
美味しい、と言いたいのだろう。ロシュは口に頬張りながら幸せそうな顔を見せた。
この場にオーギュが居れば食べ物を口に入れたまま喋るなと叱る所だが、居ないので自由に出来る。
「ロシュ様、パフェもどうぞ」
見るだけでも華やかに飾られたパフェのグラスをロシュの前に押しやると、ロシュも自分が頼んだパンケーキの皿をリシェに向けた。
「たまにこういうのもいいですねぇ」
「はい。凄く美味しいです」
優等生のお手本のようなリシェの言葉だが、夢中で甘い物を食べ続けている為に口元にクリームが付いていた。彼はそれに全く気付いていない。
指摘してもいいのだが、敢えてそのままにした。
滅多に口にしないような豪華なデザートを食べ終えそうな時、周囲がやけに騒がしくなり始める。
最後に取っておいたイチゴをフォークで刺し、リシェが満足気に口に含むのを見届けた後、ロシュは騒がしい方をちらりと見た。
宿泊客が往来している通路側。
旅館の従業員らしい数人と、先程の卵売りの主人、そして彼の妻が困惑しているのが見える。
「おや…何かあったんでしょうか」
「?」
彼らに向き合っているのは一人の女性。
ロシュはリシェにゆっくり食べていて下さいねと告げ、席を立った。
「…ですから、あの金網が破れていて娘がそこから出てしまったんです。どうにかして頂かないと!」
「今、街の警備隊に連絡している最中です。私達もこれからお嬢さんを探しに向かいますから、どうかお待ち下さい」
「折角の楽しい旅行なのに…!ああ、こんな事になるなんて!」
若い母親は悲観的な表情で嘆いていた。それを宥めていた主人は、しばらく困っていたが近付いてきたロシュの姿を見るなりハッと頭を下げる。
「何か…お困りでしょうか?」
「ろ、ロシュ様。いや、その」
主人は困惑気に口籠る。
心配そうな顔の母親はロシュを見上げると、旅人だと判断したのか「お願いです!」と訴えてきた。
彼女は今まで散々居なくなってしまった娘を探し回ったのだろう。髪は乱れ、綺麗な顔は汗や涙でぐちゃぐちゃになっている。
「娘を探して下さい!」
アストレーゼンから来た重要な立場であるロシュ達に問題をぶつけたくなかった宿の主人は慌てて「いや、それは!」と母親を止めようとした。
だがロシュは冷静に彼女に問う。
「娘さんはどちらに?」
「宿の敷地内から出てはいけないって言い聞かせていたのに、金網を抜けて遊んでたみたいで。金網の奥側に娘がいつも大事にしてたぬいぐるみが落ちてたんです」
パフェを片付けたリシェはようやくロシュの側へ近付いた。不穏な空気に少し怪訝そうな表情。
「ロシュ様?」
「リシェ」
母親は宿主の妻に宥められながら休憩用のスペースに案内されていく。困った顔を見せながら、ロシュに向けて主人が頭を下げた。
「ロシュ様、すみません。あとはこちらでどうにかしますから、どうかお休み下さい」
「あの、街の警備の方には連絡をされているんですよね?」
「え?…は、はあ。従業員に命じて今頼んでいる所です。まもなく来て頂けると」
彼が言った通り、従業員がバタバタと応対の為に行き来し始めている。
「完全に暗くなる前に見つけて差し上げないと。私もお手伝いします」
「へ!?あ、あの…お言葉は有難いのですが、それはさすがに心苦しい。折角来て頂いたのに」
来客に宿の問題を任せるのはあってはならぬ事だ。
主人は戸惑い、言葉を選んでロシュの申し出を断ろうとしていた。
ロシュと店主が押し問答を繰り返していると、手伝いを済ませたヴェスカが姿を見せる。遠くからでも目立つ巨体を揺らし「何かあったんですか?」と声を上げた。
「宿泊されている方のお子様が、外に出たっきり戻らないらしくて。捜索の手伝いを申し出ていた所です。完全に暗くなる前に探さないと」
ヴェスカは自分の背丈より低過ぎるリシェをちらっと流し見る。視線に気付いた彼はヴェスカを見上げると、微かに頷いた。
「ロシュ様。俺らが探してきます」
小さな子供ならば、そこまで離れたりはしないだろう。街の中で迷ったとあれば、特別に武装していかなくても大丈夫だと思われる。
余程変な場所に行かない限りは。
「とても有難いです。大丈夫、すぐに見つけられますよ。ええっと、先程のお母様に少しお願い事が」
休憩用スペースで気持ちを落ち着かせている母親の方へロシュが向かうと、ヴェスカは宿の主人に「どこから居なくなったんですか?」と問う。
主人は顔に刻まれた皺を深く際立たせながら、困った顔を見せる。
「手前の窓から見えるんだけど…こちらです」
レストラン側の窓に案内され、ヴェスカとリシェは窓から身を乗り出した。
虫の音が響く薄暗い外。宿の敷地を囲う金網が一部破られ小さな穴がぽっかり開いている。
それを見るなりヴェスカは何故か納得するようにこりゃあ子供が出て行っちゃうよなあと呟いた。
自分も同じ子供の立場なら出たいと思ってしまう。そこに穴があれば、その先を知りたくなるものだ。
「それにしても何でそこだけ開いちゃうんだ?」
彼が指摘した通り、何故か一ヶ所だけ派手に開けられている。
リシェも本当だ、とヴェスカに同調した。
「たまに野生の鹿やら猿やらがフェンス目掛けて体当たりしてくるんだ。やられる度に新調するんだけどきりがなくてね…また開けられるとはなあ。奴らも考えるのか、勢い良く凹んだ穴をしつこく突いたんだよ。やられる度に劣化していくからね」
良く目を凝らして見ると、その破損した部分だけではなくあちこちに凹みが見受けられた。
退治しようにもどの位の数の動物達が居るのか、把握出来ないのだろう。
「リシェ」
「ん?」
フェンスの穴を見つめたままのヴェスカはリシェに声をかけた。
「手頃な棒切れ持って探しに行こうか。剣とかの刃物はダメだ、街中で物騒だからな」
「分かった」
主人は草むしりに利用している木製の熊手を使っても構わないと、外に立てかけている事を二人に告げた頃、ようやくロシュが戻ってきた。
「お母様からお子さんの持ち物を拝借して、おおよその居場所を把握して来ました」
「へ…そんな事が出来るのですか?」
司聖となれば、魔法で何でも出来るものなのかとヴェスカは驚く。だがロシュは苦笑いすると、柔らかな髪をかき上げながら「曖昧なものですから」と返した。
「朧げな気配を感じるだけですし、あまり参考にはならないかもしれませんけど…手掛かりは無いよりはあった方がいいでしょうし。フェンスの穴から出たのは確実です。左手の方に向かったと思われます。宿の敷地外は急勾配の場所があるようですから、滑って戻れなくなった可能性がありますね」
ヴェスカはロシュの言葉を聞いた後、リシェの背中を軽く叩いた。
「…だとよ、リシェちゃん。探すか」
叩いた拍子に軽く前のめりになるリシェは「ああ」と頷いた。
「私もお手伝いを」
ロシュは自分も行くと言いかけるのを、リシェが押さえた。
「ロシュ様はここに居て下さい。オーギュ様が戻られて、宿に誰も居なかったら心配でしょうし…すぐに俺らが見つけてきますから」
切実な目線で見上げてくるリシェを抱き締めたくなる衝動に駆られつつ、もっともな意見を受けたロシュはううと呻いた。
そして欲を払うかの如くふるふると首を振るう。
「ですが」
「こちらで待っていて下さい」
ロシュの代わりに自分が動くのだとリシェは考えていた。土埃に彼を塗れさせたくはない。
どうにかロシュを押し留め、リシェはヴェスカに行くぞと告げる。
「き、気をつけて下さいね。リシェ、ヴェスカ」
窓から外に出る二人に、ロシュは済まなそうな顔で声をかけた。やはりロシュは不思議にも、表情によって女性的な顔を見せてくる。
「はい」
リシェは不安そうなロシュに向かい、誰にも見せた事の無い優しい顔をして返事をした。
魔法屋から出たオーギュは、全身の怠さと戦いながらも残り僅かな体力で宿場へと向かっていた。あれから磨耗した意識をどうにか繋ぎ止め、自身に憑依した召喚獣、ファブロスと会話を繰り返す。
『(随分体力が低いな)』
呆れの感情にも聞こえる発言に、オーギュは若干ムッとする。
「誰のせいだと思ってるんです!」
突如叫ぶオーギュに、行き交う街の人々はギョッとしてオーギュに注目し、ささっと距離を置く。ファブロスはくくっとオーギュの中で笑った。
『(声に出す必要は無いぞ?思うだけで私と会話は成立するから安心しろ)』
先に言って欲しい。
オーギュはよろめきそうなのを我慢しつつ、内部に居る獣に対し少しばかり煩わしさを感じていた。
『(歩くのですら辛そうだな、オーギュスティン?精を出すのはそんなに体力が必要だったか)』
かあっと馬鹿正直にオーギュの全身が熱くなる。
いきなりあのような事をされたのだ。思い出すだけで汚点のように感じる。
しかも、気持ちがいいと思ってしまったのだから。
『(萎縮する事は無いぞ。お前は今までの主の中でも最高に美味な味をしていた。しかも高魔力ときた。私も夢中で貪ったからな。誇っていい)』
「じ、冗談じゃ…!!」
強さを望み召喚獣を求めたはずが、まさかこんな仕打ちを受けるとは思わなかった。
主人の精液を啜って糧にするなどとは、何という変態的な獣なのだろう。
『(ふん、まあいい。そこまで頻繁には貰わないからな。たまに頂くとするか。まずは体力を付けさせた方が良さそうだからな)』
余計なお世話だと言いたい。
この卑猥な獣絡みのせいか疲労感が半端無い。少し休憩した方が良さそうだと判断し、喫茶店か何か見つけ次第休もうと思った。
混乱状態の頭の中をリセットしなければならない。
空が暗くなっていても、賑わい続けているのは観光地だからなのだろう。様々な色合いの明かりが灯る中、人の流れをすり抜ける形で街を徘徊する。
『(何年経っても似たような風景だな)』
「(そんなものではないでしょうかね…って、こんな感じで会話したらいいんですか?)」
『(そうだ、それでいい)』
自分の脳内で会話をするみたいで、何だか変な感じがする。じきに慣れてくるとは思うが。
オーギュは目に付いた茶屋の看板を見つけると、躊躇う事無い足取りで店内へ進んだ。
カントリー風の内装で彩られた店内は、コーヒー豆を挽いた香ばしい香りで充満している。客層は女性が多く、狭いカウンター席の他は小さなテーブル席というやや窮屈な内部だった。
オーギュの体内からその匂いを感じる事が出来るのか、ファブロスは『(渋い匂いだ)』と呟く。
あまり好みの香りでは無いようだ。
店員にコーヒーを頼んだ後、店の角にある空き席に腰掛ける。
はあ、と疲労の吐息を漏らした。
『(お前の家には戻らないのか?)』
「(旅先なので休憩したら宿に戻りますよ)』
『(アストレアンはまだ存在しているのか?)』
最初に受け取った水を口に含むと、オーギュは普段耳にしない地名に目を細めた。
アストレアンとはアストレーゼンの旧名だった。どうやらファブロスはその旧名時代から眠り続けていたのだろう。
今の名称に変更してから、百年以上は経過している。恐らく跡取りが居なくなってしまった王政時代から司祭クラスが牛耳るようになった時代の前に、ファブロスは世俗から離れ眠りについていたのだろう。
彼の生い立ちはまだ知らないが、相当長寿なのだと分かる。
「(アストレアンは名前が変わってアストレーゼンになっています。あなたはアストレーゼン出身だったんですね?)』
『(名前が変わってしまったのか…私は随分寝かされていたのだな)』
お待たせ致しました、と店員がコーヒーをテーブルに持って来た。真っ黒いコーヒーを、オーギュはミルクや砂糖を入れずにゆっくり煽る。
その瞬間、ファブロスは主人の頭の中で叫んだ。
『(…苦い!!!!!)』
「………」
味覚も繋がるらしい。
ファブロスは苦い、苦い!と文句を垂れる。
「(私は平気なんですが)」
『(そのような物を良く飲めるもんだ!苦い、苦い!!お前は無理してないのか?!)』
ファブロスの苦情を無視し、オーギュは黙ってコーヒーを口にするが、やたらと文句を言われた。
あまりにもやかましいので一つだけ砂糖のブロックを入れ、混ぜて飲むがやはり苦いと言い続ける。
「(私はブラックが好きなのです)」
甘みが出ると、どうも気持ちが落ち着かなかった。
『(お前の精の方が甘く感じる!)』
…比較対象が間違っている。
オーギュはかあっとなり、ファブロスに対しての嫌がらせのようにコーヒーを一気に飲んだ。
『(に…苦いと言っただろう!!何故飲む!?)』
頭の中で慣れぬ味覚に喚く獣をオーギュは無視し、二杯目を頼んでいた。
例の破壊されたフェンスから抜け出ると、草木がぼうぼうと生い茂る藪の中と景色が変わる。
リシェとヴェスカは宿の主人から借りた熊手を手に、用心しながら草の波をかき分けて進んでいた。
暗がりを照らすランタンは薄暗い周囲を明るみにしていく。
「あちこちに草を踏み荒らしたような跡があるな」
判別不能の痕跡を確認するリシェが呟く。
「ロシュ様が足取りを辿った方向に進んだ方がいい。足跡は何かしらの動物かもしれないしな。他は街の警備隊に任せておけ」
ヴェスカが言う通り、連絡を受けた街の警備隊も捜索に加わり獣避けの鈴の音が所々で耳に入る。
熊手で草を払うリシェは「よくこんな場所に入ろうと思えるな」と疑問符を吐き捨てた。
