牡丹への恋路

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①回顧

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 目が覚めたとき、強面が泣きじゃくるという魔訶不識な状況に困惑したことを今でも鮮明に覚えている。

 ――それから二十二年。





「丸山さん、これコピー宜しく」

「…はい、わかりました」



 相手の顔も見ず紙束を渡す上司に軽く会釈を返しコピー機に向かう。

 気付かれることなく溜息を吐き、この後の楽しみを思い出しやり過ごす。

 背中に聞こえる影口はいつも通り。

 ――地味。存在が薄い。召使い。

 それの何が悪いのか。周りには一切迷惑をかけてはいない、といつも通りに聞き流した。

 指示はされていないが必要であるだろう部数を印刷し終えコピー機の音が止む。

 それに合わせたように終業のベルの音。

 紙を揃え来た道を戻り、未だデスクと睨み合う上司の旋毛に向かい声をかける。



「部長、コピーできましたのでお先に失礼します」



 そこで声の主の存在に気付いた男が顔を上げ怪訝な表情を向ける。



「…あぁ、お疲れ」



 会釈をし帰り支度を整え退勤のIDを切ると、いつも通りに囁かれた。



「同じ女として恥ずかしくなる」

「もう少し愛想がよくて身なりを整えれば貰い手だってあるだろうに」



 平凡な会社の平凡な人たちにも同情されるような身なりの私は一般的な社会のカーストで言えば下の下なのだろう。

 でも、そんなこと知ったことではない。

 そして現実もそう甘くはない。



「…私の何を知っている」



 ぼそりと心の内が漏れ出るが、それを聞き取る者はいない。





 カランカラン。





 週末の帰り道。聞きなれたドアベルが鳴り扉を開く。



「おかえり、らんちゃん」



 嗅ぎなれたアルコールと煙草の紫煙が私を包む。

 落ち着いた間接照明と磨かれたカウンターに光が反射し、都会の夜のお店だと認識させる。



「ただいま、ママ。今週もやっと終わったよ~」



 重い足を動かし、少し高いカウンターの椅子に腰を落とすと、何も言わずともいつもの一杯が差し出される。

 雫のつくグラスで手が冷やされ口に運ぶとミントとライムの香りが鼻孔を爽やかに駆けていく。

 疲れた体に程よい甘めのアルコールがそのカクテルの名前のように乾いた心を潤していく。



「くぅ~ママのモヒートが世界一美味しい!!最高!!」

「あら、褒めても安くできないわよ。今週もお疲れさま」



 甘いアルコールと低いバリトンボイスが安らぎをくれる。

 この場所が私の週末の癒しの場。

 そして“本当”の私でいられる場所だ。



「月末だったからいつもより事務処理が多くて肩凝っちゃった。でも今週もママに会えたから疲れなんて忘れちゃうよ」

「本当にあんたって子わ。可愛いこと言ってくれるわね♡」



 成人女性よりはるかに逞しく低い声。

 見た目は美人のママだがお察しの通りここは繁華街の裏にひっそりと佇むミックスバーだ。



「しかし、少しは髪の毛どうにかしたら?とっちらかってるわよ?堅気の人間だって少し位は気を遣うわよ」

「だって美容院とかめんどくさいじゃん?いちいちどうでもいい話ふってくるし、話す気ないオーラ出してもコミュ取ろうとしてくるし。嫌いなんだよ」

「じゃ、少しはお風呂上りにオイル塗るとかすればいいじゃない。逆に目立つわよ。この面倒くさがり屋」

「そうですよ~私は面倒くさがり屋ですよ~だ」



 他愛もない話をしながら時間を過ごす。

 つくろう殻がはがれ本来の自分が現れはじめる。



「藍ちゃんは何もしなくても綺麗だよ。見る人が見ればわかる」

「司さん!こんばんは!」

「あら、浮気かしら?」

「君以外は恋愛対処になり得ないことはわかっているだろ?」



 人の視線も気にせずイチャ付き始めたこの二人を見つめぼやく。



「口から砂糖吐くほどラブラブ夫夫ですねぇ~うらやまし」

「ママが堅気になれたのは僕のおかげだもんね♡」

「そうね、ダーリン♡感謝してるわ♡らんちゃんも羨むくらいだったら早く恋人でもなんでも作っちゃいなさいな。出自のわりに臆病すぎるのよ」

「出自が出自なだけに慎重になるんですよ~だ」

「案外どうにでもなるものよ?私たちみたいに、ね♡♡」



 はいはい、と生返事を返しながらグラスを傾け今の自分を見つめ返す。



 六歳で両親と産まれてくるはずの弟を亡くし身寄りのない私は絶縁状態だったはずの母方の祖父の家に引き取られた。

 そこは一般的な家庭とはほど遠く住む世界が一転した。



 黒塗りの高級車にただただ広い屋敷。

 スーツに身を包む強面の体躯のいい男たち。

 時折訪れる女性たちは私の知っていた女性像とは違い妖艶で甘い香りを身にまとう人たちだった。

 幼心にも理解できる異様な環境に膝を抱え静かに泣いていた日々。

 陽だまりの香りが懐かしいと人肌が恋しいと思う日々。

 母が作る温かな素朴な味噌汁が恋しかったことを覚えている。

 子供向けの記念日の豪華な食事、ぬいぐるみにドールハウス。

 子供の扱いに不慣れな者たちが考え付く限りの施しを与えてはくれていたが、心が満たされることはなかった。

 異様な環境の中で順応しようとしても子供の限界はすぐに訪れ笑えなくなっていった。

 見かねた祖父が与えたのは、素朴な家と一人の青年。



 その出会いが私の原点になる。

 

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