上 下
75 / 85
卒業

75話 MV制作①

しおりを挟む
 それから数日が経ち『PHANTOM CALLINNG』のMV撮影当日になった。

「大丈夫、藍。眠くない?」

「眠いのは眠いですけど……それより緊張の方がヤバいです……」

 時刻はまだ早朝の5時だった。スタジオに集合したメンバーも皆流石に眠そうだった。
 今回の『PHANTOM CALLINNG』のMV撮影日は今日しかスケジュールが割り当てられていない。何が何でも今日中に撮影を終えなければならないのだ。
 メンバー皆明日は別の仕事の予定が詰まっており、一堂に会せるのは今日しかないからだ。だからこうしてまだ日の昇り切る前のこの時間に集合しているのだ。

 ちなみにMVの撮影は1日ないし2日といった短期間で行われることがほとんどである。数多くいるメンバーのスケジュールを合わせるのが難しいというのも一つだが、ロケ地やスタジオの都合、監督やスタッフの都合を合わせられるのも短期間しかないからだ。
 短期間の撮影のためトラブルのたぐいの話は際限がない。
 事前のイメージでは快晴のシーンだったものが、当日の天候が悪くそのシーンに合わせていったらMV全体のイメージがガラリと変わってしまった……なんていう話も聞いたことがある。
 その他にも、ふざけて言ったアドリブの台詞がそのまま採用されたり、という話も聞いたことがあるし、ダンスシーンをよくよく注意して見たらズレていた・振りが全然違っていた、なんていうのはかなり頻繁にあることだ。
 しかし不思議とそういったシーンの方がファンの人の心を掴んだりするものだ。



「大津監督、入られます!!!」

 1人の男性スタッフの大声が響くと現場には一斉に緊張が走った。
 メンバーたちも眠たげだった眼を見開き、声のした方向に注目する。
 やがて1人の小柄な男性がひょこひょこと歩いてきた。

「おはようございます!」「おはようございます!」「おはようございます!」

 スタッフの声につられるようにメンバーたちも挨拶をする。

「や、皆さんおはようございます。朝早くからごめんねぇ、監督の大津です。よろしくお願いします」

「「「よろしくお願いします!!!」」」

 登場したのは大津晶おおつあきら監督。
 元々は映画監督である。数々の輝かしい受賞歴を持っておりその実績は巨匠と呼ぶに相応しい存在だ。
 御年は70近いそうだが現在も映画を製作中とのことで、その創作意欲はまだまだ衰えることを知らない。
 滝本篤先生とは古くから親交があり、そうした縁で今回のMVの製作を手掛けることになったそうだ。

「え~と……小平さん、小平藍さんはいらっしゃるかな?」

「は、はい!」

 監督の呼び掛けに藍が手を挙げる。

「ああ、小平さん。少し前にもお会いしたねぇ……。今日はよろしくお願いしますね。貴方には事前に説明しなければならないことが幾つかあるので、ちょっと良いかな?……他の皆さんへの説明は彼が担当しますのでね」

 藍と監督は机のある別の場所に行き、監督の持参してきたパソコンで映像を確認し始めた。
 一方私たち「その他組」には監督の隣にいた若い男が軽く頭を下げた。監督の助手をしている人物のようだ。



 今回のMVは大まかに言って二部構成になるということは事前に伝えられていた。
 センターである藍を主役にしたドラマパートと、全体のダンスシーンを映したパートとである。
 こうした二部構成自体は割とオーソドックスなパターンなのだが、ドラマパートといえど大抵はある程度メンバー全員を満遍なく出演させるような演出にする。アイドルのMVとしてはそれが自然だろう。今回のようにここまで主役1人に焦点を当てて撮影されることは珍しい。

「…………というわけでして、まずはこちらのダンスシーンの撮影から始まると思います。監督は皆さんの表情にこだわって撮りたいと言っていましたが、あまり意識し過ぎるのも好ましくないそうですので……皆さんはダンスに集中していただければと思います」

