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4.副社長からの呼び出し
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水曜日、会社の正面玄関に尚登は颯爽と入ってくる。他の社員には笑顔で挨拶をしていた警備員が会釈もつけて挨拶するのには、尚登は手を上げ応えた。
受付内で準備を始めていた受付嬢のふたりが尚登に気づきすぐさま立ち上がる。
「副社長、おはようございます」
深々と頭を下げて挨拶をした。他の社員では言葉すら発しないが、それを気にする者はいない。
「おはよう」
返事をし、人でごったがえすエレベーターホールへ向かう、さっさとフレックスタイム制を導入すればいいのにと思うが、昭和の思考の父たちには通用しないようだ。かく言う役付きである自分はもう少し遅い出社を勧められている、秘書たちの仕事が9時に始まることを考慮してだが、尚登は構わず出社しているのは副社長としての自覚が薄いからだ。
エレベーターは上層階、低層階へ行くもので分かれている、尚登が行くべき副社長の執務室があるのは最上階の30階だ、その列の最後尾に並んだ。
「おはようございます」
女性社員たちが上目遣いに媚びた挨拶をしていく、尚登は上品な笑顔を見せてそれに応える、その時前方に陽葵を見つけた。
(お、あの子だ)
俯いた横顔に釘付けになった、ポン、と明るい電子音がしてエレベーターの到着を知らせると陽葵は顔を上げてそれを確認する──その横顔に胸騒ぎがした、日曜日に見た血の気のない顔そのものだった。
(──またなんかあったのか)
月曜日は元気そうだったのに──声をかけようとする前に、陽葵は生気を失った顔のままエレベーターに乗り込んでしまう。たまたまそう見えただけか──そんなはずはない、自宅まで送った時に見せた笑顔が本物だと、妙な確信があった。
思わず腕時計を確認する、8時45分だ、いつもこの時間に出社しているのだろうか。
次のかごが到着し、尚登に気が付いた者が先に乗るよう勧めるのは役職と一番上層階へ行くこともあってだ、確かにそれが一番スムーズなのだと尚登は素直にエレベーターに乗り込む。
(上層階行き──)
15階から30階は本社の業務を担当する階だ。下層階は事業本部などが入り、さらに下層の1階から5階はテナントとして貸し出している。
(──本社の経理か)
陽葵のことを考えながら乗っていると、今日はとびきり到着が遅く感じた。30階に着いたのは尚登一人だ、降りてまっすぐ自分の執務室へ向かえば、ドアが開け放たれた中で秘書の山本敦が尚登の机で書類の整理をしていた。
「おはようございます」
笑顔で出迎える、だがそれがすぐに不思議そうに傾いた。
「どうしました?」
「……うーん」
尚登はジャケットをコート掛けにかけ、重厚な椅子を引いて深々と座るとひじ掛けに頬杖をして考え込む。
「悩み事ですか?」
そういう変化に気づけるところが、さすがだと尚登は思う。副社長の職に就いて初めは女性の秘書をつけてもらったが、どうにも落ち着かないのは女の若さだけではない。あからさまに色仕掛けをされては嬉しいよりも怒りが増した。その日のうちに交代を頼むこと繰り返し1週間、いずれもまともな女ではなく、こんな状態で働けるかとボイコットをすればようやく来たのが山本だった。尚登より年上の35歳で、執行役員や経営責任者の秘書を長く務めた経験は伊達ではなかった。実によく気が付き、細やかに動いてくれる。
「愛しい人に会えませんでしたか」
言われて尚登はむっとする。
「なんで山本さんが知ってんだよ」
月曜日に陽葵に会った時には山本はいなかったが──言えば山本はふふんと笑う。
「社長にしつこく聞かれました、副社長が声をかけた女性のことを何か知らないかと」
尚登は舌打ちで応える。
「存じ上げませんとお答えしています、でも所属や名前や愛称くらい聞いていないのかと食い下がられ困りました。そんなそんな、私などが副社長からプライベートな相談など受けるはずがありませんとお答えしておきました」
「あのなあ、山本さん」
プライベートかどうかは別として、愚痴や文句は散々話している、それなりにフランクな関係だからこその山本の嫌味だと判る。
「でも本当にそんな女性がいたとは意外です」
「挨拶したくらいでそんなこと言われたくねえ」
「おや、ご自分がどれだけの存在かご存じでそのような謙遜を」
トントンと書類を揃えながらの笑顔で嫌味に、尚登はけっと毒気づく。
判っている、世界的に支店や支社も持つ大企業と呼ばれてしまう会社の一族の跡取りだ。父で4代目、今どき家族経営などと思うが、すっかり親が敷いたレールに乗り今や副社長と呼ばれる座に就いてしまっている。外観しかりだ、良くも悪くも目立つのは事実で、子供のころからもてはやされた。
容姿も家柄も人々を魅了してしまう、告白された回数も数えきれない。それが嫌でせめて家庭の呪縛から逃れたいとアメリカ行きを決めた。アメリカで暮らした10年余りは何のしがらみもなく、のびのびとできて一番楽しい時間だったが──思わずため息が漏れた時。
「社長も気にかけていらっしゃいましたし、社内の人なら素性は確かなことあるので一番喜ぶお相手じゃないでしょうか」
それには尚登はふむと応える、その通りだ。
「気になっているお相手がいることくらい匂わせるのはいいと思いますけどね、そうしたら落合課長も落ち着くでしょうし」
出た名前に尚登はムッとしてしまう。
秘書課の課長だ。かつては尚登の母とは父を巡っての恋敵だったと聞いている。だからなのか、年齢的に自身を売り込むことはできないと言うのだろう、尚登の就任時に女性秘書を送り込み、現在は毎週のようにある見合い相手も仲介しているというのだから面倒この上ない相手だ。
「──まあ確かになぁ……」
ため息交じりに答えた。毎回会いたくもない相手にお付き合いはできないと断るのも疲れる上、会社にいれば用もないのに落合が顔を見に来るのもいけ好かない。
「──ふむ」
頬杖をついた手で頬を叩き、思案を始める。
☆
木曜日になった。史絵瑠の電話は連日続いているが、陽葵は未だに答えを出せずにいる。
史絵瑠はしびれを切らし、日ごとに言葉が荒くなっていく。それでも陽葵がうんとは言えないのは、もし史絵瑠を受け入れてしまったら親がどういう反応をするのか判らないという恐怖がつきまとうからだ。
長く連絡を絶っていた、しかし史絵瑠と住むことになれば関りを持たざるを得ないだろう。もう小さな子供ではない、殴り言うことを聞かせようとするようなことはないだろうが、ではどんな仕打ちを受けるのか──あるいは、史絵瑠のようになにもかも忘れて普通の家族のように接するのか。それすらおぞましく感じて、完全に思考が停止してしまう。
一緒には住みたくないとはっきりと言えないまま史絵瑠と会話をしていると、どこで働いているのだ、住所は、住まいの最寄り駅はどこだなどとプライベートな質問までされてしまい、それから逃れるようにいくつかの案は示してみた。
引っ越し資金は貸すから京助から逃れるためにとにもかくにも家を出て、それからゆっくり考えよう、とか。虐待を受けている女性を匿う団体、施設を頼ってみたらどうか、など。しかし史絵瑠の結論は陽葵と暮らしたいということで決まっているようだった──しかし、なぜ自分なんかと──親しそうにしていた男もいた、その人を頼ればよいのではないか。
はあ、とため息が漏れた。
「陽葵ちゃん、大丈夫?」
三宅が心配して声をかける、もとより陽葵はおとなしいタイプだが輪にかけて静かな上、ずっと顔色も悪いことは気づいている。
「朝礼、終わったよ」
いつのまに、と思わずあたりを見回した。部署だけ行うもので、今日の休みは誰などいった連絡事項を伝える程度だ。いつも取り仕切る経理部の部長はおらず経理課の課長の川口が代行していたがそれついての報告はなく、今日も元気に働きましょう、くらいで終わっていた。
「コーヒーでも買ってこようか? あ、気分転換に一緒に買いに行く?」
フロアに自販機やベンダーを置いたエリアがある、ちょっとした休憩スペースになっているそこへの誘いを断り、椅子に座ると業務を始める。
パソコンでの伝票の入力だ、その時画面の下方にチャット形式の社内メールの受信を知らせが出た。あまり使われることがないそれを、なんだろうとクリックすればメッセージが現れる。
【高見沢尚登です】
そんな文言に背筋が伸びた。
(え、なんで副社長が私の社員ID知って……っ!?)
それ自体は調べれば簡単に判ることだがなぜわざわざ調べたのかが判らない、陽葵は全身から熱い汗が噴き出す感覚に陥る。
【おはようございます、藤田です。お疲れ様です】
すぐに返信した、心臓がドクドクと動き始め、指先も震え出す。
【おはようございます】【今朝、姿をお見掛けしましたが、具合が悪そうですね】
(え、いつ!?)
声になってしまいそうになるのを堪えた。今朝ならばエレベーターホールでだろう。
【ご心配おかけしてます、すみません、ちょっと寝不足です】
それは事実だ、史絵瑠のことで眠れない──それ以上に悩み事で吐きそうになっているが、それは言えない。
【もしかして、妹さんの件ですか?】
ああそうか、尚登は知っているのだと安堵しつつも緊張は解けない。
【ええ、まあ】
濁す返信をしようとしたが。
【話を聞きましょう。今日、一緒に食事をどうでしょう】
すぐさま提案され、陽葵は戸惑う。
(ええ……っ、副社長とご飯……!? 無理無理、心臓、破裂しちゃう! それに副社長に相談なんかできない……我が家の恥をしゃべるなんてありえない……っ)
陽葵はきゅっと唇を噛み締めてから返信する。
【お気遣いはありがとうございます。でも大丈夫です】
【そう言わずに。先日は話したら少し楽になったんじゃないんですか?】
確かに──尚登の優しい声と態度を思い出し、わずかに心がぐらついた時。
「藤田さん」
いなかったはずの経理部の部長に声をかけられた、今どこからか戻ってきたようだ、慌てて戻ったのかわずかに息が上がっている。陽葵の傍らにしゃがみこみ、見上げて声をかけた。
「具合悪そうだけど、大丈夫? 有休あるでしょ、休んでいいよ」
心配そうな声に陽葵は申し訳なく思った、いろんな人に心配をかけている──陽葵は精一杯の笑顔を作って答えた。
「ご心配かけて申し訳ありません、ちょっと寝不足で……あの、ゲームにハマってしまって」
「なんだぁ」
陽葵の嘘を部長は素直に受け入れた。
「ゲームもストレス発散だからダメとは言わないけど、ほどほどにね! 寝不足はお肌の大敵だし!」
言うと、隣に座る三宅さんがすぐに「それ、セクハラですよー」などと声を上げる、部長は今はなんでもかんでもセクハラだななどと文句を言いながら立ち上がる。寝不足が肌に悪いのは一理はあると、陽葵は素直に詫び、そして礼を述べれば、部長はうんうん、邪魔したねと返し自分の席に戻っていった。
チャットの途中だった──再度画面を見れば、既に尚登から店の場所が記されたメッセージが来ている。
【セントラルホテル、『朱竜宝園』に18:30。直接お店にお願いします。予約名は高見沢です。お待ちしてます】
ひえっ、と内心声が出た、もう断わることなどできない──しかもランチではなくディナーだ、さらに五つ星ホテルの中華などいくらするのか……銀行に寄ってから馳せ参じなければ。
☆
終業は17:30だ。会社を出るとまず銀行に行き、念のため3万円を下した。調べればディナーの料金は14,000円から18,000円とあった、半月分の食費が一回の食事で吹き飛ぶなどありえないと泣きたいが今更断ることもできない。銀行に寄ってもまだ待ち合わせには早かった、一旦帰宅し着替えることにした。高級レストランで副社長との食事である、恥ずかしくない恰好は必要だと思った。今年新調したスーツなら少しはよく見えるだろうか。髪を梳かし、普段しない化粧もし──もっともマスカラと、いつもより濃い目の色の口紅を引いただけだ。
そしてセントラルホテルへ向かう。みなとみらい地区にあるホテルだ、その最上階にある中華レストランへ──会社よりも豪華で静かなエレベーターに乗り込めば異次元に来た感覚だ。高級感しかない廊下を行くと重厚なレストランの入り口が迫ってくる。姿を見かけたボーイがすぐさま最敬礼で陽葵を迎えた。
「いらっしゃいませ」
「あの、予約しています、高見沢、です」
敬称まで付けようと思ってやめた、さすがにおかしいのは判る。
「お待ちしておりました、お連れ様は既にご到着です」
「えっ」
早いと思った、自分も指定された時間より早く来たつもりだったのに、すでに過ぎてしまったかと焦るが鞄に入れたスマートフォンを出して時刻を確認する余裕はなかった。
案内されたのは個室だった。丸テーブルには二人分のテーブルウェアが並んでいるのが見えた、二人きりということだ。
(そうか身の上相談だから二人きりで……えっ副社長と個室で二人きり!?)
