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運命の再会

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運命の恋なんて、あるのかな。







ホテルのロビーで花を生ける。

家業は花屋、店頭で売るだけでは生計は成り立たないので、近隣のホテルや店舗、オフィスに営業をして回ったのは、脱サラして手伝っている父だ。

自称、優秀な営業マンだった父のお蔭で忙しくしている。

桜木町駅近くの小さなホテルだ。
元は造花を飾っていたのを、どうせなら生花でと言う営業を受け入れてもらえた。
以前は母がやっていた生ける作業も、大学を卒業して一年経った春からやらせてもらえるようになった。
専業主婦だった母が、趣味が高じて「花屋をやりたい!」と言い出したのは、数年前だった、私の大学受験の頃と重なる。子育ても終わったとでも言いたげに宣言した。
父も私も反対したけれど、結局、二人してその手伝いをしている、母は人使いがうまいのだろう。

「亜弥はセンスあるわあ」

そんな言葉にほだされて、フラワーアレンジメントや生け花を習った。カラーコーディネイトも勉強したし、ラッピングの講習にも行った。
本当に、どっぷりだ。いずれは跡は継ぎたいと思っている。

ホテルの大きな花瓶に生けた花を、少し離れて全体の様子を見て首を傾げていると。

「おう、いっつ、あめーじーんぐ」

外国人の声がした。駅前とは言え小さなホテルだ、節約観光客が朝も早くから観光かななどと思って気にもしないでアレンジメントに近付こうとした時。

「へーい、ぷり、がーる!」

突然視界に白い塊が見えた、それは中東の男性が身につける頭巾、クフィーヤをした男性で、何故だか私は抱き締められた。

「え!?」
「ゆーあー、そう、ぷりてぃがーる! はぶゆー、ぼーいふれんど? はう、あばうと、あーい!」

いや、いや、待って! 私の英語力、中学生レベルだから!

「あ、あの、ジャスト、モーメント、プリーズ……」

私は男性の体を押しながら言う、特有のワンピースのようなガラベイヤでは、何処に体があるのか判らないな……。

「申し訳ありません」

脇から日本語がした、よかった、日本人がいた!

「よかったら一緒に国に帰ろう、第四夫人として迎えたいと申しております」

キリリとした真面目そうなスーツ姿の男性は、当たり前のように言った。

「第四夫人!?」
「こちらはナサーハ王国の国王です。ナサーハはペルシャ湾に面した小さな国ですが、石油のお蔭で豊かな暮らしをしております。王の十三番目の王子が今日本に留学しておりますので、その様子を見に来日しておりまして……」

クラクラしている間にも、日本人男性は冷静に自己紹介を続け、アラビアン男性は私にハグを強行し……!

「あの!」

私は渾身の力を込めて男性を押した。

「申し訳ありませんが、結婚も交際も興味がありません! 他を当たってください!」

だって。私には心に決めた人が!





「へえ、熱烈ラブコールじゃあん、いいじゃない、中東の王妃様」

報告すると、母が呑気に返してきた。

「やあよ! 第四夫人だよ! それがもう私のモラルに反するわ!」
「そうだけどさあ。もしかしたらまたとない機会を逃したかもよぉ? 一生一人は、淋しいんじゃなーい?」
「だからって、ホテル向井に泊まる王様なんて怪しいじゃん!」

最近でこそ外国人も増えたけど。かつては主なターゲットはビジネスマンで、出張費を浮かす為に使うようなホテルだ。
王様だと言うなら、高級と呼ばれるホテルに泊まるものでは!?

「でもさあ。本当に、お母さんも心配よ、あなただってモテない訳じゃないでしょ? でも交際した人なんか、今まで見た事も聞いた事もないけど」
「……だって、いないもん」

私が呟くと、母は大袈裟に溜息を吐いた。

「まったくぅ。折角美人に産んでやったのに、仇で返してるわ」
「──そんな事、言ったって……」

母は知らない、私の初恋を。

「お店継ぐって意気込んでくれるのは嬉しいけどさ。それよりは孫の顔を見たいわねえ」
「……はあい」

弱々しく返事はした。

でも、多分無理。

現実の男は、私の頭の中の恋人には、到底及ばない。

    
◇◆◇


「責任とって亜弥と結婚する!」

泣きながらそう言ってくれた幼馴染の彼が初恋の相手。
彼はその後引っ越しをしてしまい、もう13年、会っていない。
それでも彼と過ごした幼い日々は、今でも鮮烈に思い出に残っている。
記憶の中の彼は子供の筈なのに、私の理想の男性になっていた。


◇◆◇


午後にコンビニで買ったドリップコーヒーはとっくに冷めて、香りも無くなっていた。
それを一口飲むと。

「亜弥ー、これ、アカツキさんとこ届けてー!」

母の声がした。

「はあい」

あかつきさんとは、近所のスナックで、週に二度花を納入している、お店の花瓶に生けるまでが仕事。概ね
15時頃に伺う。

「じゃ、行ってくるね」

カサブランカを中心に、カーネーションやグリーンがまとめられた箱を抱え上げた。

「お願いね」

近所だ、歩いて行くことにする。
一大歓楽街である横浜・野毛にある花屋は、それなりに繁盛している。

一応十時から二十時までの営業なのだが、実際には深夜と言える時間までやっている。周囲には風俗のお店も多い、そこの嬢にお客が「〇〇ちゃんの誕生日なんだよー」なんて買っていくのはしょっちゅうだ。
その〇〇ちゃんの誕生日を、一年に数回聞くのも珍しくないけど、まあいいか。