「俺にはさっぱり理解出来ないよ」
「…お前は坊っちゃん育ちなんだっけ?あまり外に遊び歩く方でも無いか」
「別に坊っちゃん育ちでも無い。ただ、こういった場所に入りたがる気持ちが分からないだけだ」
ランタンで照らされるヴェスカの背中がやたら大きく見える。
「秘密基地とかやらなかったかあ」
「何だそれ…」
「子供同士の遊びだよ。小さい頃によく作ったもんだぞ、大人達に内緒で秘密のスペース作ってさ。食い物とか玩具とか持ち寄るんだよ」
「へえ」
「友達同士でやらなかった?」
リシェはすぐに「やらん」と返す。
冷めた奴だなあ、とヴェスカは皮肉を言った。
リシェはヴェスカが説明する一般的な子供の遊びらしいものは、全く経験した事がなど無かった。
異端扱いされていた為に外に出るなど以ての外。存在自体が恥のだと頭に植え付けられていた。
間違いを起こせば怒鳴られ、下手をすれば殴られる。だから黙って室内に居るしかない。
それなりに大きな家で衣食住には困らない環境にも関わらず、使用人らからも腫れ物扱いだった。
理由は自分でも良く分かっている。
自分はそこに居てはいけないのだから。
楽しかった思い出があった記憶が無い。少しはあったかもしれないが、麻痺し過ぎて忘れてしまった。
扱いがもう少しでも違えば、普通の幼少期を過ごす事が出来たかもしれない。
自分が半端な血を引いていなければ、屋敷の使用人としてでも違う生活が出来たであろう。
少なくとも汚い血の野良犬だと罵倒され続けずにはいられたはずだ。
「段差が激しい場所があるって聞いたよなあ、そういえば」
「あ?…ああ、うん。確かそう聞いた」
「気ぃ付けろよ、足場が緩んできたわ」
ヴェスカが指摘したように、地面が若干水分を含みぬかるんでいる。
見えにくい足元が更に不安要素を増してきた。
「さっさと見つけるぞ。美味いもん食って温泉入りたいからな。混浴風呂あるかなあ」
あまりにも鬱蒼とするせいか、気分を切り替えたいヴェスカは話を変えてきた。
「混浴?」
「んあ?何だよ、混浴風呂を知らないのか?田舎者かよ勿体無い!」
「そんなに勿体無いのか」
「そりゃあ、男女一緒に同じ風呂に入るんだから。夢が広がるだろうが」
ぐっ、とリシェは言葉を失う。
「お前は毎回毎回そんな事考えているのか!」
手にしていた熊手の先でヴェスカの頭を突いた。
「お?おぉっ?リシェちゃんはそんな事考えた事が無かったのかな?いやあ、ほんっとーにリシェちゃんときたらお堅いんだからなあ、実は少しは思ったりもするだろ?なあ?」
「………」
リシェは無言でヴェスカを突いていた。
動く度に草同士が重なり擦る音を耳にしながら暗がりを進む。
「よくこんな暗いとこを進んだもんだなあ。さぞかし勇敢なお嬢さんなんだろうよ。…ん?あれ」
「?」
ヴェスカはある変化に気付き、立ち止まった。
「何か下り気味だな。勾配あるわ。…ちょっと避けとくか」
勾配を避ける為にヴェスカは進路を少しだけ変えた。リシェも頷き、彼の後ろで慎重に足を進める。
しかし、ぬかるむ土を強めに踏みつけたせいか、一気に足を取られた。
「…あ!」
咄嗟に軽い悲鳴が口から出る。
反射的にヴェスカの背中を掴もうと手を伸ばすが既に遅く、勾配に巻き込まれながらリシェの体が下へ滑っていった。
ずざざざ、と暗闇に引き摺られる不気味な音がやがて止まる。
「…リシェ!!」
彼の異変に気付いたヴェスカが声を上げる。
落下した先で、小さな明かりが見えた。
「まじかー、そう来るかー」
まさかリシェが落ちるとは思わなかった。滑るなら軽いリシェより重い自分だと思ったのだが。
一方で下に居るリシェは、泥に汚れた服を軽く払いながら上の明かりを見上げた。
なかなかの急勾配だったようだ。遠くにぽつんと小さな光に向け、リシェは「ヴェスカ」と出来るだけ大きな声で叫ぶ。
「んあー!?」
間抜けな返事が返ってきた。
「俺はこのまま探してみる」
「分かったー!」
ただでさえ大きな声が更に大きく暗闇に響いた。
全身に纏わり付いた泥水の冷たさを感じながら、リシェは再び熊手を手にしながら草をかき分け進む。
地面は先程よりも酷く状態が悪かった。
靴の中ですらぐしゃぐしゃで、泥のせいで重い。
払ってもまた新しい泥が付いてくる。
暗闇の森林をひたすら進んでいるうちに、リシェはシャンクレイスの屋敷から逃げ出した当時の記憶が頭に蘇ってきた。
着の身着のまま、裸足でひたすら逃げ出したあの日。皮膚を突き刺さる石や木屑の感覚はまだ記憶に新しい。
薄い寝巻一枚の姿のまま、目的も無く走っていた。
それまで自分の意思も無く、漠然と虐げられた生活を受け入れていた。だが次第に悪戯の度合いが酷くなるにつれて、不思議と自我が湧いてきた。
凄まじい嫌悪感。
触られたくないという意思が湧いた。
同時に、出来るものなら殺してやりたいとも。
その気持ちが自分の心の底にあった瞬間、このままでは駄目だと初めて悟った。
あの家に居れば、自分は更に悪化する。
黒い感情が爆発する前に、自分から離れなければいけなかった。でないと、あの家に居る全ての人間に対して最悪な事をしでかしてしまう。
今でも黒い感情が湧いてきそうになる程、まだ引きずっていた。忘れる事も出来ないのだ。
どこからか動物の唸り声が聞こえる。
唸り声なのか、それとも寝息なのか。
獰猛な動物相手では、この手元の熊手では太刀打ち出来ないかもしれない。かと言って、魔法も出し方すら分からないままだ。
どのように出せばいいのか聞いておけば良かった。大きな葉を払い、リシェはそのまま進む。
「居ないか?近くに居たら声を出せ」
思えば、居なくなった少女の名前すら聞いていなかった。
返事は無い。少しずつ進んでいく事にした。
変わらぬ暗闇の中、不穏な唸り声が近くで感じる。
リシェは腰に括っていたランタンを手にし、奥を照らし目を凝らす。
その時こちら目掛けて黒い影が飛び出し、ガン!とランタンが音を立て揺れる。
「!!」
警戒した小型の動物は、脅かそうとしたのかリシェが手にするランタンに体当たりした後さっさと遠くへ去っていった。
ぶつかった衝撃で腕がびりびりと痺れただけで、後は特に何もないようだ。
リシェは安堵の一息をついた。
良かった…と思っていると、風に乗って微かに小さな声が聞こえる。
「………」
細く、幼さのある小さな泣き声。
近くに居る、と分かった。
「近くに居るのか?居るなら声を出せ!」
出来るだけ大きな声でリシェは叫んだ。その啜り泣きは、少し後方で聞こえた。
その声は風に乗り、リシェの耳に更に近くを掠める。土の壁に添いながら声がした方向へ足早に進んでいくと、やがて空洞を見つけた。
「…おい、居るのか?居るなら返事しろ」
不器用なリシェは、幼い子供にもヴェスカと会話するような言葉しか出せない。空洞に向けて話しかけると、間を置いてようやく細い声が聞こえた。
「かえり、たい…かえりたいよぉお…」
その空洞はやや広く、倒木の欠片や折れた草が進路を邪魔していたものの子供が入るには充分な場所だった。
リシェは纏わり付いてくる草木を避けつつ中へ進むと、やがて行き止まりに差し掛かる。同時に泥だらけで座る小さな子供が姿を見せていた。
ピンクの花柄のワンピースが汚れ、結っていた髪もぼうぼうのまま。
「…居た…」
「ひっ…ひいっ」
泣いている少女はリシェの姿を見ると、ようやく人が来て安心したのか狭い空洞の中、大きな声で泣き出してしまった。
「や、やかまし…泣くな!お前を助けに来たぞ、だから泣かなくていい!」
「ひいぃっ、いいい」
子供の扱いに慣れないリシェは、ここからどうしたらいいのかをとりあえず考える。そして非常食用に持っていた飴玉をポケットから取り出すと、彼女に近付き「ほら」と差し出した。
涙で顔を濡らした少女は、きょとんとしながらリシェを見上げる。
「とりあえず食ってろ」
すん、と泣き止んで飴玉を受け取ると、ようやく落ち着いた様子を見せた。…しかし。
「メロンじゃなくてイチゴがいい…」
なかなか生意気な事を言い出す。
「…贅沢な奴だな!ええっと…待ってろ。ああ、あった。ほら」
イチゴの絵が描かれた飴玉も手渡す。
とりあえず落ち着いてくれたようだと安心した。
「みんな探してるから、お前が無事でこの場所に居るのを知らせてくる。すぐ戻るから大人しくしてろよ」
リシェはそう言い残すと、空洞から再び外へ飛び出す。何か位置を知らせる道具があればいいのだが、ほぼ手ぶらで探しに出た為何も無い。
近くでヴェスカが探していればいいのだが。
上空を仰ぎ見るが、彼のランタンの光が見えない。
「ヴェスカ!!ヴェスカ、どこだ!!」
思いっきり叫んでみたが、彼からの返事は無い。
やはりな…と思った。
こんな時、魔法をまともに使いこなせる事が出来れば…と舌打ちする。オーギュまではいかなくとも、小さな光弾で知らせる事が可能ならば、全て上手くいくのに。
勾配から滑り落ちてはぐれてしまった段階で、自分もまた迷子になってしまったのかもしれない。
…リシェは奥歯を噛んだ。
「…何ですって?」
ようやく宿舎へ戻ったオーギュは、ロシュの言葉を聞いてこめかみをぎりりと押さえる。
話の内容は飲み込めたが、また次から次へと問題が湧いてくるのか。正直うんざりする。
「今リシェとヴェスカがお子様を探し回っている最中なのです。勿論、街の警備隊も組んで頂いて捜索に当たっています。私も同行しようとしたんですが、あなたが戻られた時に誰も居なかったら困るからと止められちゃったのです」
…レストランのフロア内。
ソファで腰をかけてしょんぼりするロシュの近く。店主の妻に支えられている子供の母親の弱々しく肩を震わせる様子を横目で見た後にオーギュは深い溜息をついた。
「ようやく温泉に浸かれると思ったんですけどね。…仕方ありません、私も行ってきますよ」
本当は滅茶苦茶面倒だった。
何故無関係なこちらがいちいちやらなければならないのかと。だがこんな夜分に子供が帰れなくなってしまうとなれば話は別。
「それなら私も行けますね!」
あなたが戻られたし、とロシュは立ち上がった。
だがオーギュはいりませんと却下する。
「へ!?何でです?」
「街の中ですら迷子になりがちなのに、また要らない手間をかけさせる気ですか?捜索にあなたは邪魔です。大人しく待ってなさい」
冷たく突き離され、ロシュは返す言葉を失った。
灰色の法衣を風に靡かせ、オーギュは窓辺から外へ抜け出す。
ロシュは彼の後を追いながら「勾配のきつい所もありますよ」と忠告した。
「どうにかなります」
彼はそう言いながら、新しく刻まれた左手の甲の紋様に視線を落とした。
初見では妙に痛々しく、生々しく見えるその傷。
「…出て来れますか、ファブロス?」
その呼び掛けを受け、一心同体と化した獣は主人の中で御意と答えた。
術者の中でその獣は吠える。
『(お前が私を望むなら、いつでも出てやろう)』
長い時間を経て解き放たれた喜びの咆哮。オーギュはその歓喜に打ち震える召喚獣の意識を、その身にひしひしと感じた。
…同時に、ロシュはその瞬間を目の当たりにする。オーギュの魔力が一気に膨れ上がっていくのを感じた。
「!?」
光の粒子のようなものがオーギュの左手から放出されている。その光は輝きを増すにつれて力強く、やがて何らかの形を作り出した。
「な、何ですかこれ!?オーギュ!?」
大きな楕円形の光は次第に収束し、四つ足の強靭な肉体を持つ獰猛な動物の姿となっていく。
反り返る二つの角に、硬さと強さを否が応でも印象付けてくるその筋肉質に光る灰色の皮膚。
魔物か、はたまた神獣か。
このような不可思議な魔法など、ロシュは見た経験が無かった。
知らぬ間に新しい力を得たのだろう。
そしてその動物が一体どこから現れたのか、未だに分からない。
頭が追いついていかず、ロシュは口を開いたままぽかーんとしていた。
「オーギュ…?な、何ですか…その、ペット?」
「先程契約したばかりの私の召喚獣です。名前はファブロスといいます」
「へ?しょう、かん、じゅう?」
強烈な存在感を放つ獣は、オーギュの側で鋭い眼光をしながらロシュを見遣ると『何者か』と問う。
「ロシュ様です。ロシュ様はこの国の一番の司祭様。私は彼を常に支える役目を持っています。…ですから敵意を向けないようにして下さい」
説明を受けると、獣は眼差しの力をふっと弱めた。
『そうか。お前の仲間か』
「はい。仲良くして下さいね」
大人しくなる召喚獣をの頭を軽く撫で、オーギュはロシュに告げる。
「彼ならすぐに見つけられると思います。さっさと連れ帰って、温泉に入りましょう」
「展開が早すぎますよ」
突然現れた物をなかなか頭が理解出来ないロシュは困惑するが、今の状況を解決出来そうならば頼むしかない。
夜も深くなる。早く少女を救わなければ、湯治に来た意味がない。
「お願いします」
ロシュの言葉に頷くと、オーギュはファブロスの背に跨がる。獣の体は大きく、主人が乗ってもまだ大人一人乗せられそうだ。
穏やかな顔でオーギュは「さあ、行きましょう」と軽く背を叩きながら話しかけた。
温泉地帯の為か、やや湿気じみた空気を肌に感じる。生温くじわりとした感触が、リシェには煩わしく思えた。