事実に気が付き動転してしまう、足がもつれそうになった。
「尚登様、お連れ様がお見えです」
「ああ、いらっしゃい」
奥から声に、陽葵は最敬礼で頭を下げた。
「遅くなりました!」
途端に尚登は笑い出す。
「全然だよ、まだ10分もある」
どうぞと席を勧めてくれる、その椅子をボーイも引いた。だがそこはドアから離れた上座になる場所である、陽葵でもその程度の常識はある、副社長を差し置き上座に座るなど──出入口でもじもじしていると。
「どうぞ」
尚登に勧められ、陽葵は諦めた。
「失礼します!」
右手と右足が一緒に出る感覚で歩みを進める。
(嘘でしょ、副社長と二人きりって……私、死ぬんじゃなかろうか)
そうなればいっそ楽かもしれない──そんな悲観的なことを思ったが、椅子の前に立ちひざを折ればボーイがきちんと椅子を押し込んでくれほっとする、無事に座ることができた。
「飲み物はビールでいい? 俺が飲みたいだけなんだけど」
「はい! 構いません!」
「じゃあビール二つと、で、もう食事を始めてもらっていいですか?」
「かしこまりました」
ボーイはにこやかに言いドアを静かに閉めて出て行く。
途端に静かになった気がした、いや微かにBGMは流れている、それはクラッシックだった。
「今朝と服が違う、着替えてきたんだ」
そんな言葉に、本当に今朝姿を見かけたのだと判った。
「はい、セントラルホテルと聞いて、ドレスコードが気になったので」
陽葵が答えれば、尚登は微笑み答える。
「ビーサン、短パンじゃなければ大丈夫だ、この間はジーンズで来てる人もいたわ」
そうなんだとほっとした、むしろジーンズで来られる度胸に感心してしまう。
「昨日の朝も姿を見かけたんだよね」
尚登は静かに話し始めた。
「顔色が悪かった、そして今朝もだったからとりあえず部長を呼んで話を聞いてみたけど、君の具合が悪そうなことすら気づいてなかった」
それは部長に同情してしまう。
「部長はお忙しいですから私なんかに構ってられませんよ、それにもし気が付いて声をかけてもらっても、部長に話せることなんか……」
「確かに今回はプライベートなことだから話せないかもしれないが、もしこれが社内におけるイジメや嫌がらせや病気なんかがあった場合、気が付きませんでしたじゃ済まない」
厳しい声に背筋が伸びた、確かにその通りだ。
「いじめられている人のパフォーマンスは落ちる、それを見ている周りの人も。それは会社にとって損失だ。いじめている側だって、そのパワーを仕事に向けるべきだろ。いじめじゃなくても重大な病気で明日にも倒れる可能性だってある、発見が1日、1時間早いだけで助かる命もあるかもしれない。普段と様子が違う人を放置していてはいけない、上司は部下の観察がでなきゃ駄目だ、それができないのは由々しき事態だ」
それが尚登の哲学なのだと思った、この人が社長になったらわが社はもっといい方向へ行くだろうと感心した。
「だから目黒駅で私に声をかけてくれたんですね」
偶然同じ会社の者だったが、赤の他人でも明らかに様子がおかしい者を放っておけなかったのだ。
「まあ、純粋に気になったというのが一番だけどね」
そんなことを言ってにこりと微笑む、ここへ来て記憶にある副社長とは雰囲気が違うと感じた。
「で? 妹さんとは何が?」
それが本題だ、途端に陽葵の表情は強張る。どうしようか──陽葵は小さな深呼吸をし、語りたいことを整理する、全てを語る必要はない。
「──実は、妹に一緒に住みたいと言われまして」
「あー……」
尚登は頷く、日曜日にぽつりと家族とうまくいっていないと言っていたのは覚えている。
「その、どうしても家を出たい事情があるそうで、だったら妹を匿ってあげなくては思うんですけど、何年もろくに会っていなかった人たちと今更関わり合いを持つ勇気が持てなくて」
言葉を選び語ることを、尚登はうんうんと頷き聞いた。
「毎日電話をくれます……相当切羽詰まっているというのは判るんですけど……いいよって言ってあげない私は、とても冷たい人間なのかと思って自分が嫌になるんですけど……でもやっぱりおいでとは、どうしても言えなくて」
「いいと思うけどね」
尚登ははっきりと告げる。
「家族だからって自分の気持ちに嘘をついてまで犠牲になる必要はないだろ。どうしても一緒に住めないというならそれが君の心だ、それに従うほうがいい」
「──はい」
力強い肯定に勇気はもらえたが、それでも陽葵の決心はつかない。それを史絵瑠に伝えればどんな反応があるのか、それが怖かった。
「なんでそこまで悩むのか、聞いても平気?」
陽葵の様子に何があったのかのほうが気になった、何年も会っていないと言っていた、親し気に話しかけられたと泣いていた、そして一緒に住むことを拒絶している──過呼吸になるほどの家族とはどのようなものなのか。
陽葵は膝の上で拳を握り締めた、尚登が心配をしてくれていると判る。こんなところにまで呼び出し話を聞いてくれようとしているのだ──とそこへビールと、最初の料理である前菜の盛り合わせがやってきた。
「まあ、まずは乾杯」
尚登がキンキンに冷えたジョッキを持ち上げる、陽葵も持ち上げ乾杯としお互いに口をつけた。尚登は喉を鳴らして大きく二口も飲む。
「ぷはーっ、やっぱり仕事のあとの1杯は最高! ああ、食べながら話そう」
尚登が箸を取ったので陽葵も倣い料理を口に運ぶ、マグロの漬けがおいしく思わず唸った。
「妹さんは社会人? 藤田さんの年齢から考えれば大学生か」
尚登の言葉に、急に現実に引き戻された。
「はい、2歳年下で大学生です。聖ミシェルだと言ってました、留年などしていなければ4年生かと」
「ほほう、泣く子も黙るお嬢様学校だ」
さすがの尚登も知っている、通う学生もそれなりのプライドを持っていることも。
「藤田さんも?」
「いえ、あの、私は東大です」
「ああ、東大か」
陽葵の履歴書を見ていた、それをすっかり忘れて質問していた。
「すげーじゃん」
名の通った最高学府と言われる大学だ。
「そんな。副社長はハーバードだと伺ってます、そんな方に褒められても」
嫌味のように謙遜してしまったが取り返しはつかない、だが尚登は微笑み答える。
「まあ勉強は好きだったのは事実だな。藤田さんなら判るかね、勉強ってさ、先取りで詰め込めばいいわけじゃん」
「え、まあ……」
確かに大学受験に向けてはとにかく詰め込んでいたように思い陽葵は頷いた。
「で、それに関して言うと親は金をかけてくれたね。塾は三つ掛け持ち、一日18時間は勉強してたけど」
陽葵は小さな声で、ひえ、と声を上げていた。自分はそこまで勉強に打ち込んだだろうか。
「まあそれは中学までの話、そこでなんかブチ切れて、中高一貫校だったのを高校はアメリカに行くって飛び出したんだけど」
「そうなんですね……でもそれで大学院まで行ったなら……羨ましいです」
陽葵の小さな呟きに尚登は首を傾げる。
「あ、すみません、私も本当はもっと勉強をしたかったんですけど……私は親から見捨てられたので、お金がなくて早く働く必要に駆られていて、先の勉強ができなかったのがちょっと悔しいんです」
親が親身になってくれても大学院まで行けたかは判らない、それでも選択肢から消さなくてはいけないのは悲しいことだった。
「──君は親から見捨てられ、妹さんは学費が億だとか言われちゃうお嬢様学校に通うってどういうこと」
尚登の怒った口調に、陽葵は救われた気がした。億と言うのはもちろん大げさだが、年間の学費は安くはなく、噂ではかなりの寄付も要求されるとのことでそんな評判が立っているのだ。
陽葵は淋し気に微笑み語り出す。
「うち、両親が再婚なんです、私たち姉妹はそれぞれの親の連れ子です。私の血縁者は父ですけど、父も妹がかわいいようです」
実際陽葵から見てもかわいいと見惚れた、見た目だけじゃなくて仕草や喋り方などすべてが女の子らしかった。父の京助もそんなところに魅力を感じたのだろうか。
「──妹が泣くと私が意地悪をしたときつく叱られました、継母にはもちろん、父にもです。ぶたれり蹴られたことも……自分ではなにかした覚えはないんですが、再婚して間もなくからでした。私のことは目障りだったんでしょう、中学受験を勧められそれは遠く九州の中高一貫校で、寮に入りました」
語り出すと止まらなかった、尚登は頷きながら聞く。
「6年間の寮生活で家に戻ったのは冬休みの数日だけです、それだけならと嫌々ながら帰ってました。その数日でも同じような扱いで、家に私の居場所はありませんでした。ですから早く独り立ちするために高校卒業後は九州での就職を希望していましたが、先生の勧めで大学進学を決めています。家族は私が大学に進学したことも、こちらに帰ってきたことも誰も知らないはずです、もう何年もどちらからも連絡を取ろうとなんかしていなくて──」
消え入る声に、尚登は息を吐いてから応える。
「──それで君は、穏やかに幸せに暮らしていたってことだ」
「──はい」
膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめた、まさにその通りだ、平穏に暮らせていた。
「──なるほどね」
尚登は頷く、陽葵が義妹と暮らしたくない理由が理解できた。
その時ドアがノックされて次の料理が運ばれて来る、フカヒレの姿煮に陽葵は目を丸くした、初めて食べる代物だった。
「そういう事なら、やっぱりきっぱり断るべきだな。君はせっかく毒でしかない親から逃げられたのに、下手に情に流されれば、また関りを持たざる得なくなる、そうしたらまたひどい目に遭う可能性があるんだろ」
「──でも……っ、今、義妹も大変な目に遭ってるんです……!」
「大変な目?」
──余計なことを言ったと陽葵は慌てて顔を伏せ表情を読まれまいとした。目の前のせっかくのフカヒレも喉を通らなくなる。
尚登は言葉の端々から想像した。どこか影のある表情や仕草は、親の仕打ちに由来しているのだろう。そして義妹も大変な目に遭っているとはいうがすぐさま救い出す方向で動けないのは、その虐待に史絵瑠も加担していたから──その義妹がなぜ陽葵と暮らしたいというのか──手にしたスプーンをゆらゆらさせながら考えた──それは当人でなければ判らない、判らないなら聞くのが手っ取り早い。
「君が断れないなら、俺が断ってやるわ」
「……はい?」
陽葵はきょとんとして返事をする。
「俺としてはやっぱり家族との縁は切ったほうがいいように思うぜ。妹さんが家を出たいと言うなら、今4年生なら春には卒業だろ、就職なりをきっかけにひとり立ちを勧めたらいい」
「でも家を出て行くなら月10万円を仕送りしろと言われているそうです、そんな出費を負うなら、私と一緒に住んで家賃や生活費は折半にできたらありがたいと考えているようで」
「それって真面目に取り合う必要ある?」
はっきりとした物言いに、陽葵は息を呑んだ。
「親御さんは無職なの? 子供が高給取りだっていうならまだしも、まだ学生の子に10万もの仕送りを要求するなんてあたおかだろ」
確かにそれを払わないからといって連れ戻されるようなことはないだろうが。
「働いてたってきつい、それは君も判るだろ。そんなに金が欲しいなら自ら働けだ。事情があって働けないなら生活保護もあるし、そもそも君のお父さんは公認会計士だろ、そんなに金には困ってないんじゃ」
「え?」
なぜ父の職業を、と思わず聞き返してしまった。
「あ、ごめんごめん、君の履歴書見た」
もちろん、尚登といえどもいつでも閲覧可能ではない、人事部を通し正式な手続きをして見せてもらったのだ。
陽葵はああと納得した、確かに両親の仕事欄にはそう書き込んだ──もっとも今もその仕事を続けているかは判らないが。
「でも、あの親ならやりかねないような、気がします……」
陽葵の記憶の中の両親は怖い存在だった。
「君に対する言動からはそうかもしれないが、現時点でミシェルなんかに通わせてるんだ、金に困ってるわけじゃないだろ、なのに妹さんが家を出たいから10万よこせなんて言うのは、単に手放したくないだけだ」
なるほど、と陽葵は理解した。やはり父の京助は、なにがなんでも史絵瑠をそばにおいて置きたいのだ。
「そんなの、ほっときゃい……」
「そんなわけには、いかないんです」
小さな声で反論していた、ようやく合点がいった。史絵瑠は父から逃げたいが、その父はなにがなんでも史絵瑠をそばに置いておきたい、それは自分の快楽のため──史絵瑠を救わねばならない。
「ありがとうございます、覚悟ができました。史絵瑠と暮らします」
「おいおい」
尚登は呆れて声を出す。
「いいんです、とりあえず一時《いっとき》の避難場所として来てもらいます。副社長の言う通りです、とりあえず卒業まで一緒に住んで、仕事が見つかったらひとり立ちしなさいと伝えます。仕送りの件で文句を言われたら、副社長の言葉をお借りします」
学生に10万もの仕送りを要求するなんておかしい、金が欲しいなら働けなどなどだ。
尚登は嫌がらせのように大きなため息を吐いた。
「またご両親にぶたれるかもしれないぞ、金なんて君にたかるかも」
確かにと陽葵は頷く。末吉商事で働いていると判れば間違いなくそうなるだろう、世界に名を轟かせる企業だ。しかし陽葵笑顔で返す。
「もうやられっぱなしの子どもじゃありません。なんとかやり返します」
背も今は継母よりも大きい、その分力もついただろう、殴り返したりはしないが押さえるくらいはできるだろうか。京助に辛く当たられるのは嫌だが。
「どうしてそこまでして自分を犠牲にする?」
尚登はため息交じりに聞く、陽葵は笑顔で答えた。
「私はあの親から逃げました、史絵瑠も逃げたいんです」
「君は逃げたかったわけじゃない、追い出さたんだ」
「でもそれが結果的にはよかった、史絵瑠も逃がしてあげなくっちゃ」
「どうして──」
尚登はカラトリーを置いてまでため息を吐いた。
「俺には判らない、そういうのを『蝋燭は身を減らして人を照らす』って言うんじゃね? 妹さんを受け入れれば、また痛い目に遭うかもしれないぞ」
「いいんです」
蝋燭は燃えて自分自身を小さくしながら辺りを明るく照らし出しやがてはなくなってしまう、自己犠牲を示したことわざだ。だが陽葵にそんなつもりはない。
「私は親から離れて楽になった、あの子も早く楽にしてあげたいです」
「もう子どもじゃないんだ、そこまで追い込まれてるなら自分で何とかできる。でもその場にとどまっているということは大丈夫だと言うことだ」
「子どものころからその環境にいると、逃げるという感覚がなくなるんです」
それが当たり前になってしまう──陽葵は尚登をまっすぐ見つめて答えた。
「その史絵瑠が助けてとSOSを上げたなら、私は迷うことなく助けてあげなきゃいけなかった」
尚登は面白くない──顔色も悪く悩んでいたのに、なぜその選択になるのか──。
「──聖人君子で立派だが。しょせんは赤の他人じゃねえの? そこまでの自己犠牲いる?」
陽葵はきゅっと唇を噛む、そんなことは言われなくても判っている。
「君、日曜日には妹さんに会ってしまったって泣いたんだぜ? そんな相手に?」
確かにその通りなのだが。
「そして昨日も今朝も死人みたいに真っ白な顔をして出社して。それって妹さんと暮らすなんて、死ぬほど嫌だからなんじゃねえの?」
「でも、一時です。私が助けて欲しいと伸ばした手は家族は誰も取ってくれなかった、とても悲しかったです、だからせっかく伸ばしてくれた史絵瑠の手は私が取ってあげたいです」
「君の手なら俺が取ってやる」
情熱的な言葉だったが、陽葵は気づけない。
「困っている妹を助けたいです」
「何に困ってんの? 金? それなら俺が払ってやるよ、さすがにずっと10万円給付はしてやらねえけど、君からってことにすればいい」
「そんなそんな、何言ってるんですか!」
少しだって副社長に借金などできないと大きな声で辞退する。
「大体一時で済むとは思えないね、きっと居座るぜ」
確かに一度招き入れたら最後な気はする──陽葵はごくりと息を呑んだ。
「そんな女、受け入れないほうがいい、君が壊れるのは確実だ」
──壊れる、陽葵は呟いていた。
「そんな危険を冒すくらいなら他に家でも探して当てがってやればいい、それにかかる一切の費用くらい俺が払ってやる」
「いえ、本当に、そこまでしていただく理由がありません!」
尚登の提案を陽葵は両手を振り拒絶する。なぜそこまでしてくれるのか──拾った子犬の世話感覚だろうかと勝手に想像した、しかし金銭感覚はおかしいだろう、赤の他人の引っ越しにかかる費用を負うなど──。
「別にいいけど、君のためなら」
と、尚登が最上級の笑みを見せた時、空気が震えた。
「──スマホ? 君だと思う」
「え、あ」
尚登はミュートにはしておらず、スラックスのポケットに入っているので着信はすぐに判る。陽葵のものは鞄に入っていた、上司との会食ということもありミュートにはしてあり、かかってきても出るつもりもなく──時間的も相手は想像できた、唇を噛んでしまう。
「妹さん? 出たら?」
陽葵の強張った表情からも判った、尚登が言うと陽葵は一旦は「いいえ」と断ったが、小さくうなずき鞄を開ける。ここで会話をする気はなくとりあえず静かにするため電源を落とそうとしたが、それを尚登は手を伸ばし奪い取った。
「え、ふくしゃちょ……!」
テーブルに置き、慣れた手付きで通話開始のボタンをスワイプするとスピーカーに切り替えた。
「副社長……!」
陽葵が大声をあげたが、尚登は優美な仕草で自身の口の前に指を立て、陽葵には手の平を向ける──一瞬陽葵はびくりとしてしまう、やはりそのような仕草はぶたれるのかと恐怖を覚えるのだ。静かにという意味だと判り、陽葵は従っていた。
『あ! お姉ちゃん!』
スピーカーから明るい声が響いた。
「シエルさん?」
尚登が問いかけたことに陽葵は驚いた、きちんと紹介した覚えはないが──会話には出ていたか。
『え? 男? 誰?』
途端に史絵瑠の声が棘を帯びる。
『なんで男がいるの? 姉はどこ?』
「少し席を外してます」
言いながら尚登はジャケットの内ポケットからボールペンを取り出した、そして陽葵に空いた手を差し出す。メモを寄越せという意味だと判り、コースターが紙製であることを見つけ、乗っているグラスをどかそうと伸ばしかけた手を掴まれた。
「え……っ」
驚いている間に、尚登はその手の甲にボールペンを走らせる。
「え、ちょっと……!」
書いてからまた指を口に当てる、一体なんだとわずかに怒りながらも見れば『なまえ』と書かれていた、史絵瑠は呼びかけていた、ならば自分だろうが苗字では呼ばれていたので下の名だと判じた。意味も判らないまま尚登からボールペンを奪い取り、仕返しだとばかりにその手を押さえ手の甲に『ひまり』と記す。
