空っぽの薬指

文月 青

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本編

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指定された会社近くの喫茶店で寛いでいると、仕事を終えた先輩が冴えない顔色で入ってきた。この店は今時のお洒落なカフェとは違い、お客はそこそこいるものの皆コーヒーを楽しんだり読書したり、静かに自分の時間を楽しんでいるのでとても落ち着く。

常連さんにはコーヒーも好みにブレンドしてくれるらしく、自家製のケーキやタルトも美味しそうだ。お勤めしているときは敷居が高くて足を運べなかったのが残念だ。

「また場違いなこと考えてるわね」

何とかブレンドを注文した先輩が、呆れたように私の鼻を摘まんだ。窓の外では退社する人や逆に帰社する人が、それぞれのスピードで行き交っている。

「家ではどうなの、佐伯さん」

「そういえばここ数日様子がおかしいですね」

失恋直後とはまた違うけれど、心ここにあらずといった感じは否めない。先輩はテーブルにそっと置かれたカップに口をつけ、立ち上る湯気を振り払うように切り出した。

「営業に赴任した新しい主任の話は聞いてる?」

私は素直に頷いた。はっきり主任だとは言われていないけれど、上司と表現していたからたぶんその人のことだろう。

「もともとはうちの営業にいた人で、やり手だったらしいわ」

では営業部にとっては顔馴染みの同僚が上司として帰ってきたことになる。和成さんは人と軋轢を生むタイプではないけれど、もしかしてその人と成績を競って某かの因縁でも持っているのかもしれない。

「また脱線してるわね」

はーっとわざとらしくため息をついた先輩が、薄闇に包まれた窓の外に視線を移して息を呑む。

「見なさい」

人差し指で示された方向には、スーツ姿の男女の二人連れが足早に歩いている。重要な仕事が控えているのか、身振り手振りを入れながら意見の交換をしているようだ。格好いいなぁとぼんやり眺めていたら、男の人の方は何と和成さんだった。当然二人はこちらに目もくれず、忙しなく会社の中に消えていく。

「分かった?」

厳しい口調とは裏腹に先輩の表情は不安に揺れていた。

「今日は接待で遅くなると言ってましたが、変更になったみたいですね」

家を出る前に送ったメールには、その旨についての返事はなかったけれど。

「あんたね」

正直に伝えただけなのに先輩は苛々と小声で怒鳴った。周囲に配慮しているのはさすが。

「あれが新しい主任! 佐伯さんの浮気相手!」

「じゃああれがへのへのもへじさん?」

パーツが繋がらなかった和成さんの好みの女性の登場に湧く私に、少しは慌てなさいよとぼやいて先輩はテーブルに突っ伏した。



その日和成さんは予定通り夜遅くに帰宅した。胃がもたれているから夜食はいらないと、準備をしていた私を制してお風呂に直行する。お酒の匂いはしないからやはり接待は中止になったのだろう。

「あの時間に帰社してる段階で、接待なんて初めから嘘に決まってるでしょ。でも帰りは当然遅いわよ」

ぴしゃりと言い切った先輩の予言がまず一つ当たったことになる。私の周囲はエスパーだらけだ。

「おやすみなさい、希さん」

キッチンを片付けていた私に、お風呂から上がった和成さんが声をかけて寝室に向かう。眠っている気配はないのに、しばらく間を置いてから同じベッドに潜り込んだ私を振り返りもしない。

「今日は絶対希を抱かない筈よ」

二つ目の予言も当たってしまった。でも考えてみれば悩み始めてから和成さんは私に触れなくなったので、この展開は想定内だったりする。

顔はよく覚えていないし、女性の上司というのは驚いたけれど、二人が並んで語り合う場面は純粋にお似合いだったし、足りないパズルのピースを埋めたみたいに凄くしっくりするものがあった。種類は判断できねど、和成さんが主任さんに対して好意を抱いているのは確かだ。

私とへのへのもへじさん、どちらが浮気に該当するのかは分からない。でも指輪の彼女以外に和成さんに大切な女性が現れたのは、嬉しい出来事である反面やはり信じ難くて、私はその晩へのへのもへじとどでかい指輪に押し潰される夢にうなされた。

「寝不足のようですが大丈夫ですか?」

翌朝食卓で欠伸を繰り返す私の顔を和成さんは心配そうに覗いた。

「大丈夫です。昨夜世紀の大決戦がありまして」

和成さんは苦笑しながら首を傾げる。うどんは相変わらず手つかずのままで、こちらの方が大丈夫なのかと問い質したくなる。朝はうどんで昼と夜は外食。夫婦生活がなくなった期間と同じくらい、私のご飯を食べていない和成さん。

「仕事をしてもいいですか?」

これはもしや職務怠慢ではなかろうか。気がついたらそんなことを口走っていた。単なる思いつきだったのに、和成さんは険しい表情で私をみつめる。

「復帰したいということですか」

「いいえ。家の近くでバイトでもできれば」

私の出まかせに和成さんは明らかにほっとした様子を見せた。

「その話はまた今度しましょう」

そしてとうとううどんを食べずに席を立つ。いつものように和成さんをベランダから見送った私は、とりあえずテーブルの上に残されたうどんを自分で食べることにしたのだった。






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