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番外編
長男の苦悩 4
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どのくらいベッドで過ごしていたのだろう。既に夕暮れを迎えつつあった。気怠い疲れと満たされた想いとは裏腹に、徐々に後悔の念が湧き上がる。
「ごめん」
傍らでぐったりと横たわる結衣の髪を撫でながら、正気に戻った俺は性懲りもなく謝罪を口にすることとなった。
「謝る理由が分からない」
該当することなら山のようにある。でも最たるものはたった今無理やり結衣を抱いたこと。あんなに悩んだのに一瞬で全て台無しだ。
「嫌がってないのに、どうしてそこで落ち込むかな」
結衣はくるっと横を向いて俺の額を突く。
「嫌じゃ…ないのか?」
甘い雰囲気も労りもなくただ一方的に襲われるだけ。男と体を重ねた経験の殆どない結衣にとって、これは許されざる行為でしかないだろうに。
「私も…したかったよ」
蚊の鳴くような声で呟かれた。
「結衣も、したいのか?」
変な意味合いは全く無く、ただ驚いて叫んでしまったのだが、結衣は薄闇の中でも分かるくらい体を真っ赤に染めた。
「馬鹿! おっさん!」
今度は反対側を向いて顔を隠してしまう。怒ってしまったのだろうか。俺はおろおろと背後から腕を回して抱き締めた。
「だって、孝之さん、私の体に興味なさそうだったから」
経験豊富な大人の女の人じゃないと駄目なのかな。そう思い始めたところにエロ姉さんとのいけない現場を目撃したから。
俺が手を出せずにいる間そんなことを考えていたのか。か細い本音に堪らなくなり、俺は結衣の顎を掴んでこちらを振り向かせる。
「まさか今も興味ないとは思ってないよな?」
ぽっと火を噴いて視線を彷徨わせる。何でこんなに可愛い反応をしてくれるかな、この娘は。自分のその一つ一つの仕草にどれほど俺が焦がれているかなんて、きっと想像もしていないんだろう。でもだからこそ謝らなくては。
「結衣、こっちは本当に言い訳のしようがないんだが…。最初だけ避妊をし忘れた」
こんなこと初めてだった。だが冷静さを欠いたとか、勢いに任せたとか、どんなことを口にしても結局自分の落ち度でしかない。責任を取るというのは簡単だが、俺にはよくても結衣が望まない可能性もある。この先の人生を塗り替えてしまうことになるのだから。しかも俺の勝手で変えられてしまった人生が、必ずしも幸せに繋がっているとは限らない。むしろ結衣の夢も希望も摘み取ってしまうかもしれない。
「そっか。まぁ、就職したばかりで産休を取ったら、会社には迷惑をかけてしまうけど」
どんな非難も受け止めるつもりだった俺の耳に、何とものんびりした言葉が届く。産休ということは、仕事を辞めずに出産するということか?
「産む、のか?」
意外な選択に後先考えずに漏らしていた。
「産んじゃ駄目なの?」
結衣が信じられないという表情で目を吊り上げている。枕を振り被られたところで俺は慌てて両手を振った。
「待て、違う、誤解だ!」
一旦枕を取り上げて結衣を宥める。指摘したら怒られそうだが、胸が丸見えなのは気づいているのだろうか。俺としては目の保養になるのでそのままでも構わないんだが。
「一つ訊いてもいいか」
さっとタオルケットに包まった結衣を残念に思いつつ、こちらを睨み続ける彼女に切り出した。
「お前は、その、俺のことが好きなのか?」
「当たり前じゃん」
「そうなのか?」
再び驚いて確認してしまう。それをどう取ったものか、結衣はすっと怒りのオーラを消した。代わりに双眸に浮かび上がるのは悲しみだろうか。
「やっぱり孝之さんは違ったんだね」
責めるというよりは諦めの混じった口調。
「まだどこかで責任を感じてる?」
始まりが始まりだからしょうがないよね、とため息をつく結衣。責任なら喜んで取りたいが、それは結衣が捉えている重荷とか、良心の呵責とは根本的に別物だ。俺はお前を自分のものにする権利が欲しいだけの、ただの傲慢なおっさんなんだよ。
「二度と離さないって、嘘?」