空洞の入口で、何度かヴェスカが近付いていないか声を張り上げてみたが、彼は先に進みまくっているのか返事は無い。
…どこまで真っ直ぐ歩いてるんだ。
リシェは喉が枯れそうになりながら心の中で愚痴を吐いていた。
パキンと小枝が割れる音が背後から聞こえてくる。
「…大人しく待ってろって言ったろ」
ゆっくり近付いて来る小さな影に向け、リシェは眉間に皺を寄せながら言った。一人で待っているのが不安だったのだろうか。
少女は自分より背が高いリシェを見上げると、「誰か来てくれるの?」とか細く問い掛けてくる。
「…来るさ。変に動き回るよりはここに居た方がいい。真っ暗だから尚更だ」
「………」
合図になるような火炎弾や、空気砲があればと悔やむが、今更どう思っても仕方が無い。
少女を見つけられただけでもまだマシかもしれないが、その先を全く考えてもいなかった。
静かな暗闇の森は、微かな月の光が朧げに上から差し込んでくる以外はまともな明るさを感じない。空洞の中に持っていたランタンを置いて来たので、リシェの手元には明かりが無かった。
「お兄ちゃんはこの街の人なの?」
身近に人が居る事で僅かに落ち着いたのだろう。
少女はリシェに怯える様子も無く話し掛けてくる。
「いや、今日初めてここに来た。あの宿に泊まりに来たんだ」
「そうなんだ、お兄ちゃん遊びに来たんだね」
遊び…というか、護衛なのか。
いや、遊びに来たと言っておいたほうがいいのだろうか。リシェは分からなくなっていた。
目的は温泉なのだが、結局トラブルに巻き込まれている状態で、任務をこなしているのと同じようにも感じる。
「寒くは無いのか?」
「大丈夫…」
「そうか。足元危ないから安全な所に居ろ」
リシェは彼女にそう言うが、その場に座り込んだ。
「ここに居る」
「…何かあった時にお前まで守れる自身が無い。この通り俺は武器も何も持ってない。宿から熊手を借りた位だ」
「一人…怖いもん」
「………」
甘ったれた事を、とリシェは一瞬思った。
今まで一人で心細かったのだろう。しかもまだ小さいのだ。
軽く嘆息し、分かったよと呟く。
出来れば大人しく引っ込んでて欲しかった。小さい子供の相手はあまり経験した事が無いせいか、どんな風に会話を続ければいいのか分からないのだ。
優しく話せないし、ぶっきら棒になってしまう。
「何かあれば奥に引っ込め。分かったな?」
「うん!」
彼女は入口付近で小さく座り込んだ。リシェはその様子を確認すると、すぐまた空を仰ぎ見る。
何らかの明かりが見えれば安心するのだがまだ目視出来ない。火を起こそうにも、材料が無いのでどうする事も出来なかった。
野生の熊や狼が出て来なければいいのだが。
「さっきから誰かの名前呼んでたけど、お兄ちゃんのお友達?」
「ん?ああ…ヴェスカの事か。一緒にお前を探してはぐれてしまったからな」
「そっか。ごめんね」
「別に…はぐれたあいつが悪い」
自分が滑り落ちてはぐれたのだが、リシェはヴェスカのせいにしていた。
再び明かりを探そうと周辺に目を向けた時、リシェはふと不思議な流れを身に感じ取った。言葉では言い表せない感触が近付いてくる。
大気を震わせ、目に見えないが力強さを持つ何か。
リシェは少女に少し下がれと声をかけたその時、リシェの眼前に大きな影が過ぎる。
「!!」
風が木々を揺らした。暗がりに輝く二つの小さな赤い光を放つ大きな影と、同時に聞き覚えのある涼やかな低い声が耳に届く。
「…リシェ!!」
どっしりとした体躯を持った見慣れぬ獣を確認した後、それに跨った魔導師の姿を見るなり、リシェは安堵と驚きの顔をした。
四つ足の獰猛な獣は、一体何なのか。捕まえて手懐けるにも、オーギュの細身の体型では無理がある。
「良かった、ご無事ですか?」
「は、はあ…大丈夫だけど、それ…?」
「彼は先程、私と契約した召喚獣です。ファブロスと言います」
「………」
空洞から少女がおずおずと姿を見せ、お兄ちゃん?とリシェに不安そうな声をかけてきた。リシェは振り返って少女に目を向けながら、「良かったな」と言う。
「帰れるぞ」
彼女はリシェと、突如現れた謎の青年と怖い獣を交互に見た。やはり獣を見るなりびくりとする。
「大丈夫ですよ。私達はあなたを探しに来たのです。さあ、彼の背中に乗って。滅多に無い経験が出来ると思いますよ」
オーギュは優しい口調で少女に話し掛けた。
やはり初めて見る物には警戒してしまうのだろう。リシェは少女に近付いて手を引き、大人しく待っていた召喚獣の背に乗せる。
召喚獣のファブロスも、少女を乗せる際に体を若干低くさせる配慮をしていた。
「オーギュ様、先にこいつを送ってやって下さい。俺は自分で上に向かいますから」
「送り届けるのはすぐ出来ますから、また戻って来ますよ。それに、あなた泥だらけじゃないですか」
指摘され、リシェは自らの足元に視線を落とす。
ロシュを守る役割を持った白騎士の制服は、確かに鬱蒼とした場所を探していたせいもあり生地の解れも出て、足はぬかるみに取られて泥に塗れた為酷い有様だった。
「…気付かなかった」
「ちょっと待っていなさい。すぐ戻りますから」
オーギュはリシェにそう告げると、再び少女を乗せたファブロスに跨った。
『落ちないように支えておけ、オーギュ』
獰猛な獣から放たれた意外にも穏やかな声。
喋れるのか…とリシェがぼんやり考えていると、獣は来た道を一気に駆け上がって行った。
同時に風が巻き起こり、リシェの小柄な体はぐらりと揺れる。少女の歓声に似た声が遠ざかっていくのを聞きながら、元々やんちゃなタイプなのだろうと思っていた。
とは言え、見つかって良かった。
しばらくすると、空砲のような音が森の中に響いてきた。警備隊の合図のようなものだろうか。
探していた少女が無事だという知らせだろう。
ほっとしていると、急激に空腹感に襲われた。捜索するのに体力を使い果たしたのかもしれない。
服をどうしようか…と考えていると、再び風の揺らぎを感じた。
ぶわりと前髪が揺らされる。
「お待たせしました、リシェ。さあ乗って下さい」
「俺が乗っても大丈夫ですか?」
先程は小さい子供だったから大丈夫だろうが、自分は乗れるだろうか。
不安げな顔をするリシェは、ファブロスに目をやった。
『大丈夫だ。問題無い』
「そうか。なら良かった」
オーギュが促すと、リシェも同じように背に乗る。
獣の鬣を掴んでおきなさいと説明され、リシェは従ったものの、痛くないかなと疑問に思った。
「後で専用の手綱を探しに行かないとね…」
「体大きいな。どうやって見つけたんですか?」
素直なリシェの問いに、恥ずかしい体験をしたオーギュは言葉を詰まらせる。
「か、彼に呼ばれたんですよ」
「へえ…いきなり大きい獣と一緒だからびっくりした。俺でも持てるかな」
「大変ですよ…得るのは…」
思い出すだけでも嫌になる。
術者と一体化しているファブロスは、くっと笑いながら『理想的な主人と会えたからな。みすみす逃す訳にはいかないだろう』と新しい主人を讃える発言をすると、頑丈な足で地を蹴った。
軽快な動きで森を駆け抜けていく。
「わ、わ…!!」
声を失うリシェに、不意に思い出したようにオーギュは言った。
「そういえば、ヴェスカはご一緒じゃなかったんですか?一緒に探しに向かったとロシュ様から聞いたんですけど」
「ああ、忘れてた…俺、滑って落ちたからはぐれたんです。どこ行ったかなあ」
「そうなんですね。まあ、あの人の事ですから気付いたら勝手に戻って来るでしょう」
放っておきましょうと言わんばかりの発言。
やはりオーギュは、ヴェスカに対する扱いが雑だった。
どこに何があるのかを知っておいて損は無い。
宿場区の敷地から抜け、人の波に揉まれながら観光客が行き交う商店区へ進む。
「あら、可愛い顔のお兄さん」
足を止められ、オーギュは武装した女に話しかけられる。重そうな鎧を軽々と身に纏う辺り、剣士なのだろう。
そのくせ胸はしっかり開いて女性らしさをフルに見せている。
アストレーゼンの街同様、なるべく人を避けながら歩いていたが、度々路上でたむろしている旅人の集団にぶつかる事もしばしばあった。珍しくはない。
「おいアヴェリ、道行く他人をナンパする癖を止めろ!これで何度目だよ」
「そんなにナンパしてないわよぉ。綺麗な顔だったから声を聞いてみたかっただけよ」
可愛い顔と言われた事が無いオーギュは、不審な表情で彼女に問う。むしろ、その言葉は果たして自分に向けられたものなのか疑問だ。
「…どうかなさいましたか?」
「あらぁ、声も好みだわ。ねぇ、あなたも旅人さん?それとも地元の人かしら?」
「いえ、私も旅人です」
見た感じ、同じ年齢位だろうか。その重厚感溢れる姿は、ベテランの様相だ。リシェのような若者では纏えない雰囲気がある。
帯同している仲間らも、やはり重装備だった。年季の入った武器を背にしている。
「そうなのね。残念。地元の子なら案内して欲しかったのにぃ」
「馬鹿言え、地元の子がこんなしっかりした魔導師の格好するかよ」
「兄ちゃん悪かったな。こいつの癖なもんで勘弁してやってくれ」
彼女の暴走を止めるのに慣れているのか、浅黒い肌の土埃に塗れた男はオーギュに謝った。
「いえ」
ぺこりと頭を下げ、その場からすぐに離れる。
理由はどうあれ、女性から声をかけられるのは悪い気はしないものだ。
露店から放たれるグルメ的な匂いが鼻を突く。同時に客を呼ぶ威勢の良い声。浮き足立つ旅行者の波。
…若干人酔いしてきた。
騒めく人の流れの中周辺を見回していると、住居が密集しているエリアに視線が止まる。道端に展開されている露店の他にも、別の違ったものが発見出来そうだ。
少し寄って行くか、と思い立った。
石畳を軽く蹴るように足早に進む。
開かれた露店通りとは違い、住宅街は往来する人間達は少なく見えた。歩きやすくて丁度良い。
たまに住人御用達の店舗がある他は、特に変わったものは無いようにも思える。
個人的には薬草の店があれば有り難いのだが。
目的も無い散歩を続けていると、古めかしい看板がやけに目に付くようになった。
木で作られた看板。そこに小刀で刻まれた文字の羅列。古臭くて、誰も興味を示さないそれは、オーギュの心を突いてしまう。
【魔法に関する道具の販売】と煤けた文字が辛うじて読み取れた。
順路は書かれていない。
看板はやけに目につくのに、どうやって行けばいいのだろう。そして、この店は今果たして存在するのか。
オーギュは看板を前にして悩む。
すると、不意に近くで気配を感じた。顔を上げてその気配のした方向に目を向ける。
「………?」
変わらぬ街の様子。誰も自分を見ている様子も無い。若干不思議に感じるものの、仕方なく先に進む事に決めた。
煉瓦造りの石畳に靴音を響かせ、小道を散策する。
あまり深入りすれば、来た道を見失ってしまう。
ある程度進んだら戻ろうか…と考えていると、何故か全身が暖かいものに包まれている感覚がした。
『…い、こちらに、来い』
「えっ?」
何なのだろうと訝しんでいると、頭の中で途切れ途切れの声が響いた。
今まで感じた事が無い感覚にオーギュは動揺し辺りを見回す。
『やっと見つけ…ここで、逃して、たまるか』
「意味が分かりません、どなたですか?」
優しく響く低い声だが、変に物騒な言葉だった。
逃してたまるかとは、どういう意味なのだろう。
『…わたしの、私の声が、聞こえるのか?』
「は…はあ」
側から見れば、オーギュがひたすら独り言を呟いている風になっていた。見回してもその声の主は見えず、まるで狐に化かされている気持ちに陥る。
『やっと、波長の合う人間と巡り会えたのだな』
「え…?え?」
その時。
オーギュの足は、自らの意思を無視し勝手に歩みを進めた。見慣れぬ道で不安げに進んでいたのに、まるで馴染みの店へ向かう感じで足は動いている。
「なっ…何!?」
気持ち悪い。
思考と体の動きがちぐはぐで、猛烈な違和感を覚えた。その違和感に拒否反応を示しつつも、先へ先へと歩いていく。
小道を通り、開けた路上に抜けたと思いきや再び狭く古びた道に入っていく。建物と建物の隙間を進み、薄暗い通りをひたすら歩いた。
散乱するゴミを目にすると、あまりこちらは治安が良くないエリアなのだと顔を曇らせる。
灰色の法衣をなびかせて進んでいたが、ようやく足が止まる。
自分の意思が効かなくなる気分の悪さに抗っていたオーギュは、その先にある古めかしい木造の建物を前にしてはっと息を飲んだ。
「ここは」
バラック小屋と言った方が良さそうな、今にも壊れそうな建物の前には、魔法屋と手書きで書かれた看板が傾いていた。
ここが、さっきの案内板の店なのだろうか。
そして先程頭に浮かんできた謎の声の主は、果たして何者なのだろう。いかにも汚らしそうな風情の建物だが、魔法屋というものに興味もある。
躊躇いもあったが、滅多にない機会だ。
意を決し、オーギュは店の中へ進んだ。
その頃、リシェは敷地内でやたらと耳にしていた「何かと何かがぶつかり合う音」の正体を発見し、物珍しそうにそれを見続けていた。
シシオドシ、というものらしい。
どこからか引っ張ってきた水が、ちょろちょろと絶え間なく下部の細い筒に注がれている。その筒が流れる水を受け止め、その重みでゆっくり傾いた。
