明治維新奇譚 紙切り与一

きもん

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第三章

グラバー邸、襲撃さる ーぐらばーてい、しゅうげきさるー

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 明治五年十一月九日。明治政府より突如として太陽暦への改暦が布告された。
 それまでの天保歴は翌月の十二月二日をもって廃止され、翌三日が明治六年一月一日と定められた。
 開国にあたって、西洋列強国と貿易に際しての都合もあり、それまでの天保歴、つまり太陰太陽暦から、西洋基準の太陽暦の改めるのは、むしろ自然の流れとはいえる。が、ことは生活の基盤となる暦の話しである。これほど急に新暦を導入する事になってしまった主たる原因は、政府の財政が逼迫していることにあった。
 だが、何故に金の問題が暦に関係してくるのであろうか。
 旧暦である天保歴のままでは、翌年明治六年に閏月があり、一年が十三か月となって、間の悪い事に月給制に移行してしまったばかりの官吏への報酬が、このままでは年間十三回支給しなければならなくなってしまう。
 しかし、太陽暦には閏月というものが無かったので支給は十二ヶ月分で済ませられるのである。
 その上、今すぐに移行してしまえば、明治五年の十二月は二日で終わってしまうので、実質十一か月分しか支給しなくてよくなり、更には、それまでの一と六のつく日を休業とする慣習では、節句などの休業を加えると年間のおよそ四割は休みになってしまうのだが、新暦の導入のどさくさに紛れて週休制に移行してしまえば、休業日を年間五十日程度に減らすこともできるという都合の良さ。
 まさに、一石三鳥の大改革案であった。
 しかし、この急な改暦は、時期が年末であったことも手伝って、庶民の暮らしに大混乱を生じさせたことは云うまでもない。
 特に、暦の販売権を持っていた頒暦商社などは、既に発行していた旧暦の新年暦を返本した上に、新暦の刷り直しまでしなくてはならず、大損害を被る事となった。
 決して民草を蔑ろにしているわけではなかったが、しょせん人の考える事である。思慮が及ばず庶民が振り回されるのは、古今東西、昔から変わらぬ世の習いであった。
 さて、それから三年数ヶ月ばかりが過ぎた明治九年三月も末。
 新しい暦に合わせた生活も、それによって一ヶ月程ずれてしまった季節感にも、人々がようやく馴染んできた頃合いに、明治政府は再び世の中が焦臭きなくさくなる施策を行った。
『金禄公債証書発行条例』いわゆる秩禄処分ちつろくしょぶんが行われ、士族に対して俸禄の停止、つまり政府よりの官給がうち切られたのだった。
 同時に「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止」すなわち、<廃刀令>の太政官布告もなされ、大礼服着用者や軍人、警察官以外の帯刀が禁止された。
 これにより、『金と名誉』を同時に奪われる格好となった士族は、ただでさえ武士という特権階級を剥奪されて、募りくすぶっていた明治政府に対する反発が一気に噴出したのだった。
 明治七年二月に起こった佐賀の乱以降、一時的に収まっていた士族による反乱は、これを機に、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱など相次いだ。
 一方、時期を同じくして、この士族による内乱とは別に、明治政府は治安に関して頭の痛い問題を抱えていた。
『妖刀事件』である。
 日本刀には、古来、妖刀正宗など特定の刀剣に怪談、奇談まがいの伝承が存在している。
 しかし、輓近ばんきんに至って世間を騒がしている妖刀事件でいうところの妖刀は、特定の刀を指しているのではない。
 ある日突如として、何の脈略も無しに、それまで普段通りだった人間が精神に異常をきたし、日本刀を手に無差別な殺傷に及ぶという奇異性と、刀を所持しているのは旧武家や公家だった者が殆どなので、当初、市井の臣には遠い事件として面白がる風潮から、市井の流行言葉として妖刀事件と呼ばれるようになっていった。
 しかし、一向に収まる気配が無い上に原因不明。先の坂上剣山の事例のように庶民に被害が及ぶことが頻発となれば、庶民の恐怖と非難の矛先が、身分差別の隠れた不満と相まって、士族や華族と一般市民との対立構造が生まれる土壌となりかねない。この状況が悪化する事は、政敵、外敵を抱えた現在の明治政府にとって絶対に避けなくてはなら無い案件であった。
 また、近代国家の体裁を整えるという意味合いでも、政府は、この事件に関しての原因究明を科学的、合理的に行い、且つ法律に則った決着をみる法治国家としての姿を国内外に顕示する必要があったのだ。
 しかし、近代科学という点で、日本は未だ途上の国である。政府は、科学技術とそれを支える資金両面の支援を、とある外国人に仰いだ。
 トーマス・ブレーク・グラバーである。
 グラバーは、当時、既に日本国家にとって最重要の外国人であった。安政六年(1859)年、開港後まもない長崎に来日して『グラバー商会』を設立し、薩摩・長州・土佐らの討幕派を支援していたからだ。
 そして、政府より命を受けた与一の新しい任務こそ、このグラバーを妖刀事件解明の拠点である研究施設『京都せいみきょく企密局せいみきょく』へと護衛し送り届ける事であった。
 現在、グラバーの居留する地、長崎。
 与一はその途上にいた。

 九州は小倉から長崎までを二十五の宿場で繋いだ長崎街道は、明治維新の頃に繁栄した交通の大動脈であった。
 その道中は大半が内陸部を通り、大村湾へと出て諫早へ向かう経路を辿るのだが、その途中、小田宿から諫早宿の間には、脇街道である多良街道がある。
 多良街道は、多良道とも表記されるとおり恵まれた水運で栄え、有明海湾岸に沿いに走るその街道沿いには多くの荷揚げ場や廻船問屋を中心に宿場町が発展していた。
 そんな宿場の一つ、佐賀は鹿島宿の茶屋に、着流しの上に回し合羽を羽織った一人の旅人が休んでいた。
 店先の長椅子に腰を下ろして茶を啜っていたのだが、旅笠は被ったままで、なにやら意図的に顔を隠している様子だった。また、注意深く見ると、合羽の背中部分が歪に膨らんでおり、何か平たい大きな物体を隠し背負っているのが見て取れた。
 茶屋の軒先で「わぁー」と小童達の歓声が上がる。
 廻し合羽の旅人が歓声に視線を送ると、与一が子供数人を相手に切り紙を見せていた。半紙大の和紙を神斬りで色々な形に切って見せては一人ひとりに与えていた。貰った小童たちが、手に手にそれを掲げては、喜々として走り回っていた。
 旅人は、その小童らを無意識に目で追いながら、物思いに耽っていた。
「童衆童衆わらしに何ぞ、因縁け?」
 与一が、いつの間にか長椅子の反対側、旅人の並びに腰掛けて言った。
 首を傾げる旅人。言葉の意味が通じなかったようだ。
「ああ、すまん。全国をさすらう身でね、時々、あちこちの地方訛りが混じっちまう」
 与一は、もう神斬りを仕舞っていた。「御子でも無くされたか? と、聞いている」
 与一は、旅人の様子から直感的に巡らした想像を具体的な質問にしたが、その慇懃無礼な問いかけも意外と的を外していなかったらしく、旅人は眼をそらして応えた。
「何故でやす?」
 男言葉を使う旅人に、与一は違和感を感じた。
「童を見る眼が尋常でない。よもや、捕って喰う気でもあるまい?」違和感に気を取られたままに発した言葉のせいか、詰問口調になりそうだったので、最後は戯けた内容で茶化した。生来の地笑顔も冗談に転化する手助けとなる。
「ふふ…」旅人は、笑って応えたが、半分は図星を隠すための苦笑いだった様子。
「これは失敬。確かに、こんな怪しげな人間が、我が子の動向を舐り回し眺めていれば、親御さんは気が気でなかろう。で、どの御子が貴殿の―」との旅人の問いに、言葉を遮るように被せて「はははっ」と、今度は与一が笑い声で応えた。
「いや、こちらこそ失礼した。私に子はおりませぬ。更に言えば、当方も御身と同じく旅の途中。あの童衆らに成り行きで紙切りをせがまれ…」どうやら此処でも、子供に絡まれた与一であった。
 が、旅人が突然と笠を脱いだので、与一の言葉も尻切れ蜻蛉になってしまった。というのも、隠れていた素顔が女人のものだったからである。与一が旅人の男言葉に感じていた違和感の原因が知れたのだった。
 しかし、与一が言葉を切ったのは、それだけではない。その女人の顔に見覚えがあるのだ。
 女人の方も、今まで隠していた顔を与一に晒したのには理由があるようだった。何かを確かめる為に自ら手の内を見せた、という感じだ。
 二人共々の思惑が入り交じって、暫くじっくりと互いの顔をお見合いする羽目になった。傍目には、さぞ不可解な光景だったろうが、幸い、唯一の見物人となりうる小童達は切り紙に夢中でそれどころではなかった。 
 やがて、「あっ」と、二人同時に声を上げた。
「かよ!」「いっちゃん!」と、これも同時。
 与一が叫んだ「かよ」は、女人の名前。「いっちゃん」は、その火夜すよが幼い頃、与一を呼んでいた渾名であった。
 それからは、お互いの身なりを確認しては、あれこれと尋ね合い詮索合戦が始まった。
「なんで、男物の着物なんか着てるんだ。言葉遣いも」「紙切りって、高座の芸人さんがやっているやつよね。いつ覚えたの、そんな事」等と一頻り好き勝手に言い合い、最後のほうは、互いの身体を撫でるように触りながらの探り合いであった。男女間にあるべき遠慮も二人には関係ない様子だった。
 ついに、与一が、火夜が回し合羽で覆い隠すように背中に担いでいる平たい物体に気付いた。
か?」与一が尋ねた。
「ええ」火夜は答えると、合羽を脱ぎ、与一が「かたなくい」と呼んだ一物を背中から下ろした。
 それはサラシに巻かれ覆い隠されて細長い三角形の形状をしており、その最鋭角の対辺、つまり底辺部分から人が握れる太さの棒が突き出ていた。その棒は人の二の腕ほど長さをしており握りやすい太さと形状であった。それらの様子から推し量るに、刀喰いとは巨大な包丁と推測できた。
 そして、もし包丁であるならば、その棒は柄の部分ということになる。
 そして、その表面には『戮』の字が刻印されていたのだった。
 与一が、それを見つけるのと同じくして、火夜は、彼が帯に差している大鋏のサックに同じく『戮』の刻印を発見していた。
 与一と火夜は、頭の中で様々な可能性を思い浮かべては消しを繰り返した。
 しかし、結論は一つである。
 そして同時に、「戮士?」と、お互いを指して問うたのだった。  