「嘘じゃ、ない」
髪を掻き毟りながらそれだけ絞り出す。情けない。格好悪い。本当はそんな姿晒したくない。けれどここで本音を伝えなければ、おそらく彼女は俺から離れてゆく。
「一目惚れしたんだよ、あの日」
唐突に結衣がふふっと小さく笑った。
「だから同意の上って言ったの。責任を感じて欲しくないからじゃないよ。逃げ出す隙もいっぱいあったしね」
そして初めて結衣から聞かされた彼女の想い。自分との間に起こった出来事をなかったことにしないでくれたこと。咲の妹だから失恋決定だと思い込んでいた自分を迎えにきてくれたこと。気まずいことも多かっただろうに、誰に何を言われてもちゃんと恋人として扱ってくれたこと。
「全部全部嬉しかったんだよ、孝之さん」
ぴたぴたと俺の頬を叩く結衣。その揺るぎない笑顔に俺は観念して目を閉じた。俺の悩みなど全てお見通しだったのだろう。だからこうして自ら俺の元にやってきたのだ。ゆっくり目を開けて結衣の手を握り締める。たぶん一生叶わない。
「どこにも行けないように、ずっと腕の中に囲ってしまいたかった」
きょとんと目を瞬く結衣。あぁ可愛い。食べたばかりだけどまた食べてしまいたい。
「毎日会いたかった、抱きたかった。でもそんなこと言ったら嫌われるんじゃないかと思ってた」
躊躇しつつも少しずつ語り出す。自分の我儘を優先したら、結衣の今後の出会いも仕事での成長も、この先に待っている何もかもを奪うような気がして、それに見合うだけのものを自分が持っていないような気がして、その癖誰にも渡したくなくて、そんなことで悩んでいる情けない自分を知られたくなくて、結局黙っているしかできなかったこと。
「ごめん」
静かに耳を傾けてくれた結衣に、本日二度目の謝罪を口にする。しばらく無言が続いたので不安になって結衣を窺うと、彼女は呆れたように生温い視線を俺に向けていた。
「大人ってほんと面倒臭い」
悟の気持ちがよく分かるとぼやかれて俄かに焦る。何でも悟は自分のプロポーズを渋る咲に手を焼いているらしい。もちろん今すぐのことではなくて、将来の約束を取り付けたいだけなんだそうだが。
「孝之さん、私と一緒に暮らしたいの?」
「はい」
「じゃあお互いの仕事に支障が出ない範囲で、引っ越せば済むことじゃないのか」
俺の手を振りほどいて、黒タイツの芸人よろしくびしっと人差し指を突きつける。
「いや、そうじゃなくて、俺がしたいのは、その、最終的に結婚」
「だったら入籍すればいいだけのことじゃない。式は後でもできるし」
結衣は事も無げに、俺がずっと秘めていた願いを叶える方法を示唆する。
「それとも結婚後は家庭に入って欲しいとか? 私が仕事を持つのは反対?」
「滅相もない」
ぶんぶんとめいっぱい頭を振る。というかまだそこまで考えていない。いやそれ以前にもっと大切な事実が、たった今結衣の口から飛び出したような…。
「結衣、俺と、結婚してくれるのか?」
「今すぐにでも」
結婚もその後の人生も私が決めることだから。どう転ぼうと私次第。誰のせいでもないし、孝之さんが四の五の言うことでもない。そう一本筋を通して。
どこまでも潔い結衣に俺は瞠目した。若さ故に何のしがらみもなく突っ走れる部分はあるだろう。でもそんな自分の信じたままを行く真っ直ぐな結衣だから、俺はきっと惹かれずにはいられないのかもしれない。
「結衣」
最早すっかり夜の帳が下りた寝室で、心から愛しい存在を抱き締める。
「好きだ」
順番が逆になってしまったけれど、万感の想いを込めて。
「遅いよ」
ぷーっと頬っぺたを膨らませているくせに、目元に涙を滲ませているのが分かる。いつまでもこうしていたいのは山々だが結衣には明日仕事がある。離れ難くても仕方がない。本当に今すぐ籍を入れてしまいたい。絶対母親達は小躍りして喜ぶことだろう。
「飯を食いがてら送っていくよ」
名残惜しさを振り切るように起き上がろうとした俺の腕を、何故か結衣がおずおずと掴んだ。
「明日も、休みなの」
「本当か?」
ぎこちない手つきで瞼を擦りながら頷く結衣。その可愛い仕草と明日は休みの一言で、悪いがまたスイッチ入ったからな?