他にも店舗の飾りは勿論、お寺や墓地、あるいは結婚式の納品もあったりして、本当に、嬉しい悲鳴などと繕いたくなくなる程の忙しさだ。

バイトは五人も雇っているが、それでも目が回る様に忙しい時もある、今日はそんな日だった。

十月も下旬、私は薄手のダウンジャケットの襟元を立てた。昼間は天気が良ければ暑さが戻るけど、さすがに三時を過ぎると少々冷える。

(早く終わらせて帰らないとな)

大きな箱を抱えて歩いていた、箱と見えない足元に意識が集中していたのは否めない。
そして、箱の所為で視界が狭くもなっていた、私は曲がり角で左折してきた車に気付かなかった。
大きなブレーキ音と、右足への接触は同時だった。
流石に咄嗟に避けたけど、これが母なら激突だったかもしれない。

「きゃ……!」

はねられた、と言うより、びっくりして尻餅をついていた。
箱が落ちて、蓋をしていなかったそれから花が飛び出す、ああやばい、傷がついたかも!
車のドアの開閉音が聞こえた。

「大丈夫ですか!?」

若い男の声だった、はねられた怒りより、花に気を取られていた。

「え……ええ、大丈夫、です」

やっとの思いで視線を上げた。
まだ十代と思えるイケメンだった。ん? 十代なのに、外車に乗ってんの? BMWのマークが目に入る。どこぞのおぼっちゃまか。
免許取りたててで、外車乗って接触事故かあ、これが当たり屋だったらどうするのよ?

「すみません、病院へっ」
「いえ、大丈夫です」

私は花のことが気になっていた、だって早く生けて、お店に戻らないと……。
立ち上がろうとする私の目の前に、彼は片膝をついた、更に覗き込まれる。

「──亜弥?」
「……はい」

思わず返事をしていた。
はて? こんなイケメン、会ったら忘れないけど……誰?

「村上亜弥だ! わお、美人になったな! 俺、葉山健次郎だよ!」
「──葉山」

ケンジロウ、と言う名に心当たりはなかったけれど、葉山姓には反応する、だって、それは、私の初恋の人の名前だから。

「こんなとこで会ったのもなんかの縁だ! 乗りなよ!」
「え、乗れって、私、仕事中……」

それでも腕を掴まれた。

「怪我も気になるし、ちょっとおいでよ」
「え、困る……!」

まだ立ち上がり途中の不自然な体勢だったのもあって、腕を掴まれたまま半ば引きずられて助手席に押し込まれた、車は右ハンドルだった。

「え、私、仕事が……!」
「病院行くって連絡しときなよ、それでも働けなんてブラック企業だって」

いや、我が家で働いてれば多少のブラックはありますけどね!
それでも私はギャルソンエプロンのポケットからスマホを取り出した。

「あ、花……」

言った時には車は走り出していた、まあ、いいか、母に回収してもらおう。

「ごめん、お母さん、なんか事故ちゃって」
『ええ!? 大丈夫!?』
「うん、怪我なんてしてないんだけど。運転手さんが気にして、病院連れてってくれるみたい」
『まあ、いい人でよかったじゃない、ちゃんと診てもらいな、事故の怪我って後から来る時もあるから。連絡先とかもしっかり聞いておきなさいよ!』
「うん、判った。で、花なんだけどさ……」

放置してきてしまった場所を知らせると、すぐに回収して暁さんに向かうから気にするなと言ってくれた。

車はバス通りに出ると、北へ向かう、なんとなくみなとみらい地区にある総合病院へ向かうんだなと感じた。その予想通り、車はみなとみらいへ入っていく。

でも、病院は通り過ぎた。

「ん?」

近くのタワーリングマンションの地下駐車場へ入っていく。
病院の駐車場がいっぱいなのかな?とか呑気に思った。
そこから乗れるエレベーターに乗り込む、それも地上に出るためなのかと思った、でも彼は最上階のボタンを押した。

「はい?」

彼は回数ボタンを前に壁に寄りかかっている。

いや、なんか、やばいぞ。逃げなくては、と本能が訴える。
軽快な音を立ててエレベーターは止まった。

「どうぞ」

開きボタンを押したまま、彼が促す。

「いえ、私は帰ります、一階に下ろしてください」
「あーもー、面倒くせー!」

怒鳴るように言って乱暴に腕を掴まれた。

「え、や……!」

二の腕に食い込む指が痛い、引きずられるようにエレベーターから下ろされ、並んだドアの一つの前に立つ、廊下は封鎖タイプで、短い廊下の両側にドアが三つずつ並んでいる。

「やめて! 離して!」

声は反響した。

「お詫びと手当だって。何期待してんの?」
「き、期待⁉」

そんなもん、してないわ!って思って、抵抗をやめた。

左側の真ん中のドアを開けた、入って判った、この部屋には生活感がない。
綺麗な玄関から綺麗な廊下が伸びている、単に「片付いている」んじゃない、まるでモデルルームのように人の気配がないのだ。
通りすがりに見たキッチンも綺麗だった、使われている形跡は殆ど感じなかった。でも冷蔵庫は動いているし、食器棚にも食器は並んでいる、ここで寝起きはしているんだろうけど……。
リビングには生花も飾られていた、それすらモデルルームのようで、なんだか薄ら寒い──。

腕を掴まれたまま、そのリビングを通り抜けて。
彼が入った部屋に、私は身を強張らせた。

だって。そこには。大きなダブルベッドが鎮座していた。

「ふ……ふざけないで!」
「はいはい、ここまで来た亜弥が悪い」

そう言って、彼は私の右手に手錠をかけた。

「はいーーー⁉」

いつの間に、そんなもの⁉
その手錠を引っ張られて、私は抵抗できなかった、だって金属が食い込むのって、意外と痛い!

「やめて、待って!」
「はいはい、固定が終わったらね」

そう言って、ベッドに突き飛ばされた、嘘でしょ!

