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25mプールの怪物
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暦の上では夏に入ったのだと、廊下ですれ違った誰かが言っていた。
どこを見ても山は霞んで、割れたアスファルトの隙間にはいつも水溜まりができている。そんな季節だ。夏は名ばかりだった。
雨の学校に呼び出された僕は、梅雨の小雨に濡れて早々にやる気を失っていた。
「アタシ、梅雨って結構好きなんスよ」
聞いてもいないのに、氷雨は楽しそうに話した。
「水面に落ちた雨の波紋なんて、いつまでも眺めてられますから」
「なるほど、綺麗なものが好きなんだな」
僕は梅雨が嫌いだ、とは言わなかった。
髪の毛が湿気で跳ね返るし、踏み締めるたびにぐちゅぐちゅと鳴く地面だって不快で仕方がない。
それでも氷雨がそれを好きと言うのなら、理解を寄せるに越したことはないだろう。
「よぎセンは違うんスか?」
「僕は……そうだな」
階段を降りながら、考えてみる。
綺麗なものはきっと誰だって好きだろう。
ただ僕にとっては綺麗であることよりも、物事が廃れていくことの方が大切だった。ただ綺麗なだけのものは釣り合いが取れていないような気がして、不安になる。
「葉桜とか入道雲とか、ヒグラシの鳴き声とかの方が好きだ。そういう意味では、僕は夏が好きなのかもしれない」
新緑は褪せてヒグラシは死に、呑気な積乱雲の中では粗野な雷が暴れまわっている。それらもいずれは褪せてしまう。
愛結晶も同じだ。それが人の死から摘出された呪いだと知らなければ、手に取って陽にかざす人だっているだろう。
すべてのものには裏があると考えたほうが、まだ安心できる。
「意外と、詩人なんスね」
「だといいな。ただ好きなものを好きと言っただけだ」
氷雨がにししと笑ったところで、隣から足音が消えた。
「アタシ、更衣室で着替えてきますねっ」
「ああ、ここで待っておくよ」
「あっざーす」
出てきた時に氷雨一人だと顔を出しづらいだろう。
更衣室横で待っていると、先に来ていた若が男子更衣室から顔を覗かせた。
「よう、ピエロ」
「やあ、ウブ野郎」
「殺されてぇか」
「やれるもんならね」
挨拶もそこそこに、僕らは並んで窓外の小雨を眺めていた。
雨は当面降りそうにない。この調子では、プール清掃は予定通り決行されるのだろう。
どっち付かずの曇り空を眺めていると、若が尋ねてきた。
「お前、ジャージで学校来たんか」
「そりゃ今謹慎中なんだし。制服着る必要ないでしょ」
「明後日から登校して良いとよ」
若がふて腐れたように言った。僕は溜め息を吐く。
「それ、若の冗談じゃなかったのか」
「俺がいつ男に冗談飛ばすようになったよ」
「さあ、君のポリシーなんて興味ないけど」
氷雨が帰った直後のこと。若から掛かってきた電話で、僕は氷雨の言葉の意味を理解した。
減刑は嘘じゃなかった。氷雨が事の経緯を説明したことで、僕たちの罪には情状酌量の余地が生まれたらしい。
「まさか、暴力が正当化されるとはね」
「されてねぇからせっかくの休日に学校いんだろ」
僕がつぶいて、若が悪態を吐く。
直後聞こえてきた声は氷雨でも教師のものでもない。聞いただけで背筋が跳ねる、僕らの「天敵」の声だった。
「今日フツーに平日やけどなぁ、礼?」
逃げ出そうとする若の襟を掴む。
ゆっくりと顔を向ける。それから僕は、極めて友好的に笑みを浮かべた。
「やあ芽衣花、元気?」
「ヤニクラ」
ただそれだけを、ひどく気だるげな声で芽衣花は答える。
僕を黙らせるには、無意識であれ的確すぎるボディブローだった。芽衣花にタバコを渡したことは、出来れば若に知られたくない。
「申し訳ないです」
僕が引き下がると、何も知らない若が食いつく。
「お前もう放課後だろ。さっさと帰れよ」
「言われんでも帰るし。アンタらの掃除監督が終わったらね」
これはサボれない。僕は即座に悟った。
意図が読めない若が言い返す。
「別に頼んでねぇよ」
「アンタに頼まれたとしてもやらへんよ」
「じゃあ誰が頼んだんだよ」
「先生ですけども」
「先公なんぞにパシられてんなよ」
「アンタが喧嘩なんかせんかったら私もパシられんで済んでんけどねぇ!」
その辺りで勘弁してほしい。
仲裁に入ろうとしたところで、誰かに背中をつつかれて僕は振り返る。
体操服に着替えた氷雨が僕を見上げていた。
「あの、どーゆー状況ッスか、これ」
「怒られてる」
「うんでしょうねえ」
氷雨が僕の背に身を隠して言った。
「アッシ、ヤンキー先輩が怒られてんの初めて見ました。あの綺麗な人誰スか?」
「笠原芽衣花。あの若も幼馴染みには頭が下がらないってことさ」
「ほぇ~」
南米の珍獣でも見るような好奇心に、氷雨の瞳が輝く。
しばらくして、その目は僕に焦点を当てた。
「もしかして、よぎセンもなんスか?」
「掃除行こう。僕、早く帰りたい」