 与一と火夜の再会から遡ること二年前、明治七年二月二十三日。佐賀県は神埼の地。
 政府軍と旧佐賀藩士を中心とした反政府軍の戦闘が、いよいよ激しさを増していた。
 しかし、既に敗走に敗走を重ねての決戦であるが故に劣勢を悟っていた反政府軍は、撤退の目眩ましにと街のあちらこちらへ火を放ちはじめていた。戦渦の中、火消しがその役目を果たせるわけもなく、街全体が火の海に包まれるのも時間の問題であった。
 そんな市街の未だ戦火を免れている街郭に一軒の鍛冶屋が立っていた。農具や家財道具を専門に鍛錬する変哲のない町鍛冶である。
 延焼から逃れるために住民が先んじて避難した後だったので、その辺りはしんと静まりかえっていた。
 が、その静寂を掻き消すような喧噪が、鍛冶屋の屋敷内から湧き起こる。
 家主である刀鍛冶、錦治きんじが巨大な出刃包丁を手に叫んでいた。
「かよ! 寿々すずを連れて逃げろ」
 かよ、と呼ばれた女は、まだ若い十代後半の火夜であった。彼女は亭主の言葉を受けて、まだ五歳になったばかりの娘、寿々を抱いて屋敷の裏手へと走り出す。
 火夜に抱えられている寿々も、自分より大きな物体を抱えさせられていた。それは、平たいサラシ巻きで、そのサラシを縛っている紐には大きな鈴が結ばれていた。
 鈴は、火夜の動きに合わせてチリンチリンと激しく鳴っている。
 火夜が、屋敷の裏に流れる用水路に飛び出した時、背後で断末魔のような叫び声が聞こえた。
 振り返る火夜。屋敷の裏門を通して微かに覗く屋敷の土間で、家主の錦治が、彼女の亭主が何者かに斬りつけられる瞬間が、その目に飛び込んできた。
「あんた!」
 火夜は、用水路に留めてあった小舟に寿々を押し込めると、夫の元へと取って返した。
 裏口から飛び込み、土間に這いつくばっている夫の手から巨大な出刃包丁を取り上げると、振り返り、夫を襲った敵と対峙した。
 その敵は、既に何度か戦闘を、人斬りを経てきたらしく、返り血で着ていた陣羽織が黒くくすんでいた。火夜は、睨み合ったその顔に見覚えがあった。佐賀に住む物なら少なからず知っている顔である。
 もと佐賀藩指南役、坂上剣山。
 坂上は、言葉を交わす間も惜しんで襲いかかってきた。 
 振り下ろされた坂上の刀を巨大出刃包丁で受ける火夜。
 受けた包丁の刃が、坂上の刀にゆっくりと食い込んで行き、切断した。
 坂上を睨み付ける火夜。
 しかし、坂上は火夜の視線には一瞥もくれず、切断された自分の刀凝視していた。そしてニヤリとする。
「やはりな…その出刃包丁。まごう事なき野刃」
 坂上、使い物にならなくなった自分の刀を捨て、脇差しを抜いて片手正眼に構え直す。
「名は、あるのか」
 勿論、火夜の名を問うているのではない。
「刀喰い」という一言と共に、火夜は、その野刃・刀喰いを八双に似た構えに持ち直す。
 怯まない火夜に坂上が言った。
「なるほど、確かに喰われたわ」
 神崎の刀鍛冶が野刃を打っている、との流説を密かに調べ、その存在を確認した坂上は、共に下野した江藤新平が内乱を画策しているのを知ると、その喧噪に紛れて、この鍛冶屋に押し入る事を思いついたのだった。そして、此処まで思い通りに事が運び、内心ほくそ笑んでいた。
 それだけに、この些細な抵抗に少なからず苛ついていた。
「女…お前の亭主が単なる街鍛冶でないことは調べがついていたのだ。だが、その女房に剣技の心得があるとはな」詰め寄る坂上。「だが、こちらも取込中でな。大人しく、その野刃を渡して貰おうか」
 その時、坂上の背後から「坂上! 何をしている!」と叫び声。
 チッと振り向く坂上。叫び返す。「いや、何でもない。それより戦況はどうだ、江藤」脇差を鞘に収め火夜を一瞥すると、江藤の元へとその場を離れる。
 屋敷の外には江藤新平がいた。
 江藤は屋敷から出てきた坂上に言った。
「どうにも、いかん。儂は鹿児島へ行く。西郷に支援を頼んでみる」
「軟弱な。勝てるのか。それで」坂上は、いかにも興味なさそうに答えた。自分の言葉に険がある事にも気付かない程、心ここにあらずであった。
 江藤がムッとして答える。「知るか。憂国党の奴らが勝手に始めたんだ。もっと時間をかけて交渉すれば…」江藤は、坂上が真剣に聞いていないのを見て取り、言葉を切った。「まあ良い…ここからは別れて行動しよう。陽動だ。おぬしは儂とは反対に江戸、いや東京に向かってくれ」
 走り去る江藤。
 坂上は口惜しそうに屋敷を一瞥し、「まあよい、他にも当てはあるしな」と言い捨て、その後を追った。
 屋敷の中では火夜が江藤と坂上の様子を盗み見ていた。が、二人が立ち去るのと同時に「ううっ」と呻いた夫に駆け寄る。
「あんた!」錦治の半身を抱え起こして呼びかけた。
 錦治は、最後の力を振り絞り、自分の胸に置かれた火夜の手を取った。周りにある何もかもが自分の血で真っ赤である。
「お前は…もう鍛冶屋の女房ではない…封印した力を解き放ち…寿々を守れ」
 錦治は、そのまま動かなくなった。
 窓の外が紅く揺れた。炭のように黒い煙が窓から入ってくる。火の手が廻ってきたのだ。
 火夜は、煙を避けて錦治の身体を土間から居間の板間に移動させ、横たえた。短く深く手を合わせてから用水路へと急ぐ。
 しかし、そこに小舟は無かった。
 夫に続いて一人娘まで失う恐怖に火夜は気が狂わんばかりに叫んだ。
「寿々ー! 寿々ー!」
 小舟の姿を求めて水路沿いを走り回る火夜。
 その姿を、町外れの丘から無表情に見下ろしている一人の山伏。ぼろん坊である。
 その右肩に寿々を担いでいた。
 左腕には寿々が抱えていた鈴付きの物体を握っている。戦火の熱風が一陣駆け抜けると鈴の響きと共に撒いているサラシがはだけ、刀喰いに似た巨大出刃包丁の一部が現れた。
「あれが、かよ。『試刀応戦流しとうおうせんりゅう』唯一の継承者か。手合わせしたいところだが、この有様ではそうもいかんな」
 そう呟くと、戦火の煙に溶け込むように姿を消した。
 神埼の街は、それから三日三晩の間、燃えた。