『そう。じゃあ折り返すよう頼んで』
史絵瑠の声はなおも刺々しい。
「ひまりに同居を迫っているそうですね」
いきなり名前呼びに口から心臓が出そうになる──驚きとともに嬉しさがこみあげたのが不思議だった。
『ええ、そうよ。それがなに?』
「すみせんが、お断りします」
はっきりとした拒絶に、今度は陽葵の心臓がバクバクし始めた──助けを求める史絵瑠の手を振りほどこうとしている、それはいいことなのか──。
『は? あんたに何の権利があって』
「悪いけど俺が一緒に住んでるんでね、諦めてくれ」
「ええ!?」
思わず大きな声を上げた陽葵を尚登はいたずらめいた目で見てにやりと笑い、自分の口の前に指を立てた──陽葵はこくこくと頷き口を手で塞ぐ。
「そうは広くない部屋に妹さんまで来たら狭くてしょうがないし、気ぃ遣うだろ」
『は? なに、あんた、彼氏なの? 姉からそんなこと聞いたことないんだけど』
「そうそう、彼氏。まだ秘密にしておきたいみたいなんだよね。君との同居も俺を盾に断ればいいじゃんって言うんだけど、俺との同棲は内緒にはしておきたいし、でもどうしても君を見捨てることができないようで、毎日めっちゃ悩んでて見てて可哀そうでさ。だから俺から断ろうと思って」
『あんたには関係ないでしょ』
「関係ないことねえだろ。優しいひまりに付け込むなよ。ひまりがどんな目に遭ってきたか知ってんだろ?」
ふふ、と史絵瑠は笑った、馬鹿にしたような笑いだと判る。
『知ってるわよ、パパもママも私のご機嫌取りに忙しいから、別に理由なんかなくても私が泣いて訴えれば、パパもママもすっごいいきおいで怒ってさ、面白かったーっ』
どくん、と心臓が跳ね上がった──「面白かった」、そんな言葉に体が冷えて行く──史絵瑠はわざと陽葵が嫌われるように仕向けていたのか──。
「──そんな生活が嫌で、ひまりは家族から距離を取ったんだ。そのひまりと住みたいと思う君の本心はなんだ?」
『あんたには関係ないでしょ、姉と話すわ。いないならまたかけるから』
「大ありだろ、俺の気が向けば一緒に住めるかもしれないんだぞ?」
史絵瑠は笑う、今度は自信ありげな笑い声だ。
『あんたに選ぶ権利があると思ってるの? いいわ、顔見せてよ、私が気に入ったら一緒に住んであげる』
すると画面に史絵瑠の画が映し出された、ビデオをオンにしたのだ。画面に映る自分の姿を見て前髪を整えている、顎を引いた様子から一番かわいく見える角度から撮っているのだろう。一目見れば自分を好きになる、そう思っているからこその提案だ。どんな男も陽葵よりも自分を選ぶ自信があるのだ──どうせ陽葵に恋人などいない、この度の電話も金で依頼されたのだろうくらいにしか思っていない。そんな男なら簡単にたぶらかせる。
背景からそこが史絵瑠の自室だと陽葵には判った、多少調度品は変わっているが、壁紙とタンスに見覚えがあった。
「何様だよ、てめえこそそんな権利があると思ってんのか、話にならねえな。切るぞ」
「え、ちょっと、待ってください!」
自分からは一言もなしなのかと、陽葵は思わず声を上げていた。
『お姉ちゃん』
陽葵の声が聞こえたのか史絵瑠の声がしたが、尚登は容赦なく通話を切ってしまう。
「え……っ! 副社長! なにを勝手に……!」
「あの女は辞めたほうがいい、ひまりが思う以上に性格悪いぞ」
「そんなこと……!」
たぶん、ある、などと思ってしまう。妹だからと庇いたい気持ちはあるが、陽葵が怒られる様を嬉しそうに見ていたのを思い出せば、そう思わざるを得ない。
「あんな奴をかばうことも助ける必要もねえ、口では姉だと言いながら姉だなんて思ってない」
「……でも妹なんです……その妹が傷つけられているのを見過ごすわけには……」
「だから何があったんだよ」
「それは……」
言わなくてはならないのか、父の罪を──そう思った時、陽葵のスマホが再度震える、画面に出た文字はもちろん『Diana』、史絵瑠だ。直後の電話などとはさきほどの話に納得がいってない証拠だ、勝手に通話を切ったことを怒っているのだろう。
どう対応しようか──悩んでいる隙に、尚登がスマートフォンに手を伸ばす。
「え、副社長……!」
陽葵が叫んだ瞬間、その口を尚登は手の平で、今度はしっかりと塞いだ。
「尚登って呼べよ」
顔を近づけ小さな声で言う、その意味を考えるよりも顔がきれいなことに見とれてしまい、尚登の手が触れていることなど気にならなかった。
「な、なんでですか……!」
何故名前で呼ばなくてはならないのかと、尚登の手の下でこもった声で訴えた。
「同棲してるって言ってるのに『副社長』はないだろ。あの女に俺の肩書きなんか知られたくないし」
確かに──若くして副社長だというだけで、社内の女たちすら盛り上がるのだ。もっとも世の中には若い社長も副社長も、探せばいくらでもいるだろうが──尚登が通話ボタンを押した途端だった。
『ちょっと、失礼にもほどがあるでしょ!』
史絵瑠の声が大きく響く。
『話にならないのはあんたの方よ! どうせ断るよう頼まれただけでしょ! 姉を出しなさいよ!』
陽葵が押しに弱いことなど知っている、だから直接話せば簡単に落ちると踏んでいるからこその連日の電話なのだ。史絵瑠側のビデオは変わらず画面はオンのままだが、スマートフォンは手に持っているのだろう、画面が激しく揺れているのは、怒りからか。
「いますよ、ひまり」
言って尚登もビデオをオンにし陽葵を映した。陽葵は一度もビデオ通話を使ったことはない、画面で史絵瑠と並ぶのが嫌だったからだ、だが今は二つの画面で並んでしまう、引きつる顔をなんとか笑顔にしようするが難しかった。
『お姉ちゃーん!』
史絵瑠の甘えた声にぞくりと背筋が凍る。
『──って、その人? 一緒に住んでるって……』
急に史絵瑠の声がしおらしく響いた、ん、と画面を見れば端に尚登が入り込んでいる、椅子を寄せすぐそばにいることに今更気づいた、体が触れあう近さだ。
「ふくしゃ……!」
思わず声を上げた陽葵の口を塞ごうとしたのだろう、尚登は陽葵の後頭部に手をかけ肩に押し当てた。そうだ、肩書きで呼ぶなと言われたと思い出したが、しかしいきなり名前で呼ぶなど無理だ、しかも突然抱きしめられ、陽葵の体が硬直する。
「どうも、高見沢です」
尚登は画面に向かってにこやかに挨拶をする。
『──へえ、まあ、かっこいいじゃん、お姉ちゃん、見る目あるね』
「どうも」
返事をしたのは尚登だ。
『交際はいつから?』
「いつからだっけ? そんな昔のこと忘れたな。住み始めたのは2か月前だけど」
すらすらと出てくる嘘に、陽葵はぎこちなくも頷くしかない。
『住んでるってことはぁ、結婚とか考えてるってことぉ?』
さきほどまでの攻撃的ものとは違い、なんとも粘着質な喋り方になった、画面の史絵瑠もずいぶん上から映したものとなり、上目遣いでこちらを見ている様子に媚びを感じる。
「近いうちにね。俺もいい年なんで、親からの押しもひどくて。あとはひまり次第だな」
にこやかな返事に陽葵の背に背中に冷たいものが流れる、そんな嘘はつくものではない。
『え~? いくつ~? そんなおじさんには見えないけどぉ』
「大学生からしてみたらおっさんでしょ」
質問には答えずにこやかに応じた、しかし史絵瑠は気にせず指で髪をクルクルと巻きながらなおも媚びた声で言う。
『えー、私は気にしなーい』
確かにと陽葵は内心思う、先日は父と言ってもいい男性と腕を組んで歩いていたのだ。
『お姉ちゃんよりぃ、私の方が、いい女だと思うけど、なぁ……』
ぺろりとわずかに舌で唇を舐めたのは、潤いを持たせ色気を出そうというのだろう。嘘でも交際しているという相手にする言動かと、二人揃って呆れた、それを正直に口に出したのは尚登だ。
「確かにいい女だな、性根の腐り具合が」
その言葉の意味は理解した、途端に史絵瑠の表情が憤怒に変わる。
『は!? 誰に言ってんの!? あんたこそ顔はよくても根性腐ってるわ!』
「お互い様なら罵りあいは不毛だからやめようか」
そんなことを笑顔で言う尚登は、本当に意地が悪いと陽葵は思った。
『お姉ちゃん! こんな人と付き合ってるなんて嘘でしょ!』
「なんで疑う?」
答えたのは尚登だ。
『お姉ちゃんがこんな人と付き合うはずないもの! お姉ちゃんにはもっと優しくて思いやりがあって、面倒見がよくて思慮深い人がお似合いだもの!』
「だってさ。さすがは姉妹、姉のことをよく判ってるねぇ」
それは陽葵に向けられた言葉だ。だが陽葵は首を横に振った、それは単に今受けた尚登の印象からかけ離れた人物像を言って言っただけであり、史絵瑠の本心ではないだろう。
「別れる?」
笑顔で聞かれたがそもそも付き合ってなどいない、ただ見上げて視線でそう訴えれば、史絵瑠からは見つめあい会話しているようにしか見えなかった。
『お姉ちゃん!』
史絵瑠が叫ぶ。
『目を覚まして! 私がお姉ちゃんを助けてあげる!』
助ける、そんな言葉が陽葵の鼓膜を叩く。
『その男に騙されてるんだよ! どんなによくても見た目で騙されちゃダメよ! 一緒に住んでるって言うなら、私も一緒に住んで、化けの皮はがしてやるから!』
ああ、結局そこに行き着くのか──陽葵はため息が出た。そうだ、史絵瑠は家から出たいのだ──史絵瑠が助けると言うなら、自分も助けなくては。
「うん、そう──」
そうしよう、そう言おうとした陽葵の顎に、尚登の手がかかる。
「はい?」
何をと思っている間に、陽葵の口を尚登は唇で塞いだ。え、という声すら塞がれる。
『ちょっと! 馬鹿じゃないの!? 邪魔するんじゃないわよ、色情狂!』
史絵瑠が口汚く罵る、尚登は軽く啄むようにして離れたが、しかし完全には離れないまま角度を変え再度重なる──何度かそんなことを繰り返した。
「ふ……ふくしゃちょ……!」
抵抗の声は尚登の口の中に吸い込まれてしまう、陽葵は拳を尚登の胸に当て押すが、離れる気配はないどころか顎の支えていた手が後頭部に回り完全に固定されてしまう。
「離……っ」
陽葵の声を封じるように舌が入ってきた、初めてのことに陽葵は戸惑う。しかもその合わさった唇はしっかり映るように顔もスマートフォンの位置も完ぺきだった。
『お姉ちゃん!』
史絵瑠の声が響く。
『ちょっと! 本当にその男、顔だけで馬鹿すぎでしょ! 人の話を聞きなさいよ!』
その声は途中で途切れた、尚登はスマートフォンの電源まで落としテーブルに放り出す。
静かな室内にキスの音が響く。こすれあう舌の感触に陽葵は体に熱が帯びるのを感じた、スマートフォンから離れた尚登の手が優しく頬を撫で全身から力が抜けそうになる。
なぜこんなことに──戸惑う間にキスはさらに深くなっていく。
「……やめ……」
声は言葉にならなかった。
「ふく……!」
「尚登」
ようやく離れた尚登が瞳を色っぽく光らせて言う。
「言ってみな」
いたずら気味に微笑むその頬を、陽葵は戸惑いと怒りに任せて叩いていた。
「──かわいい顔して馬鹿力だな」
つぅ、と痛みを訴えてからぼやいた。
「なんでキスなんか! ファ、ファ、ファ……!」
ファーストキスなのにと叫ぶこともできずに体をわなわなと震えさせる。
男性経験もないのに。
それがこんなにさりげなく。
しかもいきなりのディープキスで。
恋人でもない人と。
しかも副社長などと──脳内には文句しか出ない。その文句を誰かに訴えてもきっと羨ましがられるだろうが、自分にとっては嬉しい状況ではなかった。
「初めてか。どうりで新鮮な反応だった」
そんなことを言ってにこりと微笑む、その瞬間尚登が軽薄な男なのだと判じた、このような人間とまともに関わることはない、それより史絵瑠だとテーブルに置かれたスマートフォンに手を伸ばしたが。
「本当にやめておけ」
尚登が冷静に引き留める。
「今の言動見てても判るだろ。あいつは放っておいても図太く生きてく」
「でも──っ」
確かにとは思う。これで泣いてすがるようなことがあれば本当に手を差し伸べねばと責務に駆られるが、言葉も汚く怒鳴る様子には十分強さを感じる──だが抱きしめたスマートフォンの電源を入れることはできなかった。
「──もし史絵瑠が自殺でもしたら、副社長を恨みますから」
陽葵は脅しのつもりだったが、尚登は呆れてため息を吐く。史絵瑠はどう見ても自殺よりは他人を攻撃するタイプのようだが。
「恨まれても君に覚えてもらえてたら嬉しいくらい言えるけどね。自殺って、どうして」
できるならば言いたくはないが、尚登の『なぜ』を解消するためには言わなくてはいけない──家族の恥を──深呼吸で気持ちと脳内を整理する。
「父が……」
喉に絡みつくものをごくりと飲み込んだ。
「父が史絵瑠に性的虐待をしているそうです……もう10年以上も、ずっと」
思いのよらない言葉に尚登は「そう」と呻くように返事をした。
既に家族関係のことは聞いた、史絵瑠と陽葵の父ならば戸籍上の親子だ、その二人がしていること──頬杖をして思案を始める。
「私と住みたいというのは、その父から逃げたいという史絵瑠のSOSなんです、義理でも史絵瑠は妹だし、父は私の実の父だし、あの子の性格が悪いって言うならそれも家庭環境でしょう、だったら私が責任を取るべきだと──」
「判っていても勇気は出なかった、過去の辛い体験で、家族とのつながりは持ちたくないと」
図星に陽葵の全身から力が抜け、涙がこぼれる。史絵瑠が自殺したら尚登のせいだとは言ったが、それは自分に向けた言葉だ。返事を引き延ばさず、たった一言、「おいで」と言ってやればよかっただけだ、そんな後悔が声もなく涙となって流れ始める。
尚登は無言でハンカチを出したが、今日も陽葵は断り自分のミニタオルでそれを拭う。
「無理することはない、君は頑張ってきた。妹さんはそういう被害者を受け入れてくれる施設を頼らせればいい。それで十分だ」
「でも史絵瑠は私を頼って……!」
「わざわざ探してまで君に会いに来たのか? 違うだろ、偶然、たまたま、日曜日に再会したんじゃないのか?」
確かにと陽葵は思う。あまりに突然で、だからこそびっくりしてショックが大きかったということはある。
「なるほどね──少し調べてみるか」
尚登は小さな声でつぶやいた。
虐待の有無や陽葵に同居を持ちかける背景をだ。今会話した限りの史絵瑠の様子からでは幼少期から性的虐待を受けている印象はなかった、それは単なる勘だ、その手の知識があってのことではないが自分の直感を信じた。うまくいっていないと泣く陽葵に、そこまでの嘘をついて取り入ろうとする史絵瑠が何をしたいのか──簡単に立つ埃ならばありがたいが。
「調べるって……なにを……?」
何をどう調べるのか、調べることなどあるのかときょとんとする陽葵に、尚登はにこりと微笑みかける。
「まあ、いろいろ」
それなりにツテはあるが、それを明かすつもりはない。
「とりあえず妹さんはブロックしとけよ。もうかけてこないだろうけど」
「え、でも、そんなことして、本当になにかあったら……!」
「優しいな」
尚登は笑う、それは言葉のとおり優しい笑みだった。
「んじゃ俺と連絡先、交換しとこう。連絡来たらグループ作って、そこで話すよう誘導すればいい」
尚登はスマートフォンを取り出すと、通信アプリの二次元コードを表示しテーブルに置いた、陽葵は副社長の連絡先をもらうなどとは、と戸惑う。
「でも……」
「一緒に住んでるなんて嘘ついた手前、掛かってきた時俺がいないなんてなったら、どう言い訳する?」
嘘だったと馬鹿正直に言えばいいと思いやめた、そんなことを言えばきっと史絵瑠は怒り、馬鹿にするだろう──つくづく嘘はつくものではないと納得する、嘘をごまかすには嘘を重ねないといけないのだ。
諦めてスマートフォンの電源を入れ、二次元コードを読み取り登録した。
「すぐにメッセージ送って」
言われて陽葵はすぐにスタンプを送る、尚登のアイコンは外国と思われる海と空がきれいなものだった。『Naoto』と書かれたトークルームにブタが『よろしくお願いします』と土下座するスタンプを送れば、それを見た尚登はにこりと微笑む、真面目に一文を送ってくるかと思いきや、愛らしいスタンプとは──笑顔のままそれを登録する。
「ああ、すっかり冷めちまった、早く食べよう」
尚登は再度箸とスプーンを手に取り、フカヒレを口に運ぶ。そうだ、コース料理なのだと陽葵は思い出し、慌ててそれを口に運んだ。
間もなくドアがノックされ入ってきたウェイターは取り分け用の小皿を回転テーブルに置く、既にいくつもあり、自分たち二人しかいないのになぜ増やすのかと陽葵が思うと。
「尚登さま、冷えたおしぼりでもお持ちしますか?」
にこやかに言われ陽葵ははっとした、さっき自分が尚登の頬を思いきりひっぱたいたからだ。現に尚登の左の頬は赤くなっている、その尚登が微笑み答える。
「ありがとう、助かるよ」
断らないということは、相当痛かったのだろうか。
「すみませんでした」
ウェイターが出て行くと、陽葵はすぐに謝った。
「ああ、これ?」
尚登は笑顔で頬を示す。
「まあ悪いのは俺だしね、ひまりの純潔奪った罰にしては軽くていいんじゃない?」
「じゅ、純潔って……」
キスくらい、どうということはない、などと強がってみせるが動揺は隠せない。
「あ、ひまり、ってひらがなじゃなかったよな?」
「え?」
尚登は左手を持ち上げ聞いた、そこには陽葵が記した名前がある──なぜそんな質問に、と思ったが、IDを知っていたくらいだ、社員名簿を見たのだろう。
「はい、太陽の陽に、葵です」
「ああ、そうそう、読めねーって思ったんだ。陽葵ねえ」
「向日葵のように明るく、ってつけてくれたみたいです」
7月生まれだ、季節をイメージして名付けたのだと母が嬉しそうに話してくれたのが懐かしい。
「なるほどね、かわいいじゃん」
そんなことをと簡単に言えてしまうところが遊び人だと、陽葵は思う。
「──っていうか……なんで私が副社長をぶったこと、判ったんですか……?」
入ってくるなり冷えたおしぼりをなどと言うとは、しかも不要そうな小皿をわざわざ持ってきてまでだ。
「カメラがあんだよ、でないとコース料理の進み具合も判らないだろ」
そう言って出入口がある側の隅を親指で示した、確かにそこの天井にドーム型の監視カメラらしきものがある。それを見て陽葵はなるほどと思う。
「それで全部見られて──」
思った瞬間、え、と声が出た。全てを見られていたのか、ならばキスしたところもだと背中に汗が流れる。音声は拾うのか、聞こえていたにしても交際のふりをするためのキスとは思わないかもしれない、現に史絵瑠は信じてとても怒っていた。
(う、嘘でしょ、副社長とキス、見られ……っ、しかも結構長かったし、く、口の中まで……!)
