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橋本編 鬼畜の片想い
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茂木が奈央にチョコレートを贈ってからまもなく一年。また寒い季節が訪れた。今年は奈央から手作りチョコを渡すのだと、内緒で店長の教えを受けている。が、前途多難らしい。俺は特に変わらぬ日々を過ごしている。仕事をして、たまに少年達とサッカーをして、店長宅で飯をご馳走になって。
「副隊長、親分はいつ帰ってくるんだ?」
薄曇りの中、前日降った雪を蹴散らすように駆け回った後、帰ろうとしていた少年の一人が訊ねた。
「どうだろうな」
曖昧な答え方はしたくないが、本当に知らないのだから仕方がない。
「何だよ。二人はできてたんじゃないのかよ」
「ちげーよ。生意気言ってねーで、とっとと帰れ」
口を尖らせて少年は仲間の元に戻ってゆく。俺は静かに肩を落とした。白い息が細く流れる。ベンチは溶けた雪のせいで濡れていたので、俺はいつぞや藪と二人で歩いた小道を一人で辿った。
「ありがとな、橋本」
そう笑って七月の終わり、藪はこの街を後にした。引っ越しは他のスタッフが担当したので、行き先は知らない。いや、あえて耳に入れないようにしていた。奈央やあやめさんは頻繁に連絡を取っているようで、元気でやっていることだけは聞いた。
藪の実家には現在姉の家族が同居していて、以前よりも賑やかになった。でも二人の子供はピアノだスイミングだと、毎日習い事に忙しく、サッカーなど見向きもしない。
ふと垣根代わりの紫陽花の木に足を止めた。まるで枯れ木のような寒々しい姿に、あの日カタツムリを見つけてはしゃいでいた藪を思い出す。大人のくせに楽しそうに角を突いていた。
冬の間カタツムリは、枯葉の下やコンクリートブロックの隙間にいるという。でもついぞお目にかかったことがない。何故か夏にしかその存在感を発揮していないような気がする。
「俺のことも、もう忘れたか」
俺の部屋に来いとは言った。年齢のことも考えるなと。でも好きだとは告げなかったし、告げられなかった。茂木や奈央を介しただけの知人。それが俺と藪。
ーー仕事の関係者とは縁を作らない。
俺にその鉄則を破らせた張本人は、今頃誰かと石鹸を鳴らしているのだろうか。
菓子店が賑わいを見せる日、茂木は朝からご機嫌だった。気持ちは分からないでもない。昨年のこの日は、何度でも当たって砕ける覚悟で奈央に想いを伝えたのだ。今年はその彼女と恋人として過ごせる。自然と表情も緩むだろう。
「そうだ、橋本さん」
着替えを済ませてロッカーを出ていこうとした俺を、帽子片手に茂木が慌てて呼び止めた。
「実は橋本さんにお届け物があるんです」
「俺に?」
「はい。ちょっと待ってて下さいね」
一旦ドアの向こうに消えた茂木は、さほど大きくもない段ボール箱を持って帰ってきた。よく見ると「カタツムリ便」と名が入っている。
「日付指定だったもので」
茂木はそう言って俺に箱を手渡すと、お先にと再びロッカーを出ていってしまう。首を傾げながらやけに軽い箱を見れば、本来貼り付けている筈の場所に送り状がない。茂木が直接預かったのだろうか。不審に思って恐る恐る箱を開けてみる。
「は?」
中にあったのは洗面器と石鹸、それにフェイスタオル。他にはメモ紙一枚見当たらない。バレンタインデーには不似合いな代物に唖然とする。何なんだこれは。こんなことする奴なんて藪以外には…。そこで俺は箱をひとまずしまって茂木を追いかけた。
「茂木は?」
「茂木さんならもう出ましたよ」
近くにいた事務の女性にあっさり答えられ、冷静さを取り戻すべく、気を落ち着けて通常の仕事の段取りを踏む。あの届け物についての追及は業務を終了させてからだ。俺は逸る気持ちを抑え、新人時代に戻ったつもりで、一つ一つの作業を抜かりなくチェックしてトラックに乗り込んだ。
安全運転を心がけながらいつものルートを回り、奈央の菓子店の前でトラックを停める。運転席を降りて荷台の扉に手をかけたところで怒号が飛んだ。
「ちょっと邪魔だよ、兄ちゃん」
ガラの悪そうな女の声に一瞬体が硬直した。
「本職のくせに停め方が下手だね」
ゆっくり振り返れば、ストレートの長い髪を綺麗に伸ばした、背の高いどこぞのOL風の女が立っていた。
「今時の若者は挨拶もできんのか」
「うるせーな。相変わらずへらへらしやがって」
「ずいぶん元気そうじゃないか、クソガキ」
「そっちこそ化けたな、クソババア」
初対面のときのように睨みあった後、俺達はどちらともなく笑みを浮かべた。藪は昨日まで出張で隣市にある支社に来ており、今日明日は有休を取って帰ってきたのだそうだ。
「あの荷物は何だよ。チョコならいざ知らず」
「あぁ、とりあえずな。要らなかったら返してくれ」
「ふざけんなよ、老け女。俺の部屋はあれからずっと、半分スペースが空いたままなんだぞ」