「孝之さん?」
当然のように上に乗っかってきた俺に慌てる結衣。うん。こっち方面だけは俺が主導権握れるな。他は全部結衣だけど。
「ご飯に行くんじゃ」
「その前に夢の世界にイこうな?」
俺が満たされたのと同じくらい、いやそれ以上にお前の心と体も満たしてやりたい。ケダモノにがっつかれて耐えるだけじゃない悦びがあることを、教えてやれるただ一人の男になりたい(ケダモノの自分が言うのも図々しいが)。
「エロおやじ!」
そうして真っ赤になっているであろう結衣の唇は、俺の唇に塞がれて穏やかな暗闇に溶けていった。
「ごめん」
傍らでぐったりと横たわる結衣の髪を撫でながら、正気に戻った俺は性懲りもなく謝罪を口にすることとなった。
「謝る理由が分からない」
該当することなら山のようにある。でも最たるものはたった今無理やり結衣を抱いたこと。あんなに悩んだのに一瞬で全て台無しだ。
「嫌がってないのに、どうしてそこで落ち込むかな」
結衣はくるっと横を向いて俺の額を突く。
「嫌じゃ…ないのか?」
甘い雰囲気も労りもなくただ一方的に襲われるだけ。男と体を重ねた経験の殆どない結衣にとって、これは許されざる行為でしかないだろうに。
「私も…したかったよ」
蚊の鳴くような声で呟かれた。
「結衣も、したいのか?」
変な意味合いは全く無く、ただ驚いて叫んでしまったのだが、結衣は薄闇の中でも分かるくらい体を真っ赤に染めた。
「馬鹿! おっさん!」
今度は反対側を向いて顔を隠してしまう。怒ってしまったのだろうか。俺はおろおろと背後から腕を回して抱き締めた。
「だって、孝之さん、私の体に興味なさそうだったから」
経験豊富な大人の女の人じゃないと駄目なのかな。そう思い始めたところにエロ姉さんとのいけない現場を目撃したから。
俺が手を出せずにいる間そんなことを考えていたのか。か細い本音に堪らなくなり、俺は結衣の顎を掴んでこちらを振り向かせる。
「まさか今も興味ないとは思ってないよな?」
ぽっと火を噴いて視線を彷徨わせる。何でこんなに可愛い反応をしてくれるかな、この娘は。自分のその一つ一つの仕草にどれほど俺が焦がれているかなんて、きっと想像もしていないんだろう。でもだからこそ謝らなくては。
「結衣、こっちは本当に言い訳のしようがないんだが…。最初だけ避妊をし忘れた」
こんなこと初めてだった。だが冷静さを欠いたとか、勢いに任せたとか、どんなことを口にしても結局自分の落ち度でしかない。責任を取るというのは簡単だが、俺にはよくても結衣が望まない可能性もある。この先の人生を塗り替えてしまうことになるのだから。しかも俺の勝手で変えられてしまった人生が、必ずしも幸せに繋がっているとは限らない。むしろ結衣の夢も希望も摘み取ってしまうかもしれない。
「そっか。まぁ、就職したばかりで産休を取ったら、会社には迷惑をかけてしまうけど」
どんな非難も受け止めるつもりだった俺の耳に、何とものんびりした言葉が届く。産休ということは、仕事を辞めずに出産するということか?
「産む、のか?」
意外な選択に後先考えずに漏らしていた。
「産んじゃ駄目なの?」
結衣が信じられないという表情で目を吊り上げている。枕を振り被られたところで俺は慌てて両手を振った。
「待て、違う、誤解だ!」
一旦枕を取り上げて結衣を宥める。指摘したら怒られそうだが、胸が丸見えなのは気づいているのだろうか。俺としては目の保養になるのでそのままでも構わないんだが。
「一つ訊いてもいいか」
さっとタオルケットに包まった結衣を残念に思いつつ、こちらを睨み続ける彼女に切り出した。
「お前は、その、俺のことが好きなのか?」
「当たり前じゃん」
「そうなのか?」
再び驚いて確認してしまう。それをどう取ったものか、結衣はすっと怒りのオーラを消した。代わりに双眸に浮かび上がるのは悲しみだろうか。
「やっぱり孝之さんは違ったんだね」
責めるというよりは諦めの混じった口調。
「まだどこかで責任を感じてる?」
始まりが始まりだからしょうがないよね、とため息をつく結衣。責任なら喜んで取りたいが、それは結衣が捉えている重荷とか、良心の呵責とは根本的に別物だ。俺はお前を自分のものにする権利が欲しいだけの、ただの傲慢なおっさんなんだよ。
「二度と離さないって、嘘?」
「嘘じゃ、ない」
髪を掻き毟りながらそれだけ絞り出す。情けない。格好悪い。本当はそんな姿晒したくない。けれどここで本音を伝えなければ、おそらく彼女は俺から離れてゆく。
「一目惚れしたんだよ、あの日」
唐突に結衣がふふっと小さく笑った。
