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善人なんていやしない

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 氷雨茉宵、と少女は名乗った。
 色の違う鍾乳石を組み合わせたような、美しい名前だと思う。
 お礼と先日の謝罪を込めて綺麗な名前だと伝えると、彼女はまた「にしし」と笑った。その顔があんまりにも毒気のない綺麗な笑顔だったから、僕は少なからず面食らう。

「センパイだったんスね、人殺しのおにーさん」
「そうだな」
「てか手。それ腫れてないっスか?」

 曇った氷雨の目線に手を見れば、蹴られた右親指が紫に変色していた。じくじくと鼓動するような痛みが、遅れて骨を締め付ける。

「……なんてことない。慣れてる」
「慣れてても治せるなら、ちゃっちゃと治しときましょーねー」

 気にする素振りを見せない僕を、氷雨の手がつかむ。
 痛めていない左手を包む彼女の手のひらは、冷たい名前とは真逆の温もりを伝えてくる。

「どこに?」
「そりゃ決まってるっしょ。保健室っスよ」

 何でもないような口調に手を引かれて、勝手口から校内へ。換気の甘い廊下の湿気が、むわりと僕の頬を撫でつける。

「ほっとけよ、そこまでする義理はない」
「確かにそっスね~」

 ふわふわと笑いながら、それでも彼女は足を止めなかった。大人しく従った方が得策らしい。
 冷静を努めて、保健室で手当てを受ける。その間も氷雨は、ずっと僕の後ろにいた。

「何が目的だ? 頭のおかしい人殺しなんか助けて」

 包帯の巻かれた手をぶら下げながら、氷雨を連れて廊下を歩く。
 手当ての済む頃には、昼休みには忘れ物じみた時間しか残されていなかった。

「目的なんかないっスよ~。だってセンパイ、困ってたっぽいじゃないスかー」

 ニヨニヨと気の抜けた笑顔が隣を歩く。
 仄かに赤の混じる長い髪に、透き通ったヘーゼルの瞳。ツンと通った鼻筋と春色の唇は、直視を躊躇ってしまうほどに美しい。
 垢抜けて少し不良にも感じる印象を、スラリと延びた背筋が打ち消していた。

「ハッ! もしかしてそーゆープレイ……。お邪魔しちゃったっスか?」
「いえとっても助かりましたありがとうございます」
「ふふん、精々感謝だけしてください」

 氷雨が胸を張る。僕はとっさに目を逸らす。
 どれだけ考えてみても、この一年生が僕を庇った理由がわからない。

「まあ、なんにせよまた助かった」

 疑う代わりに、素直に感謝しておく。湿布と包帯に巻かれた大袈裟な右手は、ポケットに入れたまま。
 氷雨が雨も知らないような顔で笑う。

どいたまどういたしましてっス~」

 もしかすると、打算なんてないのかもしれない。
 自分の気の向くままに誰かを助けて、テキトーに暇をつぶすだけ。気紛れのような親切心を振りまく利他主義を、僕は優しいとは思わない。
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