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そのさんじゅうきゅう

もやし

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 いきなり目の前に差し出された小箱に、オーギュスティンは怪訝そうな面持ちで相手を見上げていた。目線が少しばかり合わないので仕方なく顔を上向きにしなければならないのが個人的に癪に障る。
 話があると神妙な顔で言ってくるので何ですかと面倒臭そうに返事をすると、突然堰を切ったように発された言葉。
「俺と結婚を前提に付き合ってくれ!」
 その張り切った声は、喧騒に包まれている職員室内に響き渡っていた。職員や用事のある生徒らが一斉にこちらに注目してくる。
 まさかここまで馬鹿だとは思わなかった。
 オーギュスティンは反射的に嫌そうな顔で首を傾げながら、全く空気も読まない同僚に対して「あ?」と愛想の悪い返事をしてしまう。
「だから、結婚を前提に付き合って欲しい!」
 明らかにこの場で言うセリフではなかった。
 周囲が騒めく中、オーギュスティンは相手…ヴェスカに呆れた様子で溜息を吐く。熱を感じさせる彼とは対照的に、至ってオーギュスティンは冷静だった。
 冷静というよりは感情が氷点下まで下がっているのかもしれない。相手があまりにもアホ過ぎて。
「言いやすいんでしょうけどね。…告白の練習に私を巻き込まないで下さい」
 こちらが無反応であしらえば、周囲の人間は冗談なのだろうと目線を逸らすに違いない。ヴェスカのおかしな発言も日常茶飯事なのだと結論付けるはずだ。
 そもそも彼とはそこまで仲良くはないと思う。
 何がどうなってそんな事に発展してしまうのか全くの謎。
「練習じゃねぇんだけど!」
「というか、あなたはここを何処だと思ってるんですか」
 そう突っ込まれ、改めてヴェスカは周囲を見回した。
 そして「あぁ」と理解する。
「職員室だったわ」
 どうやら頭に血が上っていた模様。オーギュスティンは頭を苛立だしげに掻き、「だったわ…って」と呆れる。
「頭に血が上ると周りも見えなくなるんですか。…何でもいいんですが練習したいなら前もってそう言ってくれれば聞いてあげるのに」
 その一方で、相手の言葉に怪訝そうに眉を寄せるヴェスカ。練習ではなく至って普通にそう思っていたからこそしっかり指輪を用意したのだが。
「いや、普通に言ってるんだけど。あんたに」
「………」
 元々頭が沸いていると思っていたのだが、まさかここまでとは思わなかった。返す言葉を失っていると、騒ぎを耳にした生徒達がオーギュスティンに近付いて来る。
「先生、結婚するんっすか?」
「すげぇええ、ここでプロポーズとか斬新過ぎね?」
 …ほら、ここでまた面倒な事になる!
 思わず小さく舌打ちした。
「違いますよ!!この人が何かを勘違いして勝手に言ってるだけです!!」
「勘違いなもんか!俺はちゃんと本人に言ってるんだっての!嘘偽り無く正直に言ってるんだぞ!」
 ここで騒ぎを穏便にしてくればいいものの、更に引火させてくる発言を放ってきた。思わずオーギュスティンは「ヴェスカ!!」と怒りで声を震わせながら怒鳴ってしまう。
 これまで全く呼び捨てをされてこなかったヴェスカは、一瞬驚いた面持ちで彼を見たが、すぐに嬉しそうな顔をした。
「お…?おぉおお??何だ、オーギュスティン先生?いきなり親しげに俺の名前を呼んでくれたぞ?なあ、満更でもないって感じか?」
「あぁ、今これ程までにあんたをぶん殴りたいって思った事はありませんよ」
 何を言っても話にならない。
「やべぇ、変な修羅場だ!」
「ヴェスカせんせ、頭でも打ったんかな…」
「いや、あれは元々あんな感じじゃねぇの」
 周囲が騒めく最中、のんびりとした様子で職員室へ入って来たのは用務員のファブロス。
 手には大きな弁当箱の包み。
「ん…?何の騒ぎだ?」
 役職は違えど、ファブロスも普通の教師のように自分のデスクを職員室内に充てがわれているものの、彼はあまりこちらに立ちいる事は無い。
 あるとすれば弁当箱の配達位のものだ。