水は筒からその下の石造りの受け皿に流され、空っぽになると同時に筒と設置台がぶつかり、カコン!と気持ちの良い音が響き渡る。
ほう、と目を細めて感心した。
水の流れが奏でる爽やかな癒しの音は、心に染み込んでくる。
かれこれ三十分はこのシシオドシを眺めている。
流れる水の音と、気持ちの良い衝突音がとにかくたまらなかった。
この絶妙な音を袋に詰めて持ち帰りたい位に。
「…あの子、ずっとあれを見ているわね」
「悩みでもあるのかしら…」
宿泊客のヒソヒソ話も聞こえない程、彼は夢中になっていた。
同時刻。
怪しげな魔法屋の内部に足を進めたオーギュは、明るい外から、暗い店内へ入っていた。
あって無いような店内の小さな明かりを頼りに、周りを確認しながら進んでいく。
内部から漂う薬品と、野草のような匂いに噎せそうになりつつ、店の奥に居るはずの主に声をかけた。
「どなたかいらっしゃいますか?」
頭の中に響いていた声は、今は全く聞こえない。
古臭い棚には無数の古書が雑に陳列され、来客に見せるべき品物は埃被って煤けているのもある。無精な主人なのか、まともに掃除らしい掃除をしていないのだろう。
天井には何故か蝙蝠を干したようなものが数個ぶら下がっていて、非常に不気味だった。もしヴェスカが見れば卒倒するかもしれない。
「誰だい」
「………っ!」
明かりを頼りに進んでいたオーギュは、いきなり間近で聞こえた嗄れた声に息を飲んだ。
自分のすぐ右側で蠢く影。
「い、いらっしゃるならそう言って下さいよ」
仄暗い店内に目が慣れ、オーギュはその影へ声をかける。それは小さく、丸まったものだった。
「耳が遠いんだ。それに、ここに来る物好きもそう居ない。あんたみたいな変態くらいなもんさ」
店の主はゆっくりとした口調でオーギュに話しかける。
真っ黒なフードを深く被った小さな老婆は、商品と商品の間に挟まるようにして座っていた。
座ったまま動きが無ければ、変わった置物に間違われてしまいそうだ。
「変態って…」
「あんた、相当な手練れの魔法使いだろ。十分な変態さ。そこまでいくにはかなり時間を使ってきただろう」
「見ただけで分かるものなんですか?」
「年季の入った同業ならすぐ分かるさ。あんたみたいなのは稀だね。大した才能も無いのに、そこまで魔力を高めるなんて」
大した才能も無い。
その言葉に、自分でもよく分かっているオーギュは苦笑いする。見破られているのだ。
「分かりますか」
「そこまで自分を上げられるのも珍しい。今まで、血反吐吐く位の荒削りな努力をしてきたんだろう。…そうまでして、まだ物足りないのかい」
か細く見えるものの、彼女の目はやけにギラギラして見えた。
何年もの間魔術に携わると、加齢が進むにつれて生気が強まっていくのだろうか。
「お店の看板を見ていたら声が聞こえて来たんです。それで、こちらに引っ張られて」
理解し難い話をしながら、オーギュは説明した。
店内を漂うお香が鼻に纏わりつき、軽く咳込む。
「ほう…?」
「誰かが、私を呼んだ気がします」
老婆はしばらく無言になった。
古びた本棚や無造作に立て掛けられている数々の杖、魔力を引き出せる埃被った魔法石などの道具に囲まれながら、オーギュも同じように黙る。
すると、どこからかガタリと音を立てて動いた。
ぴくりと眉を動かし、その音がした方を向く。
「…あんたはまだ力が欲しいのかい」
「え?」
「魔導師として、力を更につけたいのかと聞いてるんだよ」
老婆は音を立てた方をちらりと見遣ると、こちらに向けて何かが転がってきた。同時に、オーギュの左の足元に古びた小瓶がぶつかる。
それを拾い、彼は老婆に手渡した。
中身の分からない小瓶は欠けがあったものの、保存の役割を果たしている状態にあった。薄れた赤い紋様が描かれているが、何を意味するのか分からない。
老婆は薄汚れた瓶を見ながら、「そいつさ」と説明する。
「は?」
「あんたを呼んだのはその瓶の中身。宿り主を探し続けて、何百年の間眠っていた変わり者の獣だ」
「これが、ですか…?」
「鍛錬に鍛錬を重ねた魔導師は、神獣をも手懐ける事が出来るという。その神獣が術者を受け入れ力を貸す事によって、術者の魔力も更に強まる。昔の学者はその神獣の呼称を召喚獣と名付け、術者は神獣召喚士と呼ばれていた」
オーギュの手にある小瓶は、次第に熱がこもる。
老婆はそれを見ると、ふんと鼻を鳴らした。
「知らんうちにそいつを手懐けたのかい」
「知りませんよ。召喚獣の話も初耳です」
知っていたとしても、自分がその神獣を手懐ける事が出来るのかどうかは自信が持てない。
だが、もし相手が自分を受け入れてくれれば、自らの魔法の力を更に強める事が出来る。魔法に関しては、どこまでも貪欲なオーギュには、召喚獣の話はかなり興味深い話だ。
「瓶の中身がはしゃいでおる。えり好みしていた奴がこんな状態とは、随分珍しいものだ」
「………」
「物は試しだ。獣からの試練を受けてみるか?」
ごくりと喉が鳴った。
自分を呼び寄せたものがこの手の中にある瓶ならば、その実体を見てみたい。果たして受け入れてくれるのだろうか。
…駄目で元々だ。
普段冷静沈着なオーギュは、胸の高鳴りを押さえるのに必死になりながら「…ええ」と考えるよりも先に受諾の言葉を口走っていた。
「折角なので」
「…ほう。失敗したら、下手をすればかなり体力を消耗するが、問題無いな?」
「大丈夫です。こちらには休暇で来たようなものですし、休めば問題ありません」
老婆は面倒そうなニュアンスでそうかと告げると、オーギュが立っていた近くの床を杖の先で強く突いた。
突いた先に、ぱっくりと大人一人が入れる大きさの穴が出現する。
「これ…いきなり落とし穴ですか?」
真っ黒な穴を見下ろしながら、オーギュは眉を寄せた。奥が見えないので不安を煽る。
「地下に亜空間を作った。そこでその神獣の試練を受けて来い。一時間以上経っても出て来なかったら引き上げてやる」
「………」
「やるのか?やらんのか?」
「やりますよ。この瓶の中身が私を呼んだのなら、少なくとも私を悪いようには思ってないでしょうから」
やや緊張しながらオーギュは老婆に言い、その穴の中へ足を突っ込む。スッと全身の力が抜けるような感触がした。
真っ暗な空洞は彼を吸い込んでいく。それはまるで、長い滑り台に乗せられた気分になる。
しばらく落下に身を任せていると、やがて明るい空間が見えてきた。
迫り来る眩しさを感じ、オーギュは目を細める。
全身に回ってくる違和感は、魔法で作られた空間のせいなのだろうか。老婆から放たれた魔力は、オーギュの体にはやや負担がかかるようだ。
魔法の力を使いながら落下の抵抗を避けると、やがて真っ白い亜空間の広間へと落とされてしまった。
天井から吐き出され、つい膝を突く。軽い膝の痛みに眉を寄せながら、周囲を見回した。
「うう…」
落ちた衝撃で手元から離れた小瓶は、彼の目の前で緩やかに転がっている。
その小瓶に描かれた紋様は、赤い輝きを放っていた。オーギュは瓶を掴む。
「あなたが私を呼んだんですね」
何故か確信を持っていた。
瓶の中身はしばらく黙っていたが、やがてオーギュの頭の中に声が響く。
『…瓶の蓋を外せ。話はそれからだ』
ごくりと喉が鳴った。
外したら、喰われるのかもしれない。
召喚獣というものを知らなかったオーギュにとって、安易に相手の言われるままに従っていいものなのだろうかと警戒心が働いた。
「私に危害を与えたりしないと約束して下さるなら、開けましょう」
これでもし、約束を反故にするなら戦うしかない。
…胸が緊張で高鳴り、喉が渇いてきた。
オーギュの条件に、瓶の中の獣は『随分警戒するもんだな』と呆れた口調で返す。
「あなたの姿が分からないから警戒しているのです。召喚獣というものの実体を知らないのだから当然でしょう?丸腰で動物の檻の中に放り出されたようなものです」
『ふん…生身の人間には興味が無い。そのまま喰ったりはしないから安心しろ。それとも、喰って欲しかったのか?』
生身の人間には興味が無いとはどういう意味なのだろうか。
とりあえず、いきなり喰うというのは無いらしい。
オーギュは分かりましたと口にすると、瓶の口部分のぐるぐる巻きにされていた古い紐を解いた。
紐は古過ぎている為に劣化し、汚れに塗れてべたつきがあった。
「どれだけ放置されていたんですか、これ…」
やや潔癖症のオーギュは眉間に皺を寄せながら紐を取り除くと、蓋を遠慮なく開封した。
…同時に。
『ああ、やっと…!やっと、出られるのだな…!!』
歓喜の声が上がり、瓶の中から煙のようなものが激しく放出された。放出というよりは、噴射というのが正解かもしれない。
余程待ち望んでいたのだろう。全身が弾かれそうな勢いだった。その凄まじい反動に怯み、尻餅をついた状態のままでオーギュは瓶から手を離す。
「く…っあ!!」
もうもうとする空間の中。
鼻と口を手で押さえ、その瓶の中身を見ようと目を凝らしていたオーギュの前に、ようやくその実体が姿を現していった。
『お前のような術者が現れるのを待っていた甲斐があった。礼を言うぞ』
「………っ!?」
灰色の皮膚を持つ強靭な体躯と、銀の鬣が揺れる大きな獣。鋼のような光沢を讃えた二つの逆立つ角を持つ重厚感溢れる姿は、気品さえ感じさせてくる。
頑丈で太い爪先は、ほんのりと赤みを見せつつ、それまで閉じ込められていた割にはしっかりと地面に足を着けていた。
眼前に現れたその獣は、頭を振るった後で金色の丸い瞳をオーギュに向ける。
「あ、あなたが…あの瓶の中に…?」
ふんわりと銀の毛を揺らし、召喚獣は伏し目がちに頭を軽く垂れた。
『そうだ』
「私の力になって頂けるんですか?」
オーギュの問い掛けに、彼はじっとこちらを見る。
『お前が望むなら』
数歩、こちらに歩み寄る。オーギュは彼の動きを見ながら、尻餅をついたままで固唾を飲んでいた。
『条件がある。私に、お前の全てを見せろ。その上で私の意に叶う相手だと判断出来れば、私の力をお前に貸してやろう』
「全て…?」
「私はお前がどれ程の術者か、私の力を存分に駆使出来るのかを知りたい。そして悪用しない性質かどうか、その類い稀なる力を付けるにはどの位苦労してきたのか、過去の全てを知り尽くした上で判断をしたい。それには相当な苦痛を強いられるだろう。お前の知られたく無い過去の事を抉るかもしれない。お前はただ、私がお前の全てを見ている間だけ耐えるといい』
苦痛に耐えきれた者だけが、召喚獣を扱う事が出来るという老婆の言葉を思い出す。
その苦痛とは、どれ程の痛みなのか。
「苦痛が如何程のものか判断しにくいのですが」
『そうか。ならば、やってみるとするか』
獣はそう言うと、オーギュに近付いた。
「…な、何を?」
自分より大きな獣が、上から覆い被さる形でのし掛かってくる。その重さときたら。
うぐ、とオーギュは呻きながらも両腕を前にして押し返そうと試みる。
こいつは、人間の大きさと耐えられる重みを理解していないのではないかと思いつつ、あまり力を押し付けないで下さいと忠告した。
『この程度で弱音を吐くのか。人間は非力だな』
「その図体で体重かけられれば潰れます!」
『我儘な奴だ』
我儘という問題ではない。
獣はオーギュの頭に軽く右の前足で触れる。それでも彼の足は大きく、オーギュは身をよじりながら「大きさを考えなさいよ」と呻いた。
『加減が難しいのだ。少し我慢しろ』
獣は真っ直ぐ金色の目を向けてきた。
オーギュは彼を見上げたまま、怪訝そうな表情を見せる。
一体何をさせられるのか…と不安だったが、次第に急激な眠気に襲われた。
「あ…」
『お前の名は、何という?』
ぼんやりと頭が霞がかる中、どうにか気を保とうと口を開き、名を名乗る。
「オーギュスティン=フロルレ=インザークです」
『ふん…仰々しい名前だ』
召喚獣は軽く吐き捨てるように言うと、今から辛くなるぞと囁いた。
頭のどこかでチクリと痛みが走る。
その瞬間、オーギュの脳内でざあっと不気味な音が走りだした。
「…っああああぁああ!!」
全身が強張り、同時に激痛が襲い掛かってきた。
「ひ…っあ、痛ぁあああ」
ひたすら全身をきつく叩かれているような刺激。
今までこんなに痛みを感じた事は無かったオーギュは、獣を上にしながら仰け反ったり転がったりと苦悶の様子を見せる。
獣は目をスッと細め、眼前で苦痛を訴える哀れな人間を眺めていた。
『我慢出来ないのか。脆弱なものだな』
「は…っ、はあっ」
奥歯を噛み締めながら、オーギュは獣を見上げる。
脆弱と言われたのが腹立たしいのか、端正な顔を歪めながら強がる言葉を口にした。
ふう、ふうと呼吸を整えつつ、獣をきつく睨んで上体を起こす。
「馬鹿に、するな」
獣は一瞬驚いたように目を見開く。
『ほう…あれだけ痛がっていたのに随分強がるな』
「私を主人にしたいのでしょう?強力な術者で無ければ、あなたは満足しないのでしょうから」
オーギュは獣の鬣に手を伸ばし、ぎゅっと掴んで自らの眼前に引っ張る。
「私なら、あなたを使いこなせる。他の術者では到底無理です。…私以上の魔導師など存在しないのですからね。この機を逃すと、あなたはまた何百年も眠りにつく事になります」