真っ赤になり口を押える陽葵に尚登は微笑む。
「まあ大丈夫だよ、ここの人たち、口は堅いし」
尚登は余計なことを言った、口が堅ければなにをしていいものではない、陽葵は危険を感じ、また抱き着かれたくないと、ほんの少し椅子を尚登から離した。
「目黒は何しに行ってたの?」
尚登は届いたおしぼりを左の頬に押し当てて聞いた。
「庭園美術館に行った帰りでした」
「庭園美術館?」
「目黒駅近くの、以前は皇族のかたの住まいとして作られたものでのちには迎賓館としても使われたような建物で、とても瀟洒で素敵な建物と庭園が見られる場所なんです」
カフェや茶室もあり、何時間でも飽きることなくいられる場所だ、もう少し遅い季節なら紅葉が楽しめただろう。
「へえ。そういうものに興味が?」
「はい、好きです、休日は大抵美術館や博物館を訪ねています」
「恋人はいないんだ」
不躾なプライベートな質問にムッとしてしまう。
「なんでそんな言い方なんですか。恋人と巡ってるって思わないんですか?」
「倒れそうに具合が悪くなった君を放って帰るような彼氏さん?」
意地悪な笑みで言われ、陽葵はますます不機嫌になる。
「先日はたまたま一人だっただけかもしれないじゃないですか」
「ファーストキスが今だった人が、そんな強がり言わなくても」
確かにそうだと、陽葵は小さく拳を握り締める。
「まあ、美術館やなんかは一人でも楽しめるもんな。俺も映画は一人で行きたいタイプ」
「あ、判ります」
もちろん友人たちと行くのもいいが、一人ならば世界に完全に浸ることができる。
「そんな楽しんだ日に妹さんに会っちまうなんてな。待ち伏せでもされてた感じ?」
「いえ、そんな感じではなかったです」
史絵瑠も驚いた様子だったのは演技ではなかった、一緒にいた男も何も知らなかったように感じた。そもそもそんな風に再会を演出する必要も……とその時ふと疑問に思う、史絵瑠はあの男と何をしていたのだろう。会社の上司だと言われれば納得できそうな年代だった、平日ならば確実に上司と外回りだと思っただろう、仕事にはよるが日曜日の夕方に近いような時間にも働いているのか……史絵瑠は何をして稼ぎを得ているだろう。現状も生活費として5万円を支払い、出て行くなら10万円は支払えると見込まれている仕事だということだ。
「偶然ばったり出会って、お父さんの件で困ってるから同居してくれ、ねえ……」
住まいをずっと探しており陽葵との再会で名案を思い付いたと言えばその通りだが、それまでになにかやりようがあったように思うが──次の料理の立派なロブスターが来たことで、その会話は終わった。
☆
たっぷりと2時間ほどかけて食事は終わった。テーブルチャージだ、ボーイが伝票を持ってきたが二つ折りのホルダーに挟まれたそれは値段を盗み見ることもできず、一体いくらの支払いなるのかと陽葵は冷や汗を流した。
尚登は中身を確認もせずクレジットカードをトレーに乗せる、真っ黒なカードを見て陽葵は喉の奥で驚いた。
店を出る時は店先までボーイと店長が見送りに出てくる、最後まで丁寧に深々と頭を下げて「またのお越しを」と送り出す様子にさすが高級中華と感心し、尚登が度々来ていることが伺えた。
「家まで送るわ」
エレベーターに乗り込むと尚登が1階のボタンを押しながら言う。
「いえ、そんな、一人で帰れます」
電車で帰るならば2階で降りて陸橋を使って対面の商業施設を抜けるのが手っ取り早くて楽だ、操作パネルの番号を押そうと手を延ばしたいが前を尚登が陣取っていて手を伸ばすのは憚られた。
「俺はタクシーで帰るから、一緒に帰ろうぜ」
「いえ、そんな」
タクシー代を払うくらいなら歩いて帰るなどと思った瞬間、思い出した。
「あの、私の分はお支払いします」
鞄から財布を出しながら言った。
「えーいいって。誘ったの俺だし、俺が食いたかったし」
「でも、お安くないですよね」
「まあそうだけど。でも俺の方が全然いい給料もらってるし」
「そ、それは確かに……!」
そう言ってくれるならと、それでもと1万円札を出して尚登に差し出した。ディナーのコース料理では全く足りない金額であることは承知だが。
「せめてこれくらいは。私のために来てくださったんですから」
「まあ結果的には解決してないみたいだけど?」
「そんなことないです」
少なくとも前進した気はした、史絵瑠に一緒に住めないと断言してくれたのだ。そして自分を大事にしろと言ってくれた、その言葉に従うならやはり史絵瑠を受け入れてはいけないんだという決意はできた。
「本当に……ありがとうございました」
呟くように礼を述べれば、尚登は陽葵が握る札に手を伸ばした。よかった受け取ってくれるのか、そう思い安心する、やはり自分のために来てくれたというなら割り勘のほうが気が楽だ──だが尚登の手は札ではなく陽葵の手を握った、途端に陽葵の体は硬直する。
「──あの」
離してと言いたくても声は喉の奥に張り付いた。
「──ああ、そっか、ごめん」
表情から触れ合うのが苦手だと言っていたのを思い出した。
「キスまでして」
言われて陽葵は慌てて視線を反らせる。確かに触れられると恐怖を覚えるが──さっきのキスはそんな感覚は全くなかった、驚きから言葉は失ったが──むしろ気持ちがよかったとは言えない。
「マジで金は要らない、男に恥かかすな」
尚登の真剣な声に、陽葵は頬をほんのり染めつつも現実に帰ってきた。
「でも、副社長の貴重なお時間をいただきましたから」
「別に? 俺も楽しかった」
「楽しいとこありましたか?」
史絵瑠の話は、第三者としても決して楽しいことではないだろう。
「キスできたし」
投げキッスとウィンク付きで言う尚登に、陽葵は顔中赤くすることしかできなかった。
「あ、じゃあ、こうしよう。今度俺になんか奢ってよ」
「えっ!?」
声がひときわ大きくなったのは、また副社長たる尚登と食事を摂ることに緊張を覚えたからだ。
「で、でも私、こんな立派なお店なんか、知りません……っ」
「ここは誰にも聞かれたくない話をするのにうってつけだから来ただけで、マックでもいいし、なんならガリガリ君でも」
「ガリガリ君じゃ、あまりに安すぎませんか……?」
「1本じゃ申し訳ないって言うなら、全額ガリガリ君、1年分だな」
尚登は明るく笑う。
「毎日一本ずつ届けてくれよ、おお、いいな、会う口実ができるじゃん。陽葵も一緒に食べようぜ」
そんな提案に陽葵は呆れる。
「──失礼ですが、いつも社内でお見掛けする様子とは、全然違うんですけどっ」
いつもは礼儀正しく、さわやかさを感じるイケメンだった、現に目黒駅のホームで声をかけてくれた時も紳士だったが、今夜の言動は別人かと思えるほどだ。さわやかではないといわないが、どうにも荒っぽい。
「悪いな、これが地だわ。一応副社長なんて職に就いた手前、それらしく振る舞っておかないと多方面に迷惑かけるからな」
別にそれを強いられたわけではない、自分なりの処世術だ。今は社長の補佐的な立場である、その傍らでおとなしくしていようと思ったのだ。もっとも関係者には尚登を幼少期から知っている者も多い、会えば飼いなさられた狼か、牙を抜かれたライオンかと笑われるが、今しばらくは猫を被っていようと思っている。
「でも勤務時間外までやってらんねえよ。だから外で副社長はやめろや」
「……でも」
自分にとっては副社長である、現に今もその立場で会っているのだ。
陽葵が戸惑う間に尚登はその手から札を抜き取り、陽葵の胸元、ジャケットとブラウスの隙間に差し込んだ。
「え、ちょ……っ」
「やるよ、俺からのお小遣い」
「え?」
受け取りました、あげます、が同時に行われたことで、絶対に受け取らないという意思を理解できた。
「ありがとうございます、ごちそうさまでした」
陽葵は素直に礼を述べ頭を下げた、そしてエレベーターは1階に着いてしまった。
「あ、私は電車で帰ります」
今更ながら陽葵は言う、2階で降りれば楽だったが地上にも横断歩道はある、それを渡ればよいだけだ。
「ここまで来たんなら一緒に帰ろうって」
「でも」
「お金なら君が持ってるだろ」
そう言って陽葵の胸元を指す、そこに差し込まれた札は既にポケットにしまったが、それで支払うということかと納得した。
「判りました、副社長をお送りします」
「サンキュー、とりあえず君の家な」
タクシー乗り場で停車している車に近づけば後部座席のドアが開く、尚登はドアを支え、陽葵に先に乗るよう勧めた。
「いえ、そんな!」
座席の優先順位は運転席の後ろが上座だ、尚登が乗ってくれと陽葵は勧めるが尚登は笑う。
「今は役職はどうでもいいわ、先乗んなよ」
ここで押し付けあってもしかたない、陽葵はありがたくタクシーに乗り込む。
「神奈川県民ホールの裏手まで。近くまで行ったら案内します」
行き先を告げたのは尚登だった、運転手がはいと答えて車は走り出す。
ホテルを出たタクシーは国際橋を抜けカップヌードル博物館や赤レンガ倉庫を見ながら走り続ける。新港橋を渡るとさらに横浜感が増す、通称ジャックと呼ばれる横浜税関を右手に見ながら左折した。
「次の開港広場前を右折、すぐの交差点を左折で入りますがよろしいでしょうか」
左へ曲がれば大桟橋に行き着く交差点だ、よくドラマやCMの撮影にも使われる港町・横浜の風情が満載の場所である。そしてさすがはタクシーの運転手だと陽葵は納得した、間違いなくそのルートが陽葵が住むマンションへの最短ルートだ。
「お蕎麦屋さんのあたりで停めてください」
陽葵が目印になる店舗を言えば、運転手ははいと言ってその真ん前で停車した。車が完全に停まる前に尚登が先ほどのクレジットカードを出している。
「え、私が……」
タクシーで帰ると言っていた、せめてここまでの代金は自分がと陽葵はポケットから1万円札を出したが、運転手からも尚登のカードの方か受け取りやすかったのか、カードで精算されてしまった。ここも尚登の支払いかと申し訳なく思う、千円余りの代金だ、それも合わせて今度お返ししようと陽葵は心の中で決めた。
「あの、ありがとうございます」
尚登に続いてタクシーを降りると陽葵は改めて礼を述べた。
「ん、別に」
尚登は笑顔で応じる。
「でも副社長、降りてしまっていいんですか?」
タクシーで帰ると言っていたが、確か尚登は都内住まいだったと陽葵は思い出す、みなとみらいからは完全に反対方向に来てしまった。
「いいのいいの」
尚登はさっさと歩いていってしまう、陽葵も慌ててあとを追いかけた。
「もし妹さんから連絡が来たら、迷わず連絡してこいよ」
「はい」
力強い言葉に素直に返事をしていた。
「何時でも気にしないから。真夜中でも」
さすがに史絵瑠もそんな時間には連絡はしてこないだろう、そう思いながらも「はい」と答えていた、尚登の優しさが嬉しかった。
鞄から鍵を出し、開錠すると自動扉が開く。
「お世話になりました」
「いいえ。おやすみ」
「おやすみなさい」
一礼して中へ入った、今日も見てくれているのだろうと思いながら歩みを進めた。いつもなら郵便受けを見てから上がるが、見送られていてはできないとまっすぐエレベーターに向かった。背後で自動扉が閉まるのが判る。
今日はエレベーターは6階にあった、先日よりも待つなと思いながら上行きのボタンを押していた。
尚登の視線を感じる、恥ずかしさと無視をしているのは辛く、少しだけ体の向きを変えて尚登を見れば、尚登は笑顔で手を振った。わずかに頭を下げて返事に変えた時、尚登に歩み寄る年配の女性がいた。5階に住む者だが名前までは知らない、顔を見れば挨拶を交わす程度だった。
「あらまあ、色男ね」
5階に住む小宮という女は気さくに声をかけた、尚登もにこりと微笑み答える。
「ありがとうございます」
素直な礼にこの男は言われ慣れているなと小宮は確信する。確かにこれほどの美男子だ、誰も放っておかないだろう、かくゆう自分も思わず声をかけていたのだ、むしろ50代も後半になると恥ずかしさもなく声をかけるようになっていた。
「どうしたの? 入れないの? 一緒に入る?」
「いえ、友人を見送りに来ただけですので、こちらで失礼します」
尚登は笑顔で中を指さした、小宮が見えれば陽葵が小さく頭を下げた。
度々会う陽葵のことはよく知っている、と言っても名前も知らないし、自分より上階に住んでいることを知っている程度だが、物静かでもきちんと挨拶をする、清潔感もあり好印象の少女だった。
そんな少女と色男がこんな時間にこのような送迎とは──ははーんと下世話にも笑顔になる。
「まあ、そうなのねえ、いいわねえ」
深くは聞かずに、にまにまと笑いながらオートロックを解除し中へ入った、陽葵を見れば再度頭を下げ歩みを進める、エレベーターが到着したのだ。振り返れば尚登が笑顔で手を振っており、小宮が見ていると判れば会釈をして挨拶する、これまた好青年だと思った。
陽葵が開いたドアを押した状態で開けて待っていてくれた、そこへ乗り込む。
「まあまあまあ」
コンビニにビールを買いに行ってよかったと思った、いいものを見ることができたと思うのは老婆心もいいところだ。
「とんでもない色男じゃなーい、素敵な恋人ねぇ?」
いかにも艶話的な物言いで言うが、陽葵は笑顔で応じる。
「とんでもない、上司なんです。今日は会社の人たちと食事に行きまして、ついでだからと送ってくださいました」
二人きりだったとは言いづらく、嘘を交えた。
「まあ、そうなのねぇ、素敵な人と働けて羨ましいわぁ」
「いえ、上司と言ってもはるか上の方で、普段は言葉を交わすこともないんですよ、今日はたまたまで」