 幼なじみであった与一と火夜は、お互いに戮士であることを確認してしまった後、人目を避けて街道はずれの岬に移動し、玄界灘を見ろせる岩場に腰を下ろした。会話は自ずと身の上話になっていた。
「父が亡くなって身寄りも無く、途方に暮れていた私に手を差し伸べてくれたのが錦治さん。いっちゃんのお義父さんが最後に取ったお弟子さんよ。私がいっちゃんの家によく遊びに行っていたのを見ていて、同情半分で引き取ってくれたのだろうし、まあ、歳もふた回り近く上だったんで、最初は養子にって話しだったんだけど、なんだかんだで相手も独り身、私が身ごもってしまったもんで嫁入りって話しになって…」
 火夜は、そこで少し間を置き、与一の様子を窺った。嫁入りの経緯をこういう流れで話したくはなかったのだが、隠していても仕方がないと包み隠さず語ったのだが、与一が反応に困って無表情になっているのを確認すると、軽く深呼吸をして言葉を続けた。
「それで、錦治さんは故郷であるこの佐賀で刀鍛冶として生計を立て、私は連れ合いとしてひっそりと暮らす、父の遺言通り堅気で生きていく…筈だったんだけれど」
 火夜は、膝に置いているサラシ巻きの刀喰いを撫でた。
「我が家が、行平ゆきひら家より御神刀として頂いたこの刀喰いを、父の形見だという想いもあって手放さなかったのが間違いの元だった。錦治さんは、いっちゃんのお義父さん、行平轍斎に弟子入りするほど刀剣鍛冶としての性が強かった。やはり、野刃の製法を極めるという欲望を抑えきれず、刀喰いの習作を渇望し、ついに私も押し切られ、刀喰いを託してしまった。そして錦治さんは、刀喰いと寸分違わぬ野刃『刀喰い・焼写やしゃ』の鍛造を成したのよ」火夜は、目を伏せて「でも、そんな噂は、特に裏の世界には瞬く間に広がってしまう。二年前に佐賀で起こった戦さに乗じて、坂上剣山が焼写を奪いに襲ってきた。錦治さんは亡くなり、寿々は行方不明…」話しの流れとしては特に不自然ではないので、火夜自身も気付かなかったが、終始一貫、彼女は与一に対して錦治の事を夫と呼ばず名前で呼んでいた。
 火夜の目に見えぬ葛藤を余所に「坂上…剣山」と、聞き覚えのある名前に、思わず呟いてしまった与一だったが、彼の顛末を火夜に告げるべきかを躊躇した。火夜の現状がまだ把握し切れていない。何を知って、何を知らない事が、彼女にとっての幸福なのかを量りかねてたのだ。
「何?」首を傾げる火夜。
「いや、それで戮士になったという訳か? 確かに、お前ならその能力は充分にある」
「ええ、別に望んだわけではなかったけれど…でも、野刃の存在が公に知れ渡った途端に太政官から役人が飛んできたわ」
「で、野刃所有の罪を問わぬかわりに、戮士になれと―」どこかで聞いたような話だな、と与一は思った。
「ええ、戮士になれば情報が入る。敵を討てる可能性が高いし、寿々の行方に行き当たるかも知れない」
 火夜は、戮士に名前を登録する時に、ひらがなから『火夜』にした事も告げた。
「しかし、火夜が所帯を持った上に娘まで…時が経つのは早いな」言ってから、旦那と娘の話題を蒸し返すのはまずかったか、とも思った与一だったが、「嫁にすると約束した幼い女の子をほっぽいたまま、ある日突然、誰かさんは神隠しにあっちゃったからね」と、察しの良い火夜の方から、明確な当てこすりを返すことで与一の懸念は有耶無耶にされてしまった。火夜は与一が思っているよりも、ずっと大人に成長しているようだった。それだけ、苦労したということなのだろう。
「ところで、なんで男言葉なんかで話してたんだ? 格好もそうだが」
 与一は、会話をやり直すように話題を変えた。
「一人旅なんて、男の方が何かと面倒が少ないのよ」火夜は答えもそこそこに、そんな事よりと「今度は、いっちゃんの番よ。私はともかく、いっちゃんが戮士なんて…意外。そもそも野刃なんて何処で手に入れたの? しかも鋏って」興味津々の瞳を与一に向けた。
 まあ、そうなるな、と、与一は何を話して何を話さないでいるべきか、改めて頭を悩ませた。

 空に満月。
 その光が余りにも強く、いつもは見えているはずの星座がその数を減らしてしまうほどの明るい夜だった。
 見渡す限りの草原を貫く、まだ名前も付いていない田舎の裏街道を人目をはばかるように舶来の外套を羽織った男が一人、先を急いでいる。
 道の両端には背丈程もあるススキが群生し視界を奪っていた。
 不意に法螺貝の音が聞こえてくる。 
 外套の男は前方を見た。一本道の視界が届くギリギリの所、小高い丘に満月を背負う形で大きな黒い人影となった山伏姿のぼろん坊が法螺貝を吹きながら道を塞いで立っている。
 外套の男は、辺りに法螺貝の音色が充満してくるような感覚に捕らわれた。音に何らかの催眠効果があるのか、徐々に意識も遠退いてくる。
 ぼーっとした意識の中に、切り込むような「チリン」という鈴の音がした。
 ハッとする外套の男。
 間髪入れず、ススキの藪中から、ギラッと光る平たい黒い固まりが飛んできた。
 動きが早くて正体がよく分からない。
 その黒い物体は、チリリリリと連続した鈴の音を発し続けて動き回っている。
 次の瞬間、男は避ける間もなくその物体に胴体を斬られてしまった。
 黒い固まりが着地。
 その正体は、刀喰い・焼写と七歳に成長した寿々だった。焼写の柄尻には紐で繋がった鈴がついている。
 寿々は、自分の背丈程もある出刃包丁の柄を右手で、刃の峰を右足の親指で挟み持った状態のまま、人刃一体となって地面に立っていた。
 ぼろん坊は、倒れている外套の男の側までゆっくりと近づいた。切断されて上半身だけになっている遺体の懐をまさぐると、一本の鑿を抜き取り、掲げた。
 鑿の柄には、戮の字が刻印されている。
のみか…いかに使い、武器と成すのか見てみたかった気もするが、戮士というのも存外に不甲斐ないな。いや、それよりこっちが凄いのか」と、寿々を一瞥して、その鑿をポイと捨てた。
 寿々は、その間も微動だにしなかった。蝋人形の様に眼に光もない。
「次は大物だぞ。特におまえにとってはな…寿々」
 ぼろん坊は、法螺貝を吹き始ながらゆっくりと群生したススキの中へと消えていく。
 寿々も、まるで法螺貝の音色に操られてるように、その後に続いた。
 