『随分自信があるじゃないか』
その間にも全身に激痛が走り、びくりとオーギュの眉が動く。
「あなたはそう思って、私をここまで呼んだのでしょう!」
獣は頭を軽く振るってオーギュの手を払うと、『まだ、決めた訳ではない』と突き放した。
『私が欲しいか、オーギュスティン』
彼はそう言うと、自らの右足の爪を光らせる。
「…あなたが私を欲しがっているのでしょう?」
『傲慢な人間だな、お前は。どうしてもそっちに持っていきたいのか』
「主導権は私にあるんですよ。あなたは私という術者が居なければ出て来れないのでしょう?」
『ああ、そうだ。お前みたいな術者は滅多に居ないからな。それには更に条件がある。条件を飲まなければ、お前との縁はこれまでだ』
全身から汗が噴き出してくる。
激痛の原因が骨からくるのか、それとも違う何かがあるのか全く分からない。
痛みはなかなか治らないまま、オーギュは獣の要求を待った。
『お前を喰わせろ』
相手の言葉はシンプルだが、全く意味が分からなかった。オーギュは目を見開いたまま、頭に伝達された情報を理解しようと時間をかける。
「は…?」
『意味が分からんか?お前を喰わせろと言ったんだ。今、ここで私はお前を喰らう。この力を得たいなら受け入れろ』
「死ぬじゃないですか!それに生身の人間に興味は無いって言いましたよね!?」
馬鹿な事を、と吐き捨てるオーギュ。矛盾もいい所だ。
『ああ、確かにそう言ったな。だが本当に生身の人間を喰う趣味は無いのだ。しかしお前が私の力を欲するなら話は別だ』
「………」
『私に喰らわれた後、お前は私の力で再生する。お前は私の物となり、同時に私もお前のものになる。私が最後に欲しいのは術者の魂。私はこの先もずっと、強い魔導師の魂を糧に生きなければならない』
「た、魂…?」
『お前は肉体的に死んでも、私の中で魂は生き続ける。この獣と一心同体になりたくなければ、この話は無しだ』
怪訝そうな様子を見せていたオーギュは、しばらく黙っていた。
死んだ時までは分からない。そこまでは考えてもいなかった。誰でもそうだろう。
間を開けた後、オーギュは「構いません」と返す。
どうせ死ねば無になるだけだ。
『そうか。そうだな。…身内から爪弾きにされてきたお前には、願ったり叶ったりだろう、オーギュスティン。私は常にお前と共に行き、死んでも離れる事は無い』
「え…」
『私は先程お前の全てを見た。だから分かる。身内に認めて貰いたくて努力を重ねて培ってきた力を、このまま埋もれさせるには実に勿体無い。私なら存分にお前の能力を引き出せる』
甘い誘いにも聞こえてくる。
もしかしたら騙されているのではないだろうか、とすら思えた。
獣はオーギュの首筋に鼻先を掠めさせ、悪くはしないと低い声で囁く。
びくりと身を縮こませ、オーギュは軽く呻いた。
「甘い事を言って、凋落させる気ですか?」
『…お前には見返したい相手も居るだろう』
見返したい相手という言葉に、一瞬思考が停止する。
どれだけ努力重ねても、未だに越えられずにいる相手。真っ白な法衣を身に付け、日の光のように穏やかに笑う幼馴染のロシュの姿が浮かんだ。
獣は口を少し開き、舌をオーギュの首筋に擦り付ける。ざらりとした舌先に、全身はごわついた。
「…っは…!!」
『一緒に居れば、お互い更に力は伸びる。お前はまた力を増幅させる為に努力するのだろう?私はそんな魔導師の主人が欲しいのだ』
獣の爪が、オーギュの体を一気に裂く。
先程よりも更に鋭い痛みが全身を襲い、声を上げる間も無いまま自分の体から血が吹き出ていた。
「あ…あ…」
『耐えろ、術者』
目の前が真っ赤になる。獣が自分の体を貪り始めるのが分かった。
全身の力が抜けていく。獣を掴んでいた手の力も緩み、無抵抗のまま横たわった。
自分を獣が喰らうというショッキングな様相を目の前にしながら、オーギュは意識が朦朧としてきたのが分かる。
「はぁっ、あ…ぐっ」
『お前は美味だ。今までの魔導師よりも魂が上質だな。喰らい甲斐がある。美味い、堪らん』
ぴちゃぴちゃと血肉の鳴る音と共に、痛みも感覚も麻痺してくる。生臭い匂いも感じない。喰われているという事だけが頭に残っていた。
そして、オーギュの世界が暗転した。
ハッと意識が戻る。
体を勢い良く起こし、オーギュは真っ白い空間の中で周囲を見回した。
『目が覚めたか?』
「え…」
『良く耐え抜いたものだ』
目の前に居るのは、銀色の髪の精悍な青年。何故かその姿は、象牙色の逞しい筋肉を惜しみなく曝けだしている。
オーギュは不審な顔で彼を見上げた。
「どなたですか?」
『先程お前を喰っただろう?』
彼はオーギュを押し倒す。
どうやら喰われたのは本当だったようだ。夢なのかと思っていた。
『契約完了だ、オーギュスティン。私はお前だけに力を貸してやる。存分に私を味わうがいい』
銀色の肩まで伸びた髪がさらりと流れる。
頭が追い付いていかないオーギュは、ひたすら時系列を整理しようとしていたが、彼の様子が変な事に気付く。
「ちょっ…何を!」
彼はオーギュの下腹に顔を寄せてきた。そこで、自分も丸裸だった事を理解する。
意味が分からない。
『久しぶりに出られたからな。腹が減ったのだ』
「腹が減った…!?さっき、食べましたよね?」
『あれは儀式みたいなものだ。現界での糧になるものは、主人から貰い受ける』
真っ白い空間で、全裸の男二人が変にくっついている異常事態。
オーギュは顔を真っ赤にしながら抵抗した。
「糧になるもの!?…な、何をあげれば」
人間に化した獣は、均整の取れた顔でふっと笑う。
そして答えぬまま、オーギュの下腹に顔を埋めるとあり得ない場所を口に含んだ。
「ひい!?…や、やめ…何をするんっ」
『お前の精を頂く』
「は!?どうし、てっ…放して、放しなさいっ」
オーギュは恥ずかしさと嫌な感覚に抗い、相手の頭を押し退けようと試みる。
だが彼も久々の空腹に、夢中になって吸い付き離れない。ぴちゃぴちゃと音を立てながらひたすら口で愛撫してくる。
「あっ…ひぁっ」
『…よし、硬くなってきたぞ。たんまり頂くからな、オーギュスティン』
「や…やめなさいっ、こんな事許可してないっ」
完全に固定されながら、オーギュのしなやかな裸体は獣によって快感と嫌悪感に支配されていた。
「は…は…っ、あうっ」
『いい声だ。鳴けば鳴く程、いい精が出るだろう』
「い…いやだ、いやっ…」
『もう遅い』
獣の手が伸び、主であるオーギュの胸の突起をきつく抓りだす。その瞬間、体は刺激に耐え切れず甘い叫びを上げていた。
「ああっ…!」
『…ふむ、お前はここが好きなのだな?』
覚えておこうと彼はにやりと笑った後、再び下腹に吸い付いてきた。
精を飲むという発言をようやくオーギュは理解する。
彼は自分が放出した精液を飲むつもりなのだと。
そう思うと同時に、全身が敏感になった。
「だ、駄目です!これ以外は、無いのですか!?」
『無い。黙って飲ませろ。今は腹が減って仕方ないのだ。それにお前のは上質な味がする』
「嘘…っあ、はぁあああっ!」
獣はオーギュの屹立しきった部分に手を当てると、上下に扱き始めていた。
顔を真っ赤にしながらも意識を保とうとするオーギュ。扱き上げた後に、獣はまたぱくりと口に含みゆっくりと吸いついてきた。
「ひいっ!!」
黒い髪を乱しながら、オーギュは悲鳴を上げていた。恥ずかしくて死にそうだ。
獣は次第に変化するオーギュ自身を嬉しそうに眺め、愛おしげに舌先を滑らせる。
『私に飲まれたくてうずうずしているのが分かる。沢山可愛がってやるぞ』
ひくひくと顔を引きつらせ、オーギュは自らの下で夢中になって貪る獣の頭を剥がそうとしていた。
だが口内でねちっこく責め、絶え間無く襲う刺激に力が弱まってきた。
「こんなっ…こんなの、おかしいですっ」
体を仰け反らせながらオーギュは呻いた。
「はあっ、あっ…んうっ…んんっ」
『そうだ。そのまま受け入れろ。楽になる』
全身が熱く、汗か飛び散る。
ただ力を欲する為に召喚獣に会ったのに、何故こんな事になるのか。
次第に腰が浮き沈みし、変な感覚に陥ってきた。
『気持ち良くなってきたか?』
「違い…ますっ」
『嘘つけ。先程よりも溢れてきたぞ』
獣はオーギュの腰をしっかり両腕で固定すると、音を更に立てて愛撫してきた。
逃れられない状況下に置かれ、オーギュは全身が緊張し一気に快感に苛まれてしまう。
「はあぁあっ、あうっ…や、やめて、やめて下さい!!出るっ、出てしまうっ」
ついに口から恥ずかしい言葉を発し、悶えながら悲痛な叫びを上げた。獣はそれを聞くなり頭を動かし更に吸い付いていく。
オーギュの尻を鷲掴みにし、軽く揉みながら彼は『構わんから出せ』と期待を込めて返した。
「嫌だっ、いや…やあっ、出ちゃ…あっ」
わざとらしく響かせてくる水音を聞きながら、オーギュは更に感度を強めていった。
下腹に意識が集中していく。熱く、甘く痺れ出し、オーギュの中から獣の口内へ向かって流れる感触がした。
慣れていない訳ではない。ただ、この異常な状況は受け入れ難かった。知らないうちに普段は出さない甘い呻き声が漏れている。眼鏡がズレているのにも気付かず、ひたすら喘ぎ続けていた。
「ひ…っ、あはぁっ、あうっ…んっ」
腰の浮き沈みが止まらない。気持ち良過ぎてこのまま浸りたくなるのと、一刻も早くこの状況から逃れたい気持ちがせめぎ合う。
情けなさも相まって、オーギュは苦悩していた。
「ああっ…もうっ…だめ、ですっ」
すると獣は下腹から頭を離す。
えっ、とオーギュは彼に目を向けた。獣は右手を伸ばし、オーギュの胸の突起に指を絡め軽く弄り始める。左手は屹立している箇所の付け根をしっかり止めていた。
出そうだったのをいきなり堰き止められる。もう少しだったのに、と絶望感がオーギュを襲った。
何故そんな事をするのか。
「は…っ!!」
『濃厚な精を飲みたいからな』
「もういいでしょうっ、放して下さい!お願い、放して!!」
さっきは出せと言ったのに。
こんな事なら、あの時さっさと出して終わらせれば良かったと目をぎゅうっと閉じる。
一方、獣は体をゆっくり起こすと、オーギュの熟れきった全身を眺めた。細くしなやかな肉体は、全身に回る快楽に苛まれながら波打っている。
汗で光る術者の理想的な肉体は、召喚獣側には魅力的だ。
この体を好き放題出来る事が堪らなく嬉しい。
彼はオーギュの首筋に顔を埋め、その体を堪能するかのように全身を撫でていく。
「ひ…いや、だ…お願いですから、早く終わらせて」
出したい。とにかく出したい。
「お願いです…はや、く」
オーギュは目の前で自分の体を貪る獣を見上げながら言った。はあはあと荒い呼吸を繰り返し、迫り続ける快楽を押さえながら。
全身を荒れ狂う甘やかな感覚が苦痛だった。
獣はその美しい顔を変えぬまま、『随分と可愛く頼むようになったな』と驚いた。
『もう少し堪能したい所だが』
オーギュはぶんぶんと首を振って嫌がった。
獣は軽く溜息をつくと、彼の胸元に頭を埋める。
「はや…く、早く…っ」
相変わらず獣の左手はオーギュの根元をきつく束縛していた。その状態のままで、彼は小さく固まっていたオーギュの乳首を舐め始める。
「ひいいい!?」
一気に快感が増幅した。
惨めな気持ちと、恥ずかしさで気がおかしくなる。
「やめなさい、お願いですから!体が変になるっ」
しかし相手は黙ったまま、ひたすら乳首を舌先で弄り続けていた。ぞわぞわと全身の毛が逆立っていく。
「はあっ、ああっ…もう、やめて下さい…」
こんな責め苦は耐えられない。恥ずかしげもなく薄い唇から涎を垂らし、惨めな姿を露わにしてしまうなど許されない様相を獣に見せながら早く済ませて欲しいと願うのみ。
次第に弱々しくなるオーギュの口調を聞くと、獣はゆっくり口を離した。そしてふっと強気な笑みを浮かべる。
終わらせてくれるのだろうかと期待した。
『ここまで焦らされたのだ。さぞかし美味だろう』
生々しい匂いを放つオーギュの下腹に、獣は再び頭を埋める。そしてようやく唇をその先端に付けた。
「ああっ…」
汁音を立て、獣は固定していた左手の力を優しく解いた。しっかり口内へ含んで、固まっていたオーギュに舌を滑らせたその瞬間。
一気に快楽が押し寄せてきた。
「あ、あ…っ!!駄目です、出るっ…!」
何だ、早いな…と思っていた獣の口内へ、勢い良く熱いものが噴射された。
彼は快楽にとにかく弱いのだろう。
「んっ…!!」
そしてあまり自分を慰める事をしないのか、多量で濃い。獣は夢中で吐き出したそれを飲んだ。
生暖かく濃厚な精は、久しぶりに表に出て来た彼には最高のご馳走となった。それが高い魔力を持つ魔導師のものなら尚更だ。
「やっ…あ、はあっ…」
眼前の魔導師は全てを吐き出すと全身の力が抜けたのかようやく強張りを失っていた。
「はあっ…は…」
精を堪能し、ようやく獣は顔をオーギュの下腹から離す。真っ赤な舌を見せ、満足げな表情を見せた。
『気に入ったぞ、オーギュスティン』
「………?」
『こんなにも濃い精を飲めるとは。そしてこんなにまで高い魔力を持つ主だとはな』
