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⑴かくまい人
しおりを挟む鈴虫も歌わなくなった秋終わりの静けさが、本所の夜をいっそう粛然とさせる。大川の派川である大横川を越えた先の南本所は、ことさらに閑散としていた。
両国橋のかかる本所・吾妻のほうは寺社や大名の下屋敷、町民の住む商店や長屋が立ち並び、浅草や日本橋のような江戸の都心には及ばずとも、それなりに町として栄えている。
ところが、この南本所へ踏み入ると、たちまち農村の茅葺屋根や、野草の緑が目立つようになる。なにしろ、南本所は都心ほど開発が進んでいないため、江戸がまだ関東の片田舎であったころの農村としての名残が色濃く残っている。
ところどころ下級武士の屋敷や、町人の長屋などが散在しているものの、ほんのすこし町から外れれば、その先には黒々と隆起した山際にむかって田畑の地平線が広がっているのである。
大川を挟んで向かいにある日本橋の夜空は、いまだ居酒屋や飯屋から漏れる明かりで煌々としているというのに、南本所は提灯がなければ一寸先すら暗い。
「うっ!」
すぐ脇の堅川で魚が跳ねる。その小さな水しぶきの音にすら、男は飛び上がって怯えた。
本所へ人を訪ねてきた間島勝之進は、提灯の柄を強く握りしめる。周囲に人がいないのを確認しながら、肩をすくませて目的の家を探した。
(恐ろしいところだ)
勝之進は自分でも足が震えているのがわかる。この土地を歩くのが、怖くてたまらなかった。
歩いている途中で、煤けた破れ屋をいくつも見かけた。無人となった屋敷の陰が、いっそう勝之進の恐怖を煽った。
本所といえば、江戸では怪談『本所七不思議』で名が知れた土地でもある。怪談の噂が絶えぬだけあって、本所の空き家はいっそう不気味に見えた。
寛政の時代には百万の人口を超えた大都市・江戸の一角にもかかわらず、本所という町がこれほど寂しい土地となってしまったのにも背景がある。
日本橋や浅草の人口が多くなってきたころ、幕府が都市開発も兼ねて本所や深川へ身分の低い御家人を住まわせた。
御家人の家柄に生まれた武士は、職務の賃金とは別に《俸禄米》を定期的に給料として貰い受ける。ところが、職務がない――所謂《無役》の御家人にもなると、仕事の手当がもらえないため俸禄米のみで生活を立てねばならぬ。
だが、俸禄米を売った金だけでは到底足りず、多くの御家人は内職を余儀なくされた。
大半が季節の花や生き物を育てたり、竹細工を編んだりして生計を立てたが、なかには生活が立ち行かなくなり、そのまま没落した家もあったそうな。
本所に襤褸の屋敷が点在しているのも、借金のために夜逃げした武士がいた証であろう。
その事情を知っていても、やはり怖いものは怖い。
大川から東へ渡ったことのない勝之進には、この夜陰に乗じて、よからぬものが闇の先で待っているような心地がした。
(どこにいる、囲重蔵)
藁にもすがる思いで、探し求める男の名を叫んだ。
囲重蔵――この本所に住まう無役の御家人である。
なんでも、南本所の旅所橋を渡った先には『本所七不思議』に数えられる怪談名所『おいとけ堀』があり、その真隣にある屋敷には、件の重蔵という用心棒まがいの稼業をおこなう御家人が住んでいるのだとか。
聞いた話にならって旅所橋を渡ると、長屋や商店が立ち並ぶ道へ入る。瓦町と呼ばれる町屋の角を左に折れると、すぐ目の前に亀戸村の田畑が広がった。広大な田畑のなかに、一か所だけ落ちくぼんだ水場があった。
(おいとけ堀だ)
よく目を凝らすと『おいとけ堀』のすぐ隣に、ぽつりと寂しげに佇んでいる屋敷の影がある。
あれが重蔵とやらの屋敷に違いない。
心細い思いのなかでようやく希望が見えると、勝之進はたまらず落涙した。
(いまごろ、お染はどうしているだろう。私の身に起こったこと、すでに耳にしているのであろうか)
足元に涙の跡を残しながら、許嫁のお染を想った。
お染とは親同士が決めた縁ではあるものの、互いに好きあってもいる。勝之進はどうしても、生きてお染のもとへ帰ってきたかった。
この勝之進という男は、無実の身でありながら『仇』として命を狙われている。
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