 助手の人の短い説明の内にも監督の少し複雑なこだわりが見えるような気がした。今のところの大津監督は穏やかな好好爺という印象だが、独特の強い世界観を持っていることは間違いない。
 監督は高名な映画監督であるが、一方の私たちはほとんどが演技に関しては素人だ。出来ることと言えば全力で踊ることしかない。
 振り付けに関しては事前に振り付け師の方が考えたものが映像で届けられていた。時間があまりなかったのでまだ振り入れは完璧とは言えないが、そこは歴戦のWISHの選抜メンバーたちだ。何度か踊っていればすぐに形になるだろう。振り付け師の先生は現場にも来てくれているから、曖昧なところや習性が必要な所に関してはその場で対応することが可能だ。

 こうしてダンスシーンの撮影が始まった。





「は~い、では一旦休憩に入ります。再開は30分後を予定しております!」

 助手の人が再び声を張り上げた。
 時刻はもう午後の5時に近くなっていた。早朝に集合したわけだが打ち合わせやセッティングに時間がかかり、実際の撮影は昼頃から始まった。
 それでもすでに数時間踊っているわけだが、未だ監督のオッケーは出ない。

「麻衣さんもこれで最後の撮影になるんだね……」

 休憩の会話の口火を切ったのはキャプテンの高島彩里たかしまさいりだった。

「ああ、そう言えばそうでしたね。すっかり忘れてました」

 カラカラと笑い、相槌を打ったのは舞奈だった。
 まったくもう!舞奈ったら、こんな時でも強がっちゃって!本当は私が卒業するのが寂しくてたまらないクセに!
 ……え?今日会ってから何時間も一緒にいたけど、ガチでそのことについては何も言われなかったのですけど……。まさか忘れてたわけじゃないよね?
 
 舞奈の一言をきっかけに、他のメンバーも私の卒業に関して何だかんだ言い出した。もしかして本当に私の卒業のことなど忘れていたのかもしれない。
 ……まあ、それは良い傾向だとも思う。……ホントのホントに皆が忘れてたんならちょっと寂しいけど……。
 まあともかく、今はそれだけ集中せざるを得ない状況だということだ。私自身も自分の卒業のことなど忘れて目前のダンスにだけ集中していた。今まであまり踊ったことのない種類のダンスだけに、経験の少ない私にはとても難しく感じられた。だが踊れば踊るだけ理解が深まり自分が上達していくのが感じられて、楽しくもなってきていたところだ。
 色々と仕事の経験が増えてくると、どんな仕事もある程度はこなせるようになってしまう。もちろん慣れてゆくことが悪いわけではないが、アイドルならば一つ一つのことに新鮮な気持ちで取り組む姿を見たいと思うファンの人は多いだろう。

 ふと見ると、藍の表情が目に入った。
 皆に合わせてこの場ではにこやかな表情を作っているが、その眼の奥は明らかに不安の色が潜んでいた。

(……ま、ムリもないか……)

 全体のダンスシーンを撮り終えてから藍は1人でドラマシーンを撮影しなければならない。それなのにまだダンスシーンすらも撮り終えていないのだ。
 そして何よりドラマシーンに関しては、メンバーに見せるための映像を一度撮っていたが、その時の藍は小田嶋麻衣だった頃の記憶を取り戻す以前の彼女だったのだ。その時と同じような感覚で演じることは難しいだろう。藍が不安になるのも当然の状況だった。

