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お迎え

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健太と慎介のところに座ったものの、私がそこにいつまでも座っていられるはずもなく。
宴会席で纏めてドリンクのオーダーが入った時にスッと席を立って仕事に戻った。

チラリカウンター越しに見える流し台に拓郎の姿はなかった。
きっとまた電話をしているんだろう。
洗い物…良いや後回しにしよう。

「えーと、ビール3、ウーロンハイ、柚子サワー…っと。」
伝票を確認してトレーにグラスを載せていった。

「ユウ大丈夫?なんかごめんな。」
「な、なんで芳ニイが謝るの?」
「一応、家族だから。」
「気にしてない。大丈夫。」

さっき、拓郎の彼女の恵美さんがお店に電話を掛けてきた。
直接拓郎のスマホじゃないって事はきっと拓郎は電源を切ったか、マナーやサイレントにして放置したかだ。

大きな野球の試合がある日だ、拓郎がいる場所の見当は簡単につく。だから恵美さんはお店の番号に電話を掛けたんだ。

恵美さんは営業中にお店に電話を掛けてくる事を家族が嫌がるってわかってる。岸野のおばさんはともかくおじさんは忙しいからと話しさえも聞かずに電話を切ってしまうことさえもある。
それでも恵美さんは拓郎を探し続けてしばらくするとまた電話を掛けてくる。

…だから拓郎は慌ててスマホから電話を掛け直さなきゃならない。
恵美さんが満足するまでずっと電話で話し続けなきゃならない。
でないと恵美さんは何をするかわからない。

今日の拓郎はもうきっとここには戻っては来れない。
身体はすぐそこにあっても、拓郎の気持ちが戻っては来ない。
恵美さんのところへ帰れば良いのに、今日の拓郎は帰らない。
嫌な兆候だ、としか思えなくて私の心が沈み始める。

わあー!とお店の中に歓声が上がった。

「うわー、見逃した!!」
芳ニイの手が止まり、テレビ画面に釘付けになった。
逆転サヨナラホームランを打ったセリーグの本塁打王がガッツポーズをしてダイヤモンドを駆け抜けて行った。
ホームベースの周りに選手達が集まっていて、戻ってきたバッターを囲んで抱き合って笑っている。

「最悪、連勝じゃん。4タテとかやめてくれよ。」
最長7戦、全てイベントデーにして一儲けしようと考えている芳ニイにとって、片方だけが勝つ事は避けたい。違うか、少しでも長く今シーズンを楽しみたいんだ。

「さあ、もう一回転!ユウ、頼むな。」
「はーい。」

振り向くと既に立ち上がってスーツのジャケットを着込み始めたテーブルがあった。
うちのひとりと目が合うと、
「おあいそ、いい?」
と声が掛かる。
はーい、と答えて、慌ててレジへと駆けていく。
野球ファン民族大移動が始まった。

閉店して全ての洗い物を済ませる頃、野上さんの家に戻れる手段はない。
久しぶりに実家に泊まる…と思ったのに。

お店の勝手口から外に出ると、野上さんが立っていた。
「…どうしたんですか?」
「小梨がここにいるって教えてくれた。
多分帰れないし、疲れてるだろうから迎えにきてやって、って。」
「優希!!」
お店の扉がガラっと開いて、背中の方で私を呼ぶ拓郎の声がした。

瞬間、野上さんが私の腕を掴んだ。
取られた腕はそのままにして拓郎の方へ顔だけを向ける。

「拓郎?どうしたの?」
「…今日はありがとう。それから…ごめん。」
「拓郎が悪いんじゃないよ。」
「…でも。」

拓郎が悪いんじゃない。だけど結局拓郎はあれからずっと恵美さんと電話をし続けてた。
健太や慎介達とは、
「じゃあ帰るなー!」
「おう、またな。」
の1ターンの会話だけで、2人は呆れた顔を隠さずに帰っていったのに。

そこで野上さんがグッと私を引き寄せた。
「話はそれだけ?ごめんまた路駐してるんだ。」
「あ、ごめんなさい。拓郎、もう行かなきゃ。」

うん、拓郎はそう言って、
「おつかれさん、気をつけてね。」
とだけ言って、店の中に戻ってしまった。

…本当にそれだけ言いたかっただけだったのかな?

引き戻されそうな私を野上さんが、
「行こう!」
と促してサッサと歩き出す。
私は仕方なく野上さんに腕を取られたままついていくしかなくなった。

「仕事だったのに、ごめんなさい。」
「ちゃんと終わらせたから大丈夫。」

…でも。

投手戦で比較的に試合時間は短めだったかもしれないけれど、試合が終わってからまだそんなに時間は経っていない。
球場からここまで真っ直ぐに来てくれたとしても…きっとどこかで何か無理をさせたと思う。

こうやってワザワザ時間をやりくりして私に手間を掛けてくれる人はあんまりいないから。
それはとっても嬉しいけれど、それよりも申し訳なく思った。
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