本当にそうだと陽葵は思う、三宅も頭頂部が見ることができれば喜ぶと言っていた、まさにそれだ。
「そうなのぉ? そんな人がこんなところまで、ついでだなんて言い訳して送ってくれるなんて、あの人はあなたに気があるんじゃないの~?」
なんともいやらしい笑みで小宮は言うが、陽葵は返答に困る、そんなことはないと断言できる。
「いいわねえ、かっこよくてぇ、私があと30歳若かったら口説いちゃうわぁ」
ニヤニヤと言われ陽葵は曖昧に微笑んだ。それからも尚登の讃辞が続き、陽葵が曖昧に微笑み返事をしていれば、ようやく5階に着き小宮はいやらしく「じゃあねえ」と挨拶をして降りていく。解放されたことにホッとしている間に陽葵も到着しエレベーターを降りた。
ああ、やっと我が家だと陽葵は安堵した。いろいろありすぎて長い一日だったと感じた。
スマートフォンの電源は落としたまま、その日は眠りについた。
いつもよりも温かい心なのは気のせいだろうか。
受付内で準備を始めていた受付嬢のふたりが尚登に気づきすぐさま立ち上がる。
「副社長、おはようございます」
深々と頭を下げて挨拶をした。他の社員では言葉すら発しないが、それを気にする者はいない。
「おはよう」
返事をし、人でごったがえすエレベーターホールへ向かう、さっさとフレックスタイム制を導入すればいいのにと思うが、昭和の思考の父たちには通用しないようだ。かく言う役付きである自分はもう少し遅い出社を勧められている、秘書たちの仕事が9時に始まることを考慮してだが、尚登は構わず出社しているのは副社長としての自覚が薄いからだ。
エレベーターは上層階、低層階へ行くもので分かれている、尚登が行くべき副社長の執務室があるのは最上階の30階だ、その列の最後尾に並んだ。
「おはようございます」
女性社員たちが上目遣いに媚びた挨拶をしていく、尚登は上品な笑顔を見せてそれに応える、その時前方に陽葵を見つけた。
(お、あの子だ)
俯いた横顔に釘付けになった、ポン、と明るい電子音がしてエレベーターの到着を知らせると陽葵は顔を上げてそれを確認する──その横顔に胸騒ぎがした、日曜日に見た血の気のない顔そのものだった。
(──またなんかあったのか)
月曜日は元気そうだったのに──声をかけようとする前に、陽葵は生気を失った顔のままエレベーターに乗り込んでしまう。たまたまそう見えただけか──そんなはずはない、自宅まで送った時に見せた笑顔が本物だと、妙な確信があった。
思わず腕時計を確認する、8時45分だ、いつもこの時間に出社しているのだろうか。
次のかごが到着し、尚登に気が付いた者が先に乗るよう勧めるのは役職と一番上層階へ行くこともあってだ、確かにそれが一番スムーズなのだと尚登は素直にエレベーターに乗り込む。
(上層階行き──)
15階から30階は本社の業務を担当する階だ。下層階は事業本部などが入り、さらに下層の1階から5階はテナントとして貸し出している。
(──本社の経理か)
陽葵のことを考えながら乗っていると、今日はとびきり到着が遅く感じた。30階に着いたのは尚登一人だ、降りてまっすぐ自分の執務室へ向かえば、ドアが開け放たれた中で秘書の山本敦が尚登の机で書類の整理をしていた。
「おはようございます」
笑顔で出迎える、だがそれがすぐに不思議そうに傾いた。
「どうしました?」
「……うーん」
尚登はジャケットをコート掛けにかけ、重厚な椅子を引いて深々と座るとひじ掛けに頬杖をして考え込む。
「悩み事ですか?」
そういう変化に気づけるところが、さすがだと尚登は思う。副社長の職に就いて初めは女性の秘書をつけてもらったが、どうにも落ち着かないのは女の若さだけではない。あからさまに色仕掛けをされては嬉しいよりも怒りが増した。その日のうちに交代を頼むこと繰り返し1週間、いずれもまともな女ではなく、こんな状態で働けるかとボイコットをすればようやく来たのが山本だった。尚登より年上の35歳で、執行役員や経営責任者の秘書を長く務めた経験は伊達ではなかった。実によく気が付き、細やかに動いてくれる。
「愛しい人に会えませんでしたか」
言われて尚登はむっとする。
「なんで山本さんが知ってんだよ」
月曜日に陽葵に会った時には山本はいなかったが──言えば山本はふふんと笑う。
「社長にしつこく聞かれました、副社長が声をかけた女性のことを何か知らないかと」
尚登は舌打ちで応える。
「存じ上げませんとお答えしています、でも所属や名前や愛称くらい聞いていないのかと食い下がられ困りました。そんなそんな、私などが副社長からプライベートな相談など受けるはずがありませんとお答えしておきました」
「あのなあ、山本さん」
プライベートかどうかは別として、愚痴や文句は散々話している、それなりにフランクな関係だからこその山本の嫌味だと判る。
「でも本当にそんな女性がいたとは意外です」
「挨拶したくらいでそんなこと言われたくねえ」
「おや、ご自分がどれだけの存在かご存じでそのような謙遜を」
トントンと書類を揃えながらの笑顔で嫌味に、尚登はけっと毒気づく。
判っている、世界的に支店や支社も持つ大企業と呼ばれてしまう会社の一族の跡取りだ。父で4代目、今どき家族経営などと思うが、すっかり親が敷いたレールに乗り今や副社長と呼ばれる座に就いてしまっている。外観しかりだ、良くも悪くも目立つのは事実で、子供のころからもてはやされた。
容姿も家柄も人々を魅了してしまう、告白された回数も数えきれない。それが嫌でせめて家庭の呪縛から逃れたいとアメリカ行きを決めた。アメリカで暮らした10年余りは何のしがらみもなく、のびのびとできて一番楽しい時間だったが──思わずため息が漏れた時。
「社長も気にかけていらっしゃいましたし、社内の人なら素性は確かなことあるので一番喜ぶお相手じゃないでしょうか」
それには尚登はふむと応える、その通りだ。
「気になっているお相手がいることくらい匂わせるのはいいと思いますけどね、そうしたら落合課長も落ち着くでしょうし」
出た名前に尚登はムッとしてしまう。
秘書課の課長だ。かつては尚登の母とは父を巡っての恋敵だったと聞いている。だからなのか、年齢的に自身を売り込むことはできないと言うのだろう、尚登の就任時に女性秘書を送り込み、現在は毎週のようにある見合い相手も仲介しているというのだから面倒この上ない相手だ。
「──まあ確かになぁ……」
ため息交じりに答えた。毎回会いたくもない相手にお付き合いはできないと断るのも疲れる上、会社にいれば用もないのに落合が顔を見に来るのもいけ好かない。
「──ふむ」
頬杖をついた手で頬を叩き、思案を始める。
☆
木曜日になった。史絵瑠の電話は連日続いているが、陽葵は未だに答えを出せずにいる。
史絵瑠はしびれを切らし、日ごとに言葉が荒くなっていく。それでも陽葵がうんとは言えないのは、もし史絵瑠を受け入れてしまったら親がどういう反応をするのか判らないという恐怖がつきまとうからだ。
長く連絡を絶っていた、しかし史絵瑠と住むことになれば関りを持たざるを得ないだろう。もう小さな子供ではない、殴り言うことを聞かせようとするようなことはないだろうが、ではどんな仕打ちを受けるのか──あるいは、史絵瑠のようになにもかも忘れて普通の家族のように接するのか。それすらおぞましく感じて、完全に思考が停止してしまう。
一緒には住みたくないとはっきりと言えないまま史絵瑠と会話をしていると、どこで働いているのだ、住所は、住まいの最寄り駅はどこだなどとプライベートな質問までされてしまい、それから逃れるようにいくつかの案は示してみた。
引っ越し資金は貸すから京助から逃れるためにとにもかくにも家を出て、それからゆっくり考えよう、とか。虐待を受けている女性を匿う団体、施設を頼ってみたらどうか、など。しかし史絵瑠の結論は陽葵と暮らしたいということで決まっているようだった──しかし、なぜ自分なんかと──親しそうにしていた男もいた、その人を頼ればよいのではないか。
はあ、とため息が漏れた。
「陽葵ちゃん、大丈夫?」
三宅が心配して声をかける、もとより陽葵はおとなしいタイプだが輪にかけて静かな上、ずっと顔色も悪いことは気づいている。
「朝礼、終わったよ」
いつのまに、と思わずあたりを見回した。部署だけ行うもので、今日の休みは誰などいった連絡事項を伝える程度だ。いつも取り仕切る経理部の部長はおらず経理課の課長の川口が代行していたがそれついての報告はなく、今日も元気に働きましょう、くらいで終わっていた。
「コーヒーでも買ってこようか? あ、気分転換に一緒に買いに行く?」
フロアに自販機やベンダーを置いたエリアがある、ちょっとした休憩スペースになっているそこへの誘いを断り、椅子に座ると業務を始める。
パソコンでの伝票の入力だ、その時画面の下方にチャット形式の社内メールの受信を知らせが出た。あまり使われることがないそれを、なんだろうとクリックすればメッセージが現れる。
【高見沢尚登です】
そんな文言に背筋が伸びた。
(え、なんで副社長が私の社員ID知って……っ!?)
それ自体は調べれば簡単に判ることだがなぜわざわざ調べたのかが判らない、陽葵は全身から熱い汗が噴き出す感覚に陥る。
【おはようございます、藤田です。お疲れ様です】
すぐに返信した、心臓がドクドクと動き始め、指先も震え出す。
【おはようございます】【今朝、姿をお見掛けしましたが、具合が悪そうですね】
(え、いつ!?)
声になってしまいそうになるのを堪えた。今朝ならばエレベーターホールでだろう。
【ご心配おかけしてます、すみません、ちょっと寝不足です】
それは事実だ、史絵瑠のことで眠れない──それ以上に悩み事で吐きそうになっているが、それは言えない。
【もしかして、妹さんの件ですか?】
ああそうか、尚登は知っているのだと安堵しつつも緊張は解けない。
【ええ、まあ】
濁す返信をしようとしたが。
【話を聞きましょう。今日、一緒に食事をどうでしょう】
すぐさま提案され、陽葵は戸惑う。
(ええ……っ、副社長とご飯……!? 無理無理、心臓、破裂しちゃう! それに副社長に相談なんかできない……我が家の恥をしゃべるなんてありえない……っ)
陽葵はきゅっと唇を噛み締めてから返信する。
【お気遣いはありがとうございます。でも大丈夫です】
【そう言わずに。先日は話したら少し楽になったんじゃないんですか?】
確かに──尚登の優しい声と態度を思い出し、わずかに心がぐらついた時。
「藤田さん」
いなかったはずの経理部の部長に声をかけられた、今どこからか戻ってきたようだ、慌てて戻ったのかわずかに息が上がっている。陽葵の傍らにしゃがみこみ、見上げて声をかけた。
「具合悪そうだけど、大丈夫? 有休あるでしょ、休んでいいよ」
心配そうな声に陽葵は申し訳なく思った、いろんな人に心配をかけている──陽葵は精一杯の笑顔を作って答えた。
「ご心配かけて申し訳ありません、ちょっと寝不足で……あの、ゲームにハマってしまって」
「なんだぁ」
陽葵の嘘を部長は素直に受け入れた。
「ゲームもストレス発散だからダメとは言わないけど、ほどほどにね! 寝不足はお肌の大敵だし!」
言うと、隣に座る三宅さんがすぐに「それ、セクハラですよー」などと声を上げる、部長は今はなんでもかんでもセクハラだななどと文句を言いながら立ち上がる。寝不足が肌に悪いのは一理はあると、陽葵は素直に詫び、そして礼を述べれば、部長はうんうん、邪魔したねと返し自分の席に戻っていった。
チャットの途中だった──再度画面を見れば、既に尚登から店の場所が記されたメッセージが来ている。
【セントラルホテル、『朱竜宝園』に18:30。直接お店にお願いします。予約名は高見沢です。お待ちしてます】
ひえっ、と内心声が出た、もう断わることなどできない──しかもランチではなくディナーだ、さらに五つ星ホテルの中華などいくらするのか……銀行に寄ってから馳せ参じなければ。
☆
終業は17:30だ。会社を出るとまず銀行に行き、念のため3万円を下した。調べればディナーの料金は14,000円から18,000円とあった、半月分の食費が一回の食事で吹き飛ぶなどありえないと泣きたいが今更断ることもできない。銀行に寄ってもまだ待ち合わせには早かった、一旦帰宅し着替えることにした。高級レストランで副社長との食事である、恥ずかしくない恰好は必要だと思った。今年新調したスーツなら少しはよく見えるだろうか。髪を梳かし、普段しない化粧もし──もっともマスカラと、いつもより濃い目の色の口紅を引いただけだ。
そしてセントラルホテルへ向かう。みなとみらい地区にあるホテルだ、その最上階にある中華レストランへ──会社よりも豪華で静かなエレベーターに乗り込めば異次元に来た感覚だ。高級感しかない廊下を行くと重厚なレストランの入り口が迫ってくる。姿を見かけたボーイがすぐさま最敬礼で陽葵を迎えた。
「いらっしゃいませ」
「あの、予約しています、高見沢、です」
敬称まで付けようと思ってやめた、さすがにおかしいのは判る。
「お待ちしておりました、お連れ様は既にご到着です」
「えっ」
早いと思った、自分も指定された時間より早く来たつもりだったのに、すでに過ぎてしまったかと焦るが鞄に入れたスマートフォンを出して時刻を確認する余裕はなかった。
案内されたのは個室だった。丸テーブルには二人分のテーブルウェアが並んでいるのが見えた、二人きりということだ。
(そうか身の上相談だから二人きりで……えっ副社長と個室で二人きり!?)