疲れ果て、うっすらと汗を浮かべながらやや放心状態のオーギュは嬉しそうに言ってくる獣を黙って見上げる。
色々あり過ぎて、彼の頭は既に考える事を放棄していた。そんな主を無視するかの如く、獣は人型から元の召喚獣に姿を変化させた。
「…では、私はあなたの主人になれたのですね?」
ようやくオーギュは吐息混じりに彼に問う。
まだ残滓の匂いを察知したのか、『そうだ』と告げながら獣の大きな舌を使いオーギュの内股を拭った。
「あっ…!何っ!?」
ざらつく大きな舌はぬめぬめと体を擦る。
『私はお前のものだ。好きな時にこの力を使うと良い。呼ばれれば、すぐに出られるからな』
「はあっ、あ…いっ」
全身が獣の舌に這い回られ、感度が良過ぎるオーギュはまた快感に襲われた。
余程オーギュの肉体が気に入ったのだろう。獰猛な獣の姿のまま、まるでペットのようにじゃれついてくる。
硬い肌は熱を孕み、汗ばむ鬣も湿気を感じさせる。
「や…放しなさ」
これでもかという程舐められ、研ぎ澄まされた快感はオーギュを更に苦しめた。
「いっ…!!」
先程より気持ちがいい。
獣を相手にしている背徳感のせいなのか、オーギュは吐き出したにも関わらず再び限界を感じた。
喉の奥から今まで出した経験の無い嬌声が発せられ、体内からまた獣が欲していた欲を放出させる。
吐き出した感触と同時に、ぶつりと意識は飛んでいた。
…宿の中に常設されているレストランの前で、ショーケースにあるサンプルをまじまじと見つめるリシェの姿をようやく発見したロシュは、ほっと安堵しながらゆっくりと近付く。
ショーケースの中はフルーツやケーキなどをふんだんに詰めたパフェ類の数々。
アストレーゼンではあまり見ないサンプルが珍しくて堪らないのだろう。
あまりの凝視っぷりに、レストランの従業員や宿泊客らがリシェに向けて不審そうにちらちら視線を送っていた。
まるで親に買って貰えないでいる子供のようにも見える。その姿に、ついくすっとロシュは吹き出した。
「リシェ」
リシェは甘い物が好きなのかもしれない。
穏やかなロシュの声を聞き、ぴくりとリシェは反応した。あっ、と照れ臭そうな表情を見せるも、すぐに大人びた顔つきになる。
さも興味がありませんと言わんばかりにロシュの方へ体を向けた。
「美味しそうなパフェですねぇ」
「は…はあ」
「ずっと眺めていたんですか?」
リシェは顔を若干紅潮させ、ぷるぷると首を振る。
「い、いえ違います」
卑しい姿を見られたと思われたくなかった。
だがひたすら眺め続けていたのを見ていたロシュは、隠さなくてもいいのにと苦笑する。
「小腹が空きましたから食べましょうか」
「おっ…俺、払いますから!」
顔を上げ、リシェは慌ててロシュが支払おうとするのを止めた。だがダメですと逆に言われてしまう。
「ここは大人として、私が払います」
「俺、食べようか我慢しようか考えていたんです。晩御飯があるから食べるのはやめようかなって。だ、だから決して払えなくて見ていた訳では」
自分はロシュに集りたいつもりは無いのだと言いたかった。
ロシュはリシェの目線に合わせて屈み、彼の頭に手を軽く置くと華やかな笑みを浮かべた。
「私はあなたと一緒にフルーツたっぷりのパフェを食べたいのですよ。私の我儘に付き合って貰えますか、リシェ?」
そう言われてしまうと、返す言葉が見つからない。
「あなたがそう仰るなら…」
渋々そんな言い方をする割には、リシェの目の色は輝いているようにも見える。やはりまだ子供だ。
ケースの中のスイーツを見比べながら、二人でそれぞれ気に入った商品を選んだ後ようやくレストランの従業員に声をかけた。
リシェが選んだのはミニサイズのケーキが乗ったフルーツてんこ盛りのパフェ。バニラアイスと生クリームが交互に盛り付けられ、間にフルーツが挟まれて仕上げにチョコソースがふんだんにかかっている。見るだけでわくわくしてきそうだ。
一方でロシュが頼んだのはパンケーキの上にアイスとフルーツ、そしてレアチーズケーキのワンプレート乗せ。パフェが妙に大きいのでシェアしながら食べる事にした。
座席に着き、お茶を数口飲む。
時刻は夕方に近い。チェックインを済ませた旅人の姿が往復している。
「そういえば、オーギュ様は別としてヴェスカはどこに行ったんですか?」
「ヴェスカですか?途中まで一緒に居たんですけど、この宿の主人が高い所の照明に手が届かなくて困っていまして…彼が手伝うって作業し始めたのですよ。ついでに何かやれる事は無いかと、完全に作業に入ってしまって…ロシュ様はリシェの所に行っても構いませんよと」
ヴェスカなりに気を使ったのかもしれない。
単に雑用をこなすのが好きなのもあるなとリシェは思った。
ヴェスカは昔から黙っているのが嫌いなタイプなのだ。
「あいつらしいです」
程なくして、注文した商品が席に届いた。同時に、リシェの表情は素直な明るい顔になる。
そんな彼を見て、ロシュはにっこり微笑んだ。
「あなたは甘い物がお好きなんですね」
「いや、そういう訳では」
「そんな事言って。顔はちゃんと正直でしたよ」
指摘されたリシェは、ロシュから軽く目を逸らすとぺちぺちと顔を叩く。
知らぬ間にニヤニヤしていたのだろうか。
「ほら、あまり叩いちゃうと赤くなりますよ」
食べましょう、とロシュはナイフとフォークを手に取った。
口一杯に広がる甘い味とフルーツの甘酸っぱさは、溜まっていた疲れを吹き飛ばし一瞬で幸せな気分にさせてくれる。
「ほいひぃ」
美味しい、と言いたいのだろう。ロシュは口に頬張りながら幸せそうな顔を見せた。
この場にオーギュが居れば食べ物を口に入れたまま喋るなと叱る所だが、居ないので自由に出来る。
「ロシュ様、パフェもどうぞ」
見るだけでも華やかに飾られたパフェのグラスをロシュの前に押しやると、ロシュも自分が頼んだパンケーキの皿をリシェに向けた。
「たまにこういうのもいいですねぇ」
「はい。凄く美味しいです」
優等生のお手本のようなリシェの言葉だが、夢中で甘い物を食べ続けている為に口元にクリームが付いていた。彼はそれに全く気付いていない。
指摘してもいいのだが、敢えてそのままにした。
滅多に口にしないような豪華なデザートを食べ終えそうな時、周囲がやけに騒がしくなり始める。
最後に取っておいたイチゴをフォークで刺し、リシェが満足気に口に含むのを見届けた後、ロシュは騒がしい方をちらりと見た。
宿泊客が往来している通路側。
旅館の従業員らしい数人と、先程の卵売りの主人、そして彼の妻が困惑しているのが見える。
「おや…何かあったんでしょうか」
「?」
彼らに向き合っているのは一人の女性。
ロシュはリシェにゆっくり食べていて下さいねと告げ、席を立った。
「…ですから、あの金網が破れていて娘がそこから出てしまったんです。どうにかして頂かないと!」
「今、街の警備隊に連絡している最中です。私達もこれからお嬢さんを探しに向かいますから、どうかお待ち下さい」
「折角の楽しい旅行なのに…!ああ、こんな事になるなんて!」
若い母親は悲観的な表情で嘆いていた。それを宥めていた主人は、しばらく困っていたが近付いてきたロシュの姿を見るなりハッと頭を下げる。
「何か…お困りでしょうか?」
「ろ、ロシュ様。いや、その」
主人は困惑気に口籠る。
心配そうな顔の母親はロシュを見上げると、旅人だと判断したのか「お願いです!」と訴えてきた。
彼女は今まで散々居なくなってしまった娘を探し回ったのだろう。髪は乱れ、綺麗な顔は汗や涙でぐちゃぐちゃになっている。
「娘を探して下さい!」
アストレーゼンから来た重要な立場であるロシュ達に問題をぶつけたくなかった宿の主人は慌てて「いや、それは!」と母親を止めようとした。
だがロシュは冷静に彼女に問う。
「娘さんはどちらに?」
「宿の敷地内から出てはいけないって言い聞かせていたのに、金網を抜けて遊んでたみたいで。金網の奥側に娘がいつも大事にしてたぬいぐるみが落ちてたんです」
パフェを片付けたリシェはようやくロシュの側へ近付いた。不穏な空気に少し怪訝そうな表情。
「ロシュ様?」
「リシェ」
母親は宿主の妻に宥められながら休憩用のスペースに案内されていく。困った顔を見せながら、ロシュに向けて主人が頭を下げた。
「ロシュ様、すみません。あとはこちらでどうにかしますから、どうかお休み下さい」
「あの、街の警備の方には連絡をされているんですよね?」
「え?…は、はあ。従業員に命じて今頼んでいる所です。まもなく来て頂けると」
彼が言った通り、従業員がバタバタと応対の為に行き来し始めている。
「完全に暗くなる前に見つけて差し上げないと。私もお手伝いします」
「へ!?あ、あの…お言葉は有難いのですが、それはさすがに心苦しい。折角来て頂いたのに」
来客に宿の問題を任せるのはあってはならぬ事だ。
主人は戸惑い、言葉を選んでロシュの申し出を断ろうとしていた。
ロシュと店主が押し問答を繰り返していると、手伝いを済ませたヴェスカが姿を見せる。遠くからでも目立つ巨体を揺らし「何かあったんですか?」と声を上げた。
「宿泊されている方のお子様が、外に出たっきり戻らないらしくて。捜索の手伝いを申し出ていた所です。完全に暗くなる前に探さないと」
ヴェスカは自分の背丈より低過ぎるリシェをちらっと流し見る。視線に気付いた彼はヴェスカを見上げると、微かに頷いた。
「ロシュ様。俺らが探してきます」
小さな子供ならば、そこまで離れたりはしないだろう。街の中で迷ったとあれば、特別に武装していかなくても大丈夫だと思われる。
余程変な場所に行かない限りは。
「とても有難いです。大丈夫、すぐに見つけられますよ。ええっと、先程のお母様に少しお願い事が」
休憩用スペースで気持ちを落ち着かせている母親の方へロシュが向かうと、ヴェスカは宿の主人に「どこから居なくなったんですか?」と問う。
主人は顔に刻まれた皺を深く際立たせながら、困った顔を見せる。
「手前の窓から見えるんだけど…こちらです」
レストラン側の窓に案内され、ヴェスカとリシェは窓から身を乗り出した。
虫の音が響く薄暗い外。宿の敷地を囲う金網が一部破られ小さな穴がぽっかり開いている。
それを見るなりヴェスカは何故か納得するようにこりゃあ子供が出て行っちゃうよなあと呟いた。
自分も同じ子供の立場なら出たいと思ってしまう。そこに穴があれば、その先を知りたくなるものだ。
「それにしても何でそこだけ開いちゃうんだ?」
彼が指摘した通り、何故か一ヶ所だけ派手に開けられている。
リシェも本当だ、とヴェスカに同調した。
「たまに野生の鹿やら猿やらがフェンス目掛けて体当たりしてくるんだ。やられる度に新調するんだけどきりがなくてね…また開けられるとはなあ。奴らも考えるのか、勢い良く凹んだ穴をしつこく突いたんだよ。やられる度に劣化していくからね」
良く目を凝らして見ると、その破損した部分だけではなくあちこちに凹みが見受けられた。
退治しようにもどの位の数の動物達が居るのか、把握出来ないのだろう。
「リシェ」
「ん?」
フェンスの穴を見つめたままのヴェスカはリシェに声をかけた。
「手頃な棒切れ持って探しに行こうか。剣とかの刃物はダメだ、街中で物騒だからな」
「分かった」
主人は草むしりに利用している木製の熊手を使っても構わないと、外に立てかけている事を二人に告げた頃、ようやくロシュが戻ってきた。
「お母様からお子さんの持ち物を拝借して、おおよその居場所を把握して来ました」
「へ…そんな事が出来るのですか?」
司聖となれば、魔法で何でも出来るものなのかとヴェスカは驚く。だがロシュは苦笑いすると、柔らかな髪をかき上げながら「曖昧なものですから」と返した。
「朧げな気配を感じるだけですし、あまり参考にはならないかもしれませんけど…手掛かりは無いよりはあった方がいいでしょうし。フェンスの穴から出たのは確実です。左手の方に向かったと思われます。宿の敷地外は急勾配の場所があるようですから、滑って戻れなくなった可能性がありますね」
ヴェスカはロシュの言葉を聞いた後、リシェの背中を軽く叩いた。
「…だとよ、リシェちゃん。探すか」
叩いた拍子に軽く前のめりになるリシェは「ああ」と頷いた。
「私もお手伝いを」
ロシュは自分も行くと言いかけるのを、リシェが押さえた。
「ロシュ様はここに居て下さい。オーギュ様が戻られて、宿に誰も居なかったら心配でしょうし…すぐに俺らが見つけてきますから」
切実な目線で見上げてくるリシェを抱き締めたくなる衝動に駆られつつ、もっともな意見を受けたロシュはううと呻いた。
そして欲を払うかの如くふるふると首を振るう。
「ですが」
「こちらで待っていて下さい」
ロシュの代わりに自分が動くのだとリシェは考えていた。土埃に彼を塗れさせたくはない。
どうにかロシュを押し留め、リシェはヴェスカに行くぞと告げる。
「き、気をつけて下さいね。リシェ、ヴェスカ」
窓から外に出る二人に、ロシュは済まなそうな顔で声をかけた。やはりロシュは不思議にも、表情によって女性的な顔を見せてくる。
「はい」
リシェは不安そうなロシュに向かい、誰にも見せた事の無い優しい顔をして返事をした。
