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温泉旅館

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野上さんが私との食事場所に選んだのは温泉旅館だった。というか食事じゃなかった。

都内から車で2時間程、全国的には有名じゃない、だけど駅名にはなっているから沿線の人は聞いたことがある小さな温泉地に一泊するんだって。

大きな門を車のまま通り抜け、林の中を進んでいく。途中に小さな戸建て住宅みたいな建物が並んで立っていた。
旅館というよりは別荘地、そんな感じがする。

「ここね、誰にも会わずに済むんだって。」
「…誰にも?」

うん、と野上さんは言う。どこか得意気に見えるのがなんだか可愛い。

この間番組で知り合った芸人さんに教えてもらったというこの旅館は、お忍び旅にうってつけなんだそうだ。

ひとつの建物にひと組。チェックインもチェックアウトも従業員にすら顔を見せずに済むらしい。

「…食事は?」
「仕出しと囲炉裏があるんだって。」

全ての建物に囲炉裏がある座敷があり、露天風呂が備え付けられている。食事は本館から届けられるんだって。シェフや従業員が来て火を入れてくれたり簡単な調理をしてくれたりもするらしいけれど、断ればそれもない。

この宿のことを説明してもらっているうちに、野上さんはあるひとつの建物に車を横付けた。目印になるのは小さな白い看板に塗り分けられたマークだった。
紫の桔梗のマーク、野上さんが見せたスマホには同じマークとバーコードがスクショされていた。

車を降りて、読み取り機にスクショをかざすと、ピッという音に続いて開錠された音が聞こえた。
これでチェックインの合図なのだという。

「どうぞ。」
まるで自分の家のように野上さんが扉を開けてくれる。黒い御影石が敷かれた三和土の奥に格子の引き戸が見えた。

「お邪魔します。」
と私もまるで野上さんの家に招待されたみたいな気分で、一本足を踏み入れた。

わあ、綺麗。凄いなぁ。
野上さんとキョロキョロと室内を見まわした。
雰囲気の良い落ち着けそうな和モダン風だ。

廊下を進むと右手にキッチンとダイニング。ダイニングテーブルは真ん中をくり抜いた囲炉裏になっていて、まだ燃えていない炭が積み上げられていた。
ダイニング左手奥にリビングがあり、ソファーセットが置いてある。窓はよくある旅館のように障子とガラス戸の二重サッシになっていて、その外は今は見えない。

「へえ、本当に誰にも会わずに済むんだなぁ。」
と野上さんも感心しきり。

ムクムクと好奇心が湧き上がる。
ここなら誰に咎められる事なく、2人で過ごせる!!

「お風呂、見たいです!!」
「どこで寝るんだろう…?」

2人で顔を見合わせてニンマリと笑い合う。

「するか?探検。」
「します!!」

バタバタと部屋中の扉を開けて廻る。

寝室とお風呂は2階にあった。

「うわ…広い。」

大きなひと間にセミダブルのベッドが2つ並んでいて、その奥が畳敷の小上がりになっている。
そしてその向こうが大きなバルコニーになっていて…露天風呂になっている!!
もちろん部屋風呂もある。
外から見られないように板塀の囲いこそあって、その向こう側の景色は全く見えない。
それでも大きなバルコニーの開放感は凄まじく、箱庭チックに植栽も整えられていて、雰囲気は抜群!!

「ここ、高そうですけど…。」
「それは気にしないで、誕生日のプレゼントだから。」
ゴクリ、と唾を飲み込んだ。

「あ、ありがとうございます。」

気に入ってくれた?と聞かれて、うん、と頷いた。
野上さんは漸くホッとしたように息を吐いて、笑顔を見せてくれた。

「せっかくだから楽しもう。」

ここで楽しむというのなら。
とりあえず…お風呂でしょう?
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