事実に気が付き動転してしまう、足がもつれそうになった。
「尚登様、お連れ様がお見えです」
「ああ、いらっしゃい」
奥から声に、陽葵は最敬礼で頭を下げた。
「遅くなりました!」
途端に尚登は笑い出す。
「全然だよ、まだ10分もある」
どうぞと席を勧めてくれる、その椅子をボーイも引いた。だがそこはドアから離れた上座になる場所である、陽葵でもその程度の常識はある、副社長を差し置き上座に座るなど──出入口でもじもじしていると。
「どうぞ」
尚登に勧められ、陽葵は諦めた。
「失礼します!」
右手と右足が一緒に出る感覚で歩みを進める。
(嘘でしょ、副社長と二人きりって……私、死ぬんじゃなかろうか)
そうなればいっそ楽かもしれない──そんな悲観的なことを思ったが、椅子の前に立ちひざを折ればボーイがきちんと椅子を押し込んでくれほっとする、無事に座ることができた。
「飲み物はビールでいい? 俺が飲みたいだけなんだけど」
「はい! 構いません!」
「じゃあビール二つと、で、もう食事を始めてもらっていいですか?」
「かしこまりました」
ボーイはにこやかに言いドアを静かに閉めて出て行く。
途端に静かになった気がした、いや微かにBGMは流れている、それはクラッシックだった。
「今朝と服が違う、着替えてきたんだ」
そんな言葉に、本当に今朝姿を見かけたのだと判った。
「はい、セントラルホテルと聞いて、ドレスコードが気になったので」
陽葵が答えれば、尚登は微笑み答える。
「ビーサン、短パンじゃなければ大丈夫だ、この間はジーンズで来てる人もいたわ」
そうなんだとほっとした、むしろジーンズで来られる度胸に感心してしまう。
「昨日の朝も姿を見かけたんだよね」
尚登は静かに話し始めた。
「顔色が悪かった、そして今朝もだったからとりあえず部長を呼んで話を聞いてみたけど、君の具合が悪そうなことすら気づいてなかった」
それは部長に同情してしまう。
「部長はお忙しいですから私なんかに構ってられませんよ、それにもし気が付いて声をかけてもらっても、部長に話せることなんか……」
「確かに今回はプライベートなことだから話せないかもしれないが、もしこれが社内におけるイジメや嫌がらせや病気なんかがあった場合、気が付きませんでしたじゃ済まない」
厳しい声に背筋が伸びた、確かにその通りだ。
「いじめられている人のパフォーマンスは落ちる、それを見ている周りの人も。それは会社にとって損失だ。いじめている側だって、そのパワーを仕事に向けるべきだろ。いじめじゃなくても重大な病気で明日にも倒れる可能性だってある、発見が1日、1時間早いだけで助かる命もあるかもしれない。普段と様子が違う人を放置していてはいけない、上司は部下の観察がでなきゃ駄目だ、それができないのは由々しき事態だ」
それが尚登の哲学なのだと思った、この人が社長になったらわが社はもっといい方向へ行くだろうと感心した。
「だから目黒駅で私に声をかけてくれたんですね」
偶然同じ会社の者だったが、赤の他人でも明らかに様子がおかしい者を放っておけなかったのだ。
「まあ、純粋に気になったというのが一番だけどね」
そんなことを言ってにこりと微笑む、ここへ来て記憶にある副社長とは雰囲気が違うと感じた。
「で? 妹さんとは何が?」
それが本題だ、途端に陽葵の表情は強張る。どうしようか──陽葵は小さな深呼吸をし、語りたいことを整理する、全てを語る必要はない。
「──実は、妹に一緒に住みたいと言われまして」
「あー……」
尚登は頷く、日曜日にぽつりと家族とうまくいっていないと言っていたのは覚えている。
「その、どうしても家を出たい事情があるそうで、だったら妹を匿ってあげなくては思うんですけど、何年もろくに会っていなかった人たちと今更関わり合いを持つ勇気が持てなくて」
言葉を選び語ることを、尚登はうんうんと頷き聞いた。
「毎日電話をくれます……相当切羽詰まっているというのは判るんですけど……いいよって言ってあげない私は、とても冷たい人間なのかと思って自分が嫌になるんですけど……でもやっぱりおいでとは、どうしても言えなくて」
「いいと思うけどね」
尚登ははっきりと告げる。
「家族だからって自分の気持ちに嘘をついてまで犠牲になる必要はないだろ。どうしても一緒に住めないというならそれが君の心だ、それに従うほうがいい」
「──はい」
力強い肯定に勇気はもらえたが、それでも陽葵の決心はつかない。それを史絵瑠に伝えればどんな反応があるのか、それが怖かった。
「なんでそこまで悩むのか、聞いても平気?」
陽葵の様子に何があったのかのほうが気になった、何年も会っていないと言っていた、親し気に話しかけられたと泣いていた、そして一緒に住むことを拒絶している──過呼吸になるほどの家族とはどのようなものなのか。
陽葵は膝の上で拳を握り締めた、尚登が心配をしてくれていると判る。こんなところにまで呼び出し話を聞いてくれようとしているのだ──とそこへビールと、最初の料理である前菜の盛り合わせがやってきた。
「まあ、まずは乾杯」
尚登がキンキンに冷えたジョッキを持ち上げる、陽葵も持ち上げ乾杯としお互いに口をつけた。尚登は喉を鳴らして大きく二口も飲む。
「ぷはーっ、やっぱり仕事のあとの1杯は最高! ああ、食べながら話そう」
尚登が箸を取ったので陽葵も倣い料理を口に運ぶ、マグロの漬けがおいしく思わず唸った。
「妹さんは社会人? 藤田さんの年齢から考えれば大学生か」
尚登の言葉に、急に現実に引き戻された。
「はい、2歳年下で大学生です。聖ミシェルだと言ってました、留年などしていなければ4年生かと」
「ほほう、泣く子も黙るお嬢様学校だ」
さすがの尚登も知っている、通う学生もそれなりのプライドを持っていることも。
「藤田さんも?」
「いえ、あの、私は東大です」
「ああ、東大か」
陽葵の履歴書を見ていた、それをすっかり忘れて質問していた。
「すげーじゃん」
名の通った最高学府と言われる大学だ。
「そんな。副社長はハーバードだと伺ってます、そんな方に褒められても」
嫌味のように謙遜してしまったが取り返しはつかない、だが尚登は微笑み答える。
「まあ勉強は好きだったのは事実だな。藤田さんなら判るかね、勉強ってさ、先取りで詰め込めばいいわけじゃん」
「え、まあ……」
確かに大学受験に向けてはとにかく詰め込んでいたように思い陽葵は頷いた。
「で、それに関して言うと親は金をかけてくれたね。塾は三つ掛け持ち、一日18時間は勉強してたけど」
陽葵は小さな声で、ひえ、と声を上げていた。自分はそこまで勉強に打ち込んだだろうか。
「まあそれは中学までの話、そこでなんかブチ切れて、中高一貫校だったのを高校はアメリカに行くって飛び出したんだけど」
「そうなんですね……でもそれで大学院まで行ったなら……羨ましいです」
陽葵の小さな呟きに尚登は首を傾げる。
「あ、すみません、私も本当はもっと勉強をしたかったんですけど……私は親から見捨てられたので、お金がなくて早く働く必要に駆られていて、先の勉強ができなかったのがちょっと悔しいんです」
親が親身になってくれても大学院まで行けたかは判らない、それでも選択肢から消さなくてはいけないのは悲しいことだった。
「──君は親から見捨てられ、妹さんは学費が億だとか言われちゃうお嬢様学校に通うってどういうこと」
尚登の怒った口調に、陽葵は救われた気がした。億と言うのはもちろん大げさだが、年間の学費は安くはなく、噂ではかなりの寄付も要求されるとのことでそんな評判が立っているのだ。
陽葵は淋し気に微笑み語り出す。
「うち、両親が再婚なんです、私たち姉妹はそれぞれの親の連れ子です。私の血縁者は父ですけど、父も妹がかわいいようです」
実際陽葵から見てもかわいいと見惚れた、見た目だけじゃなくて仕草や喋り方などすべてが女の子らしかった。父の京助もそんなところに魅力を感じたのだろうか。
「──妹が泣くと私が意地悪をしたときつく叱られました、継母にはもちろん、父にもです。ぶたれり蹴られたことも……自分ではなにかした覚えはないんですが、再婚して間もなくからでした。私のことは目障りだったんでしょう、中学受験を勧められそれは遠く九州の中高一貫校で、寮に入りました」
語り出すと止まらなかった、尚登は頷きながら聞く。
「6年間の寮生活で家に戻ったのは冬休みの数日だけです、それだけならと嫌々ながら帰ってました。その数日でも同じような扱いで、家に私の居場所はありませんでした。ですから早く独り立ちするために高校卒業後は九州での就職を希望していましたが、先生の勧めで大学進学を決めています。家族は私が大学に進学したことも、こちらに帰ってきたことも誰も知らないはずです、もう何年もどちらからも連絡を取ろうとなんかしていなくて──」
消え入る声に、尚登は息を吐いてから応える。
「──それで君は、穏やかに幸せに暮らしていたってことだ」
「──はい」
膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめた、まさにその通りだ、平穏に暮らせていた。
「──なるほどね」
尚登は頷く、陽葵が義妹と暮らしたくない理由が理解できた。
その時ドアがノックされて次の料理が運ばれて来る、フカヒレの姿煮に陽葵は目を丸くした、初めて食べる代物だった。
「そういう事なら、やっぱりきっぱり断るべきだな。君はせっかく毒でしかない親から逃げられたのに、下手に情に流されれば、また関りを持たざる得なくなる、そうしたらまたひどい目に遭う可能性があるんだろ」
「──でも……っ、今、義妹も大変な目に遭ってるんです……!」
「大変な目?」
──余計なことを言ったと陽葵は慌てて顔を伏せ表情を読まれまいとした。目の前のせっかくのフカヒレも喉を通らなくなる。
尚登は言葉の端々から想像した。どこか影のある表情や仕草は、親の仕打ちに由来しているのだろう。そして義妹も大変な目に遭っているとはいうがすぐさま救い出す方向で動けないのは、その虐待に史絵瑠も加担していたから──その義妹がなぜ陽葵と暮らしたいというのか──手にしたスプーンをゆらゆらさせながら考えた──それは当人でなければ判らない、判らないなら聞くのが手っ取り早い。
「君が断れないなら、俺が断ってやるわ」
「……はい?」
陽葵はきょとんとして返事をする。
「俺としてはやっぱり家族との縁は切ったほうがいいように思うぜ。妹さんが家を出たいと言うなら、今4年生なら春には卒業だろ、就職なりをきっかけにひとり立ちを勧めたらいい」
「でも家を出て行くなら月10万円を仕送りしろと言われているそうです、そんな出費を負うなら、私と一緒に住んで家賃や生活費は折半にできたらありがたいと考えているようで」
「それって真面目に取り合う必要ある?」
はっきりとした物言いに、陽葵は息を呑んだ。
「親御さんは無職なの? 子供が高給取りだっていうならまだしも、まだ学生の子に10万もの仕送りを要求するなんてあたおかだろ」
確かにそれを払わないからといって連れ戻されるようなことはないだろうが。
「働いてたってきつい、それは君も判るだろ。そんなに金が欲しいなら自ら働けだ。事情があって働けないなら生活保護もあるし、そもそも君のお父さんは公認会計士だろ、そんなに金には困ってないんじゃ」
「え?」
なぜ父の職業を、と思わず聞き返してしまった。
「あ、ごめんごめん、君の履歴書見た」
もちろん、尚登といえどもいつでも閲覧可能ではない、人事部を通し正式な手続きをして見せてもらったのだ。
陽葵はああと納得した、確かに両親の仕事欄にはそう書き込んだ──もっとも今もその仕事を続けているかは判らないが。
「でも、あの親ならやりかねないような、気がします……」
陽葵の記憶の中の両親は怖い存在だった。
「君に対する言動からはそうかもしれないが、現時点でミシェルなんかに通わせてるんだ、金に困ってるわけじゃないだろ、なのに妹さんが家を出たいから10万よこせなんて言うのは、単に手放したくないだけだ」
なるほど、と陽葵は理解した。やはり父の京助は、なにがなんでも史絵瑠をそばにおいて置きたいのだ。
「そんなの、ほっときゃい……」
「そんなわけには、いかないんです」
小さな声で反論していた、ようやく合点がいった。史絵瑠は父から逃げたいが、その父はなにがなんでも史絵瑠をそばに置いておきたい、それは自分の快楽のため──史絵瑠を救わねばならない。
「ありがとうございます、覚悟ができました。史絵瑠と暮らします」
「おいおい」
尚登は呆れて声を出す。
「いいんです、とりあえず一時《いっとき》の避難場所として来てもらいます。副社長の言う通りです、とりあえず卒業まで一緒に住んで、仕事が見つかったらひとり立ちしなさいと伝えます。仕送りの件で文句を言われたら、副社長の言葉をお借りします」
学生に10万もの仕送りを要求するなんておかしい、金が欲しいなら働けなどなどだ。
尚登は嫌がらせのように大きなため息を吐いた。
「またご両親にぶたれるかもしれないぞ、金なんて君にたかるかも」
確かにと陽葵は頷く。末吉商事で働いていると判れば間違いなくそうなるだろう、世界に名を轟かせる企業だ。しかし陽葵笑顔で返す。
「もうやられっぱなしの子どもじゃありません。なんとかやり返します」
背も今は継母よりも大きい、その分力もついただろう、殴り返したりはしないが押さえるくらいはできるだろうか。京助に辛く当たられるのは嫌だが。
「どうしてそこまでして自分を犠牲にする?」
尚登はため息交じりに聞く、陽葵は笑顔で答えた。
「私はあの親から逃げました、史絵瑠も逃げたいんです」
「君は逃げたかったわけじゃない、追い出さたんだ」
「でもそれが結果的にはよかった、史絵瑠も逃がしてあげなくっちゃ」
「どうして──」
尚登はカラトリーを置いてまでため息を吐いた。
「俺には判らない、そういうのを『蝋燭は身を減らして人を照らす』って言うんじゃね? 妹さんを受け入れれば、また痛い目に遭うかもしれないぞ」
「いいんです」
蝋燭は燃えて自分自身を小さくしながら辺りを明るく照らし出しやがてはなくなってしまう、自己犠牲を示したことわざだ。だが陽葵にそんなつもりはない。
「私は親から離れて楽になった、あの子も早く楽にしてあげたいです」
「もう子どもじゃないんだ、そこまで追い込まれてるなら自分で何とかできる。でもその場にとどまっているということは大丈夫だと言うことだ」
「子どものころからその環境にいると、逃げるという感覚がなくなるんです」
それが当たり前になってしまう──陽葵は尚登をまっすぐ見つめて答えた。
「その史絵瑠が助けてとSOSを上げたなら、私は迷うことなく助けてあげなきゃいけなかった」
尚登は面白くない──顔色も悪く悩んでいたのに、なぜその選択になるのか──。
「──聖人君子で立派だが。しょせんは赤の他人じゃねえの? そこまでの自己犠牲いる?」
陽葵はきゅっと唇を噛む、そんなことは言われなくても判っている。
「君、日曜日には妹さんに会ってしまったって泣いたんだぜ? そんな相手に?」
確かにその通りなのだが。
「そして昨日も今朝も死人みたいに真っ白な顔をして出社して。それって妹さんと暮らすなんて、死ぬほど嫌だからなんじゃねえの?」
「でも、一時です。私が助けて欲しいと伸ばした手は家族は誰も取ってくれなかった、とても悲しかったです、だからせっかく伸ばしてくれた史絵瑠の手は私が取ってあげたいです」
「君の手なら俺が取ってやる」
情熱的な言葉だったが、陽葵は気づけない。
「困っている妹を助けたいです」
「何に困ってんの? 金? それなら俺が払ってやるよ、さすがにずっと10万円給付はしてやらねえけど、君からってことにすればいい」
「そんなそんな、何言ってるんですか!」
少しだって副社長に借金などできないと大きな声で辞退する。
「大体一時で済むとは思えないね、きっと居座るぜ」
確かに一度招き入れたら最後な気はする──陽葵はごくりと息を呑んだ。
「そんな女、受け入れないほうがいい、君が壊れるのは確実だ」
──壊れる、陽葵は呟いていた。
「そんな危険を冒すくらいなら他に家でも探して当てがってやればいい、それにかかる一切の費用くらい俺が払ってやる」
「いえ、本当に、そこまでしていただく理由がありません!」
尚登の提案を陽葵は両手を振り拒絶する。なぜそこまでしてくれるのか──拾った子犬の世話感覚だろうかと勝手に想像した、しかし金銭感覚はおかしいだろう、赤の他人の引っ越しにかかる費用を負うなど──。
「別にいいけど、君のためなら」
と、尚登が最上級の笑みを見せた時、空気が震えた。
「──スマホ? 君だと思う」
「え、あ」
尚登はミュートにはしておらず、スラックスのポケットに入っているので着信はすぐに判る。陽葵のものは鞄に入っていた、上司との会食ということもありミュートにはしてあり、かかってきても出るつもりもなく──時間的も相手は想像できた、唇を噛んでしまう。
「妹さん? 出たら?」
陽葵の強張った表情からも判った、尚登が言うと陽葵は一旦は「いいえ」と断ったが、小さくうなずき鞄を開ける。ここで会話をする気はなくとりあえず静かにするため電源を落とそうとしたが、それを尚登は手を伸ばし奪い取った。
「え、ふくしゃちょ……!」
テーブルに置き、慣れた手付きで通話開始のボタンをスワイプするとスピーカーに切り替えた。
「副社長……!」
陽葵が大声をあげたが、尚登は優美な仕草で自身の口の前に指を立て、陽葵には手の平を向ける──一瞬陽葵はびくりとしてしまう、やはりそのような仕草はぶたれるのかと恐怖を覚えるのだ。静かにという意味だと判り、陽葵は従っていた。
『あ! お姉ちゃん!』
スピーカーから明るい声が響いた。
「シエルさん?」
尚登が問いかけたことに陽葵は驚いた、きちんと紹介した覚えはないが──会話には出ていたか。
『え? 男? 誰?』
途端に史絵瑠の声が棘を帯びる。
『なんで男がいるの? 姉はどこ?』
「少し席を外してます」
言いながら尚登はジャケットの内ポケットからボールペンを取り出した、そして陽葵に空いた手を差し出す。メモを寄越せという意味だと判り、コースターが紙製であることを見つけ、乗っているグラスをどかそうと伸ばしかけた手を掴まれた。
「え……っ」
驚いている間に、尚登はその手の甲にボールペンを走らせる。
「え、ちょっと……!」
書いてからまた指を口に当てる、一体なんだとわずかに怒りながらも見れば『なまえ』と書かれていた、史絵瑠は呼びかけていた、ならば自分だろうが苗字では呼ばれていたので下の名だと判じた。意味も判らないまま尚登からボールペンを奪い取り、仕返しだとばかりにその手を押さえ手の甲に『ひまり』と記す。