 多良海道沿いに連なる岬の向こうに、海道の終点を告げる宿場の灯りが見える。
 火夜は、与一と浜宿で一旦別れていた。
 お互いに戮士である。目的地も同じとはいえ、幼なじみの仲良し道中ともいかず、誰とも分からぬ敵の目を欺き人目に付かないように、与一は手漕ぎ船で海路、火夜は多良海道から長崎海道と繋いで陸路で長崎を目指していた。
 突然、ハタっと立ち止まり、鋭い視線で辺りを窺う火夜。
 月が、ちょうど雲に隠れ、常人には夜目を効かすことも適わぬほど暗くなってしまった海道には、火夜以外に人通りの気配は無い。
 有明海に臨む崖下から聞こえる波の砕ける音。
 崖を挟んだ道の反対側は五家原岳へと続く深い森が拡がり、視界を阻む。突然、一際高い木のてっぺんから何かが滑空して、火夜へ襲いかかる。
 ガキッと鈍い金属音。
 火夜の回し合羽が真っ二つになって宙を舞う。サラシを巻いたままの刀喰いを構える火夜。刀喰いのサラシが少し裂けている。滑空してきた何かを受けたのだ。
 火夜の視線の先には、その何か、が、四つん這いで動物の様に身構えているのが微かに感じ取れる。
 目を凝らす。月が雲から出てきた。
 寿々である。
 その側には、火夜の刀喰いに弾かれた反動で寿々の手から放れた焼写が地面に刺さっている。
 寿々はゆっくり立ち上がると、焼写に近づき柄を右手で掴んだ。
 その反動で柄尻に付けてあった鈴がチリチリと小さく鳴る。
 火夜は、その音色に反応する。
「それは焼写! 寿々なの?」
 火夜が戸惑っている隙に、寿々は焼写の峰を右足の指で挟むと、左足で地を蹴り、側転しながら焼写と一体となって、火夜に向かって跳んできた。
 躊躇した分、対応が隠れ、辛うじて刀喰いの棟の部分を焼写の刃に合わせて防ぐ火夜。
 再び、鈍い金属音。
 弾かれた寿々は、地面に左手、左足を着いて直ぐさま反転し、再び火夜を襲う。
 火夜は、その攻撃もかわすと体勢を立て直した。髪からこうがいを引き抜き、その中に仕込まれた小刀で、既に防御の為にボロボロになっていたサラシを切り剥いた。
 笄を抜いたために纏めていた長い黒髪がはらはらと流れ落ちるように解けていく火夜。同様に刀喰いに巻かれていたサラシも解けていき、火夜の身体を基点に黒と白の美しい対比を生み出しながら舞った。
 火夜は、抜き身となった刀喰いを一旦掲げ、そして肩に担いで構えた。
「無駄だ…お前に娘は討てぬ」
 その様子を森の中から窺っていたぼろん坊が独り言ちた。
 更にその背後には、黒マントの人物が二人立っている。
 その内の一人が、マントの頭巾を後ろにずらしながらぼろん坊に言った。現れた頭髪は暗闇でも判るほどの金髪だった。 
「実の子だから?」
「いいや、技の問題だ」明快に答えるぼろん坊。「あの女の剣技は全て、あの刀喰いで相手の武器を断ずる事を前提に成立している」
「なぜ、そんなことが分かる」
 今度は、二人連れのもう一人が部筋を取りながら言った。こちらの頭髪は少しくすんでいた。銀髪なのだろう。
「そこそこの因縁があってな、あやつの剣技、試刀応戦流の極意を、俺は承知しているのさ」律儀に答えるぼろん坊。解説を続けている内に自分の言説で気分が高揚してきたのだろう、語気がだんだんと強くなる。
「今、あの女が相対している刀喰いの写し物は、武器としての性能が恐らく互角!」ぼろん坊の言葉に合わせるかのように、寿々が再び人刃一体のブーメラン攻撃で火夜を襲う。
「故に斬れぬ!」
 火夜、今度は正面から刀喰いを振り下ろし、刀喰いの棟ではなく、刃の方をまともに焼写の刃に合わせた。
 ガギッ。
 刀喰いと焼写の刃がお互いの刃に食い込み、同時にガラスが割れるように欠けて、弾かれた。
「!」
 自分の武器も同様にダメージを受けて為す術の無い火夜。
 一方、欠けた焼写に構わず、反転して攻撃してくる寿々。
 力無く受けた刀喰いを弾かれ、更に反転してきた二撃目で胸と鎖骨の間を横一文字に斬られる火夜。ぱっくり開いた斬り痕から血が噴き出す。
 そのまま崖から足を踏み外し、海へと落ちていった。
「寿々ーっ!」
 痛みと混乱の中で叫んだ火夜の言葉に触発され、一瞬、瞳に光が甦る寿々。
「うがあああああっ」
 それ迄の無機質な表情から一転して、獣のように感情を露わにする寿々。
「ちっ!」
 すかさず法螺貝を吹くぼろん坊。
 その音を聞いた途端、再び人形の無表情になる寿々。そのまま気絶した。
 ふふ、との含み笑いから大笑いするぼろん坊は、誰に言うでもなく、しかし、独り言にしては大声で喋りながら歩き出す。
「愉快、愉快、数年ぶりの親子対面が血で血を洗う殺し合い」と寿々の側へ行き、担ぎ上げた。「…これだから世事は捨ておけん。解脱だの、涅槃だの、くそ食らえじゃ」と仏門の徒とは思えぬ暴言を吐きながら火夜の落ちた海を覗き込むぼろん坊。だが、暗くて見えない。
「ちっ」と振り向いたところへ、黒マント二人が非難の声を浴びせた。
「下劣な! 本当に僧侶か?」と金髪。
「我々は、グラバー暗殺に戮、いや、日本政府が介入し邪魔するのを阻止していただければ、それで良いのです」と、銀髪。「下らぬ余興で大事に障っては…」
「黙らっしゃい! これも戮士の長崎入り阻止の一端! 報酬分は働いておる」ぼろん坊は最後まで言わせずに一喝した。「後は、メーソン同士で殺し合えば良かろう。我ら十頭社中の公儀はともかく、拙僧は別段、貴殿らイルミナティに肩入れしている訳ではないぞ、ギルト殿、パール殿」
 ギルトは金髪に碧眼、パールは銀髪に灰色の眼をした西洋人だった。二人とも若い娘に見える程の華奢な美形であった。
 言い捨てた後、寿々を担いだまま、さっさとその場を立ち去ってしまうぼろん坊。
 顔を見合わせたギルトとパールは、ぼろん坊とは反対方向の闇の中に消えた。
 火夜が転落した崖の沖合、といっても陸の灯がまだはっきり見える程度離れた距離を、手漕ぎの小舟が航跡を曳いていた。
 月光が光る波間に漕ぎ手の影を浮かべている。
 影が、何かを横切った。
 火夜である。気を失い、仰向けで水面を漂っている。
 火夜に気付いた小舟の漕ぎ手が、舟先をそちらに向けた。
 それまで、どうにか彼女を浮かせていた着物の浮力も、波に揉まれる内に着崩れたことにより無くなってしまい、本能的に握りしめている刀喰いの重さで、彼女の身体は海中へと沈む寸前だった。
 小舟とはいえ、横付けにする際に起こる波が駄目押しとなり、顔が波に呑まれる既の所で、漕ぎ手の男が火夜を舟に引き上げた。 
「おい。大丈夫か!」と、漕ぎ手の声。与一である。
 先刻、別れたばかりの顔なじみの変わり果てた姿に、驚きを隠せなかった。

