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無性に

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野上さんのマンションに入り、合鍵を使って扉を開ける。
明かりをつけて回る。玄関だけじゃなく、廊下だけじゃなく、リビングだけじゃなく、

野上さんのマンションは広い。一人暮らしなのに部屋は3つもあるし、そのひとつひとつが広い。
店舗上の実家とはえらい違いだ。

無音の静寂の中にいるのが耐えられなくてテレビを付けた。
録画してある今日の試合を見ることにした。

スコアブックを取り出して、膝の上に広げてまずはスタメン選手の名前を書き込んでいく。

1番セカンド笹野
2番ショート酒井
3番センター朝日

4番DH野上…。

無性に野上さんに会いたくなった。笑って
顔を見ておかえりって言おう。
1球目、ストレート、見逃しストライク
2球目、ストレート、ボール

野上さんの1打席目はツーベース。幸先の良いスタート。
無心になって淡々とスコアを書き進めていく。
泣いちゃったらスコアは書けないから、必死で涙を堪える。

2回、3回と試合は進んで行く。
先制されて、同点に追いついたのは5回。
逆転されたのも5回。
そして7回。7回の攻撃は特別だから、念入りに画面を見なくちゃならない。

…忘れよ。余計な事は考えちゃいけない。

拓郎のバカ!嘘つき!おいでって言ったのは拓郎なのに!今日は来ないって言ったのに!!

違う。拓郎は嘘はついてない。
おいでって言ったのも、恵美さん来ないって言ったのも嘘じゃない。

行かないって決めたのは私。怯んだのは私。
恵美さんみたいに真っ直ぐストレートで勝負出来たら…。

ダメダメ、余計な事は考えない。
それなのにあの日傘を差して座っている恵美さんが頭から離れない。
拓郎に宥められてる恵美さんの姿が離れない。

もし、あのまま家に真っ直ぐ帰っていたら。

再生を止めた。こんな状態ではスコアを書き続けられない。続きは明日にしよう。

キッチンに向かって冷蔵庫を開けた。
きっと野上さんは空港でみんなとご飯を食べて帰ってくる。
それでも何か食べるというかもしれない。
明日に回すことも考えて、漬け込み料理をいくつか作ろう。
オリーブオイルにハーブとスパイス、そこに鶏肉を入れておく。
同じようにお酢と砂糖と野上さんが好きなエビ。
取り出したらすぐ食べられる、焼くだけで食べられるようにしておこう。 

泣かない。絶対に、泣かない。
無心で肉を切って野菜を切った。

野上さんが戻ったのは夜のスポーツニュースが流れる頃。
鍵穴に鍵を差し込む音に弾かれて玄関まで急いで向かった。

「おかえりなさい。」
「…ただいま。」
ギュッと抱きついた。
「…どうしたの?」

なにが?と首を傾げる私を野上さんが抱きしめてくれる。
あー、野上さんだ、野上さんの匂いだ。なのに、
「あー、ユキだ。」
って野上さんが言ってくれる。

ギュウギュウと抱きしめられていると、何かが込み上げてくる。
ここにいても良いんだなぁ、私。
そう思ったらなんか安心しちゃった。
じわりと瞳が緩んだ。

うん?安心?なんだそれ。
あれ?変だ。

泣かない。

「の、野上さん、ご飯食べました?」
「食べたよ。食べたけど、食べたい。」
「プッ、なんですかそれ。」
「ずっと我慢してたから。」

この間別れた時と変わらない野上さんの態度に絡まっていた心の感情が解されていく気がする。
うん?なんだこれ?

「どうだった?フェス。」
「楽しかったですよ、メチャクチャ忙しくって。」
「暑かっただろう?」
「ええ、とっても。」

スッと頭に冷静さが広がった。
「楽しかった。」
嘘じゃないけど、全部じゃない。
拓郎は責められないって気付いたら、頭がスッと冷静になってくる。

私だって野上さんに全てを話せないじゃん。

拓郎の隣で3日間過ごしたことも、拓郎のお陰で少し涼しく過ごせたってことも、今日本当はきしので過ごし拓郎と飲むつもりだった事も…話せないじゃん。

何かがストンと腑に落ちた。
そう、拓郎も恵美さんも悪くない。もちろん私だって。

恵美さんには拓郎の横しか居場所がない。
私にはここがある。

一体何をあんなにモヤモヤしちゃってたんだろう。そうだ、私には野上さんがいる。

「とりあえず、靴脱ぎませんか?シャワー浴びて着替えて来てください。その間に用意しときます。」

そうだ、そう。
私がいるべき場所はここ。

間違えちゃいけない。
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