「れ、レイプなんかしたら、警察行くわよ!!!」
「うん、レイプはしない」

そう言って、彼は笑顔で手錠の片割れを不気味な音を立ててベッドに固定した。

ん? 木製のベッドなのにどこに──? 見たらヘッドボード近くのフレームにアンカーが打ち込まれていた。輪になったそこに、私は手錠で繋がれた。

「馬鹿かー⁉」

怒鳴りながら左手で外そうとするけど、当然外れない。
もがく私をよそに、彼はクローゼットを物色している。振り返った手には、黒い布製のベルトがあった。
片側は面テープで輪になっていて、その反対側にはスプリングフックが付いている。

「な、なにする気……!?」

さすがに戦慄する。

「拘束に決まってんじゃん」

そんな事を言って、彼はその一本を私の左足の足首に着けた、私は抵抗で右足で彼の手やベルトを押すけど効果はなく、面テープできっちり固定される。

「暴れられたら困るから」
「あ、暴れない! だからそんなことしないで!」

私は慌てて右足をひっこめた。

「俺、出掛けないといけないんだよ」

言いながら、その端のフックを、やはりベッドの足元側にあるアンカーに掛ける。
ベッドにはいくつかそんなアンカーがセットされていた。
ベルトの長さを調節して、手足が伸びきる位置で固定された。同様に右足も──私は大の字でベッドに貼りつけにされてしまう。

「ばーかーかー!?」

口汚く罵るけれど、当の本人は涼しい笑顔だ。

「俺が戻るまで大人しくしてな。その間にね、俺の言う事聞きたくなるはずだから」
「なる訳ないじゃない! お願い! 放して!」
「ふふん、お願い、なんて言ってるやつは、1時間もすれば大人しくなる」
「冗談じゃな……!」

怒鳴った私の唇を、彼は唇で塞いだ、そのキスはすぐに離れる。

「──! バーカーヤーロー!!!」

動けないのに口の威勢だけはいいのがおかしいのか、彼は笑う。

「いいなあ、絶対手に入れたいなあ。これであんまり素直に足開かれてもつまんねえから、楽しみがあっていいよな」
「私はモノではない!!!」

怒鳴るのに、ベッドに手をついて目の前で私を見下ろす彼は、なんだか急に思いつめたような目をした。
切れ長の凛々しい目は、かっこいいというより綺麗だった。
そんな目に捕らわれて次の言葉を思いつけずにいると、彼はぽつりと呟いた。

「──アニキの初恋の相手をモノにできたら、勝てる気がするんだけどな」

──アニキ……お兄さん?

「今、なんて……」

聞き逃すまいと小声で聞いたのに、彼はまた意地の悪い笑みを浮かべて、私のギャルソンエプロンのポケットからスマホを引っ張り出した。

「ちょっと、何を……!」
「通報された元も子もないだろ」

しまった、もっと早くすればよかった!

「三、四時間くらいで戻れると思う、いい子にしてな」

私のスマホを、自分のジャケットの内ポケットにしまいながら言う。

「ちょ……! こんな状態で三、四時間!?」

彼はひらひらと手を振って出て行ってしまった。
寝室のドアは開けっぱなし、だから玄関のドアが開いて閉まる音と、鍵がかかる音も聞こえた。
私は、とんでもない姿で、一人、残された。

「──冗談じゃない……!」

自由になる左手で手錠を外そうとしてみる、でも駄目だ、指一本入るスペースがない、つまり抜くことができない。
せめて足は解こうか……でもぴっちり四肢を伸ばした状態で固定されてしまったので、どんなに左手を伸ばしても足首には届かない。
マジか……! 怪物ランドのプリンスなら手を伸ばして取れるのに……!





一時間もがいていた。でも体が自由になるはずが無い。
右の手首は赤くなっていた。
一時間も身動きができないので、体が痺れ始めている。せめて寝返りを打ちたい。
なにより。トイレ、行きたくてしょうがないんだけど!

「あーもー……どうしよう……」

あと二、三時間もこのままって、絶対体おかしくなるし、なにより、おもらし、してしまうのでは……そんな姿、あんな男には絶対晒したくない! 馬鹿にしてネタにされるのは目に見えてる!
なんとか耐えようと身を捩って誤魔化すけど、なんかますます催すよね……泣きたい。
お母さんも心配してるかな、ああ、さっき名前くらい言っておけばよかった、そしたらここが突き止められて助けが来たかもしれないのに……事故で葉山の名前は駄目とか思った私が甘かった。

だって。葉山って。
初恋の彼は葉山東吾──。
あの子は弟なの?どうして私を知ってるの⁉
あ、ダメ……トイレ……!
お願い、誰か、助けてー。

と言う願いが届いたのか。
ピンポーンと、インターフォンが鳴る音が。

わ、救世主!
ん、でも、出ないと留守って事になるよね? きっと下のロビーだ、ああ、私がここに監禁されてるってどうしたら知らせられる⁉

またもや、ピンポーン。

います、います、人はいますよお!
なんか物を投げて、うまく受話器を落とせたら……なんて夢想していると。

意外にも玄関の鍵を開ける音がした。
え? 健次郎くんが帰って来た⁉ 絶体絶命じゃん!