『そう。じゃあ折り返すよう頼んで』
史絵瑠の声はなおも刺々しい。
「ひまりに同居を迫っているそうですね」
いきなり名前呼びに口から心臓が出そうになる──驚きとともに嬉しさがこみあげたのが不思議だった。
『ええ、そうよ。それがなに?』
「すみせんが、お断りします」
はっきりとした拒絶に、今度は陽葵の心臓がバクバクし始めた──助けを求める史絵瑠の手を振りほどこうとしている、それはいいことなのか──。
『は? あんたに何の権利があって』
「悪いけど俺が一緒に住んでるんでね、諦めてくれ」
「ええ!?」
思わず大きな声を上げた陽葵を尚登はいたずらめいた目で見てにやりと笑い、自分の口の前に指を立てた──陽葵はこくこくと頷き口を手で塞ぐ。
「そうは広くない部屋に妹さんまで来たら狭くてしょうがないし、気ぃ遣うだろ」
『は? なに、あんた、彼氏なの? 姉からそんなこと聞いたことないんだけど』
「そうそう、彼氏。まだ秘密にしておきたいみたいなんだよね。君との同居も俺を盾に断ればいいじゃんって言うんだけど、俺との同棲は内緒にはしておきたいし、でもどうしても君を見捨てることができないようで、毎日めっちゃ悩んでて見てて可哀そうでさ。だから俺から断ろうと思って」
『あんたには関係ないでしょ』
「関係ないことねえだろ。優しいひまりに付け込むなよ。ひまりがどんな目に遭ってきたか知ってんだろ?」
ふふ、と史絵瑠は笑った、馬鹿にしたような笑いだと判る。
『知ってるわよ、パパもママも私のご機嫌取りに忙しいから、別に理由なんかなくても私が泣いて訴えれば、パパもママもすっごいいきおいで怒ってさ、面白かったーっ』
どくん、と心臓が跳ね上がった──「面白かった」、そんな言葉に体が冷えて行く──史絵瑠はわざと陽葵が嫌われるように仕向けていたのか──。
「──そんな生活が嫌で、ひまりは家族から距離を取ったんだ。そのひまりと住みたいと思う君の本心はなんだ?」
『あんたには関係ないでしょ、姉と話すわ。いないならまたかけるから』
「大ありだろ、俺の気が向けば一緒に住めるかもしれないんだぞ?」
史絵瑠は笑う、今度は自信ありげな笑い声だ。
『あんたに選ぶ権利があると思ってるの? いいわ、顔見せてよ、私が気に入ったら一緒に住んであげる』
すると画面に史絵瑠の画が映し出された、ビデオをオンにしたのだ。画面に映る自分の姿を見て前髪を整えている、顎を引いた様子から一番かわいく見える角度から撮っているのだろう。一目見れば自分を好きになる、そう思っているからこその提案だ。どんな男も陽葵よりも自分を選ぶ自信があるのだ──どうせ陽葵に恋人などいない、この度の電話も金で依頼されたのだろうくらいにしか思っていない。そんな男なら簡単にたぶらかせる。
背景からそこが史絵瑠の自室だと陽葵には判った、多少調度品は変わっているが、壁紙とタンスに見覚えがあった。
「何様だよ、てめえこそそんな権利があると思ってんのか、話にならねえな。切るぞ」
「え、ちょっと、待ってください!」
自分からは一言もなしなのかと、陽葵は思わず声を上げていた。
『お姉ちゃん』
陽葵の声が聞こえたのか史絵瑠の声がしたが、尚登は容赦なく通話を切ってしまう。
「え……っ! 副社長! なにを勝手に……!」
「あの女は辞めたほうがいい、ひまりが思う以上に性格悪いぞ」
「そんなこと……!」
たぶん、ある、などと思ってしまう。妹だからと庇いたい気持ちはあるが、陽葵が怒られる様を嬉しそうに見ていたのを思い出せば、そう思わざるを得ない。
「あんな奴をかばうことも助ける必要もねえ、口では姉だと言いながら姉だなんて思ってない」
「……でも妹なんです……その妹が傷つけられているのを見過ごすわけには……」
「だから何があったんだよ」
「それは……」
言わなくてはならないのか、父の罪を──そう思った時、陽葵のスマホが再度震える、画面に出た文字はもちろん『Diana』、史絵瑠だ。直後の電話などとはさきほどの話に納得がいってない証拠だ、勝手に通話を切ったことを怒っているのだろう。
どう対応しようか──悩んでいる隙に、尚登がスマートフォンに手を伸ばす。
「え、副社長……!」
陽葵が叫んだ瞬間、その口を尚登は手の平で、今度はしっかりと塞いだ。
「尚登って呼べよ」
顔を近づけ小さな声で言う、その意味を考えるよりも顔がきれいなことに見とれてしまい、尚登の手が触れていることなど気にならなかった。
「な、なんでですか……!」
何故名前で呼ばなくてはならないのかと、尚登の手の下でこもった声で訴えた。
「同棲してるって言ってるのに『副社長』はないだろ。あの女に俺の肩書きなんか知られたくないし」
確かに──若くして副社長だというだけで、社内の女たちすら盛り上がるのだ。もっとも世の中には若い社長も副社長も、探せばいくらでもいるだろうが──尚登が通話ボタンを押した途端だった。
『ちょっと、失礼にもほどがあるでしょ!』
史絵瑠の声が大きく響く。
『話にならないのはあんたの方よ! どうせ断るよう頼まれただけでしょ! 姉を出しなさいよ!』
陽葵が押しに弱いことなど知っている、だから直接話せば簡単に落ちると踏んでいるからこその連日の電話なのだ。史絵瑠側のビデオは変わらず画面はオンのままだが、スマートフォンは手に持っているのだろう、画面が激しく揺れているのは、怒りからか。
「いますよ、ひまり」
言って尚登もビデオをオンにし陽葵を映した。陽葵は一度もビデオ通話を使ったことはない、画面で史絵瑠と並ぶのが嫌だったからだ、だが今は二つの画面で並んでしまう、引きつる顔をなんとか笑顔にしようするが難しかった。
『お姉ちゃーん!』
史絵瑠の甘えた声にぞくりと背筋が凍る。
『──って、その人? 一緒に住んでるって……』
急に史絵瑠の声がしおらしく響いた、ん、と画面を見れば端に尚登が入り込んでいる、椅子を寄せすぐそばにいることに今更気づいた、体が触れあう近さだ。
「ふくしゃ……!」
思わず声を上げた陽葵の口を塞ごうとしたのだろう、尚登は陽葵の後頭部に手をかけ肩に押し当てた。そうだ、肩書きで呼ぶなと言われたと思い出したが、しかしいきなり名前で呼ぶなど無理だ、しかも突然抱きしめられ、陽葵の体が硬直する。
「どうも、高見沢です」
尚登は画面に向かってにこやかに挨拶をする。
『──へえ、まあ、かっこいいじゃん、お姉ちゃん、見る目あるね』
「どうも」
返事をしたのは尚登だ。
『交際はいつから?』
「いつからだっけ? そんな昔のこと忘れたな。住み始めたのは2か月前だけど」
すらすらと出てくる嘘に、陽葵はぎこちなくも頷くしかない。
『住んでるってことはぁ、結婚とか考えてるってことぉ?』
さきほどまでの攻撃的ものとは違い、なんとも粘着質な喋り方になった、画面の史絵瑠もずいぶん上から映したものとなり、上目遣いでこちらを見ている様子に媚びを感じる。
「近いうちにね。俺もいい年なんで、親からの押しもひどくて。あとはひまり次第だな」
にこやかな返事に陽葵の背に背中に冷たいものが流れる、そんな嘘はつくものではない。
『え~? いくつ~? そんなおじさんには見えないけどぉ』
「大学生からしてみたらおっさんでしょ」
質問には答えずにこやかに応じた、しかし史絵瑠は気にせず指で髪をクルクルと巻きながらなおも媚びた声で言う。
『えー、私は気にしなーい』
確かにと陽葵は内心思う、先日は父と言ってもいい男性と腕を組んで歩いていたのだ。
『お姉ちゃんよりぃ、私の方が、いい女だと思うけど、なぁ……』
ぺろりとわずかに舌で唇を舐めたのは、潤いを持たせ色気を出そうというのだろう。嘘でも交際しているという相手にする言動かと、二人揃って呆れた、それを正直に口に出したのは尚登だ。
「確かにいい女だな、性根の腐り具合が」
その言葉の意味は理解した、途端に史絵瑠の表情が憤怒に変わる。
『は!? 誰に言ってんの!? あんたこそ顔はよくても根性腐ってるわ!』
「お互い様なら罵りあいは不毛だからやめようか」
そんなことを笑顔で言う尚登は、本当に意地が悪いと陽葵は思った。
『お姉ちゃん! こんな人と付き合ってるなんて嘘でしょ!』
「なんで疑う?」
答えたのは尚登だ。
『お姉ちゃんがこんな人と付き合うはずないもの! お姉ちゃんにはもっと優しくて思いやりがあって、面倒見がよくて思慮深い人がお似合いだもの!』
「だってさ。さすがは姉妹、姉のことをよく判ってるねぇ」
それは陽葵に向けられた言葉だ。だが陽葵は首を横に振った、それは単に今受けた尚登の印象からかけ離れた人物像を言って言っただけであり、史絵瑠の本心ではないだろう。
「別れる?」
笑顔で聞かれたがそもそも付き合ってなどいない、ただ見上げて視線でそう訴えれば、史絵瑠からは見つめあい会話しているようにしか見えなかった。
『お姉ちゃん!』
史絵瑠が叫ぶ。
『目を覚まして! 私がお姉ちゃんを助けてあげる!』
助ける、そんな言葉が陽葵の鼓膜を叩く。
『その男に騙されてるんだよ! どんなによくても見た目で騙されちゃダメよ! 一緒に住んでるって言うなら、私も一緒に住んで、化けの皮はがしてやるから!』
ああ、結局そこに行き着くのか──陽葵はため息が出た。そうだ、史絵瑠は家から出たいのだ──史絵瑠が助けると言うなら、自分も助けなくては。
「うん、そう──」
そうしよう、そう言おうとした陽葵の顎に、尚登の手がかかる。
「はい?」
何をと思っている間に、陽葵の口を尚登は唇で塞いだ。え、という声すら塞がれる。
『ちょっと! 馬鹿じゃないの!? 邪魔するんじゃないわよ、色情狂!』
史絵瑠が口汚く罵る、尚登は軽く啄むようにして離れたが、しかし完全には離れないまま角度を変え再度重なる──何度かそんなことを繰り返した。
「ふ……ふくしゃちょ……!」
抵抗の声は尚登の口の中に吸い込まれてしまう、陽葵は拳を尚登の胸に当て押すが、離れる気配はないどころか顎の支えていた手が後頭部に回り完全に固定されてしまう。
「離……っ」
陽葵の声を封じるように舌が入ってきた、初めてのことに陽葵は戸惑う。しかもその合わさった唇はしっかり映るように顔もスマートフォンの位置も完ぺきだった。
『お姉ちゃん!』
史絵瑠の声が響く。
『ちょっと! 本当にその男、顔だけで馬鹿すぎでしょ! 人の話を聞きなさいよ!』
その声は途中で途切れた、尚登はスマートフォンの電源まで落としテーブルに放り出す。
静かな室内にキスの音が響く。こすれあう舌の感触に陽葵は体に熱が帯びるのを感じた、スマートフォンから離れた尚登の手が優しく頬を撫で全身から力が抜けそうになる。
なぜこんなことに──戸惑う間にキスはさらに深くなっていく。
「……やめ……」
声は言葉にならなかった。
「ふく……!」
「尚登」
ようやく離れた尚登が瞳を色っぽく光らせて言う。
「言ってみな」
いたずら気味に微笑むその頬を、陽葵は戸惑いと怒りに任せて叩いていた。
「──かわいい顔して馬鹿力だな」
つぅ、と痛みを訴えてからぼやいた。
「なんでキスなんか! ファ、ファ、ファ……!」
ファーストキスなのにと叫ぶこともできずに体をわなわなと震えさせる。
男性経験もないのに。
それがこんなにさりげなく。
しかもいきなりのディープキスで。
恋人でもない人と。
しかも副社長などと──脳内には文句しか出ない。その文句を誰かに訴えてもきっと羨ましがられるだろうが、自分にとっては嬉しい状況ではなかった。
「初めてか。どうりで新鮮な反応だった」
そんなことを言ってにこりと微笑む、その瞬間尚登が軽薄な男なのだと判じた、このような人間とまともに関わることはない、それより史絵瑠だとテーブルに置かれたスマートフォンに手を伸ばしたが。
「本当にやめておけ」
尚登が冷静に引き留める。
「今の言動見てても判るだろ。あいつは放っておいても図太く生きてく」
「でも──っ」
確かにとは思う。これで泣いてすがるようなことがあれば本当に手を差し伸べねばと責務に駆られるが、言葉も汚く怒鳴る様子には十分強さを感じる──だが抱きしめたスマートフォンの電源を入れることはできなかった。
「──もし史絵瑠が自殺でもしたら、副社長を恨みますから」
陽葵は脅しのつもりだったが、尚登は呆れてため息を吐く。史絵瑠はどう見ても自殺よりは他人を攻撃するタイプのようだが。
「恨まれても君に覚えてもらえてたら嬉しいくらい言えるけどね。自殺って、どうして」
できるならば言いたくはないが、尚登の『なぜ』を解消するためには言わなくてはいけない──家族の恥を──深呼吸で気持ちと脳内を整理する。
「父が……」
喉に絡みつくものをごくりと飲み込んだ。
「父が史絵瑠に性的虐待をしているそうです……もう10年以上も、ずっと」
思いのよらない言葉に尚登は「そう」と呻くように返事をした。
既に家族関係のことは聞いた、史絵瑠と陽葵の父ならば戸籍上の親子だ、その二人がしていること──頬杖をして思案を始める。
「私と住みたいというのは、その父から逃げたいという史絵瑠のSOSなんです、義理でも史絵瑠は妹だし、父は私の実の父だし、あの子の性格が悪いって言うならそれも家庭環境でしょう、だったら私が責任を取るべきだと──」
「判っていても勇気は出なかった、過去の辛い体験で、家族とのつながりは持ちたくないと」
図星に陽葵の全身から力が抜け、涙がこぼれる。史絵瑠が自殺したら尚登のせいだとは言ったが、それは自分に向けた言葉だ。返事を引き延ばさず、たった一言、「おいで」と言ってやればよかっただけだ、そんな後悔が声もなく涙となって流れ始める。
尚登は無言でハンカチを出したが、今日も陽葵は断り自分のミニタオルでそれを拭う。
「無理することはない、君は頑張ってきた。妹さんはそういう被害者を受け入れてくれる施設を頼らせればいい。それで十分だ」
「でも史絵瑠は私を頼って……!」
「わざわざ探してまで君に会いに来たのか? 違うだろ、偶然、たまたま、日曜日に再会したんじゃないのか?」
確かにと陽葵は思う。あまりに突然で、だからこそびっくりしてショックが大きかったということはある。
「なるほどね──少し調べてみるか」
尚登は小さな声でつぶやいた。
虐待の有無や陽葵に同居を持ちかける背景をだ。今会話した限りの史絵瑠の様子からでは幼少期から性的虐待を受けている印象はなかった、それは単なる勘だ、その手の知識があってのことではないが自分の直感を信じた。うまくいっていないと泣く陽葵に、そこまでの嘘をついて取り入ろうとする史絵瑠が何をしたいのか──簡単に立つ埃ならばありがたいが。
「調べるって……なにを……?」
何をどう調べるのか、調べることなどあるのかときょとんとする陽葵に、尚登はにこりと微笑みかける。
「まあ、いろいろ」
それなりにツテはあるが、それを明かすつもりはない。
「とりあえず妹さんはブロックしとけよ。もうかけてこないだろうけど」
「え、でも、そんなことして、本当になにかあったら……!」
「優しいな」
尚登は笑う、それは言葉のとおり優しい笑みだった。
「んじゃ俺と連絡先、交換しとこう。連絡来たらグループ作って、そこで話すよう誘導すればいい」
尚登はスマートフォンを取り出すと、通信アプリの二次元コードを表示しテーブルに置いた、陽葵は副社長の連絡先をもらうなどとは、と戸惑う。
「でも……」
「一緒に住んでるなんて嘘ついた手前、掛かってきた時俺がいないなんてなったら、どう言い訳する?」
嘘だったと馬鹿正直に言えばいいと思いやめた、そんなことを言えばきっと史絵瑠は怒り、馬鹿にするだろう──つくづく嘘はつくものではないと納得する、嘘をごまかすには嘘を重ねないといけないのだ。
諦めてスマートフォンの電源を入れ、二次元コードを読み取り登録した。
「すぐにメッセージ送って」
言われて陽葵はすぐにスタンプを送る、尚登のアイコンは外国と思われる海と空がきれいなものだった。『Naoto』と書かれたトークルームにブタが『よろしくお願いします』と土下座するスタンプを送れば、それを見た尚登はにこりと微笑む、真面目に一文を送ってくるかと思いきや、愛らしいスタンプとは──笑顔のままそれを登録する。
「ああ、すっかり冷めちまった、早く食べよう」
尚登は再度箸とスプーンを手に取り、フカヒレを口に運ぶ。そうだ、コース料理なのだと陽葵は思い出し、慌ててそれを口に運んだ。
間もなくドアがノックされ入ってきたウェイターは取り分け用の小皿を回転テーブルに置く、既にいくつもあり、自分たち二人しかいないのになぜ増やすのかと陽葵が思うと。
「尚登さま、冷えたおしぼりでもお持ちしますか?」
にこやかに言われ陽葵ははっとした、さっき自分が尚登の頬を思いきりひっぱたいたからだ。現に尚登の左の頬は赤くなっている、その尚登が微笑み答える。
「ありがとう、助かるよ」
断らないということは、相当痛かったのだろうか。
「すみませんでした」
ウェイターが出て行くと、陽葵はすぐに謝った。
「ああ、これ?」
尚登は笑顔で頬を示す。
「まあ悪いのは俺だしね、ひまりの純潔奪った罰にしては軽くていいんじゃない?」
「じゅ、純潔って……」
キスくらい、どうということはない、などと強がってみせるが動揺は隠せない。
「あ、ひまり、ってひらがなじゃなかったよな?」
「え?」
尚登は左手を持ち上げ聞いた、そこには陽葵が記した名前がある──なぜそんな質問に、と思ったが、IDを知っていたくらいだ、社員名簿を見たのだろう。
「はい、太陽の陽に、葵です」
「ああ、そうそう、読めねーって思ったんだ。陽葵ねえ」
「向日葵のように明るく、ってつけてくれたみたいです」
7月生まれだ、季節をイメージして名付けたのだと母が嬉しそうに話してくれたのが懐かしい。
「なるほどね、かわいいじゃん」
そんなことをと簡単に言えてしまうところが遊び人だと、陽葵は思う。
「──っていうか……なんで私が副社長をぶったこと、判ったんですか……?」
入ってくるなり冷えたおしぼりをなどと言うとは、しかも不要そうな小皿をわざわざ持ってきてまでだ。
「カメラがあんだよ、でないとコース料理の進み具合も判らないだろ」
そう言って出入口がある側の隅を親指で示した、確かにそこの天井にドーム型の監視カメラらしきものがある。それを見て陽葵はなるほどと思う。
「それで全部見られて──」
思った瞬間、え、と声が出た。全てを見られていたのか、ならばキスしたところもだと背中に汗が流れる。音声は拾うのか、聞こえていたにしても交際のふりをするためのキスとは思わないかもしれない、現に史絵瑠は信じてとても怒っていた。
(う、嘘でしょ、副社長とキス、見られ……っ、しかも結構長かったし、く、口の中まで……!)