 長崎港を望む南山手の丘上地、広大な庭園の中心に鎮座した数ある洋館の中でも、バンガロー様式を取り入れながら木造平屋建てで屋根が寄棟造という和洋折衷の特徴的な屋敷が、トーマス・ブレーク・グラバー邸である。
 寝待月。その名の通り寝て待たなければならないほど出が遅い月が、天上に昇っているほどの深夜。新月から数えて二十日前後の月齢で満月が少し掛けた姿ながらも、まだ充分に明るい月が雲で遮られた。
 闇に満たされた庭園内に、幾つもの人影が音も無く進入してくる。
 全員、西洋式の黒マントと頭巾で全身を覆っているので顔は見えない。玄関扉の鍵を音もなく開錠して邸内に進入すると、各部屋を徘徊して住人の有無を確認している。が、邸内に人の気配は無く、終始一言も声を発することなく引き上げていった。
 しんがりの二人が立ち止まり、マントのフードを後ろに降ろす。
 ギルトとパールだった。
 二人は、グラバー邸を振り返り、一瞥すると仲間の後を追った。
 ぼろん坊が、その様子を邸外の一段高い丘の上から見守っていた。ぼろん坊の後には寿々が立っている。
「愚か者共。つまらん仕掛けに惑わされよって」
 吐き捨てるぼろん坊。無表情の寿々。手にした刀喰い・焼写は刃の中央部が数センチに渡って欠けていた。
「しかし、捨て置くわけにもいかんかな。さて、最後の仕上げといこうか」ぼろん坊は、グラバー邸に向かって歩き出す。「残金の払いを渋られたらかなわん」
 その後を無表情の寿々が続いた。
 一方、グラバー邸の中では動きがあった。暗く人気のない廊下の天井が、いきなり、面積にして畳半畳分程の四角形にパックリと上に開いたのだ。
  その四角い穴から与一が顔を出す。天井から逆さに首を出している格好で真っ暗な邸内の様子を素早く窺うと部屋の中へとすぐに戻った。
 四角い穴は、屋根裏に隠された小部屋の出入り口である。その隠し部屋の天井は、屋根の裏板が剥きだしで低くかったが、十畳程の広さがあった。
 与一が、部屋の奥に向かって囁く。
「やり過ごせたみたいです。行きましょう」
 部屋の奥にはグラバーが座っていた。
 出入り口から梯子を降ろす与一。その作業を見ながらグラバーが言った。
「ワイフハ、妻のハ、本当ニ大丈夫デスカ?」
 天井から邸内に下りる途中で、与一はグラバーに答えた。
「はい。既に東京に着いている頃合いかと。身柄の安全は日本政府が保証する旨、お伝えするよう岩倉より申しつかっております」
 玄関へ向かう二人。
「しかし、あのような隠し部屋。変わった御自宅ですな」と与一。
「アノ部屋デ、高杉サン、アト色々ナ人達ト、倒幕ノ密談シマシタ」と聞き取りにくいカタコトの日本語でグラバーが応える。
 邸外へ出る寸前、グラバーの歩みを手で遮った与一は、玄関扉を少し開け、外を窺った。
 不安そうなグラバー。
「邸内に居てください」
 そう言い残し、ひとり外へ出る与一。扉を背にして後ろ手に扉を閉じると、庭園を見据えた。
 庭園の門扉、つまり、グラバー邸の敷地に入る入り口を背にして立っているぼろん坊と寿々が、月明かりに照らされていた。
 二人から視線を切らず、ゆっくりと歩き出した与一は、懐から神斬りを取り出しながら言った。
「勿体ぶったお出ましだな。俺だけ無視されたのかと思ったぜ」
 グラバー護衛の為に辿り着いた戮士は、与一ただ一人。何者かの襲撃を受けたのは明らかだった。勿論、脱落者の中には火夜も含まれる。
 与一は、革サックから神斬りを抜き取り、自分の正面にかざした。
 普通の鋏の持ち方とは違い、両手で柄の部分を片方ずつ持っている。その状態で軽く手を捻ると蝶番が外れ、右手と左手各々に鋏の片刃一本ずつを持つ格好になった。一本の鋏が二本の短刀になったのだ。
 その片刃短刀形態の神斬りを二刀流で、腕を十字に組んで身構える与一。軽く呼吸を整えると、ぼろん坊に向かって突進した。
「それは済まぬ。余興に気取られてな」ぼろん坊は、直線的に正面から突いてきた与一の第一撃をかわした。「雑魚は見落としたらしい!」余興というのが火夜と寿々の親子対決である事など、もちろん与一の知る処ではなかった。
 反転してきた与一の鼻先に法螺貝を突きつけて吹くぼろん坊。
 ブォーという低周波の音波を浴びて立ち眩みする与一の背後から、寿々がいつもの人刃一体攻撃で襲いかかる。
 それを寸前で躱し、ぼろん坊のみにしつこく追いすがって攻撃する与一。
 鋏の両片刃をナイフ使いのような巧みさで、踊るように連続して繰り出す。が、そのことごとくを大柄な体躯に似合わずヒラリヒラリと避けるぼろん坊。
「相手が違うぞ」と攻撃の主体は寿々だと告げ、自分から与一の意識を逸らせようとしたが、「親玉をひたすら叩く」と攻撃の手をゆるめない与一は「喧嘩の鉄則だ」と宣告した。
 ついに、ぼろん坊の左腕に切っ先が届いた。血が吹き出る。
「何より、自らは手を汚さぬばかりか、童子を操り殺しをさせる、その性根…」次の一撃が、更に深手を与えようと迫る「ゆるせん!」
 だが、寿々が二人の間に割って入った。
 弾かれる神斬り。一歩、後退る与一。
 ぼろん坊を後ろに庇い、焼写を構える寿々。
「法を楯に殺生三昧の輩が、正義を振りかざすか…」出血で真っ赤に染まった左腕を押さえ、不敵に笑うぼろん坊。「笑止千万!」
 寿々が、再び攻撃を開始した。ぼろん坊は後退する。
 寿々の動きが早く、ぼろん坊に近づけない与一。
『あの出刃が相手じゃあ、へたに受ける訳にもいかねぇ』
 火夜の意識はまだ戻っていなかったので事情を知らない与一には、この攻撃を仕掛けてくる少女の正体になぞ考えは及ばなかったが、その得物が火夜の刀喰いと瓜二つであることから、少なくとも、それが野刃である事は理解できた。であれば、本来、刀を挟み切る事で防御する神斬りであったが、下手に刃を合わせると重量差で神斬りの刃が潰されるかも知れない。たとえ相手の刃が欠けているとはいえ、である。
 たから、今のところ、与一の選択肢は、攻撃を避ける事のみであった。
 その様子を見ていたぼろん坊は、与一の動きに合わせるように、手にしていた数珠を与一の足下に投げた。
「ちっ」数珠が足に絡み付き、動きが止まる与一。
 すかさず寿々の攻撃が襲いかかる。
 人刃一体で巨大出刃包丁の刃が跳んでくる。
 いよいよ、受けるしかない。
「南無三!」
 与一は覚悟を決め、片刃ずつの鋏の峰を合わせて焼写の刃を受けた。空手でいう十字受けの要領である。
 刃同士を合わせるより神斬りが潰される可能性を少しでも低くする苦し紛れ策だった。何より、丁度、神斬りの蝶番を外して片方ずつを小刀として使っていたからこそ出来た芸当である。
 金属が激突した際の火花を避けるため薄目にした視界が、焼写の刃を十字受けしている部分を捉える。
 与一は、十字で受けている交点、その部分に挟まっている焼写の刃がを見た。欠けている部分が思ったより損傷が酷い事に気付いた。だから、神斬りの損害が思ったよりも少ない。最悪の場合、受けた十字部分から神斬り本体を切り裂かれてもおかしくはなかった。
 素早く身を引く寿々。
 与一は、新たに体勢を立て直した。
「そうか!」
 与一は、火夜の持つ刀喰いの刃が欠けている事は知っている。彼女を海から引き上げた際、気絶しているにも拘わらずしっかりと握りしめていた刀喰いは、しかし、大きく損傷していたのだった。与一は、野刃の刃が、あれほど無惨に欠けているのを初めて目にした。
 野刃を破壊できるものは、野刃である。
 察するに、彼らが火夜を襲ったのであれば、刀喰い同士のつばぜり合いがあったのだ。刃欠けは、性能が同じ物同士がぶつかった帰結である。
 与一は、分けていた神斬り両刃の蝶番をはめて結び直し、再び本来の鋏の形に戻した。
 右手で普通の鋏を握るように持ち、左手で右手を支えるように右手首を握って構える。
「見せてやろう。奥義『神魔威断かまいたち』の威力!」
 与一は、「コォォォォ」と喉の奥から擦過音がするほど、特殊な呼吸法で息を吸い込む。それに呼応し、右手の筋肉が膨張する。古武道の呼吸法を応用した身体能力の一時的な増幅法である。尋常でない本数の血管が全身に浮き出てきた。
 その異様な迫力に気圧される寿々。
 ぼろん坊は、あくまで冷静に法螺貝を吹いた。
 その音に操られた寿々は、怯えから一転、野獣のように咆哮を上げて与一に向かっていく。
 筋肉の膨れあがった右腕で神斬りを突き出す与一。
 ガキッと焼写を挟み込む。刃が欠けている部分に丁度、鋏の刃が入っている。
「があぁぁぁぁっ!」
 気合い一閃。
 バチンッ。
 神斬りは、刃が欠け部分を境に焼写を真っ二つに裁断した。
「ああああ」刃渡りの半分以上を失った焼写を見つめながら放心状態の寿々。
 対照的に素早い行動で寿々に駆け寄り抱え上げ、その場から走り去るぼろん坊。
「ワシも手負いでなければ、自ら葬ってやるものを!」
 捨て台詞を残してぼろん坊は去った。寿々を抱え、また自らも手負いのため、先程見せた俊敏さはない。しかし、奥義後の脱力状態にある与一も一時的に動けなかった。肉体から出るとは思えない音を立て収縮する右手を苦しそうに押さえながら、地笑顔さえ歪ませて、庭園を門に向かって駆けてゆくぼろん坊の後ろ姿を見送った。
 外の様子を窺っていたグラバーは、事態が収まったのを確認して外に飛び出してきた。
 戦いで荒れ果てた庭園の中、与一に駆け寄るグラバーの姿が月明かりに照らされている。
 
