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だから

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ゆっくりと階段を降りて行った。
上り口で脱ぎ捨てた靴を履いていると、マコ姉が側にやってきた。
「話した?」
「うん。」
おつかれ、っと頭を子供のように撫でられた。
ツンっと涙ぐみそうになるのを、
「お腹すいた。」
と誤魔化した。

「芳兄!唐揚げ食べたい!!今日は死ぬほど食べたい!」
カウンターの奥にいる熊みたいな芳兄さんに向かって叫びながら、マコ姉から逃げるようにカウンターに座り込んだ。

既に用意してあったのだろう、私専用の茹でたブロッコリーを差し出しながら、芳兄は、
「拓郎は?」
と聞いた。

「少し寝るって。」
「そう、なるべく早く帰っちゃいな。唐揚げは持って帰りな。」
「うん。そうする。どうせ野上さん飲めないし。」
「ああ、そうだな。この雰囲気の中ひとり素面は辛い。」

芳兄は喋りながらも手は止まらない。手際よく料理を作りながら、テイクアウト用の容器に料理を詰め込んでいく。

「つくね、食うか?」
「うん、野上さんが。」
「じゃあ、タレ付きな。」
「芳兄、グレープフルーツ食べたい。」
「ありゃ、サワー用だ。」
そう言いながら芳兄は野菜庫を開けて、グレープフルーツを2つ取り出してくれる。

ここにも、私を泣かせに掛かり私を甘やかしたい人がいる。優しいおにいちゃんだ。
良かった。拓郎はきっと大切なものをひとつ取り戻した。

健太と慎介達と楽しそうに笑っていた野上さんと目があった。
立ち上がって野上さんの方へ歩み寄る。
野上さんは隣の椅子に置いてあったコートを手繰り寄せて、私の席を作ってくれようとしたけれど、ゆっくりと首を横に振った。

「ユキ?」
「…帰ろう?」
「話はもういいの?」

心配そうに座ったまま私を見上げた野上さんに、うん、と頷いた。
「…終わったから。帰ろう?」

野上さんはゆっくり立ち上がって、
「帰ろう。」
と言ってくれた。

昼間は暖かい日も夜になると空気は冬っぽく冷たいものに変わってしまっていた。灯りが消えてシャッターが降りた商店街を2人で無言で歩いた。

何を話したの?とか聞いてこない野上さん。
健太達とどんな話しをしたの?

…話すなら、私の方なんだろうな。

「野上さん、あのね、聞いて欲しい事があります。」
「うん、聞くよ。」

うまく話せるかわからないけど、と前置きをして、私は今の気持ちを話し始めた。

「拓郎に、「嘘つき」と言われました。」
「なんで?」
「野上さんと別れるって言ったのに、って。」
「別れるよ。ただ今じゃないだけ。」
ええ、そう言いましたね。そして私も拓郎にそう伝えた。

「…拓郎、お見舞いに行ってるんです、毎日…。責任取らなきゃ、って。」
「うん。」

野上さんが私の手を掴んだ。大きなゴツゴツとして掌でギュッと力強く握られて、私と野上さんは手を繋いで歩いた、

「行かなきゃ良いのに、って思ってしまう意地の悪い私がいます。」
「うん、わかるよ。」
「でも、行かない拓郎は私が知ってる拓郎じゃない…。」
「…そうなんだ。」
「…そして私は後回しに出来る存在なんです。」

そう、私はいつだって後回し。
鉄の掟に逆らってまで私とどうにかなろうとは拓郎は思ってなかった。
新しい仕事に忙殺された時も。
恵美さんとお付き合いを始めた時も…。
拓郎が何よりも私を優先してくれるのは、私がフラれた時だけ。
それだって束の間…。
拓郎はいつだって恵美さんの所へ行ってしまう。
私に背中を向けてしまう。

「これから恵美さんと拓郎は治療をしながら少しずつ適切な距離に落ち着くんだと思います。
恵美さんに禁じられた事を少しずつ拓郎は取り戻したいんだ、って。
でも、私は最後になると言われました。
何年掛かるかわからないし、取り戻せるかもわからない、って。」

「恵美さんが最後まで手放さないからじゃなくて?」
「そうかもしれません。でも私は…それは恵美さんに寄り添った拓郎の答えだと思う。
わたしに寄り添ってくれるなら、きっと一番に私を取り戻そうとしてくれる筈…。

だけど、待ってるって言いました…待っててあげないと、拓郎諦めちゃうから。

拓郎は初めは私と付き合うために恵美さんと別れようとしていたけれど、いつのまにか恵美さんと距離をあけるために私との事を口実にするようになったんじゃないか、とそう思うようになりました。」

うん、と野上さんが頷いてくれたから、私の見立ては間違ってはいないと自信が持てた。
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