「ケン、いるのか?」

寝室から見えない玄関から声がした、健次郎くんじゃないんだ、助かった⁉

「ケン、お前、仕事は……」

リビングに現れたその声の主と、目が合った。
う、こんな姿で……私は彼に足を向ける形で貼りつけにされていた、何とか頭を上げて彼を見る。
鉄紺色てつこんいろの袴姿の彼は、私の姿を見て目を剥いている。

「──あの」

好きでこんな姿ではない事を、とにかく説明しなくては。
彼は、恥ずかし気に目を反らした。

「……これは失礼を。お客がいらしたんですか」
「ち、違います!!!」

私は全力で否定した。

「無理矢理連れてこられて、こんな目に遭ってるんです!!!」
「無理矢理?」
「そうなんです!!! これを外してください!!!」
「……でも、あいつの趣味じゃ……」
「無理矢理、連れてこられたんです!!! 抵抗もできずにこんな目に遭ってるんです!!!」

涙目で訴えた、なんとか通じたようだ、彼は頭をポリポリ掻きながら寝室に入って来た。

「え、と。もし健次郎に何か言われた、ちゃんと擁護してくださいね」
「このまま警察行ってもいいんですよ⁉」

無理矢理アピールの為に言うと、やっと信じてくれたみたい。左右の足首の拘束を解いてくれた。
やっと体を起こせて、人心地……! あー背中、痺れてるー!

「これは……鍵はあるのかな?」

右手を拘束する手錠を引いて確認した、私が鍵の場所は判らないと答えると、手近な場所を探し始めた、まずはサイドボードの引き出しだ。
ああ、もう、お願い早く……トイレ行きたいよー!!!
と、男性の、横顔を見ていて、私ははっとする。

「──東吾、くん?」

かつては呼び捨てだったけど、久々だし人違いだと悪いので、くん付けで呼んだ。
でも、間違うはずが無い。
だって、ここは葉山姓の兄がいる弟の家なんだ。その家に、子供のままの面影がある彼が、他人の空似の訳が……。
引き出しを漁っていた彼が、「ん?」と返事をして顔を上げた。目が合って数瞬、彼もはっとした。

「──亜弥……?」

……嘘……!!!

可愛い印象だった東吾が、これまたすんごいイケメンになって、目の前にいる。
丸っこかった顔は細面になっているけれど。それでも人懐っこい目は昔のままだ。すっと通った鼻筋がまた格好よさを引き立てている。
しかも、和服、袴、ああ、そんな意外な和風な姿がまた似合ってて、すんごい好青年に……!
か、かっこいい……!
昔を引きずっていなくたって、こんな人を目の前にしたらときめかないわけないだろうくらい、かっこいいよ!

「……亜弥が、なんで健次郎の部屋に」

彼は探し物の手を止めたままに、少し不機嫌と思える顔で私の姿を上から下まで見ていた。
あ、誤解されてる!

「やっぱりあの子は東吾の弟だったんだ! じゃなくて……だから! 彼の車で轢かれそうになったの! お詫びと手当にって連れ込まれて、手錠掛けられてベッドに固定されて!!!」
「抵抗もできずに……って」

なんだか疑わしそうな視線だった。

「あのね!!! あんな大男に腕掴まれたら逃げられないから! 何されるかも判らないんだから怖くて抵抗もできなくて! そりゃ手錠もされるよね! 男の力で押されたら、倒れて当たり前だから!!!」

私は精一杯無実を訴えた。
多分身長は180センチは超えてるだろうな、線は細そうだけどガリガリは訳ではない、そんな男に腕掴まれたら、やっぱ抵抗は無理だ。

「本当に、私、私……怖かったんだから……!」
「そっか……ごめん、あいつ、手癖が悪いのは知ってたけど」

そうなの⁉

「怪我は、ない?」
「う、うん……っ、そんな男の車にのこのこ乗った、私も悪いと言えば悪いけど……」

思わず口籠って言った、馬鹿だな、健次郎くんが全部悪いにしとけばいいのに。
そんな気持ちに気付いてくれたのか、東吾が私の髪を撫でてくれた。

「東……」

見上げると、優しい笑みがあった。

「久しぶりだね、綺麗になった」

途端に、顔が火を噴いた。面と向かってそんな事……!!!

「──俺、亜弥に会いたかった」
「東吾……」
「引っ越ししてたんだね、保土ヶ谷の家まで行ってみたけど、別の表札がかかってて、ご近所に知り合いもいないから引っ越し先も聞けなくて。市内だったんだ?」
「……うん、今は阪東橋に住んでるの」
「そっか」

少しの間、私は東吾の鉄紺色の袴を見つめていた。

──会いたかった。

東吾の言葉が脳裏の駆け巡る。

私も、私だって──。

「東吾に、会いたかった」
「亜弥?」
「ずっと、ずっと会いたかったの。急にいなくなっちゃったから、何処に行ったかも判らなくて淋しかったの。まさかこんなところで逢えるなんて思わなくて、私、今、どうしていいか判らない……!」
「亜弥」

東吾は優しく呼んで、目の前に跪いてくれた、優しいはしばみ色の目と合う。

「東吾……」

勝手に目から涙が零れた、会えて嬉しいのもあるし、このまま監禁されてたらどうしようと思っていたのに助けてもらえたのが嬉しくて、しかもそれが東吾で……なんだかいろんな感情が入り混じってた。

「……嬉しい、東吾に、また逢えた」
「うん、俺も嬉しいよ」

東吾の目が優しく微笑んだ、ああ、こういうところは変わってない。

「東吾」

私は手を差し伸べた、抱き締めたくて。でもすぐに右手は使えないと判って、諦めて左手だけ伸ばす、その手を東吾は捉えてくれた。

「東吾」

私はその手をしっかり握り締めた、もう離したくないと思った。

「──大好き、東吾」

彼の目が大きく見開かれたのを見て、自分が何を口走ったのか、認識した。

「……あ……! ごめ、私、何を……!」

十数年ぶりに逢う幼馴染に、逢った早々何を言ってるんだ!?
動揺して彼の手を離そうとすると、逆に力を込めて引かれた。

「──え」

何、と思った時には、私は彼の腕の中にいた。
膝立ちの彼の胸に顔を押し付ける形になって。微かに香るのはお香かな。華奢だと思った彼の体は意外とがっしりしていた、もっとも私は男性経験はないので、それが標準なのかどうかは判らない。
彼は私の足の間に体を入れてまで、しっかりと私を抱き締めてくれた、上半身の全てが密着している。

「──東吾」

少し焦る、男性に抱き締められている現実に。想い人の腕の中にいる現実に。
でも、凄く嬉しい、初恋の人に抱き締められて、夢のようだ。

「俺も……俺も、亜弥が好きだ……!」

──え?