 薄暗い教会風装飾の広い広間の中心に、ぼろん坊は立っていた。
 日本国内に在りながら、その場所を正確に知る日本人は居なかった。
 しかし、今日始めて、その場所に足を踏み入れる最初の日本人になった者がいた。
 ぼろん坊である。
 彼は十頭社中を代表する交渉人として立っていた。
 フリーメーソンリー・イルミナティの日本ロッジ内、『儀式の部屋』に。
 ぼろん坊と対峙するように設えられた祭壇には、上向きのコンパスと下向き直角定規を結合させダビデの星を形成しているフリーメーソンのシンボルマークとルシファー、すなわちサタンの像が奢られていた。
 その祭壇を中心に部屋の壁沿いに並ぶ椅子には、イルミナティ上位階級のメンバーが座っている。彼らの顔は薄暗い部屋の中で影になっていてよく見えないが、末席にいるギルトとパールは確認できた。
「契約の不履行はそちらも承知だろう」メンバーの最上位者である摂政が口を開いた。外国人にしては、違和感があるほど流暢な日本語だった。
「グラバーの暗殺失敗はうぬらの手落ち。戮士の討ち漏らしは、その後の些末。残金は頂く」ぼろん坊は、当然のことを当然のように言った。
「蛮族のごとき理屈だな。日本は文明国と聞いたが?」
「それは、我ら十頭社中と敵対する意志ありと了解してよいのか?」
「十頭…裏幕府を標榜する輩の事か?」摂政の皮肉に、暗闇に隠れていても上位メンバー達の薄笑いが気配で知れた。
「ふんっ。お主らに散々っぱら肩入れされた挙げ句、奉還して逃げた徳川とは志が違うわ!」と、吐き捨てるぼろん坊。
「志は有るが、金は無いか?」
 摂政の再三に渡る挑発に、ズイっと一歩、前に踏み出すぼろん坊。その表情は怒りを隠していなかった。
 その瞬間、ボディガードの騎士達が部屋の脇から飛び出し、ぼろん坊の前に立ちふさがった。
 ぼろん坊は、首に掛けている数珠を両手で外しながら言った。珠一つの大きさが人の拳程もある大数珠である。
「拙僧個人への侮蔑は座興と聞き流せるが、十頭に対する再三の侮辱はゆるさん!」
 輪状に珠が並んでいる数珠の一部を両手で捻ると、その部分が外れて紐状になった。その両端を持って横一文字にした数珠を突き出すように構えるぼろん坊。
 部屋の入り口近くには寿々が立っている。未だ呆けたまま、刃の上半分が無くなってしまった焼写の柄を手に握っている。
「ふん。子供を操るしか能の無い腰抜けが、はったりか?」
 単に彼の性格に拠るのか、それとも何かの意図があるのか、摂政の挑発は止まらない。
「ならば。試してみよ」
 ぼろん坊は、紐状になった数珠を振った。薄暗い室内にブンッと風切り音が走る。続けて、ゴッゴッゴッ、バキッと堅い物が砕ける音。ぼろん坊を遮っていた騎士の一人、その頭部に大数珠が巻き付いていた。
 ぼろん坊が緩急をつけて引っ張ると、巻き付いていた数珠が外れた。騎士の頭部には、歪な数個の凹みができている。その歪んだ頭部の数カ所、特に鼻や耳等の開口部から血が吹き出た。
 崩れ落ちる騎士。その脱落を補うように、部屋の奥から、わらわらと護衛の騎士が出てきた。全員がレイピア(片手剣)で武装している。
 ぼろん坊は、相手が体勢を整える前に襲いかかった。その巨体に似合わぬ、眼にも止まらぬ素早さである。大数珠が鞭のようにしなり、騎士達の間で踊った。空気を裂く音と堅い物が砕け潰れる音が連続して鈍く響く。
 一瞬後、何事もなかった様に静寂を取り戻した部屋の中央に、ぼろん坊が仁王立ちしていた。その廻りには、身体や頭のあちらこちらにボコボコと陥没した痕のある騎士達が棒立ちしている。
 ぼろん坊が、合掌せずに片手だけで拝み呟く。
「南無阿弥陀仏」
 騎士達は血柱を上げて崩れ落ちた。
 再び対峙するぼろん坊とイルミナティ上位メンバー達。
 誰も、喋らない。
 一刻の間をおき、メンバーの末席、ぼろん坊に向かって最も左端の席からギルトとパールが電光石火でぼろん坊に襲いかかる。
 ガキッと金属音。
 ぼろん坊の巨体に、両脇から足を絡ませて組み付いているギルトとパール。彼らの各々が二刀流のレイピアをぼろん坊の首に突きつけていた。ぼろん坊の首は、四本のレイピアで井の字を描くように、格子状に廻りを囲まれる形になっている。
 しかし、更にその内側、レイピアと首の間には、ぼろん坊の大数珠が襟巻きのように巻き付いてレイピアが首に当たるのを防いでいた。
「この数珠は、手練れの鍛冶が鍛えた鋼鉄玉だ。その華奢な剣ではキズもつかぬぞ」
と、ぼろん坊。しかし、にやりと笑うギルト。
「まだ怪我が癒えておらぬのだろう。我らの攻撃を何時まで避けられるかな?」
 ぼろん坊の左袖から血が滲んでいる。
 パールが言葉を継いだ。
「やせ我慢も程々にな…」左腕を蹴って離れる。
「ぐっ」
 思わず痛みで怯むぼろん坊を正面に見据えたまま、後ずさるギルトとパール。
 代わりに摂政が威圧的な声音で口を開いた。
「今後も協力関係を維持するかは、そちら次第…よろしいか?」
 ぼろん坊は、大数珠を再び輪状に繋げて首に掛けると、しかめっ面で踵を返す。入り口付近で未だ呆けている寿々を右肩に担ぎ上げ退出した。
「ギルト」静寂を取り戻した儀式の部屋で摂政がギルドを呼ぶ。
「はい」音もなく摂政の脇に控えるギルド。
「あの程度で頭に血が上る者が折衝役など、十頭は当てにならぬ。彼らは、いつ入国する?」摂政は、きれいなラテン語でギルトに聞いた。
「予定では、印度を発った頃合いです。まだ到着には数週間程を要するかと」ギルトもラテン語で答えた。ラテン語は、イルミナティ内での公用語らしい。
 摂政は黙って頷き、ルシファーの像を仰ぎ見た。