「えっ、図星なんだ……」
氷雨が見つめる先で、二人の口論はプールサイドにつくまで続いた。
どこを見ても山は霞んで、割れたアスファルトの隙間にはいつも水溜まりができている。そんな季節だ。夏は名ばかりだった。
雨の学校に呼び出された僕は、梅雨の小雨に濡れて早々にやる気を失っていた。
「アタシ、梅雨って結構好きなんスよ」
聞いてもいないのに、氷雨は楽しそうに話した。
「水面に落ちた雨の波紋なんて、いつまでも眺めてられますから」
「なるほど、綺麗なものが好きなんだな」
僕は梅雨が嫌いだ、とは言わなかった。
髪の毛が湿気で跳ね返るし、踏み締めるたびにぐちゅぐちゅと鳴く地面だって不快で仕方がない。
それでも氷雨がそれを好きと言うのなら、理解を寄せるに越したことはないだろう。
「よぎセンは違うんスか?」
「僕は……そうだな」
階段を降りながら、考えてみる。
綺麗なものはきっと誰だって好きだろう。
ただ僕にとっては綺麗であることよりも、物事が廃れていくことの方が大切だった。ただ綺麗なだけのものは釣り合いが取れていないような気がして、不安になる。
「葉桜とか入道雲とか、ヒグラシの鳴き声とかの方が好きだ。そういう意味では、僕は夏が好きなのかもしれない」
新緑は褪せてヒグラシは死に、呑気な積乱雲の中では粗野な雷が暴れまわっている。それらもいずれは褪せてしまう。
愛結晶も同じだ。それが人の死から摘出された呪いだと知らなければ、手に取って陽にかざす人だっているだろう。
すべてのものには裏があると考えたほうが、まだ安心できる。
「意外と、詩人なんスね」
「だといいな。ただ好きなものを好きと言っただけだ」
氷雨がにししと笑ったところで、隣から足音が消えた。
「アタシ、更衣室で着替えてきますねっ」
「ああ、ここで待っておくよ」
「あっざーす」
出てきた時に氷雨一人だと顔を出しづらいだろう。
更衣室横で待っていると、先に来ていた若が男子更衣室から顔を覗かせた。
「よう、ピエロ」
「やあ、ウブ野郎」
「殺されてぇか」
「やれるもんならね」
挨拶もそこそこに、僕らは並んで窓外の小雨を眺めていた。
雨は当面降りそうにない。この調子では、プール清掃は予定通り決行されるのだろう。
どっち付かずの曇り空を眺めていると、若が尋ねてきた。
「お前、ジャージで学校来たんか」
「そりゃ今謹慎中なんだし。制服着る必要ないでしょ」
「明後日から登校して良いとよ」
若がふて腐れたように言った。僕は溜め息を吐く。
「それ、若の冗談じゃなかったのか」
「俺がいつ男に冗談飛ばすようになったよ」
「さあ、君のポリシーなんて興味ないけど」
氷雨が帰った直後のこと。若から掛かってきた電話で、僕は氷雨の言葉の意味を理解した。
減刑は嘘じゃなかった。氷雨が事の経緯を説明したことで、僕たちの罪には情状酌量の余地が生まれたらしい。
「まさか、暴力が正当化されるとはね」
「されてねぇからせっかくの休日に学校いんだろ」
僕がつぶいて、若が悪態を吐く。
直後聞こえてきた声は氷雨でも教師のものでもない。聞いただけで背筋が跳ねる、僕らの「天敵」の声だった。
「今日フツーに平日やけどなぁ、礼?」
逃げ出そうとする若の襟を掴む。
ゆっくりと顔を向ける。それから僕は、極めて友好的に笑みを浮かべた。
「やあ芽衣花、元気?」
「ヤニクラ」
ただそれだけを、ひどく気だるげな声で芽衣花は答える。
僕を黙らせるには、無意識であれ的確すぎるボディブローだった。芽衣花にタバコを渡したことは、出来れば若に知られたくない。
「申し訳ないです」
僕が引き下がると、何も知らない若が食いつく。
「お前もう放課後だろ。さっさと帰れよ」
「言われんでも帰るし。アンタらの掃除監督が終わったらね」
これはサボれない。僕は即座に悟った。
意図が読めない若が言い返す。
「別に頼んでねぇよ」
「アンタに頼まれたとしてもやらへんよ」
「じゃあ誰が頼んだんだよ」
「先生ですけども」
「先公なんぞにパシられてんなよ」
「アンタが喧嘩なんかせんかったら私もパシられんで済んでんけどねぇ!」
その辺りで勘弁してほしい。
仲裁に入ろうとしたところで、誰かに背中をつつかれて僕は振り返る。
体操服に着替えた氷雨が僕を見上げていた。
「あの、どーゆー状況ッスか、これ」
「怒られてる」
「うんでしょうねえ」
氷雨が僕の背に身を隠して言った。
「アッシ、ヤンキー先輩が怒られてんの初めて見ました。あの綺麗な人誰スか?」
「笠原芽衣花。あの若も幼馴染みには頭が下がらないってことさ」
「ほぇ~」
南米の珍獣でも見るような好奇心に、氷雨の瞳が輝く。
しばらくして、その目は僕に焦点を当てた。
「もしかして、よぎセンもなんスか?」
「掃除行こう。僕、早く帰りたい」
「えっ、図星なんだ……」
氷雨が見つめる先で、二人の口論はプールサイドにつくまで続いた。
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