「亜弥、好きだ、ずっと、亜弥のことばかり考えてた」

本当に? 本当なの?
体を離して見つめ合った、目はキラキラして真っすぐに私を見つめてる。
嘘じゃ、ないんだ。
その瞳は子供の頃から、ずっと好きでいてくれたと言っていた。

「あの日のプロポーズは、まだ有効?」

東吾が微笑んで言う。
私は頷いた、声にはならなかった。

「亜弥」

呼んで抱き締めてくれる。
ああ、こんなことある? 初恋の幼馴染が現れて、恋が成就するなんて。

彼の言葉を反芻していた、亜弥が好きだ、亜弥のことばかり考えてた……東吾もだったんだ、あの日した結婚の約束を忘れてなかった、あれは冗談なんかじゃなかったんだ……!

「東吾……嬉しい……!」

私の掠れた声ははっきりとは聞こえなかったけれど、東吾は「うん、俺も」と言って体を少し離した。

あ、これ、判る。

恥ずかしながら、男性経験ゼロの私ですが。さすがに判るよ、これは、キス、だ。

目を閉じて待った、彼の唇が私の唇に触れる。

ああ、嘘……! 脳が溶けそう……!
キスって、こんな気分になるの……!?

フワフワしていく。唇に物が触れるなんてよくある事なのに。温かい互いの唇が溶けあってしまいそう、それが一瞬離れてまた触れて、強く吸われて、もう、早くも腰砕け。
全身から力が抜けるのを感じた、東吾にしがみつこうとして、まだ右手が自由でないことに気が付く。

「……ふ……東……吾……っ」

変な声になった。ひどく裏返った声で呼んだとき、そのまま押し倒された。

「え……東吾……! 待って! そんな……!」

って言うのに、東吾に唇を塞がれる。ああ、駄目だ、キスされると、思考を奪われる、このままいいかなって気持ちに……。
その時、右手が金属音をがなり立てた。

「──あ」

東吾も思い出したようだ。

「ご、ごめん、鍵だよね、あるのかな?」

慌てて東吾は体を起こした、よかった……でも、ちょっと残念……と思ったのは、内緒。

「あの、健次郎くんに、聞いてみたら……」
「あいつは仕事中の筈なんだ。ああ、あいつ大学生の傍ら、モデルの仕事もしてて……今頃は撮影してるはずだから」
「そっか……」

だから急いでたのか。

「ただでさえ、たたき起こしても全然起きてこなくて寝坊気味だったのに、一旦帰ってきて、部屋に人の気配があるから……ああ、あのね、このワンフロア、全部うちのものなんだ」
「え、ワンフロア!?」

ドアは六つは見えましたけど!?

「うん、親が住む部屋が一応家族団らんの部屋。それと俺の部屋と健次郎の部屋と、住み込みのお手伝いさんやお弟子さんの部屋が二つと、茶室に改造した部屋があって」

茶室……?

「まあ俺らもいい年だけど、そんな住み方してるから全部の部屋に防犯を兼ねて熱センサーが付いててさ。家に誰もいなくなる時にはそれを起動させるんだよ。それをケンがしないで出かけたから、俺が起動させに来たんだけど」
「そっか……よかった、見つけてもらって。ね、お弟子さんって?」
「うちは、茶道の家元なんだ」

彼は呟く様に言ってから、手を止めた。
茶道の家元、か。東吾もやってるのかな、だから袴姿で?
聞こうとしたら、東吾はその場に座り込んで、私を見上げた。

「それが俺が急にいなくなった原因、それは本来継ぐ予定がなかった樹洞流《じゅどうりゅう》を継がなくてはならなくなったからだ」
「──継ぐ?」

なんで、そんな事が急に決まるの?

「うちは世襲制だ。そしてうちの父は末っ子で、上には姉が三人もいる。その誰かが継ぐものだと思っていたのに。でも跡継ぎとして修行していた長女が病気で急逝、次女は跡継ぎになるべく修行を始めた途端、事故で他界。それを「呪いだ」と言って三女は跡継ぎを拒否。うちの父にお鉢が回ってきて、のんびり横浜で暮らしてたのに、東京に呼び戻されたんだ。それは急な話で、元々公園で遊ぶだけで連絡先も知らなかった亜弥には知らせる事もできなくて」

互いの家は行き来したことはあるから、親同士は連絡先くらい交換していたのだろうが、私達は直接会う意外、話す機会などなかった。
俯いた東吾の肩が震えていた。

「ずっと気にかけてた。高校生になった頃に訪ねたけど、もう亜弥はいなくて。もう逢えないんだと諦めてた。でもどうしても忘れられなくて、亜弥にだけは逢いたくて」

声も震えてる、泣いてる、の?

「マジで嬉しい──亜弥」

大きく息を吐いた。

「好きになれる女は亜弥しかいないと思ってたから。でも跡を継ぐには子供がいるのが前提だったから、好きでもない女と結婚しないといけないと思ってたけど。まさか、亜弥に逢えるなんて……」

顔を上げた、目は潤んでいたけれど、泣いてはいなかった。

「付き合ってほしい」

単刀直入過ぎて、買い物に付き合うのかと思えたほどだ。

「結婚を前提に、付き合ってほしい」

──ああ、なんてことなの!!!
イケメンの育った幼馴染が、袴姿で目の前で正座して、潤んだ瞳で「結婚してくれ」⁉
そんなドラマのような展開があるなんて!
この間の王様と同じような展開でも、この場合は勿論、受け入れ体勢だわ!