 スーラトは、インド北西部にある港湾都市である。十七世紀後半にマラーター王国による攻撃を受けて衰退し、現在はムンバイにイギリスの商業拠点は移ってしまったが、 一六〇八年に東インド会社の商船隊が初めて寄港した港であり、主要な国際貿易港であることに変わりはない。
 当時、初めてスーラトを訪れたイギリス船は木製の帆船であったが、一七六九年にイギリス人のワットが蒸気機関を完成させてから、外洋船も外輪汽船、鉄製汽船航洋スクリュー船へと進化し大型化していった。
 その蒸気機関を持つ鉄製スクリュー式外洋帆船式の軍艦が多数停泊しているスーラトの桟橋を人々が行き交っていた。その中には西洋人も多く、日本人の基準では決して小柄とはいえない人長ひとだけの雑踏が小人の集団に見えるほどの大男が、人の波を掻き分けながらノッシノッシと歩いている。
 だが、周囲の人間より更に上半身分だけ背丈が高く、それに比例した肩幅もがっしりとした体躯のその大男は、皮紐で目隠しをされた上に猿ぐつわを咬まされ、両腕は手錠のように鎖を巻いて拘束されるという異様な出で立ちをしていた。一見、奴隷かとも思われせたが、それにしては身なりが整っていた。
 それだけでも周囲を圧倒する存在感を放っていたのだが、それ以上に人目を惹いたのは、その大男の前を歩く幼い少女だった。
 その少女は、豪華なフリルのドレスを纏い、小さな日傘を差して、ただ歩くという様にも上品さが漂っていた。高貴な出自に間違いはないのだろうが、どう見ても後ろの大男の連れ添いであり、異様な組み合わせである。
 非現実なその光景を港内にいる全員が息を呑んで見守る中、少女と大男は停泊中の軍艦の一隻へと消えていった。
 そのスーラトから、隔てること六千五百海里の東にある極東の国、日本。
 その本州と九州隔てる関門海峡は、潮の干満により一日に四回潮流の向きが変わるのもさることながら、基本的な海峡の狭さ潮流の速さにおいて日本屈指の海難所である。
 その潮の流れに逆らって力強く洋上を進む一隻の船があった。
 その船には外輪が無く、スクリューによる航跡を白く曳いていた。帆船と外輪船が主力だったぺリー艦隊来航から二十三年が過ぎ、日本の海にも最新鋭の動力付きスクリュー船が航行するようになったのだった。
 マストには、船の素性を示すように、日章旗とフリーメーソンのシンボルマークである定規とコンパスをあしらった旗がはためいている。そのシンボルマークは、イルミナティのそれとは、細部のデザインが異なっていた。
 この頃に動力船があるとすれば、それは軍艦ということになる。その船も艤装は戦闘向けに特化していた。だから居住性はお世辞にも良いとは云えなかったが、唯一、病室だけは、比較的寝心地の良いベッドと広い居住空間が確保されていた。
 そのベッドに、火夜が寝ている。
 穏やかな寝顔が、徐々に険しく歪んでいき、「寿々ーっ!」と叫びながら目を覚ました。
 素早く半身を起こす。が、「うっ!」と、再び胸の激痛でうずくまった。
 痛みが落ち着き、今度はゆっくりと起きあがった火夜は、自分の上半身がミイラのように包帯でグルグル巻きにされているのに気付いた。
 廻りを見回すと、広い船室に自分が寝ているのと同じ型のベッドがいくつも並んでいる。西洋医学という概念の無い火夜にも、そこが医療目的の部屋であることが分かった。更に、部屋全体が大きな周期で上下に揺れているのを感じた。
 日本の家屋では目にすることのない丸く小さな窓まで歩いていき、外を眺めた。そこで初めて自分が船に乗っている事を知った。
 狭い視界から、それでも多くの情報を得ようと船窓に顔を寄せようとした時、背後で人の気配を感じた。
 急激に高めた警戒感と共に素早く振り向くと、病室の入り口、そのドアを塞ぐように浪人風の男が一人、胡座をかいて座っている。
 男は、長い黒髪を後に束ね、顔の大部分を黒いぼろぼろのサラシで覆っていた。不気味な出で立ちである。
 その手に刃が欠けた火夜の刀喰いを持ち、かざし見ている。
「…だれだ?」火夜は問うた。こういう状況に対する習慣通り、男言葉で。
 男は応えない。
 緊張感が高まる。
 いきなりドアか開いた。 まさに、「どかん」という勢いで。
 ドアの前に座っていた男は、必然的に跳ばされた。
 開けた主は与一だった。
「おっさん、こんな所で何やってんだ」与一は、跳ばされ、顔を床に打ちつけたまま動かない男を見て言った。顔見知りなのだろう。少なくとも自分が跳ねとばした相手の身体を気遣う必要が無い程度には。
 男は黙って立ち上がると、無反応のまま医務室を出ていった。
 刀喰いは男が跳ばされた時に手放して、床に落ちたままだった。
 与一は、火夜に言った。 
「甲板、来るかい?」
 二人は、後甲板に出た。火夜の傷を気遣って、与一はゆっくり歩いている。
 やがて後甲板の最後部突端にたどり着くと、そのまま海を見た。関門海峡とは比較にならない程、波が穏やかになっている。船が瀬戸内海に入ったのだ。
 周囲を見渡すと、日本海のような外洋とは違い、水平線が空ではなく陸地で仕切られていた。
 手すりに寄りかかり、船尾から続く白い航跡を眺める。
「不思議だろ、船のお尻から泡が出てくる」与一が言った。「すくりゅーとかいう羽根が海ん中で回りながら船を進めるんだとか。あの黒船より新しい仕掛けらしい」
 近代の産業技術なぞには全く疎い火夜は、与一の話している内容について全くピンとこなかった。そんなことよりも、与一には質問が山ほど有るのだ。有りすぎて、聞きたい事の優先順位が決められない程だ。
 火夜は、いらつく気持ちを落ち着けようと自分の姿を見下ろした。包帯がぐるぐる巻かれた上半身に、はだけた着物を羽織っただけの見窄らしい姿。笄が行方しれずになってしまい、ばらけたままの長い頭髪も、海上の風に煽られ黒い布のように靡いている。その一部分が顔に掛かって鬱陶しかった。
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「心、此処にあらずだな…まあ、貸し借りをうんぬんする仲でもなかろう」と与一が返す。
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 肩を落とす火夜。
 与一は、あれから長崎で起こった件を色々と察した結果、今では火夜の言葉を理解できるのだった。
「なんというか…手練れだったな」寿々の事である。慰めるのも逆効果な気がして、返す言葉が見つからず、結局つまらない返答をしてしまう自分に嫌悪感を感じた。
 ただ、その言葉に触発されたように与一の胸元に縋り付き、突如として取り乱す火夜。
「あの男! 寿々と一緒にいた山伏は誰なの? 何で寿々があんな奴に! 道具みたいに使われて!」
 火夜は、捲し立てながら与一の襟首を掴んで揺すっていたが、そのまま与一に体重を預けて、その胸にうずくまり、震えた。
「奴の名は、ぼろん坊。十頭社中の一人だ」与一は一拍置いて答えた。
 肩を抱こうか迷った挙げ句、何もせず、ただ答えただけだった。
「と…がしら、しゃちゅう?」鸚鵡返しで見上げる火夜。与一の顔が近い事に気付いて、湧き起こった羞恥心を隠すために、素早く与一から離れた。
「現政府を倒し、徳川に代わる幕府を興そうとしている組織さ…その首謀者は十人の兄弟姉妹だという話だ」
「それで、十頭?」
「ああ、彼らが現政府に叛意がある限り、そして我々が戮士である限り、彼らとの衝突は避けられない」
「望むところだわ。そうすれば…」
「娘の消息が知れるか?」それは、火夜への問いかけというよりも寿々をみすみす連れ去られた自分への確認でもあった。寿々の奪還は自分の責務でもあると与一は自覚しているのだ。
「しかし我々には、もう一つ明確な敵が存在する」
「敵?」
「ああ、イルミナティ。もう一つのフリーメーソンリー。日本政府側についているメーソンと区別する為にそう呼んでいる」
「イルミナティ…」
 火夜のつぶやきをかき消すように、遠くから大声が会話に割り込んできた。
「与一サーン。モウスグ広島に到着シマース。ト、きゃぷてんガ云ウテマース」艦橋脇のデッキから、トーマス・グラバーが叫んでいた。
 与一は、火夜に肩をすくめてみせた。
 話の腰が折られてしまった。そう思いながらも、火夜は、どうしてもこの場で聞いておきたい事があった。
 与一は既にグラバーに手を振りながら、艦橋に向かって歩き始めている。歩き出した与一の背中に質問する火夜。
「そういえば、私の刀喰いを睨んでいた、あの浪人風の御仁は、どなた?」
 与一は立ち止まり、一瞬、躊躇して言った。
日ノ本羅刹ひのもとらせつ。まあ、俺の師匠…かな」
「師匠? 何の?」
 与一は、海の遠くを見ながら、呟くように答えた。
「主に、人の殺し方と、ついでに、生かし方、だ」
 火夜が「えっ?」と聞き返そうとした瞬間、その言葉をかき消すように「ブォーーッ!」と、船が港に近づいた事を知らせる汽笛が鳴った。甲板にいる人間には、暫く耳鳴りが続くほどの大音量である。会話など不可能だった。
 話の腰を折られて答えを得られないのは、今日これで二度目である。
 人が知り得る知識や情報というものも、人の出会いと一緒、巡り合わせなのだ。どうしても抗えない時もあると、火夜は理解していた。だが、あきらめ顔で与一の後を追いながらも、自分と与一の情報量の差について考えていた。つまり、同じ戮士なのに持っている情報に差がありすぎるのだ。
 十頭社中等という組織の存在を火夜は全く知らなかった。どう考えても、戮士の本分である日本の治安維持にとって重要な情報である。火夜は、自分以外の戮士と任務を共にした事が何度もあるが、彼らからも聞いた記憶が無い。
 つまり、与一はその情報を戮という組織、ひいては日本政府とは別のところから得たことになる。
 病室にいた男、日ノ本羅刹と云ったか? あの男が怪しい。火夜の勘がそう告げていた。