俺のぼやきに藪はふっと目を細めた。
「ようやく石鹸を鳴らせそうだな」
会いたかったなんて口が裂けても言わないからな。頑なに平静を装う俺に、荷台のカタツムリが、とてつもなく優しく笑っているように見えた。
「副隊長、親分はいつ帰ってくるんだ?」
薄曇りの中、前日降った雪を蹴散らすように駆け回った後、帰ろうとしていた少年の一人が訊ねた。
「どうだろうな」
曖昧な答え方はしたくないが、本当に知らないのだから仕方がない。
「何だよ。二人はできてたんじゃないのかよ」
「ちげーよ。生意気言ってねーで、とっとと帰れ」
口を尖らせて少年は仲間の元に戻ってゆく。俺は静かに肩を落とした。白い息が細く流れる。ベンチは溶けた雪のせいで濡れていたので、俺はいつぞや藪と二人で歩いた小道を一人で辿った。
「ありがとな、橋本」
そう笑って七月の終わり、藪はこの街を後にした。引っ越しは他のスタッフが担当したので、行き先は知らない。いや、あえて耳に入れないようにしていた。奈央やあやめさんは頻繁に連絡を取っているようで、元気でやっていることだけは聞いた。
藪の実家には現在姉の家族が同居していて、以前よりも賑やかになった。でも二人の子供はピアノだスイミングだと、毎日習い事に忙しく、サッカーなど見向きもしない。
ふと垣根代わりの紫陽花の木に足を止めた。まるで枯れ木のような寒々しい姿に、あの日カタツムリを見つけてはしゃいでいた藪を思い出す。大人のくせに楽しそうに角を突いていた。
冬の間カタツムリは、枯葉の下やコンクリートブロックの隙間にいるという。でもついぞお目にかかったことがない。何故か夏にしかその存在感を発揮していないような気がする。
「俺のことも、もう忘れたか」
俺の部屋に来いとは言った。年齢のことも考えるなと。でも好きだとは告げなかったし、告げられなかった。茂木や奈央を介しただけの知人。それが俺と藪。
ーー仕事の関係者とは縁を作らない。
俺にその鉄則を破らせた張本人は、今頃誰かと石鹸を鳴らしているのだろうか。
菓子店が賑わいを見せる日、茂木は朝からご機嫌だった。気持ちは分からないでもない。昨年のこの日は、何度でも当たって砕ける覚悟で奈央に想いを伝えたのだ。今年はその彼女と恋人として過ごせる。自然と表情も緩むだろう。
「そうだ、橋本さん」
着替えを済ませてロッカーを出ていこうとした俺を、帽子片手に茂木が慌てて呼び止めた。
「実は橋本さんにお届け物があるんです」
「俺に?」
「はい。ちょっと待ってて下さいね」
一旦ドアの向こうに消えた茂木は、さほど大きくもない段ボール箱を持って帰ってきた。よく見ると「カタツムリ便」と名が入っている。
「日付指定だったもので」
茂木はそう言って俺に箱を手渡すと、お先にと再びロッカーを出ていってしまう。首を傾げながらやけに軽い箱を見れば、本来貼り付けている筈の場所に送り状がない。茂木が直接預かったのだろうか。不審に思って恐る恐る箱を開けてみる。
「は?」
中にあったのは洗面器と石鹸、それにフェイスタオル。他にはメモ紙一枚見当たらない。バレンタインデーには不似合いな代物に唖然とする。何なんだこれは。こんなことする奴なんて藪以外には…。そこで俺は箱をひとまずしまって茂木を追いかけた。
「茂木は?」
「茂木さんならもう出ましたよ」
近くにいた事務の女性にあっさり答えられ、冷静さを取り戻すべく、気を落ち着けて通常の仕事の段取りを踏む。あの届け物についての追及は業務を終了させてからだ。俺は逸る気持ちを抑え、新人時代に戻ったつもりで、一つ一つの作業を抜かりなくチェックしてトラックに乗り込んだ。
安全運転を心がけながらいつものルートを回り、奈央の菓子店の前でトラックを停める。運転席を降りて荷台の扉に手をかけたところで怒号が飛んだ。
「ちょっと邪魔だよ、兄ちゃん」
ガラの悪そうな女の声に一瞬体が硬直した。
「本職のくせに停め方が下手だね」
ゆっくり振り返れば、ストレートの長い髪を綺麗に伸ばした、背の高いどこぞのOL風の女が立っていた。
「今時の若者は挨拶もできんのか」
「うるせーな。相変わらずへらへらしやがって」
「ずいぶん元気そうじゃないか、クソガキ」
「そっちこそ化けたな、クソババア」
初対面のときのように睨みあった後、俺達はどちらともなく笑みを浮かべた。藪は昨日まで出張で隣市にある支社に来ており、今日明日は有休を取って帰ってきたのだそうだ。
「あの荷物は何だよ。チョコならいざ知らず」
「あぁ、とりあえずな。要らなかったら返してくれ」
「ふざけんなよ、老け女。俺の部屋はあれからずっと、半分スペースが空いたままなんだぞ」
俺のぼやきに藪はふっと目を細めた。
「ようやく石鹸を鳴らせそうだな」
会いたかったなんて口が裂けても言わないからな。頑なに平静を装う俺に、荷台のカタツムリが、とてつもなく優しく笑っているように見えた。
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