顔が熱い、体が震える、声も出せずにいると、東吾は急に不安そうな顔になった。

「……嫌だよな、急にそんな事言われても」

私は慌ててかぶりを振った、そんな誤解はしないで!

「ち、違うの! 突然でびっくりしたのは事実だけど……私も結婚するなら東吾じゃないとってずっと思ってた。だから本当に嬉しくて……!」
「亜弥」

東吾は本当に嬉しそうに微笑んだ。

「で、でも! 子供の頃のイメージのまま、好きとか結婚とか言って私すごく変わったかも知れないのに、後悔しても知らないよ⁉」
「人は大筋じゃ変わらない」

東吾は大人びた笑顔をたたえて言った。

「俺が知ってる亜弥は、強くて可愛い人だった。そんな亜弥と一生を終えたい」

顔から、火が出た、うん、見えた、その炎。
そんな、そんな──そんな熱烈ラブコールを、断れる訳がない。

「う、嬉しい──」

呻くような声が出た。

「私も東吾がずっと好きだった、そんな東吾にそんな風に思われて、そんな風に言われて、本当に……嬉しい」
「──亜弥」

東吾は膝立ちでにじり寄ると、また私を抱き締めてくれた。
さっきのキスと押し倒されたのを思い出して、また体が熱くなる。

「あ、あの」

私は自由になる左手で、慌てて東吾の体を押した。

「ごめん、とりあえず今はこれを外して欲しい、あのさ、私、すんごいトイレ行きたいんだよね……」
「ああ、ごめん」

東吾は慌てて、また物色を始める。





室内中、リビングも探したけれど、小さいであろう手錠の鍵は見つからなかった。

「ごめん、家の者を呼んでくる」
「い、家の者って……!?」
「母はいる、お手伝いさんも。レスキューの方がいい?」
「あ、あんまり大事にしない方が……」
「うん、ちょっと待ててね」

そう言って出て行った東吾が人を三人連れて戻って来た。
一人は和服姿の女性で。

「まあ!」

十数年ぶりに逢う東吾のお母さんの万里子さんは変わらず綺麗だった。うちの母よりはるかに若く見える。

「うんうん、亜弥ちゃんだわ! まあすっかり美人さんになって!」

うー、言われ慣れない「美人」さんに、お尻がむず痒いですー。

「で? なんでケンの部屋にいるの?」
「それはですね……」

またもやいきさつを説明している間に、男女のお手伝いさんと東吾がなにやら相談していた。
男性のお手伝いさんがいなくなる。

「まあ、ごめんなさいね、ケンったら。どうも強引なお持ち帰りを度々しているようで、注意はするんだけど。父も兄も社会的に立場がある仕事をしているんだから、醜聞は困るよって。逆に迷惑かけてやるくらいには思ってるのよねぇ」

万里子さんは顎に指を当てながら思案気味に言った。

「もう、この部屋使わせるのやめなよ。なんか怪しげなものがあちらこちらにあったよ」

東吾が言う。
あの、怪しげなものって……? 拘束用のベルトも十分怪しげか……!
そこへ、男性のお手伝いさんが大きなペンチを持って戻って来た──なんか、私の腕も切り落とせそうに大きなもので、無駄にビビる……。

「とりあえず、チェーンを切り離して、あとは消防署にでも行こう。それが一番早いかもって」
「う、うん……」

男性がペンチを大きく広げた、女性のお手伝いさんが手錠を支えて鎖を動かないようにする。

ひぃぃぃ!

いい歳して怯えていると、隣に東吾が座ってくれた、左腕で私の頭を押さえて自分の肩に押し付け、右手で私の右腕を固定する。

「今のうちに」

東吾の鋭い声に、二人は「はい」と返事をして鎖を切る。
私達の様子に、万里子さんの「あらあら、まあまあ」と言う茶化すような声がして、ちょっと恥ずかしい。
鎖はそう簡単には切れなかった、何度も刃を入れ直す、その度に手首が引っ張られて痛かったけど、東吾の体にしがみついて、その痛みに耐えた。
がちん、と言う音がして、ようやくそれは切り離された。

「う……よかったあ」

二時間ぶりに右腕が解放されて、嬉しい!

「本当にごめんなさいね。健次郎には謝らせに行かせるから」

万里子さんが言う。

「いえ、謝罪なんて……あ、でも、スマホを持って行かれました、それは返してもらいたいです」

言うと、万里子さんは「まあ」と嘆息し、東吾は大きな舌打ちをした。

「あいつ、なんで亜弥を……」
「子供の頃、あなたが自慢げに話してたから、興味はあったみたいよ。うちにあった写真をよく見てたし」
「自慢げに……?」

そんな言葉を繰り返して、思わず東吾を見ていた。

「ええ」

万里子さんは屈託なく笑う。

「世界一大事な人だって」
「お母さんっ!」

言葉を続けようとした万里子さんを、東吾は止める。

「とりあえず消防署行って、送ってくるよ! 亜弥、仕事中なんだって」
「ええ、そうね。あなたも早く戻ってよ、少しの遅刻なら誤魔化しておくから」

これからお茶会なのだそうだ。

「行こう、亜弥」
「うん、あの、その前に、トイレ……!」

私は慌ててトイレに駆け込んだ、よかった、間に合って……!





