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🐾エピローグ 出会いはめぐる
できたてのかさぶた
しおりを挟む――えっと、次どこの教室だっけ?
同級生たちより一年遅れで始まった、キャンパスライフ。
私は今日も、大学という名の迷路を駆けずり回っていた。
敷地が広すぎて、教室を移動するだけでもかなりの体力勝負だ。心臓が完治していて本当によかった。以前なら、四六時中発作に怯える羽目になっていただろう。
――あった、あそこだ!
そんなことを考えながら、ようやっと目的地が視界に入ったところで、
「あっ……」
「……っと」
すれ違った女性とぶつかってしまった。勢い余って、持っていたかばんの中身をぶちまける。
「あ~、ごめんなさい」
「そ、そんな。私が前しか見てなかったから……」
相手に先に謝らせてしまったことを申し訳なく思いつつ、散らばった私物を拾い上げていると、女性もあわてて手伝ってくれた。
「あぁ……すみません」
「いいのよ。気にしないで」
気さくそうに答えた女性の顔をちらりと見た瞬間、
――あれ?
ほんのかすかに、デジャヴのような感覚がよぎる。
長い黒髪をハーフアップにまとめ、目鼻立ちのはっきりした美人。
この人、どこかで……誰だっけ?
手を動かしながら、記憶の蓋を順番に開けていく。これじゃない。これでもない――
「あっ」
ちょうど思い当たったとき、思わず叫びそうになったのを、彼女が偶然にも同じ言葉で止めてくれた。
「私もこの作家好きよ」
その一言に彼女の手もとを見れば、先日読了したばかりの一冊が落ちていた。
「本、読まれるんですか?」
反射的に問いかけた私に、彼女はすこしばかり考えるような素振りを見せる。
「うーん、特別本好きってわけじゃないんだけど、ほら、この作家さんはよく音楽を題材にするじゃない? 読みやすいし。それで」
「ってことは、音楽を専攻されて?」
尋ねると、彼女は「そうなの」とうなずく。
「教育学部音楽科の四年、瀬戸亜沙美です。よろしくね」
名前を聞いて、確信した。やっぱりあのときの――卓也のお姉さんだ。
二年前の春、ガラス越しに見た言い争う姿が、頭の片隅に残っていた。当然だが、今は穏やかな顔をしている。お父さんとはうまくやっていけているのだろうか。
「医学部一年、島谷ふうかです」
運命かもしれない。そんな喜びを胸の内に秘めながら、ならって自己紹介すると、
「医学部!? 頭いいのね!」
彼女は大袈裟に目を丸くした。
「いえ……全然」
目標がないわけではないけれど、医師や薬剤師を目指している人たちに比べれば不純な動機ではないかと感じているので、そんなふうに反応されると恐縮してしまう。
高校に復帰し、将来のことを考えたとき、医療に関わる仕事をしたいと思った。できるなら、かつて自分がそうしてもらったように、誰かと誰かの命をつなぐ仕事をしたいと。
調べていくと「移植コーディネーター」という職業を見つけた。専門学校などはないものの、医療国家資格の取得や実務経験が必要らしかったので、最も近道になりそうな医学部を選んだのだ。
「この作家さんは読破してるつもりだったんだけど、これは読んだことないな。新刊かな?」
彼女はいつの間にか、本に関心を戻している。
「本屋でたまたま買ってみただけなので、よく分からないんですけど……よかったらお貸ししましょうか?」
「え、いいの?」
彼女は目をぱちくりさせた。どことなく彼に似ているな、と顔がほころぶ。と同時に、胸が切なく痛んだ。
もう古傷になっていると思っていたのに。本当はまだ、ちょっとしたきっかけではがれてしまう、できたてのかさぶただったのかもしれない。
分かっている。彼は今もずっと心にいる。彼との日々が色褪せたことはない。
だけど、だからこそ、辛くなるときもあって。
でも、どうすることもできないのだ。
会いたい、なんて願ったところで、むなしくなるだけ。
泣きたくなるだけ。
うずく胸に気づかないふりをして、ことさらに明るい声を出す。
「はい。私、この前読み終わって入れっぱなしにしてただけなので。お近づきのしるしに」
読書は昔から好きだけれど、よほど気に入ったものでないと読み返すことはしないので、たいした問題はない。ごゆっくりどうぞ、と言い添えておく。
「やったぁ。じゃあさ、返すついでと言っちゃなんだけど、今度お茶でもしましょうよ」
声を弾ませる彼女に、「ぜひ」と明るく答えた。
「なんだか私たち、いい友だちになれそうね」
「ですね」
季節がめぐって、私の前に現れたのは、待ち続けていた王子様ではなかった。けれど、これもきっと素敵な出会いになるだろう。
彼につないでもらった命で、未来へ進まなきゃ。
このときはただ、そんなふうに考えていた。
それから一週間あまりが過ぎた週末。私は約束通り、近くのカフェで亜沙美さんと待ち合わせた。
「面白かったわ。ありがとう」
人のまばらな店内で、亜沙美さんはそう言って、先日から貸していた本をテーブルの上に置いた。
「いえいえ。とんでもないです」
私は笑顔で返しながら、本をかばんにしまう。
亜沙美さんはブラックコーヒーを緩く掻き混ぜ、静かにすすると、何やら観察するように、私の顔をまじまじと見つめてきた。
「あのー、どうかしました? 私の顔に何か……?」
なんだか落ち着かなくてありきたりな質問をすると、彼女は「変なことを訊くけどごめんなさい」と前置きしてから、
「あなた、ほんとに『島谷ふうか』ちゃんよね?」
事前の言葉通り、私以上に変な質問をした。
「……はい?」
何を言っているんだろう、この人は。初対面でもないのに。
さっぱりわけが分からなくてきょとんとすれば、亜沙美さんは落ち着きを取り戻すように首を左右に振り、
「説明するより、見てもらったほうが早いわ」
そんなふうに呟いて、真剣な面持ちで切り出した。
「一緒に来てもらいたいところがあるの」
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