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🌙一夜目 舌足らずな少年の未練

初仕事

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 髪にふわふわとまとわりつく熱気を鬱陶しく思いながら、わたしは今日も、どうにかため息をこらえる。
「ねぇ、ママ」
 本当はもう、ママなんて呼びたくない。高校生なのに。
 だけどそれを言えば、ママがどんな顔をするか分かっているから、不服ながら変えずにいる。
「これ、いつまで続けるの?」
 なるべく角を立てないよう意識して尋ねると、背後でひざを折ったママは、手を止めずにふふっと笑った。
「ずっとよ。女の子はいつだってきれいでかわいくなくっちゃ」
 もう何度目か分からない台詞を淡々と口にしたママは「――はい、できた」と満足げに言って、ヘアアイロンを置き、手鏡を差し出してくる。
 しかたなく受け取って覗き込むと、いつものごとく、長い黒髪を緩く巻いて渋い顔をした自分と、その後ろで微笑むママの顔があった。
「ほら、かわいい」
 かわいい、のかな。
 たしかに昔は好きだった。大好きだった。ママの手で、どこかの国のお姫様のように変われる、この瞬間が。
 でも、そんな人工的な美しさやかわいらしさにときめかなくなったのは、いつからだろう。
「……いってきます」
 わたしは鏡を突き返し、不愛想にそう言って立ち上がる。
 玄関でスクールバッグを手に取り、靴を履くと、
「いってらっしゃい、沙那ちゃん」
 やけに上機嫌なママに見送られ、外へ出た。
 そこでようやく、吐き出すことを許される。
 まったく。ママの過保護ぶりというか、偏愛ぶりというか、なんとも形容しがたい態度には、本当にうんざりしてしまう。
 いい加減、ちゃん付けも勘弁してほしい。保育園児じゃないんだから。
 もともとそういう人ではあったけれど、八年前に、無口で堅物な父と別れてからは、ますます拍車がかかったような気がする。
 愛を注ぐものがわたし以外にないからだろうが、独りよがりで重すぎる愛情を受け止め続けるこちらの身にもなってほしい。
 なんだか朝からどっと疲れてしまい、鬱々とした気持ちで肩を落とすと、控えめな赤色が目に入った。
 右手を掲げて、小指の先を彩る彼岸花を、あらためて観察してみる。
 最初から淡色気味ではあったけれど、日の光に透かすとさらに薄く感じる。
 が、色褪せてはいない……はず、だ。
 ――夢じゃ、なかったんだよね?
 わたしの記憶が確かなら、あの不思議な夜から、今日でもう三日。
 ――よろしくね、小鳥遊沙那さん。
 野花さんはそう言った後、突然、我に返ったようにスマホを取り出したのだった。
 とたんに、現実離れしたファンタジックな空気が一気に薄れ、興醒めしたのを覚えている。
 連絡先まで交換しているのに、なんの音沙汰もなければ、教室で話しかけられることもない。
 あれはいったい、なんだったのだろう。新手のいたずら……?
 ひとりで人間不信に陥りかけていると、制服スカートのポケットに入れたスマホが、メッセージの着信を知らせた。
 取り出して確認する。噂をすれば野花さんからだ。
【今夜、最初の依頼者を連れてくるから、あの日みたいに寝ないで待ってて】
 依頼者?
 思わぬ単語に、わたしは小首をかしげた。
 それに、あの日ってかなり深夜だったよね?
 あのときはそのまま消えるくらいのつもりでいたから気にもしていなかったけれど、もしも、ママに知られたら……
 思いかけて、はっと首を振り、忍び寄ってきた不安を追い払う。
 こんなふうじゃ、いつまで経っても変わらないじゃないか。
 なんとしても、このチャンスをふいにするわけにはいかない。
 第一、具体的な内容も聞かされていないのだ。まずは踏み出してみないと。
 今夜はわたしの、初仕事だ。

 *

大地だいち、ですっ!」
 その夜、野花さんは事前の連絡通り、日付が変わる一時間ほど前に、先日と同じく暗色のマントをはためかせながらやってきた。
 ――幼い男の子を引き連れて。
 はつらつとした口調でダイチと名乗った小さな彼は、保育園などでよく見かける青いスモッグに身を包み、野花さんの横でお行儀よく背筋を伸ばしている。
 背格好と身なりから推測するに、年齢は四、五歳くらいだろうか。
 つぶらな瞳と、モヒカン風の短い黒髪、健康的な小麦色の肌と手足。
 しかし、そのすべての輪郭はぼんやりと曖昧で、薄く透けて見えた。
 野花さんはあの日、亡者がどうとか言っていた気がするけれど、言い換えればそれって、彼は……
 そう思ってしまったら、背筋が寒くなるのを感じて、わたしは思考を止めた。
 余計なことを考えなければ、かわいい少年であることに変わりはない。
「おねえちゃんは? だあれ?」
 必死に自分に言い聞かせている最中、無邪気な声と眼差しで尋ねられ、ぴくりと肩を震わせた。
「沙那、です……」
 縮こまりながら小声で自己紹介すると、
「君の願いを叶えてくれる人だよ」
 野花さんがさらりと言い添えた。思わぬ言葉に、「へっ!?」と目を見張る。
 ちょっとちょっと、お姉さん。それはわたしというより、あなたの役目では?
「あ……あのっ、えっと、わたしはその、なんというか、助手みたいなもので……っ!」
 しどろもどろになりながらあわてて訂正しようとするが、時すでに遅し。
 ダイチくんは、くりくりの目を一層見開いてきらきらさせ、頬を真っ赤にしながら、「ほんとう!?」と言った。
「ボク、にいちゃんたちと『ケッコン』したいんだ!」
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