地下駐車場から、右ハンドルのアウディで走り出す。

「──なんか、前にもこんなことあったね」

私は助手席で、手錠を撫でながら言った。

「……うん」

東吾の声は小さく聞こえた。

「俺が家から持ち出した事務用のリングだったね。あの時から、俺は……」





それは、まだ私たちが小学三年生の時だった。

東吾とは年が一緒で、特別家が近かった訳ではないのによく遊んだ。
うちの近所の大きなスーパーの近くに大きな公園があって、そこに東吾がよく遊びに来ていたのだ。そこは遊具も多かったので、それが目的だったみたい。
幼稚園の頃にはもう一緒に遊んでいた記憶がある、東吾とは幼稚園も小学校も違うのに、私は同じ年の女の子とは遊ばずに東吾とばかりいた。

ある日、テレビでやっていた映画の結婚式のシーン、それをたまたまお互い見ていて、それが素敵で二人でよくそのシーンを再現していた。

「僕は一生、亜弥を愛し続けると誓います!」

そんな言葉に、私は満足気に微笑む。

「東吾、大好き!」

この時の『好き』は、友達の延長だった。

「俺も亜弥、好き! 違う、ちゃんとセリフあったろ!」

なんだかそんなしょうもない遊びを飽きもせずやっていた。
何度も繰り返すうちに、東吾は部屋で拾ったというキーホルダーなどで使われるダブルリングを持ってきた。

「これ、指輪の代わり!」
「うん!」

子供の浅はかさだ。
指輪の交換のシーンで少しリアリティを求めていたのだろう、東吾は私の左手を取って、薬指にそれを嵌めた。

ん、きついな、とは思った。

東吾も思ったんだろう、私の手をぎゅっと握って、力を込めてダブルリングを押し込んだ。
それはきちんと指の付け根まで入った。
その瞬間は、喜びが込み上げてきた。
だって、本当に指輪みたいで。
幼馴染の東吾がくれたもので。
映画の真似事とは言え、結婚式をしていて。

「──東吾」
「うん」
「なんか、すごい嬉しい……!」

私が言うと、東吾も思い切り微笑んだ、目が溶けるとはこう言う時に言うんだろう。

「俺も! なんかよく判らないけど、凄く嬉しい!」

なんだかお互い抱き合って喜びあっていた。
そのダブルリングをしたまま、私達は公園で遊んでいた、暫くして異常に気付く。
ダブルリングをした指が青黒くなっていたのだ。

「東吾! どうしよう⁉」

私は何かの毒に触ったのだと思った、東吾は汚れがついたのだと思ったのか、その手をはたき始めた。
もちろん、血が通わなくっていたのだ、そんな事で元に戻るはずが無い。
慌てて家に戻って、母に泣きついた。
既に腫れ上がってしまった指に食い込み、ビクともしないそのリングを見て母は叫ぶ。

「指がもげる!!!」

母は私達を連れて慌てて病院へ向かった。
その車内で。

「ごめん、亜弥、ごめんね! 痛い⁉ 痛い⁉」
「痛くはないよ」

痛みはないけれど違和感と言うか、指は動かなくなっていたし、母の言葉の所為で本当に指がどうにかなるのかと怯えて全身が冷えていたのは事実だ。
でも私は冷静に答えた、なのに、東吾はますます泣き出す。

「ごめんね、亜弥! 俺、責任とって亜弥と結婚する!」

東吾は顔中、涙で濡らしながら言った。
そんな姿と言葉に、私は不謹慎にも、きゅんっとしてしまう。

「東……」

そんな私の気持ちを、母が盛大な笑い声で吹き飛ばした。

「責任って!!! 東吾くん勘弁して! 妊娠でもしたみたいじゃない!」

まだ小三の私はその言葉を深く追求はしなかったけど、子供相手にもう少しオブラートに包めないものかとのちに思った。
病院のリングカッターで外してもらえて、その日は一晩入院で様子を見ると言うことになった。

「もうこんなバカなことしないのよ?」
「はぁい」

母の言葉に、ふたりして小さく返事をする。

「本当にご迷惑をおかけしました。さあ、じゃあ東吾、帰りましょ」

東吾を迎えに来た万里子さんが言うけど、東吾は小さな体で声を上げた。

「亜弥と帰る!」

あ、そういえば、この時万里子さん、小さい子を連れて来ていたわ。名前はすっかり忘れていたけど弟がいた記憶が蘇る。歳が離れてるから一緒に遊んだことはない。

「亜弥は今日は帰れないの、お泊まりはさせられないな」

うちの母が窘めた。

「でも俺の所為で入院なんて……!」
「うんうん、よく判った、でもこれで帰らないと、本当に亜弥と遊ばせないよ?」
「明日、またお見舞いに来ましょ」

母の脅し文句と、万里子さんの言葉に、東吾は半べそのまま帰っていった。そんな後ろ姿に、ますます私は心を掴まれた。
この一件で、結婚式ごっこはやめたけれど。
私は自分の気持ちに気付いて、なんとなく今まで通りに東吾とは遊べなくなっていた。
スカートでブランコに乗ってパンツが見えても気にならなかったのに。東吾とジュースをシェアして飲んでも気にならなかったのに。

私達は疎遠になった。ほんのちょっとだ。東吾が私を避けた理由は判らない、傷物にしてしまったのを気にしているのか、あるいは私の気持ちに気付いて避けているのか──?
私は学校帰りは女子と遊ぶようになっていた。彼もまた男友達が出来ていた。
それでも何故か土日になると会っていた、約束もしていないのに、公園や、どちらかがどちらかの家を訪ねて遊んでいた。
ゲームをしたり、本を読んだり。あるいは近所のスーパーに行ったりして時間を過ごしていた。ただそばにいる、それが居心地が良かった。

でも、小学六年になって、まもなくして気付く、東吾がいない。
私も彼の家に行ったけれど、何度目かの時、別人がインターフォンに出た、それで彼が引越しをしてしまったと判った。
なんで。
ちょっと傷ついた、ううん、ちょっとじゃない、すごーくだ。
それを知られたくなくて、私は親には言わなかった。今更ながら親は引っ越しを聞いていたのかもしれないけど、私に教えてくれなかった。あるいは私が聞いたら、直接万里子さんに聞いてくれたかもしれない、引っ越し先を。