真っ赤になり口を押える陽葵に尚登は微笑む。
「まあ大丈夫だよ、ここの人たち、口は堅いし」
尚登は余計なことを言った、口が堅ければなにをしていいものではない、陽葵は危険を感じ、また抱き着かれたくないと、ほんの少し椅子を尚登から離した。
「目黒は何しに行ってたの?」
尚登は届いたおしぼりを左の頬に押し当てて聞いた。
「庭園美術館に行った帰りでした」
「庭園美術館?」
「目黒駅近くの、以前は皇族のかたの住まいとして作られたものでのちには迎賓館としても使われたような建物で、とても瀟洒で素敵な建物と庭園が見られる場所なんです」
カフェや茶室もあり、何時間でも飽きることなくいられる場所だ、もう少し遅い季節なら紅葉が楽しめただろう。
「へえ。そういうものに興味が?」
「はい、好きです、休日は大抵美術館や博物館を訪ねています」
「恋人はいないんだ」
不躾なプライベートな質問にムッとしてしまう。
「なんでそんな言い方なんですか。恋人と巡ってるって思わないんですか?」
「倒れそうに具合が悪くなった君を放って帰るような彼氏さん?」
意地悪な笑みで言われ、陽葵はますます不機嫌になる。
「先日はたまたま一人だっただけかもしれないじゃないですか」
「ファーストキスが今だった人が、そんな強がり言わなくても」
確かにそうだと、陽葵は小さく拳を握り締める。
「まあ、美術館やなんかは一人でも楽しめるもんな。俺も映画は一人で行きたいタイプ」
「あ、判ります」
もちろん友人たちと行くのもいいが、一人ならば世界に完全に浸ることができる。
「そんな楽しんだ日に妹さんに会っちまうなんてな。待ち伏せでもされてた感じ?」
「いえ、そんな感じではなかったです」
史絵瑠も驚いた様子だったのは演技ではなかった、一緒にいた男も何も知らなかったように感じた。そもそもそんな風に再会を演出する必要も……とその時ふと疑問に思う、史絵瑠はあの男と何をしていたのだろう。会社の上司だと言われれば納得できそうな年代だった、平日ならば確実に上司と外回りだと思っただろう、仕事にはよるが日曜日の夕方に近いような時間にも働いているのか……史絵瑠は何をして稼ぎを得ているだろう。現状も生活費として5万円を支払い、出て行くなら10万円は支払えると見込まれている仕事だということだ。
「偶然ばったり出会って、お父さんの件で困ってるから同居してくれ、ねえ……」
住まいをずっと探しており陽葵との再会で名案を思い付いたと言えばその通りだが、それまでになにかやりようがあったように思うが──次の料理の立派なロブスターが来たことで、その会話は終わった。
☆
たっぷりと2時間ほどかけて食事は終わった。テーブルチャージだ、ボーイが伝票を持ってきたが二つ折りのホルダーに挟まれたそれは値段を盗み見ることもできず、一体いくらの支払いなるのかと陽葵は冷や汗を流した。
尚登は中身を確認もせずクレジットカードをトレーに乗せる、真っ黒なカードを見て陽葵は喉の奥で驚いた。
店を出る時は店先までボーイと店長が見送りに出てくる、最後まで丁寧に深々と頭を下げて「またのお越しを」と送り出す様子にさすが高級中華と感心し、尚登が度々来ていることが伺えた。
「家まで送るわ」
エレベーターに乗り込むと尚登が1階のボタンを押しながら言う。
「いえ、そんな、一人で帰れます」
電車で帰るならば2階で降りて陸橋を使って対面の商業施設を抜けるのが手っ取り早くて楽だ、操作パネルの番号を押そうと手を延ばしたいが前を尚登が陣取っていて手を伸ばすのは憚られた。
「俺はタクシーで帰るから、一緒に帰ろうぜ」
「いえ、そんな」
タクシー代を払うくらいなら歩いて帰るなどと思った瞬間、思い出した。
「あの、私の分はお支払いします」
鞄から財布を出しながら言った。
「えーいいって。誘ったの俺だし、俺が食いたかったし」
「でも、お安くないですよね」
「まあそうだけど。でも俺の方が全然いい給料もらってるし」
「そ、それは確かに……!」
そう言ってくれるならと、それでもと1万円札を出して尚登に差し出した。ディナーのコース料理では全く足りない金額であることは承知だが。
「せめてこれくらいは。私のために来てくださったんですから」
「まあ結果的には解決してないみたいだけど?」
「そんなことないです」
少なくとも前進した気はした、史絵瑠に一緒に住めないと断言してくれたのだ。そして自分を大事にしろと言ってくれた、その言葉に従うならやはり史絵瑠を受け入れてはいけないんだという決意はできた。
「本当に……ありがとうございました」
呟くように礼を述べれば、尚登は陽葵が握る札に手を伸ばした。よかった受け取ってくれるのか、そう思い安心する、やはり自分のために来てくれたというなら割り勘のほうが気が楽だ──だが尚登の手は札ではなく陽葵の手を握った、途端に陽葵の体は硬直する。
「──あの」
離してと言いたくても声は喉の奥に張り付いた。
「──ああ、そっか、ごめん」
表情から触れ合うのが苦手だと言っていたのを思い出した。
「キスまでして」
言われて陽葵は慌てて視線を反らせる。確かに触れられると恐怖を覚えるが──さっきのキスはそんな感覚は全くなかった、驚きから言葉は失ったが──むしろ気持ちがよかったとは言えない。
「マジで金は要らない、男に恥かかすな」
尚登の真剣な声に、陽葵は頬をほんのり染めつつも現実に帰ってきた。
「でも、副社長の貴重なお時間をいただきましたから」
「別に? 俺も楽しかった」
「楽しいとこありましたか?」
史絵瑠の話は、第三者としても決して楽しいことではないだろう。
「キスできたし」
投げキッスとウィンク付きで言う尚登に、陽葵は顔中赤くすることしかできなかった。
「あ、じゃあ、こうしよう。今度俺になんか奢ってよ」
「えっ!?」
声がひときわ大きくなったのは、また副社長たる尚登と食事を摂ることに緊張を覚えたからだ。
「で、でも私、こんな立派なお店なんか、知りません……っ」
「ここは誰にも聞かれたくない話をするのにうってつけだから来ただけで、マックでもいいし、なんならガリガリ君でも」
「ガリガリ君じゃ、あまりに安すぎませんか……?」
「1本じゃ申し訳ないって言うなら、全額ガリガリ君、1年分だな」
尚登は明るく笑う。
「毎日一本ずつ届けてくれよ、おお、いいな、会う口実ができるじゃん。陽葵も一緒に食べようぜ」
そんな提案に陽葵は呆れる。
「──失礼ですが、いつも社内でお見掛けする様子とは、全然違うんですけどっ」
いつもは礼儀正しく、さわやかさを感じるイケメンだった、現に目黒駅のホームで声をかけてくれた時も紳士だったが、今夜の言動は別人かと思えるほどだ。さわやかではないといわないが、どうにも荒っぽい。
「悪いな、これが地だわ。一応副社長なんて職に就いた手前、それらしく振る舞っておかないと多方面に迷惑かけるからな」
別にそれを強いられたわけではない、自分なりの処世術だ。今は社長の補佐的な立場である、その傍らでおとなしくしていようと思ったのだ。もっとも関係者には尚登を幼少期から知っている者も多い、会えば飼いなさられた狼か、牙を抜かれたライオンかと笑われるが、今しばらくは猫を被っていようと思っている。
「でも勤務時間外までやってらんねえよ。だから外で副社長はやめろや」
「……でも」
自分にとっては副社長である、現に今もその立場で会っているのだ。
陽葵が戸惑う間に尚登はその手から札を抜き取り、陽葵の胸元、ジャケットとブラウスの隙間に差し込んだ。
「え、ちょ……っ」
「やるよ、俺からのお小遣い」
「え?」
受け取りました、あげます、が同時に行われたことで、絶対に受け取らないという意思を理解できた。
「ありがとうございます、ごちそうさまでした」
陽葵は素直に礼を述べ頭を下げた、そしてエレベーターは1階に着いてしまった。
「あ、私は電車で帰ります」
今更ながら陽葵は言う、2階で降りれば楽だったが地上にも横断歩道はある、それを渡ればよいだけだ。
「ここまで来たんなら一緒に帰ろうって」
「でも」
「お金なら君が持ってるだろ」
そう言って陽葵の胸元を指す、そこに差し込まれた札は既にポケットにしまったが、それで支払うということかと納得した。
「判りました、副社長をお送りします」
「サンキュー、とりあえず君の家な」
タクシー乗り場で停車している車に近づけば後部座席のドアが開く、尚登はドアを支え、陽葵に先に乗るよう勧めた。
「いえ、そんな!」
座席の優先順位は運転席の後ろが上座だ、尚登が乗ってくれと陽葵は勧めるが尚登は笑う。
「今は役職はどうでもいいわ、先乗んなよ」
ここで押し付けあってもしかたない、陽葵はありがたくタクシーに乗り込む。
「神奈川県民ホールの裏手まで。近くまで行ったら案内します」
行き先を告げたのは尚登だった、運転手がはいと答えて車は走り出す。
ホテルを出たタクシーは国際橋を抜けカップヌードル博物館や赤レンガ倉庫を見ながら走り続ける。新港橋を渡るとさらに横浜感が増す、通称ジャックと呼ばれる横浜税関を右手に見ながら左折した。
「次の開港広場前を右折、すぐの交差点を左折で入りますがよろしいでしょうか」
左へ曲がれば大桟橋に行き着く交差点だ、よくドラマやCMの撮影にも使われる港町・横浜の風情が満載の場所である。そしてさすがはタクシーの運転手だと陽葵は納得した、間違いなくそのルートが陽葵が住むマンションへの最短ルートだ。
「お蕎麦屋さんのあたりで停めてください」
陽葵が目印になる店舗を言えば、運転手ははいと言ってその真ん前で停車した。車が完全に停まる前に尚登が先ほどのクレジットカードを出している。
「え、私が……」
タクシーで帰ると言っていた、せめてここまでの代金は自分がと陽葵はポケットから1万円札を出したが、運転手からも尚登のカードの方か受け取りやすかったのか、カードで精算されてしまった。ここも尚登の支払いかと申し訳なく思う、千円余りの代金だ、それも合わせて今度お返ししようと陽葵は心の中で決めた。
「あの、ありがとうございます」
尚登に続いてタクシーを降りると陽葵は改めて礼を述べた。
「ん、別に」
尚登は笑顔で応じる。
「でも副社長、降りてしまっていいんですか?」
タクシーで帰ると言っていたが、確か尚登は都内住まいだったと陽葵は思い出す、みなとみらいからは完全に反対方向に来てしまった。
「いいのいいの」
尚登はさっさと歩いていってしまう、陽葵も慌ててあとを追いかけた。
「もし妹さんから連絡が来たら、迷わず連絡してこいよ」
「はい」
力強い言葉に素直に返事をしていた。
「何時でも気にしないから。真夜中でも」
さすがに史絵瑠もそんな時間には連絡はしてこないだろう、そう思いながらも「はい」と答えていた、尚登の優しさが嬉しかった。
鞄から鍵を出し、開錠すると自動扉が開く。
「お世話になりました」
「いいえ。おやすみ」
「おやすみなさい」
一礼して中へ入った、今日も見てくれているのだろうと思いながら歩みを進めた。いつもなら郵便受けを見てから上がるが、見送られていてはできないとまっすぐエレベーターに向かった。背後で自動扉が閉まるのが判る。
今日はエレベーターは6階にあった、先日よりも待つなと思いながら上行きのボタンを押していた。
尚登の視線を感じる、恥ずかしさと無視をしているのは辛く、少しだけ体の向きを変えて尚登を見れば、尚登は笑顔で手を振った。わずかに頭を下げて返事に変えた時、尚登に歩み寄る年配の女性がいた。5階に住む者だが名前までは知らない、顔を見れば挨拶を交わす程度だった。
「あらまあ、色男ね」
5階に住む小宮という女は気さくに声をかけた、尚登もにこりと微笑み答える。
「ありがとうございます」
素直な礼にこの男は言われ慣れているなと小宮は確信する。確かにこれほどの美男子だ、誰も放っておかないだろう、かくゆう自分も思わず声をかけていたのだ、むしろ50代も後半になると恥ずかしさもなく声をかけるようになっていた。
「どうしたの? 入れないの? 一緒に入る?」
「いえ、友人を見送りに来ただけですので、こちらで失礼します」
尚登は笑顔で中を指さした、小宮が見えれば陽葵が小さく頭を下げた。
度々会う陽葵のことはよく知っている、と言っても名前も知らないし、自分より上階に住んでいることを知っている程度だが、物静かでもきちんと挨拶をする、清潔感もあり好印象の少女だった。
そんな少女と色男がこんな時間にこのような送迎とは──ははーんと下世話にも笑顔になる。
「まあ、そうなのねえ、いいわねえ」
深くは聞かずに、にまにまと笑いながらオートロックを解除し中へ入った、陽葵を見れば再度頭を下げ歩みを進める、エレベーターが到着したのだ。振り返れば尚登が笑顔で手を振っており、小宮が見ていると判れば会釈をして挨拶する、これまた好青年だと思った。
陽葵が開いたドアを押した状態で開けて待っていてくれた、そこへ乗り込む。
「まあまあまあ」
コンビニにビールを買いに行ってよかったと思った、いいものを見ることができたと思うのは老婆心もいいところだ。
「とんでもない色男じゃなーい、素敵な恋人ねぇ?」
いかにも艶話的な物言いで言うが、陽葵は笑顔で応じる。
「とんでもない、上司なんです。今日は会社の人たちと食事に行きまして、ついでだからと送ってくださいました」
二人きりだったとは言いづらく、嘘を交えた。
「まあ、そうなのねぇ、素敵な人と働けて羨ましいわぁ」
「いえ、上司と言ってもはるか上の方で、普段は言葉を交わすこともないんですよ、今日はたまたまで」
本当にそうだと陽葵は思う、三宅も頭頂部が見ることができれば喜ぶと言っていた、まさにそれだ。
「そうなのぉ? そんな人がこんなところまで、ついでだなんて言い訳して送ってくれるなんて、あの人はあなたに気があるんじゃないの~?」
なんともいやらしい笑みで小宮は言うが、陽葵は返答に困る、そんなことはないと断言できる。
「いいわねえ、かっこよくてぇ、私があと30歳若かったら口説いちゃうわぁ」
ニヤニヤと言われ陽葵は曖昧に微笑んだ。それからも尚登の讃辞が続き、陽葵が曖昧に微笑み返事をしていれば、ようやく5階に着き小宮はいやらしく「じゃあねえ」と挨拶をして降りていく。解放されたことにホッとしている間に陽葵も到着しエレベーターを降りた。
ああ、やっと我が家だと陽葵は安堵した。いろいろありすぎて長い一日だったと感じた。
スマートフォンの電源は落としたまま、その日は眠りについた。
いつもよりも温かい心なのは気のせいだろうか。
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