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(38)間島家の幕後
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◇
温かい春陽に白む空を、燕が滑空していく。
冬の眠りから覚めた虫を捕らえて、燕は雛のもとへ帰ってきた。
雛たちが我先にと首を伸ばす下では、勝之進が屋根を仰いでいた。
「旦那さま。旦那さま宛てにお手紙が届きましたよ」
勝之進が振り返った先では、つい三日前に妻となった許婚・お染がのんびりと歩いてきた。
三日前、間島家ではささやかな祝言がおこなわれた。
勝之進の両親と、お染を養女にした義理の両親――そして、お染の実の両親もひそかに祝いの場へ同席し、小さな役宅で夫婦を祝福した。
武士は武家の女としか結婚できない。
これなる掟が、武家社会にはある。
そのため、裕福な商家は我が子に持参金を持たせて、武家へ養子に出すことで表向き『武士の娘』という体にする。
こうして、商家の娘は武士の妻となれるのだった。
お染もまた、武家との縁がほしい両親の思惑によって、間島家の許婚となった娘のひとりである。
間島家のほうも決して裕福ではないから、実家の太い娘を迎え入れるのには賛成だった。
親同士の目的が一致して結ばれた仲ではあるが、勝之進とお染のあいだに軋轢はない。
それどころか、仇討騒動を乗り越えてからというもの、夫婦は恋情を超越した絆とも呼ぶべき繋がりで結ばれていた。
仇討試合の直後、役宅へ担ぎ込まれた勝之進を、かいがいしく世話していたのはお染だ。
勝之進が斬られて帰ってきたと聞くや、一目散に間島家の役宅へ飛んできたのである。
あの騒動から、もう五カ月も経つ。
江戸に降りていた寒気はすっかり去って、いよいよ春爛漫を迎えようとしていた。
――時は戻って、うららかな春の間島家。
「ありがとう。どれ、誰からのものか」
快く受け取ると、勝之進はさっそく文面に目を通した。
討手・お鈴からの手紙だった。
仇討試合での一件が収束して間もなく、お鈴の訴えによって、町奉行所では泰山に疑惑の目が集まったという。
町方与力の左近が提出した吟味記録から、偽薬の罪で捕まった連中が、不自然に多く釈放されていると判明した。
この証拠が認められ、町奉行所では誰もが泰山の汚職を確した。
のちに、左近を襲った男・頭次が、泰山に命じられたことを包み隠さず吐いた。
『囲重蔵を殺させてやるから、協力しろと言ったんだ』
町方同心に媚びた様子もなく、すべてを諦めたように独白したという。
頭次の口からは、泰山に協力していた浪人の名も明かされ、皆すべからく捕らえられた。
そのうちの一人が、駄賃をもらって兵衛を斬り殺したと自白したため、泰山はついに《罪人》として名を記録された。
しかし、肝心の泰山はこの世にない。
死人を罰するわけにもいかず、町方与力による汚職事件は暗黙のうちに葬り去られた。
仇討騒動の顛末をお鈴に伝えたのは、内情を知る左近だという。
手紙には、仇討騒動の話に続けて、お鈴たちが八丁堀を離れたことも綴られていた。
(そうか、お鈴どの……武家に戻れなかったのか)
熱海家の改易には胸を痛めた勝之進だが、お鈴の文脈はそれほど現状を嘆いてはいない。
嫁ぎ先である札差の商売を盛り立てようと、意気込んでさえいた。
どこへ行っても強かそうな、お鈴の姿が目に浮かぶ。
「旦那さま、ちょっと」
勝之進が手紙を閉じたのを見計らって、庭の野菜に水を撒いていたお染が、おもむろに手招いた。
「なにかな」
「いま、燕がもう一匹飛んでまいりましたよ。ほら、旦那さまのすぐ真上でございます。縁起がよろしゅうございますね」
「夫婦だろうか」
「飛んできたのは、南東の方角でございましょう。あんなに遠くの山まで、餌を獲りに行っていたのでしょうかねえ」
荘厳な江戸城を挟んだ向こうの空を、お染は遠望した。
あの南東の方角には、重蔵の住む本所の土地がある。
(重蔵どのは、そろそろ謹慎が解けたろうか)
仇討騒動のあと、勝之進はまだ一度も重蔵に会えていない。
なにしろ、仇討試合の直後、重蔵は町奉行所で『私闘』の罪を咎められている。
その罰として、重蔵はしばらくのあいだ閉門の刑となったと、お鈴の手紙に記されていた。
閉門の刑とは、すなわち、屋敷での謹慎処分である。
諸大名が厳守すべきとされた法令では、大名の私闘が禁じられている。
だが、御家人程度の下級武士は、その対象にはならない。
御家人のなかでも、とりわけ身分の低い重蔵が私闘をした程度なら、罪に問う必要はないはずだ。
それなのに閉門の刑が下ったのは、町奉行による重蔵のための計らいであろう。
重蔵は傷も深かったが、それ以上に、髷が切れていたのが致命的だった。
髷も結えぬ頭で町を歩けば、重蔵の武士としての体面に傷がつく。
かといって、家から一歩も出ないとなると、怪しんだ周辺の住人に勘ぐられるかもしれない。
そんな重蔵の立場を案じた町奉行は、
『傷の治癒に専念せよ。髪が伸びるまでは外を出歩くな』
このような意を込め、あえて閉門の刑を言い渡したのだろう。
(閉門の刑であれば、もうそろそろ解かれているだろうか)
閉門の期間はおよそ二、三カ月だとされている。
しかし、重蔵に課せられた刑期は、異例の五カ月であった。
それだけ時間をかけなければ、髪が伸びないためだろう。