「は~い、ではそろそろ撮影の方再開したいと思いますので、メンバーの皆さん準備の方をお願いいたしま~す!」

 例の監督の助手の若い男性が再び声を張り上げた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

異世界TS転生で新たな人生「俺が聖女になるなんて聞いてないよ!」

マロエ
ファンタジー
普通のサラリーマンだった三十歳の男性が、いつも通り残業をこなし帰宅途中に、異世界に転生してしまう。 目を覚ますと、何故か森の中に立っていて、身体も何か違うことに気づく。 近くの水面で姿を確認すると、男性の姿が20代前半~10代後半の美しい女性へと変わっていた。 さらに、異世界の住人たちから「聖女」と呼ばれる存在になってしまい、大混乱。 新たな人生に期待と不安が入り混じりながら、男性は女性として、しかも聖女として異世界を歩み始める。 ※表紙、挿絵はAIで作成したイラストを使用しています。 ※R15の章には☆マークを入れてます。

男女比1:10。男子の立場が弱い学園で美少女たちをわからせるためにヒロインと手を組んで攻略を始めてみたんだけど…チョロいんなのはどうして?

ファンタジー
貞操逆転世界に転生してきた日浦大晴(ひうらたいせい)の通う学園には"独特の校風"がある。 それは——男子は女子より立場が弱い 学園で一番立場が上なのは女子5人のメンバーからなる生徒会。 拾ってくれた九空鹿波(くそらかなみ)と手を組み、まずは生徒会を攻略しようとするが……。 「既に攻略済みの女の子をさらに落とすなんて……面白いじゃない」 協力者の鹿波だけは知っている。 大晴が既に女の子を"攻略済み"だと。 勝利200%ラブコメ!? 既に攻略済みの美少女を本気で''分からせ"たら……さて、どうなるんでしょうねぇ?

[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件

森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。 学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。 そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……

[完結]異世界転生したら幼女になったが 速攻で村を追い出された件について ~そしていずれ最強になる幼女~

k33
ファンタジー
初めての小説です..! ある日 主人公 マサヤがトラックに引かれ幼女で異世界転生するのだが その先には 転生者は嫌われていると知る そして別の転生者と出会い この世界はゲームの世界と知る そして、そこから 魔法専門学校に入り Aまで目指すが 果たして上がれるのか!? そして 魔王城には立ち寄った者は一人もいないと別の転生者は言うが 果たして マサヤは 魔王城に入り 魔王を倒し無事に日本に帰れるのか!?

分析スキルで美少女たちの恥ずかしい秘密が見えちゃう異世界生活

SenY
ファンタジー
"分析"スキルを持って異世界に転生した主人公は、相手の力量を正確に見極めて勝てる相手にだけ確実に勝つスタイルで短期間に一財を為すことに成功する。 クエスト報酬で豪邸を手に入れたはいいものの一人で暮らすには広すぎると悩んでいた主人公。そんな彼が友人の勧めで奴隷市場を訪れ、記憶喪失の美少女奴隷ルナを購入したことから、物語は動き始める。 これまで危ない敵から逃げたり弱そうな敵をボコるのにばかり"分析"を活用していた主人公が、そのスキルを美少女の恥ずかしい秘密を覗くことにも使い始めるちょっとエッチなハーレム系ラブコメ。

ヒューマンテイム ~人間を奴隷化するスキルを使って、俺は王妃の体を手に入れる~

三浦裕
ファンタジー
【ヒューマンテイム】 人間を洗脳し、意のままに操るスキル。 非常に希少なスキルで、使い手は史上3人程度しか存在しない。 「ヒューマンテイムの力を使えば、俺はどんな人間だって意のままに操れる。あの美しい王妃に、ベッドで腰を振らせる事だって」 禁断のスキル【ヒューマンテイム】の力に目覚めた少年リュートは、その力を立身出世のために悪用する。 商人を操って富を得たり、 領主を操って権力を手にしたり、 貴族の女を操って、次々子を産ませたり。 リュートの最終目標は『王妃の胎に子種を仕込み、自らの子孫を王にする事』 王家に近づくためには、出世を重ねて国の英雄にまで上り詰める必要がある。 邪悪なスキルで王家乗っ取りを目指すリュートの、ダーク成り上がり譚!

処理中です...