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忘れ物みたいな言葉

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 茉宵があんまりにまっすぐな、痛いほど切実な瞳で言う。

「みんなが良いところと悪いところを持っているなら、どこからが本当に悪いのかを決めないと、善悪は概念そのものが暴力になっちゃうんですね」
「もともと、暴力みたいなものじゃないか。善悪の概念なんて」

 僕の反論は形骸化していた。頭の中では、彼女の話を理解していたのだ。

「それでも、無いと困るんスよ。ルールに則った暴力が格闘技と呼ばれるように、善悪の区別にもルールが必要です」

 ざあ、と風が木の葉を薙いでいく。
 木漏れ日の中で揺れるワインレッドの髪を抑えて、茉宵はすべてに満足した笑みを浮かべた。

「残念なことに、アタシにはそれをするだけの時間がありません。そして何より、答えを見つけたことで、アタシの理想は叶ってしまいました」

 ちょうど初めてキスをした時と同じ場所が痛んで、それで僕は泣きそうになる。
 痛みには耐えていられた。だから枯れた涙を求めるこの気持ちは、死んでいく僕らへの悲しみと、手遅れな喜びで出来ている。

「誰かが少しでも他人を思いやることで、確実に世界は優しくなります」

 茉宵の瞳は、夏から移ろう季節を映していた。
 初めて出会った梅雨のように、目的と手段を履き違えた危うさはない。凪いだ木陰ほどに穏やかな音階が、僕の鼓膜を優しく揺する。

「『ああもう死ぬんだ』って絶望した聖人が祈りを止めるのと同じように。悪魔みたいに残虐な虐殺者が、自分を看取ってくれる人に『ありがとう』と伝えることだってあると思うんスよ。
 純粋な優しさじゃなくても、例えばそれが殺意の籠もった恋でも。人は最終的に、誰かに優しくしちゃいます。そうなるように出来てるんスよ、きっと」

 それは結果論的で、どこか救いのない半透明な優しさだった。
 少なくとも、みんなが求めるような優しさとは違う。けれど僕はそれでいいと思った。だから、手を握った。

「なんだ。見つかったんじゃないか、優しい世界」
「でも困ったことに、忘れ物があるんスよ。あなたに伝えるはずで、あの日に伝えきれなかった、いちばん大切な言葉が」

 茉宵の指が僕の指と絡まって、その手の冷たさに驚く。
 顔を上げると、すぐそばに朱染めの頬があった。

「ねぇ、晴悟くん。今から言うことには、まだ応えないでくださいね」

 視界の端で、八月が暮れていく。
 ぐわんぐわんと響く蝉時雨が、夕暮れの影を伸ばしている。くらりと揺れる僕の意識に、柔らかな声が鈴を打つように響いた。

「アタシ、幸せでした。晴悟くんを好きになれて」

 仄かに色づく頬は、僕を殺す猛毒の色をしている。
 意識を溶かすほどの蒸し暑さの中で、白くきめ細やかな肌だけが雪を思い出させる。

「晴悟くんのこと以外、何もかも満足しちゃってるくらいに、好きです。大好きなんです」

 晴れた日の水面みたいに明るい顔で、茉宵が僕に笑いかける。
 鉄くさい血液と、それが連れてきた微かな酸味が口腔を染めていく。愛情を言葉にして返さなくても、結晶は臓器を蝕むようになっていた。
 柔らかな線を描く真宵の体が、僕の胸にしなだれかかってくる。

「でも、もうじき会えなくなっちゃうじゃないスか。だから、埋め合わせがほしいんです」

 風が死んで、セミの声が一瞬途絶える。白いシャツの上で揺れていた木漏れ日が、その揺らぎを止める。
 静寂の隙間に、優しい声音が零れ落ちた。

「もっと生きたいと思っちゃうような晴悟くんとの時間を、アタシにください」

 囁く程度の小さな声でも、その頬は僕の胸に触れていたから、聞き違えるはずはなかった。
 僕はうなずいて、胸元の熱を抱きしめる。

「お安い御用さ。今度こそ君を殺してやるよ」

 死が当たり前の人生だった。
 吐く息の一秒一秒が奇跡の連続だった。
 だったら奇跡のついでに、彼女の願いを叶えてみたっていい。

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