 それから数日後、神戸港の沖合に、与一の一行が乗船していた外洋船が沖に停泊していた。その近傍を通過する弁才船の優に三倍する巨大な船体であった。
 西洋化、近代産業化を急ぐ明治日本だったが、神戸港あたり主たる港でも、未だ外洋大型船を直接停泊させるだけの拡張工事は終えていなかった。
 与一、火夜、グラバー、羅刹は、外洋船から小舟に乗り継いで上陸した。
 政府役人や警察官数人が馬車や馬でグラバーを迎えに来ている。ここからは陸路で目的地である京都舎密局に向かう為、その護衛部隊であった。
「異人グラバー、動かば道中、大名行列」と、しばらく巷で揶揄されたという大行列が、京都へ向かって出立した。
 与一へは、既に大政官から引き続き護衛の命が送りつけられていた。移送の同道及び京都の駐在までが任務に含まれている。
 火夜は、お役ご免だった。得物の無い戮士では当然である。
 彼女には刀喰いの修復が特命された。それよりも火夜が喫驚したのは、羅刹が火夜に同道するという事だった。羅刹は野刃を修復する技術を持った刀鍛冶を知っているというのだ。まさに青天の霹靂である。
 与一といえば、「へー、いいんじゃない」と連れない。羅刹がらみの話しは、なるべく関わり合いたくないという風情である。
 こうして諸々の真意真相を聞けぬまま、火夜は与一と別れた。それは見知らぬ男との二人旅の始まりでもあった。丁度、西国街道にて京都と岐阜への分岐点である宿場、山崎宿の事である。 
 それから半日ほど遅れて、東京の太政官に連絡が入った。明治政府が明治2年に英国の通信技師を招いて以来、整備に力を入れていた電信網を通しての一報である。
 会議室に集まった三条実美と岩倉具視、大木蕎任の前にして、大久保利通が電報文を読んでいる。
「与一が、無事にグラバー公を神戸まで移送したようです。とりあえず息災です」
「長崎で襲ってきたのは、イルミナティで間違いないのだな」と岩倉が問う。
「はい。しかも、ぼろん坊他、十頭の連中も数名確認されております」
「イルミナティと十頭社中が手を組んだ、というのは間違いないのか」今度は三条が訊く。
「はい。しかし、その後、それぞれが独自の動きを見せているとの報告もあり、確かな事は未だ調査中です…それと」大久保は、問われてはいない事なのだが、通信内容の気になる部分を言うべきか悩んでいた。
「なんだ?」三条が促した。
「日ノ本羅刹らしき人物を見たという報告も」と、大久保は恐る恐る報告する。
「何処でだ!」三条が眼を剥いて叫んだ。
「グラバー公移送の船内で…」大久保は、自分が怒られたわけでもないのだが、その迫力に気圧されつつ答える。
「日ノ本が動くと云う事は、勝か! あやつめ、また何か企んで…」三条は、頭を振りながら俯き額を手で覆う。
 静まりかえる室内。
勝安芳かつやすよし(注:勝海舟のこと)。戮の実質的な生みの親、毒をもって毒を制す張本人か…奴自身が毒じゃなきゃ良いがな」
 岩倉が、いつもの毒舌で静寂に華を添えた。
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ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

幕末純情列伝~そして少年は大人になる 【京都編】

斑鳩陽菜
歴史・時代
 新選組副長・土方歳三_、戊辰戦争の最中、彼の傍には付き従う一人の少年がいた。  その名を市村鉄之助。  のちに、土方の形見を土方の故郷まで届けに行くことになる鉄之助。  新選組の仲間や、坂本龍馬との出会いを通し、新選組隊として成長していく。 ------------------------------------------------- 【京都編】では、慶応二年秋から、鳥羽・伏見開戦までとなります。  どうかよろしくお願いいたします。

浪漫的女英雄三国志

はぎわら歓
歴史・時代
女性の身でありながら天下泰平を志す劉備玄徳は、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮を得て、宿敵の女王、曹操孟徳と戦う。 184年黄巾の乱がおこり、義勇軍として劉備玄徳は立ち上がる。宦官の孫である曹操孟徳も挙兵し、名を上げる。 二人の英雄は火花を散らしながら、それぞれの国を建国していく。その二国の均衡を保つのが孫権の呉である。 222年に三国が鼎立し、曹操孟徳、劉備玄徳がなくなった後、呉の孫権仲謀の妹、孫仁尚香が三国の行く末を見守る。 玄徳と曹操は女性です。 他は三国志演義と性別は一緒の予定です。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】奔波の先に~井上聞多と伊藤俊輔~幕末から維新の物語

瑞野明青
歴史・時代
「奔波の先に~聞多と俊輔~」は、幕末から明治初期にかけての日本の歴史を描いた小説です。物語は、山口湯田温泉で生まれた志道聞多(後の井上馨)と、彼の盟友である伊藤俊輔(後の伊藤博文)を中心に展開します。二人は、尊王攘夷の思想に共鳴し、高杉晋作や桂小五郎といった同志と共に、幕末の動乱を駆け抜けます。そして、新しい国造りに向けて走り続ける姿が描かれています。 小説は、聞多と俊輔の出会いから始まり、彼らが長州藩の若き志士として成長し、幕府の圧制に立ち向かい、明治維新へと導くための奔走を続ける様子が描かれています。友情と信念を深めながら、国の行く末をより良くしていくために奮闘する二人の姿が、読者に感動を与えます。 この小説は、歴史的事実に基づきつつも、登場人物たちの内面の葛藤や、時代の変革に伴う人々の生活の変化など、幕末から明治にかけての日本の姿をリアルに描き出しています。読者は、この小説を通じて、日本の歴史の一端を垣間見ることができるでしょう。 Copilotによる要約

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

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