魔法屋から出たオーギュは、全身の怠さと戦いながらも残り僅かな体力で宿場へと向かっていた。あれから磨耗した意識をどうにか繋ぎ止め、自身に憑依した召喚獣、ファブロスと会話を繰り返す。
『(随分体力が低いな)』
呆れの感情にも聞こえる発言に、オーギュは若干ムッとする。
「誰のせいだと思ってるんです!」
突如叫ぶオーギュに、行き交う街の人々はギョッとしてオーギュに注目し、ささっと距離を置く。ファブロスはくくっとオーギュの中で笑った。
『(声に出す必要は無いぞ?思うだけで私と会話は成立するから安心しろ)』
先に言って欲しい。
オーギュはよろめきそうなのを我慢しつつ、内部に居る獣に対し少しばかり煩わしさを感じていた。
『(歩くのですら辛そうだな、オーギュスティン?精を出すのはそんなに体力が必要だったか)』
かあっと馬鹿正直にオーギュの全身が熱くなる。
いきなりあのような事をされたのだ。思い出すだけで汚点のように感じる。
しかも、気持ちがいいと思ってしまったのだから。
『(萎縮する事は無いぞ。お前は今までの主の中でも最高に美味な味をしていた。しかも高魔力ときた。私も夢中で貪ったからな。誇っていい)』
「じ、冗談じゃ…!!」
強さを望み召喚獣を求めたはずが、まさかこんな仕打ちを受けるとは思わなかった。
主人の精液を啜って糧にするなどとは、何という変態的な獣なのだろう。
『(ふん、まあいい。そこまで頻繁には貰わないからな。たまに頂くとするか。まずは体力を付けさせた方が良さそうだからな)』
余計なお世話だと言いたい。
この卑猥な獣絡みのせいか疲労感が半端無い。少し休憩した方が良さそうだと判断し、喫茶店か何か見つけ次第休もうと思った。
混乱状態の頭の中をリセットしなければならない。
空が暗くなっていても、賑わい続けているのは観光地だからなのだろう。様々な色合いの明かりが灯る中、人の流れをすり抜ける形で街を徘徊する。
『(何年経っても似たような風景だな)』
「(そんなものではないでしょうかね…って、こんな感じで会話したらいいんですか?)」
『(そうだ、それでいい)』
自分の脳内で会話をするみたいで、何だか変な感じがする。じきに慣れてくるとは思うが。
オーギュは目に付いた茶屋の看板を見つけると、躊躇う事無い足取りで店内へ進んだ。
カントリー風の内装で彩られた店内は、コーヒー豆を挽いた香ばしい香りで充満している。客層は女性が多く、狭いカウンター席の他は小さなテーブル席というやや窮屈な内部だった。
オーギュの体内からその匂いを感じる事が出来るのか、ファブロスは『(渋い匂いだ)』と呟く。
あまり好みの香りでは無いようだ。
店員にコーヒーを頼んだ後、店の角にある空き席に腰掛ける。
はあ、と疲労の吐息を漏らした。
『(お前の家には戻らないのか?)』
「(旅先なので休憩したら宿に戻りますよ)』
『(アストレアンはまだ存在しているのか?)』
最初に受け取った水を口に含むと、オーギュは普段耳にしない地名に目を細めた。
アストレアンとはアストレーゼンの旧名だった。どうやらファブロスはその旧名時代から眠り続けていたのだろう。
今の名称に変更してから、百年以上は経過している。恐らく跡取りが居なくなってしまった王政時代から司祭クラスが牛耳るようになった時代の前に、ファブロスは世俗から離れ眠りについていたのだろう。
彼の生い立ちはまだ知らないが、相当長寿なのだと分かる。
「(アストレアンは名前が変わってアストレーゼンになっています。あなたはアストレーゼン出身だったんですね?)』
『(名前が変わってしまったのか…私は随分寝かされていたのだな)』
お待たせ致しました、と店員がコーヒーをテーブルに持って来た。真っ黒いコーヒーを、オーギュはミルクや砂糖を入れずにゆっくり煽る。
その瞬間、ファブロスは主人の頭の中で叫んだ。
『(…苦い!!!!!)』
「………」
味覚も繋がるらしい。
ファブロスは苦い、苦い!と文句を垂れる。
「(私は平気なんですが)」
『(そのような物を良く飲めるもんだ!苦い、苦い!!お前は無理してないのか?!)』
ファブロスの苦情を無視し、オーギュは黙ってコーヒーを口にするが、やたらと文句を言われた。
あまりにもやかましいので一つだけ砂糖のブロックを入れ、混ぜて飲むがやはり苦いと言い続ける。
「(私はブラックが好きなのです)」
甘みが出ると、どうも気持ちが落ち着かなかった。
『(お前の精の方が甘く感じる!)』
…比較対象が間違っている。
オーギュはかあっとなり、ファブロスに対しての嫌がらせのようにコーヒーを一気に飲んだ。
『(に…苦いと言っただろう!!何故飲む!?)』
頭の中で慣れぬ味覚に喚く獣をオーギュは無視し、二杯目を頼んでいた。
例の破壊されたフェンスから抜け出ると、草木がぼうぼうと生い茂る藪の中と景色が変わる。
リシェとヴェスカは宿の主人から借りた熊手を手に、用心しながら草の波をかき分けて進んでいた。
暗がりを照らすランタンは薄暗い周囲を明るみにしていく。
「あちこちに草を踏み荒らしたような跡があるな」
判別不能の痕跡を確認するリシェが呟く。
「ロシュ様が足取りを辿った方向に進んだ方がいい。足跡は何かしらの動物かもしれないしな。他は街の警備隊に任せておけ」
ヴェスカが言う通り、連絡を受けた街の警備隊も捜索に加わり獣避けの鈴の音が所々で耳に入る。
熊手で草を払うリシェは「よくこんな場所に入ろうと思えるな」と疑問符を吐き捨てた。
「俺にはさっぱり理解出来ないよ」
「…お前は坊っちゃん育ちなんだっけ?あまり外に遊び歩く方でも無いか」
「別に坊っちゃん育ちでも無い。ただ、こういった場所に入りたがる気持ちが分からないだけだ」
ランタンで照らされるヴェスカの背中がやたら大きく見える。
「秘密基地とかやらなかったかあ」
「何だそれ…」
「子供同士の遊びだよ。小さい頃によく作ったもんだぞ、大人達に内緒で秘密のスペース作ってさ。食い物とか玩具とか持ち寄るんだよ」
「へえ」
「友達同士でやらなかった?」
リシェはすぐに「やらん」と返す。
冷めた奴だなあ、とヴェスカは皮肉を言った。
リシェはヴェスカが説明する一般的な子供の遊びらしいものは、全く経験した事がなど無かった。
異端扱いされていた為に外に出るなど以ての外。存在自体が恥のだと頭に植え付けられていた。
間違いを起こせば怒鳴られ、下手をすれば殴られる。だから黙って室内に居るしかない。
それなりに大きな家で衣食住には困らない環境にも関わらず、使用人らからも腫れ物扱いだった。
理由は自分でも良く分かっている。
自分はそこに居てはいけないのだから。
楽しかった思い出があった記憶が無い。少しはあったかもしれないが、麻痺し過ぎて忘れてしまった。
扱いがもう少しでも違えば、普通の幼少期を過ごす事が出来たかもしれない。
自分が半端な血を引いていなければ、屋敷の使用人としてでも違う生活が出来たであろう。
少なくとも汚い血の野良犬だと罵倒され続けずにはいられたはずだ。
「段差が激しい場所があるって聞いたよなあ、そういえば」
「あ?…ああ、うん。確かそう聞いた」
「気ぃ付けろよ、足場が緩んできたわ」
ヴェスカが指摘したように、地面が若干水分を含みぬかるんでいる。
見えにくい足元が更に不安要素を増してきた。
「さっさと見つけるぞ。美味いもん食って温泉入りたいからな。混浴風呂あるかなあ」
あまりにも鬱蒼とするせいか、気分を切り替えたいヴェスカは話を変えてきた。
「混浴?」
「んあ?何だよ、混浴風呂を知らないのか?田舎者かよ勿体無い!」
「そんなに勿体無いのか」
「そりゃあ、男女一緒に同じ風呂に入るんだから。夢が広がるだろうが」
ぐっ、とリシェは言葉を失う。
「お前は毎回毎回そんな事考えているのか!」
手にしていた熊手の先でヴェスカの頭を突いた。
「お?おぉっ?リシェちゃんはそんな事考えた事が無かったのかな?いやあ、ほんっとーにリシェちゃんときたらお堅いんだからなあ、実は少しは思ったりもするだろ?なあ?」
「………」
リシェは無言でヴェスカを突いていた。
動く度に草同士が重なり擦る音を耳にしながら暗がりを進む。
「よくこんな暗いとこを進んだもんだなあ。さぞかし勇敢なお嬢さんなんだろうよ。…ん?あれ」
「?」
ヴェスカはある変化に気付き、立ち止まった。
「何か下り気味だな。勾配あるわ。…ちょっと避けとくか」
勾配を避ける為にヴェスカは進路を少しだけ変えた。リシェも頷き、彼の後ろで慎重に足を進める。
しかし、ぬかるむ土を強めに踏みつけたせいか、一気に足を取られた。
「…あ!」
咄嗟に軽い悲鳴が口から出る。
反射的にヴェスカの背中を掴もうと手を伸ばすが既に遅く、勾配に巻き込まれながらリシェの体が下へ滑っていった。
ずざざざ、と暗闇に引き摺られる不気味な音がやがて止まる。
「…リシェ!!」
彼の異変に気付いたヴェスカが声を上げる。
落下した先で、小さな明かりが見えた。
「まじかー、そう来るかー」
まさかリシェが落ちるとは思わなかった。滑るなら軽いリシェより重い自分だと思ったのだが。
一方で下に居るリシェは、泥に汚れた服を軽く払いながら上の明かりを見上げた。
なかなかの急勾配だったようだ。遠くにぽつんと小さな光に向け、リシェは「ヴェスカ」と出来るだけ大きな声で叫ぶ。
「んあー!?」
間抜けな返事が返ってきた。
「俺はこのまま探してみる」
「分かったー!」
ただでさえ大きな声が更に大きく暗闇に響いた。
全身に纏わり付いた泥水の冷たさを感じながら、リシェは再び熊手を手にしながら草をかき分け進む。
地面は先程よりも酷く状態が悪かった。
靴の中ですらぐしゃぐしゃで、泥のせいで重い。
払ってもまた新しい泥が付いてくる。
暗闇の森林をひたすら進んでいるうちに、リシェはシャンクレイスの屋敷から逃げ出した当時の記憶が頭に蘇ってきた。
着の身着のまま、裸足でひたすら逃げ出したあの日。皮膚を突き刺さる石や木屑の感覚はまだ記憶に新しい。
薄い寝巻一枚の姿のまま、目的も無く走っていた。
それまで自分の意思も無く、漠然と虐げられた生活を受け入れていた。だが次第に悪戯の度合いが酷くなるにつれて、不思議と自我が湧いてきた。
凄まじい嫌悪感。
触られたくないという意思が湧いた。
同時に、出来るものなら殺してやりたいとも。
その気持ちが自分の心の底にあった瞬間、このままでは駄目だと初めて悟った。
あの家に居れば、自分は更に悪化する。
黒い感情が爆発する前に、自分から離れなければいけなかった。でないと、あの家に居る全ての人間に対して最悪な事をしでかしてしまう。
今でも黒い感情が湧いてきそうになる程、まだ引きずっていた。忘れる事も出来ないのだ。
どこからか動物の唸り声が聞こえる。
唸り声なのか、それとも寝息なのか。
獰猛な動物相手では、この手元の熊手では太刀打ち出来ないかもしれない。かと言って、魔法も出し方すら分からないままだ。
どのように出せばいいのか聞いておけば良かった。大きな葉を払い、リシェはそのまま進む。
「居ないか?近くに居たら声を出せ」
思えば、居なくなった少女の名前すら聞いていなかった。
返事は無い。少しずつ進んでいく事にした。
変わらぬ暗闇の中、不穏な唸り声が近くで感じる。
リシェは腰に括っていたランタンを手にし、奥を照らし目を凝らす。
その時こちら目掛けて黒い影が飛び出し、ガン!とランタンが音を立て揺れる。
「!!」
警戒した小型の動物は、脅かそうとしたのかリシェが手にするランタンに体当たりした後さっさと遠くへ去っていった。
ぶつかった衝撃で腕がびりびりと痺れただけで、後は特に何もないようだ。
リシェは安堵の一息をついた。
良かった…と思っていると、風に乗って微かに小さな声が聞こえる。
「………」
細く、幼さのある小さな泣き声。
近くに居る、と分かった。
「近くに居るのか?居るなら声を出せ!」
出来るだけ大きな声でリシェは叫んだ。その啜り泣きは、少し後方で聞こえた。
その声は風に乗り、リシェの耳に更に近くを掠める。土の壁に添いながら声がした方向へ足早に進んでいくと、やがて空洞を見つけた。
「…おい、居るのか?居るなら返事しろ」
不器用なリシェは、幼い子供にもヴェスカと会話するような言葉しか出せない。空洞に向けて話しかけると、間を置いてようやく細い声が聞こえた。
「かえり、たい…かえりたいよぉお…」
その空洞はやや広く、倒木の欠片や折れた草が進路を邪魔していたものの子供が入るには充分な場所だった。
リシェは纏わり付いてくる草木を避けつつ中へ進むと、やがて行き止まりに差し掛かる。同時に泥だらけで座る小さな子供が姿を見せていた。
ピンクの花柄のワンピースが汚れ、結っていた髪もぼうぼうのまま。
「…居た…」
「ひっ…ひいっ」
泣いている少女はリシェの姿を見ると、ようやく人が来て安心したのか狭い空洞の中、大きな声で泣き出してしまった。
「や、やかまし…泣くな!お前を助けに来たぞ、だから泣かなくていい!」
「ひいぃっ、いいい」
子供の扱いに慣れないリシェは、ここからどうしたらいいのかをとりあえず考える。そして非常食用に持っていた飴玉をポケットから取り出すと、彼女に近付き「ほら」と差し出した。