「あー、ファブロスさんだ」
「おはよー」
 生徒が困っている際に手をさし伸べる性格と、更に人目を引く容姿の為か彼は非常に人気があった。生徒達からは用務員の人、ではなくファブロスさんと呼ばれている。
「やけに朝からやかましいな」
「うん。ヴェスカ先生がいきなり結婚を申し込んでんだよ」
「そうそう。どうしちゃったんだろうな。前から変だとは思ったけ…」
 その話を耳にするや、ファブロスは弁当箱を持ったままズカズカとヴェスカの方へ一直線に向かっていく。
 そして怒り口調で呼び止めた。
「…おい!!」
「うっわ!何だあんた!?」
「今聞いたぞ。お前は一体何の権利があって馬鹿な事を」
 ファブロスの登場に、オーギュスティンはまた面倒臭いのが出てきた…と舌打ちしてしまった。彼もまたヴェスカと違った意味で非常に厄介なタイプなのだ。
 二人がいがみ合っている間、そっと抜け出してしまおうと静かに動く。だがすぐにバレてしまったのか、「待て」とファブロスの大きな手が彼の腕をがしっと掴んだ。
「うぅ…」
 力の差がある相手の手を出し抜く事など、並の成人男性以下の非力を誇るオーギュスティンにとって厳しい。
「私から逃げ出せると思っているのか、オーギュスティン」
 何故か怒り口調のファブロス。
「…誰がもやし系だっていうんですか!」
 誰もそんな事は言っていない。
「いきなり出てきて何だあんたは!毎回毎回邪魔ばっかりしてきて!」
 良い所でとは言い難いが、告白の横槍を入れられたヴェスカも我慢できなかったのだろう。ファブロスに向かって不満を言い放つ。
 しかし彼は飄々とした様子で手にしていた弁当箱を机にドンっと置いた。
「私はこいつに弁当を渡しに来たのだ」
「またかよ!!大体何でオーギュスティン先生の弁当を準備してくる訳?そうやって凋落させようったってそうはいかねぇからな!!」
 ヴェスカの発言に、腕を掴まれたままのオーギュスティンは不意に「何故だろう…」と空を仰いでいた。
 確かに彼は勝手に持ってきては食べろと言って立派な弁当を勧めてくれる。別にこちらは頼んでもいないし、代金を払うと言っても必要無いと突っぱねられるのだ。
 好意でやってくれるのはとても有難いが、何故ここまでしてくれるのかは分からないままだった。
 ファブロスはふん、と鼻を鳴らした後にオーギュスティンの腕を軽く引っ張りながら答える。
「オーギュスティンはこの通り貧弱な体格だから見た目通り栄養が存分に足りていない。だからたまにこうして栄養を付けさせてやりたいと思っているのだ。朝も簡単に済ませるタイプだし、昼は仕事をしながら栄養食のブロック菓子で済ませる。これを見ていられるか?貧弱が更に貧弱になってしまうぞ」
「………」
 逃げようとしていたのに逃げられず、かくりと傾いたままオーギュスティンはファブロスの言葉を聞いていた。
 物凄く馬鹿にされている気がする…。
 ヴェスカも「はぁ…」と腕を組み、オーギュスティンの体をまじまじと見た。確かにほっそりはしているし、むしろ痩せ過ぎだと言っても過言では無い。その日の仕事はさっさと終わらせたい性質なのか、休み時間ですらまともな昼ご飯を口にしている印象は無かった。
 そりゃもやしだと言われるわ、と納得してしまう。下手をすれば病気にもなりかねない。
「オーギュスティン先生」
「は…?」
 依然腕を掴まれたままのオーギュスティンは、真顔のヴェスカに声を掛けられ怪訝そうに目線を向けた。
「俺との初夜は確実に厳しいから、ちゃんと飯を食って体力付けた方がいい」
「………!!!」
 この後に及んでこんな事を言い出すのか。完全にアウトな発言だ。
 激昂と同時にファブロスの手が緩む。
 気付けば、ヴェスカの頬にオーギュスティンの張り手が炸裂し、彼は勢いよく吹っ飛ばされていた。周囲の者達も声を上げ驚愕の表情を向けていく。
 結構な勢いで巨体が飛ばされるのを見届けていたファブロスは、もやしの割には案外力があるものだな…と変に感心してしまった。
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