でも、なんか私は悔しかったんだと思う。私ばかりが好きだったのかと。結婚するとまで言ってくれたのに、なにも言わずに引っ越してしまうなんて、私の片思いだったのだと、それを認めたなくて、私はそれらを心の奥に閉じ込めた。

でも、中学、高校、大学と過ごして。
告白などが、なかった訳ではない。
でも、思い出の中の東吾は、ますますキラキラしていて、リアルの男がそれに敵うはずもなく。
私は、男と無縁の生活を、送っていた。





なのに、今、目の前に、思い出の、初恋の男性がいる。
思い出の想像を凌駕するハンサムぶりで、しかも茶道の跡取りとか言う立場で──。

消防署で電気カッターで切ってもらえた、先に連絡してあったみたいでもう準備万端で待ってくれていて、すぐにやってもらえてよかった。
東吾、男らしすぎるでしょ、「自分がいたずらでかけたら鍵がなかった」なんて、全部自分が負うんだね。
でも、意外とそんな人は多いみたいで、消防士さん、笑いながら話を聞いてくれていた。

そして、店まで送ってくれる、場所を言うとすぐに判ったみたいで、私があれこれ言わなくても店の前の路上に止めてくれた。

「ありがとう」

お礼を言って降りようとすると、引き留められた。

「連絡先、教えてよ」
「あ、うん、でも、スマホ、健次郎くんに持ってかれてて……」

メアドは口頭では言いづらい、とりあえず番号を教えた。

「健次郎から取り返したら届けるよ、今日は何時までやってるの?」
「お店自体は閉店は八時なんだけど、私は家のことやるから、六時くらいにはいなくなっちゃうの」
「家のこと?」
「洗濯物畳んだり、ご飯作ったり」

父もやってくれるけど、母も早引けしてやる時もあるけど、一応それらは私の仕事だと自負してる。

「へえ」

東吾は頭を傾けて、私を見た、そんな仕草がやたら可愛かった。

「家事をこなしてるんだ、すぐにお嫁に来れるね」

そんな事、さらりと言わないでー! しかも、「来れるね」って、東吾のとこに……って事だよね!!!
私は顔が熱いのを自覚しながら、コクコクとぎこちなく頷いた。

「じゃあ明日の朝になっちゃうかも。開店は何時?」
「一応、十時……でも準備とかで私は九時頃には、来てるかな……」
「うん、じゃあ届けに来るね」
「ごめんね、手を煩わせて」
「何言ってるの、健次郎が悪いんでしょ」

それはそうだった。

「うん、じゃあ……明日ね」

よかった、明日も逢えるんだ……嬉しい気持ちのまま、ドアノブに手を掛けた時、右手を引かれた、まだ赤みの残るその手首を。

「ん、なに……」

振り向きかけた顔に、東吾の手がかかる。優しい力で東吾の方を向かされた。
東吾を視界にとらえた時には、もうすぐ近くにいた。
え、待って。さっき見た時にはお母さんもバイトの人たちも、私が帰って来たってこっち見てたの! 今キスなんかされたら……!
抵抗で左手を東吾の肩に掛けたけれど、全然抵抗にはならなかった。
唇は触れ合って、触れ合うだけのキスだけど、すぐには離れてくれなくて。
たった数秒のキスに、私は完全に溶かされた。
音を立てて離れたのを、残念に思う。

「──じゃあ、明日」

額が触れ合うほど近くで東吾が言う。
綺麗な瞳が潤んでる、肌も綺麗だな、私、こんな近くで見られて自信ないよ。何より顔の作りが……通った鼻筋も切れ長の目も、意外と細い眉も、神様が作ったみたいだ……。

「亜弥」

名残惜しそうに呼んで、抱き締められた。
ああ、もう駄目、離さないでとか思ってしまう。

「……あの、もう戻らないと……」

私は懸命に言った。

「ん……ごめん、明日来るから」
「うん」

東吾が離れると、私はのろのろした動作でドアを開けて車を降りた。
店先には誰もいない、なんとなく想像できた、キスシーンを見て蜘蛛の子を散らすようにいなくなったんだろう。
店先で振り返った、東吾はまだ私を見ていた、私が小さく手を振ると、東吾も振り返してくれて、車は走り出す。

──行っちゃった。でも、明日も逢えるし……。

店に入ると、奥で四人はバタバタと、私から見たら無駄な作業をしていた。
母はショーケースの花を数えていて、バイトのひとりは綺麗なはずの花瓶を洗ってる。もうひとりは挿しておけばいいだけのカスミソウを丁寧に揃えていて、もう一人は包装紙を整えていた。

「──ただいま。ごめんね、迷惑かけて」
「いーえー!!! あれが事故の相手⁉ 亜弥、口説きたいために飛び出したんじゃ⁉」

母が満面の笑みで言う、やっぱキスを見られていたんだな。

「ううん、あれは事故の相手じゃなくて……ねえ、お母さん、葉山東吾くんって覚えてる?」
「ああ、覚えてるわよ。亜弥と結婚するって号泣した、小六ん時に家業の家元継ぐ為に東京に引っ越した葉山さんでしょ?」

──やっぱり、知ってたんかーい!!!

私の不機嫌を悟ったのか、母は私の顔を覗き込む。

「え? 引っ越し、知らなかったの? あなた達仲が良かったから絶対話してると思ったわ。ああ、住所とかは聞いてなかったんだけど、しばーらくはあけおめメールくらいはしてたわよ。私が仕事始めたのも知らせたし。ああそうね、仕事始めてからは疎遠になっちゃったかなー。へえ、今は横浜戻って来たんだ、そうよね、万里子さんが横浜出身だから地元がいいのかもね」

母よ、私の十数年の苦しみを、返してくれ。
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