涙で顔を濡らした少女は、きょとんとしながらリシェを見上げる。
「とりあえず食ってろ」
すん、と泣き止んで飴玉を受け取ると、ようやく落ち着いた様子を見せた。…しかし。
「メロンじゃなくてイチゴがいい…」
なかなか生意気な事を言い出す。
「…贅沢な奴だな!ええっと…待ってろ。ああ、あった。ほら」
イチゴの絵が描かれた飴玉も手渡す。
とりあえず落ち着いてくれたようだと安心した。
「みんな探してるから、お前が無事でこの場所に居るのを知らせてくる。すぐ戻るから大人しくしてろよ」
リシェはそう言い残すと、空洞から再び外へ飛び出す。何か位置を知らせる道具があればいいのだが、ほぼ手ぶらで探しに出た為何も無い。
近くでヴェスカが探していればいいのだが。
上空を仰ぎ見るが、彼のランタンの光が見えない。
「ヴェスカ!!ヴェスカ、どこだ!!」
思いっきり叫んでみたが、彼からの返事は無い。
やはりな…と思った。
こんな時、魔法をまともに使いこなせる事が出来れば…と舌打ちする。オーギュまではいかなくとも、小さな光弾で知らせる事が可能ならば、全て上手くいくのに。
勾配から滑り落ちてはぐれてしまった段階で、自分もまた迷子になってしまったのかもしれない。
…リシェは奥歯を噛んだ。
「…何ですって?」
ようやく宿舎へ戻ったオーギュは、ロシュの言葉を聞いてこめかみをぎりりと押さえる。
話の内容は飲み込めたが、また次から次へと問題が湧いてくるのか。正直うんざりする。
「今リシェとヴェスカがお子様を探し回っている最中なのです。勿論、街の警備隊も組んで頂いて捜索に当たっています。私も同行しようとしたんですが、あなたが戻られた時に誰も居なかったら困るからと止められちゃったのです」
…レストランのフロア内。
ソファで腰をかけてしょんぼりするロシュの近く。店主の妻に支えられている子供の母親の弱々しく肩を震わせる様子を横目で見た後にオーギュは深い溜息をついた。
「ようやく温泉に浸かれると思ったんですけどね。…仕方ありません、私も行ってきますよ」
本当は滅茶苦茶面倒だった。
何故無関係なこちらがいちいちやらなければならないのかと。だがこんな夜分に子供が帰れなくなってしまうとなれば話は別。
「それなら私も行けますね!」
あなたが戻られたし、とロシュは立ち上がった。
だがオーギュはいりませんと却下する。
「へ!?何でです?」
「街の中ですら迷子になりがちなのに、また要らない手間をかけさせる気ですか?捜索にあなたは邪魔です。大人しく待ってなさい」
冷たく突き離され、ロシュは返す言葉を失った。
灰色の法衣を風に靡かせ、オーギュは窓辺から外へ抜け出す。
ロシュは彼の後を追いながら「勾配のきつい所もありますよ」と忠告した。
「どうにかなります」
彼はそう言いながら、新しく刻まれた左手の甲の紋様に視線を落とした。
初見では妙に痛々しく、生々しく見えるその傷。
「…出て来れますか、ファブロス?」
その呼び掛けを受け、一心同体と化した獣は主人の中で御意と答えた。
術者の中でその獣は吠える。
『(お前が私を望むなら、いつでも出てやろう)』
長い時間を経て解き放たれた喜びの咆哮。オーギュはその歓喜に打ち震える召喚獣の意識を、その身にひしひしと感じた。
…同時に、ロシュはその瞬間を目の当たりにする。オーギュの魔力が一気に膨れ上がっていくのを感じた。
「!?」
光の粒子のようなものがオーギュの左手から放出されている。その光は輝きを増すにつれて力強く、やがて何らかの形を作り出した。
「な、何ですかこれ!?オーギュ!?」
大きな楕円形の光は次第に収束し、四つ足の強靭な肉体を持つ獰猛な動物の姿となっていく。
反り返る二つの角に、硬さと強さを否が応でも印象付けてくるその筋肉質に光る灰色の皮膚。
魔物か、はたまた神獣か。
このような不可思議な魔法など、ロシュは見た経験が無かった。
知らぬ間に新しい力を得たのだろう。
そしてその動物が一体どこから現れたのか、未だに分からない。
頭が追いついていかず、ロシュは口を開いたままぽかーんとしていた。
「オーギュ…?な、何ですか…その、ペット?」
「先程契約したばかりの私の召喚獣です。名前はファブロスといいます」
「へ?しょう、かん、じゅう?」
強烈な存在感を放つ獣は、オーギュの側で鋭い眼光をしながらロシュを見遣ると『何者か』と問う。
「ロシュ様です。ロシュ様はこの国の一番の司祭様。私は彼を常に支える役目を持っています。…ですから敵意を向けないようにして下さい」
説明を受けると、獣は眼差しの力をふっと弱めた。
『そうか。お前の仲間か』
「はい。仲良くして下さいね」
大人しくなる召喚獣をの頭を軽く撫で、オーギュはロシュに告げる。
「彼ならすぐに見つけられると思います。さっさと連れ帰って、温泉に入りましょう」
「展開が早すぎますよ」
突然現れた物をなかなか頭が理解出来ないロシュは困惑するが、今の状況を解決出来そうならば頼むしかない。
夜も深くなる。早く少女を救わなければ、湯治に来た意味がない。
「お願いします」
ロシュの言葉に頷くと、オーギュはファブロスの背に跨がる。獣の体は大きく、主人が乗ってもまだ大人一人乗せられそうだ。
穏やかな顔でオーギュは「さあ、行きましょう」と軽く背を叩きながら話しかけた。
温泉地帯の為か、やや湿気じみた空気を肌に感じる。生温くじわりとした感触が、リシェには煩わしく思えた。
空洞の入口で、何度かヴェスカが近付いていないか声を張り上げてみたが、彼は先に進みまくっているのか返事は無い。
…どこまで真っ直ぐ歩いてるんだ。
リシェは喉が枯れそうになりながら心の中で愚痴を吐いていた。
パキンと小枝が割れる音が背後から聞こえてくる。
「…大人しく待ってろって言ったろ」
ゆっくり近付いて来る小さな影に向け、リシェは眉間に皺を寄せながら言った。一人で待っているのが不安だったのだろうか。
少女は自分より背が高いリシェを見上げると、「誰か来てくれるの?」とか細く問い掛けてくる。
「…来るさ。変に動き回るよりはここに居た方がいい。真っ暗だから尚更だ」
「………」
合図になるような火炎弾や、空気砲があればと悔やむが、今更どう思っても仕方が無い。
少女を見つけられただけでもまだマシかもしれないが、その先を全く考えてもいなかった。
静かな暗闇の森は、微かな月の光が朧げに上から差し込んでくる以外はまともな明るさを感じない。空洞の中に持っていたランタンを置いて来たので、リシェの手元には明かりが無かった。
「お兄ちゃんはこの街の人なの?」
身近に人が居る事で僅かに落ち着いたのだろう。
少女はリシェに怯える様子も無く話し掛けてくる。
「いや、今日初めてここに来た。あの宿に泊まりに来たんだ」
「そうなんだ、お兄ちゃん遊びに来たんだね」
遊び…というか、護衛なのか。
いや、遊びに来たと言っておいたほうがいいのだろうか。リシェは分からなくなっていた。
目的は温泉なのだが、結局トラブルに巻き込まれている状態で、任務をこなしているのと同じようにも感じる。
「寒くは無いのか?」
「大丈夫…」
「そうか。足元危ないから安全な所に居ろ」
リシェは彼女にそう言うが、その場に座り込んだ。
「ここに居る」
「…何かあった時にお前まで守れる自身が無い。この通り俺は武器も何も持ってない。宿から熊手を借りた位だ」
「一人…怖いもん」
「………」
甘ったれた事を、とリシェは一瞬思った。
今まで一人で心細かったのだろう。しかもまだ小さいのだ。
軽く嘆息し、分かったよと呟く。
出来れば大人しく引っ込んでて欲しかった。小さい子供の相手はあまり経験した事が無いせいか、どんな風に会話を続ければいいのか分からないのだ。
優しく話せないし、ぶっきら棒になってしまう。
「何かあれば奥に引っ込め。分かったな?」
「うん!」
彼女は入口付近で小さく座り込んだ。リシェはその様子を確認すると、すぐまた空を仰ぎ見る。
何らかの明かりが見えれば安心するのだがまだ目視出来ない。火を起こそうにも、材料が無いのでどうする事も出来なかった。
野生の熊や狼が出て来なければいいのだが。
「さっきから誰かの名前呼んでたけど、お兄ちゃんのお友達?」
「ん?ああ…ヴェスカの事か。一緒にお前を探してはぐれてしまったからな」
「そっか。ごめんね」
「別に…はぐれたあいつが悪い」
自分が滑り落ちてはぐれたのだが、リシェはヴェスカのせいにしていた。
再び明かりを探そうと周辺に目を向けた時、リシェはふと不思議な流れを身に感じ取った。言葉では言い表せない感触が近付いてくる。
大気を震わせ、目に見えないが力強さを持つ何か。
リシェは少女に少し下がれと声をかけたその時、リシェの眼前に大きな影が過ぎる。
「!!」
風が木々を揺らした。暗がりに輝く二つの小さな赤い光を放つ大きな影と、同時に聞き覚えのある涼やかな低い声が耳に届く。
「…リシェ!!」
どっしりとした体躯を持った見慣れぬ獣を確認した後、それに跨った魔導師の姿を見るなり、リシェは安堵と驚きの顔をした。
四つ足の獰猛な獣は、一体何なのか。捕まえて手懐けるにも、オーギュの細身の体型では無理がある。
「良かった、ご無事ですか?」
「は、はあ…大丈夫だけど、それ…?」
「彼は先程、私と契約した召喚獣です。ファブロスと言います」
「………」
空洞から少女がおずおずと姿を見せ、お兄ちゃん?とリシェに不安そうな声をかけてきた。リシェは振り返って少女に目を向けながら、「良かったな」と言う。
「帰れるぞ」
彼女はリシェと、突如現れた謎の青年と怖い獣を交互に見た。やはり獣を見るなりびくりとする。
「大丈夫ですよ。私達はあなたを探しに来たのです。さあ、彼の背中に乗って。滅多に無い経験が出来ると思いますよ」
オーギュは優しい口調で少女に話し掛けた。
やはり初めて見る物には警戒してしまうのだろう。リシェは少女に近付いて手を引き、大人しく待っていた召喚獣の背に乗せる。
召喚獣のファブロスも、少女を乗せる際に体を若干低くさせる配慮をしていた。
「オーギュ様、先にこいつを送ってやって下さい。俺は自分で上に向かいますから」
「送り届けるのはすぐ出来ますから、また戻って来ますよ。それに、あなた泥だらけじゃないですか」
指摘され、リシェは自らの足元に視線を落とす。
ロシュを守る役割を持った白騎士の制服は、確かに鬱蒼とした場所を探していたせいもあり生地の解れも出て、足はぬかるみに取られて泥に塗れた為酷い有様だった。
「…気付かなかった」
「ちょっと待っていなさい。すぐ戻りますから」
オーギュはリシェにそう告げると、再び少女を乗せたファブロスに跨った。
『落ちないように支えておけ、オーギュ』
獰猛な獣から放たれた意外にも穏やかな声。
喋れるのか…とリシェがぼんやり考えていると、獣は来た道を一気に駆け上がって行った。
同時に風が巻き起こり、リシェの小柄な体はぐらりと揺れる。少女の歓声に似た声が遠ざかっていくのを聞きながら、元々やんちゃなタイプなのだろうと思っていた。
とは言え、見つかって良かった。
しばらくすると、空砲のような音が森の中に響いてきた。警備隊の合図のようなものだろうか。
探していた少女が無事だという知らせだろう。
ほっとしていると、急激に空腹感に襲われた。捜索するのに体力を使い果たしたのかもしれない。
服をどうしようか…と考えていると、再び風の揺らぎを感じた。
ぶわりと前髪が揺らされる。
「お待たせしました、リシェ。さあ乗って下さい」
「俺が乗っても大丈夫ですか?」
先程は小さい子供だったから大丈夫だろうが、自分は乗れるだろうか。
不安げな顔をするリシェは、ファブロスに目をやった。
『大丈夫だ。問題無い』
「そうか。なら良かった」
オーギュが促すと、リシェも同じように背に乗る。
獣の鬣を掴んでおきなさいと説明され、リシェは従ったものの、痛くないかなと疑問に思った。
「後で専用の手綱を探しに行かないとね…」
「体大きいな。どうやって見つけたんですか?」
素直なリシェの問いに、恥ずかしい体験をしたオーギュは言葉を詰まらせる。
「か、彼に呼ばれたんですよ」
「へえ…いきなり大きい獣と一緒だからびっくりした。俺でも持てるかな」
「大変ですよ…得るのは…」
思い出すだけでも嫌になる。
術者と一体化しているファブロスは、くっと笑いながら『理想的な主人と会えたからな。みすみす逃す訳にはいかないだろう』と新しい主人を讃える発言をすると、頑丈な足で地を蹴った。
軽快な動きで森を駆け抜けていく。
「わ、わ…!!」
声を失うリシェに、不意に思い出したようにオーギュは言った。
「そういえば、ヴェスカはご一緒じゃなかったんですか?一緒に探しに向かったとロシュ様から聞いたんですけど」
「ああ、忘れてた…俺、滑って落ちたからはぐれたんです。どこ行ったかなあ」
「そうなんですね。まあ、あの人の事ですから気付いたら勝手に戻って来るでしょう」
放っておきましょうと言わんばかりの発言。
やはりオーギュは、ヴェスカに対する扱いが雑だった。
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