「だから同意の上って言ったの。責任を感じて欲しくないからじゃないよ。逃げ出す隙もいっぱいあったしね」
そして初めて結衣から聞かされた彼女の想い。自分との間に起こった出来事をなかったことにしないでくれたこと。咲の妹だから失恋決定だと思い込んでいた自分を迎えにきてくれたこと。気まずいことも多かっただろうに、誰に何を言われてもちゃんと恋人として扱ってくれたこと。
「全部全部嬉しかったんだよ、孝之さん」
ぴたぴたと俺の頬を叩く結衣。その揺るぎない笑顔に俺は観念して目を閉じた。俺の悩みなど全てお見通しだったのだろう。だからこうして自ら俺の元にやってきたのだ。ゆっくり目を開けて結衣の手を握り締める。たぶん一生叶わない。
「どこにも行けないように、ずっと腕の中に囲ってしまいたかった」
きょとんと目を瞬く結衣。あぁ可愛い。食べたばかりだけどまた食べてしまいたい。
「毎日会いたかった、抱きたかった。でもそんなこと言ったら嫌われるんじゃないかと思ってた」
躊躇しつつも少しずつ語り出す。自分の我儘を優先したら、結衣の今後の出会いも仕事での成長も、この先に待っている何もかもを奪うような気がして、それに見合うだけのものを自分が持っていないような気がして、その癖誰にも渡したくなくて、そんなことで悩んでいる情けない自分を知られたくなくて、結局黙っているしかできなかったこと。
「ごめん」
静かに耳を傾けてくれた結衣に、本日二度目の謝罪を口にする。しばらく無言が続いたので不安になって結衣を窺うと、彼女は呆れたように生温い視線を俺に向けていた。
「大人ってほんと面倒臭い」
悟の気持ちがよく分かるとぼやかれて俄かに焦る。何でも悟は自分のプロポーズを渋る咲に手を焼いているらしい。もちろん今すぐのことではなくて、将来の約束を取り付けたいだけなんだそうだが。
「孝之さん、私と一緒に暮らしたいの?」
「はい」
「じゃあお互いの仕事に支障が出ない範囲で、引っ越せば済むことじゃないのか」
俺の手を振りほどいて、黒タイツの芸人よろしくびしっと人差し指を突きつける。
「いや、そうじゃなくて、俺がしたいのは、その、最終的に結婚」
「だったら入籍すればいいだけのことじゃない。式は後でもできるし」
結衣は事も無げに、俺がずっと秘めていた願いを叶える方法を示唆する。
「それとも結婚後は家庭に入って欲しいとか? 私が仕事を持つのは反対?」
「滅相もない」
ぶんぶんとめいっぱい頭を振る。というかまだそこまで考えていない。いやそれ以前にもっと大切な事実が、たった今結衣の口から飛び出したような…。
「結衣、俺と、結婚してくれるのか?」
「今すぐにでも」
結婚もその後の人生も私が決めることだから。どう転ぼうと私次第。誰のせいでもないし、孝之さんが四の五の言うことでもない。そう一本筋を通して。
どこまでも潔い結衣に俺は瞠目した。若さ故に何のしがらみもなく突っ走れる部分はあるだろう。でもそんな自分の信じたままを行く真っ直ぐな結衣だから、俺はきっと惹かれずにはいられないのかもしれない。
「結衣」
最早すっかり夜の帳が下りた寝室で、心から愛しい存在を抱き締める。
「好きだ」
順番が逆になってしまったけれど、万感の想いを込めて。
「遅いよ」
ぷーっと頬っぺたを膨らませているくせに、目元に涙を滲ませているのが分かる。いつまでもこうしていたいのは山々だが結衣には明日仕事がある。離れ難くても仕方がない。本当に今すぐ籍を入れてしまいたい。絶対母親達は小躍りして喜ぶことだろう。
「飯を食いがてら送っていくよ」
名残惜しさを振り切るように起き上がろうとした俺の腕を、何故か結衣がおずおずと掴んだ。
「明日も、休みなの」
「本当か?」
ぎこちない手つきで瞼を擦りながら頷く結衣。その可愛い仕草と明日は休みの一言で、悪いがまたスイッチ入ったからな?
「孝之さん?」
当然のように上に乗っかってきた俺に慌てる結衣。うん。こっち方面だけは俺が主導権握れるな。他は全部結衣だけど。
「ご飯に行くんじゃ」
「その前に夢の世界にイこうな?」
俺が満たされたのと同じくらい、いやそれ以上にお前の心と体も満たしてやりたい。ケダモノにがっつかれて耐えるだけじゃない悦びがあることを、教えてやれるただ一人の男になりたい(ケダモノの自分が言うのも図々しいが)。
「エロおやじ!」
そうして真っ赤になっているであろう結衣の唇は、俺の唇に塞がれて穏やかな暗闇に溶けていった。
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