初恋も知らなさそうな恋愛少女漫画家と、恋がしたくてたまらない僕の期間限定な日々

その9 第2話→第3話

「2回目もお疲れさまでした。次は一週間後からお願いします。これがお給料。この領収書にサインお願いします。」
 2階の文映舎別室。田所さんはいない応接室。久しぶりのリアル橘さんと僕はソファに向かい合って座っている。今日は出産後初めての仕事で、娘の香蓮かれんちゃんは“たちばな”のおかみさんが面倒見ているらしい。　
　
 今時珍しいバイト代手渡し。ムーンライト企画から直接振り込むことを避けたいという事情で、こんなクラシックな形にされている。

「あと、ダイエットとか健やかでキレイな身体を作る方法みたいなのを、ちゃんと作中に入れたいの。連載開始前に一応文映舎でそういう本を出版されてる先生に私から取材はしたんだけど、なんとなく教科書っぽくて。ハイ・キャッスルで実際にスクールされてる方のお話聞けたらリアルだろうなって思ったんだけど、千早くん通すとアシスタントのことがバレちゃいそうだし。ね、いきなりお電話してお話を聞かせてもらえるものかな？千早くん、スクール受けたことある？」
　領収書をクリアファイルに入れ、バッグにしまいながら橘さんが言う。　
 　
　ハイ・キャッスルは佐和ははの会社のことだ。事業のセンスはある人だけど、名前は情けないくらい単純。名字の高城を英語にしただけなんだから。

　そのハイ・キャッスルは佐和ははが僕の祖母である実母を見て感じたことや自分自身の経験から、あらゆる女性を癒したいと考えて手ごろな価格のマッサージやエステの店をオープンしたことから始まった。
　癒したい女性には時間がなかったり、面倒をみないといけない家族がいることの問題を解決しようと感じた佐和ははは、次に保育や介護方面に手を広げた。

 このあたりから忙しくなって、すれ違った父さんと別れた佐和ははだけど、身軽になったからか手広く職業斡旋やメンタルヘルス、トレーニングジム、メイクやファッション、家事代行サービス、料理教室、レトルト食品の開発など女性のよりよい人生に必要だと思ったものも次から次へと扱うようになった。小さな僕もよく商談に連れてられて行った。

 そして、佐和ははは去年から将来を見据えた生きるための教育の一環と称して“スクール”を始めた。対象は就職前の女性。メインは大学生や専門学校生と僕くらいの年齢だけど、早い子は中学生から参加していて、女性対象ではあるものの男の子からの問い合わせも多い。
 ハイ・キャッスルの提供する栄養バランスのよいランチを食べながら今できる自分の身体のメンテナンス方法、似合う服や髪型の選び方、なりたいスタイルを作るエクササイズなどを学ぶのが目的。基本まだ仕事はしていない若いコ向けで、費用はランチ代のみ。
　佐和ははの人脈もあり、ハイ・キャッスルの社員だけじゃなくモデルやインフルエンサーなどの豪華講師陣が参加することもあって、開始早々すごい人気。いつもかなりなキャンセル待ちが出てる。

 将来顧客になってくれればという思いもないことはない。でもハイ・キャッスルのお手頃ライン価格の化粧品サンプルだの、レトルトの試作なんかもつけちゃってるから、ぶっちゃけ赤字の大サービス。

 「受けたことはないですけど、良かったらスクール担当してるエステティシャン紹介するんで、産後ママエステ行ってください。シッターもプロ付きますからご都合のいいときに仮予約入れていただいたら。ママは赤ちゃんの体調もあるから変更いつでも対応できるし。本店でいいですよね？エステティシャンの名前書いときます。橘さん文映舎の社員さんってことにしておけばいいじゃないですか。僕にIDくれたぐらいだから、大丈夫でしょ？」
 「ほんと？やった！」
 僕が一応持ち歩いているハイ・キャッスルのインビテーションカードに“遥さんに”と書いて渡すと、橘さんの目が輝いた。

  僕のインビテーションカードを店舗で出せばどんなコースも無料になる。

  ただし渡すには佐和さわと決めた二つの条件がある。
　
  いつもとっても頑張っていて、僕が心から是非癒されてもらいたいと思う人。
  そして僕に決して“ハイ・キャッスルを格安で使いたいから紹介して”と自分から言わない人だ。

 橘さんは満面の笑顔。佐和さわは女性のこんな顔が見たくて仕事してるんだろうな。

 「それでひとつお聞きしていいですか？」
 「なんなりと。」
 口元を綻ばせて橘さんが言う。

 「僕の線が荒れてるって…。」
 「ああ、そうね。でも私言われるまで気づかなかったし、作品に影響ない程度だから大丈夫だけど、何かあった？誰かとケンカしたとか、体調悪いとか、とにかく心配ごとがある？」
 橘さんはインビテーションカードを、さっきの領収書のファイルにしまいながらこともなげに言った。

 「そっ、そんなこと気がつくんですか？」
 「夕凪はそういうの、細かいとこまですぐ分かるよ。でも多かれ少なかれコンディションは、みんな出てると思うけど。」
 
 そうなのかな。

 「大福美味しかったでしょ？たちばなのご贔屓さんとこのなの。前、ダンナが千早くんと話ししたとき、和菓子が好きだって言ってたって教えてくれたから。安直ではあるけど、元気出してほしいって夕凪がいうから差し入れた。」
 「くれあセンセイが？」
 僕を心配して？

 「作品の出来に影響するからね。あいつ完璧主義だもん。おせっかいじゃなければ相談のるから。従業員のメンタルヘルス対策も大切だからね。」
 …イケメンくれあセンセイが心配？って一瞬ときめきそうになったけど、明らかに違いますね。

 作品のクオリティのためだあ。

 「大丈夫です。時間たてば、きっと。」
 橘さんは大人の働く女性だけど、さすがに寝るの断ってフラれた話はしづらいです…。