いまごろ、重蔵の屋敷にかけられた竹格子が外され、外出が許されているはずだ。
◇
温かい春陽に白む空を、燕が滑空していく。
冬の眠りから覚めた虫を捕らえて、燕は雛のもとへ帰ってきた。
雛たちが我先にと首を伸ばす下では、勝之進が屋根を仰いでいた。
「旦那さま。旦那さま宛てにお手紙が届きましたよ」
勝之進が振り返った先では、つい三日前に妻となった許婚・お染がのんびりと歩いてきた。
三日前、間島家ではささやかな祝言がおこなわれた。
勝之進の両親と、お染を養女にした義理の両親――そして、お染の実の両親もひそかに祝いの場へ同席し、小さな役宅で夫婦を祝福した。
武士は武家の女としか結婚できない。
これなる掟が、武家社会にはある。
そのため、裕福な商家は我が子に持参金を持たせて、武家へ養子に出すことで表向き『武士の娘』という体にする。
こうして、商家の娘は武士の妻となれるのだった。
お染もまた、武家との縁がほしい両親の思惑によって、間島家の許婚となった娘のひとりである。
間島家のほうも決して裕福ではないから、実家の太い娘を迎え入れるのには賛成だった。
親同士の目的が一致して結ばれた仲ではあるが、勝之進とお染のあいだに軋轢はない。
それどころか、仇討騒動を乗り越えてからというもの、夫婦は恋情を超越した絆とも呼ぶべき繋がりで結ばれていた。
仇討試合の直後、役宅へ担ぎ込まれた勝之進を、かいがいしく世話していたのはお染だ。
勝之進が斬られて帰ってきたと聞くや、一目散に間島家の役宅へ飛んできたのである。
あの騒動から、もう五カ月も経つ。
江戸に降りていた寒気はすっかり去って、いよいよ春爛漫を迎えようとしていた。
――時は戻って、うららかな春の間島家。
「ありがとう。どれ、誰からのものか」
快く受け取ると、勝之進はさっそく文面に目を通した。
討手・お鈴からの手紙だった。
仇討試合での一件が収束して間もなく、お鈴の訴えによって、町奉行所では泰山に疑惑の目が集まったという。
町方与力の左近が提出した吟味記録から、偽薬の罪で捕まった連中が、不自然に多く釈放されていると判明した。
この証拠が認められ、町奉行所では誰もが泰山の汚職を確した。
のちに、左近を襲った男・頭次が、泰山に命じられたことを包み隠さず吐いた。
『囲重蔵を殺させてやるから、協力しろと言ったんだ』
町方同心に媚びた様子もなく、すべてを諦めたように独白したという。
頭次の口からは、泰山に協力していた浪人の名も明かされ、皆すべからく捕らえられた。
そのうちの一人が、駄賃をもらって兵衛を斬り殺したと自白したため、泰山はついに《罪人》として名を記録された。
しかし、肝心の泰山はこの世にない。
死人を罰するわけにもいかず、町方与力による汚職事件は暗黙のうちに葬り去られた。
仇討騒動の顛末をお鈴に伝えたのは、内情を知る左近だという。
手紙には、仇討騒動の話に続けて、お鈴たちが八丁堀を離れたことも綴られていた。
(そうか、お鈴どの……武家に戻れなかったのか)
熱海家の改易には胸を痛めた勝之進だが、お鈴の文脈はそれほど現状を嘆いてはいない。
嫁ぎ先である札差の商売を盛り立てようと、意気込んでさえいた。
どこへ行っても強かそうな、お鈴の姿が目に浮かぶ。
「旦那さま、ちょっと」
勝之進が手紙を閉じたのを見計らって、庭の野菜に水を撒いていたお染が、おもむろに手招いた。
「なにかな」
「いま、燕がもう一匹飛んでまいりましたよ。ほら、旦那さまのすぐ真上でございます。縁起がよろしゅうございますね」
「夫婦だろうか」
「飛んできたのは、南東の方角でございましょう。あんなに遠くの山まで、餌を獲りに行っていたのでしょうかねえ」
荘厳な江戸城を挟んだ向こうの空を、お染は遠望した。
あの南東の方角には、重蔵の住む本所の土地がある。
(重蔵どのは、そろそろ謹慎が解けたろうか)
仇討騒動のあと、勝之進はまだ一度も重蔵に会えていない。
なにしろ、仇討試合の直後、重蔵は町奉行所で『私闘』の罪を咎められている。
その罰として、重蔵はしばらくのあいだ閉門の刑となったと、お鈴の手紙に記されていた。
閉門の刑とは、すなわち、屋敷での謹慎処分である。
諸大名が厳守すべきとされた法令では、大名の私闘が禁じられている。
だが、御家人程度の下級武士は、その対象にはならない。
御家人のなかでも、とりわけ身分の低い重蔵が私闘をした程度なら、罪に問う必要はないはずだ。
それなのに閉門の刑が下ったのは、町奉行による重蔵のための計らいであろう。
重蔵は傷も深かったが、それ以上に、髷が切れていたのが致命的だった。
髷も結えぬ頭で町を歩けば、重蔵の武士としての体面に傷がつく。
かといって、家から一歩も出ないとなると、怪しんだ周辺の住人に勘ぐられるかもしれない。
そんな重蔵の立場を案じた町奉行は、
『傷の治癒に専念せよ。髪が伸びるまでは外を出歩くな』
このような意を込め、あえて閉門の刑を言い渡したのだろう。
(閉門の刑であれば、もうそろそろ解かれているだろうか)
閉門の期間はおよそ二、三カ月だとされている。
しかし、重蔵に課せられた刑期は、異例の五カ月であった。
それだけ時間をかけなければ、髪が伸びないためだろう。
いまごろ、重蔵の屋敷にかけられた竹格子が外され、外出が許されているはずだ。
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