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第三章 桜の下で伝えた
第64話
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二月十四日、祝日である前々日の月曜日に美月と一緒に作ったチョコレートを出発前の伊織に渡してあげるところから一日は始まった。
「ああ、サンキュ。でも珍しいな、詩織がこんなに早起きするなんて」
朝練でいつも早く家を出る伊織に合わせて私も今日は早起きをしていた。
「学校だと色々忙しいし」
真人君はもちろんのこと、美月にもせっかくだから今日渡すつもりだし、蘭々や秋野さんたちの分も用意しているので本当に忙しい。
何より伊織には美月との時間を確保してもらわなければならないので学校で伊織に構っている時間はない。家に帰ってきた後では色々あった後の余韻に浸りたいだろうと考えると今しかタイミングはない。
私が作った中で三番目に出来が良かったチョコレートを受け取った伊織は玄関で靴を履いた後、私の顔を神妙な面持ちで見つめた。
「詩織、お前の考えを聞かせてもらいたいことがあるんだけど」
「何? 突然、真面目な顔をして」
「例えばの話だけどさ、地震とか台風とかの自然災害とか戦争とか、自分は一切悪くないのに苦しんだり悲しんでいたりする人がいるだろ?」
本当に突然どうしたのだろう。
「そういう人たちがいるって分かっていながら、安全なところにいる人間が楽しんだり幸せになったりすることをどう思う?」
「何、その哲学というか道徳みたいな質問……」
「まあいいから、どう思う?」
「別に良いんじゃないかなって思うけど。世界中のどこにも苦しんでいる人がいない瞬間なんてないと思うし、駄目だって言ったら幸せになって良いタイミングなんてなくなっちゃうよ」
「そっか……」
「でも苦しんだり悲しんだりしている人にも届くように自分が幸せなことアピールするのは趣味が悪いと思うかな」
「そっか……そうだよな」
「いったいどうしたの? 今までこんなこと聞いたことなかったのに……」
「いや、なんとなく聞いただけ。俺も同じ考えだよ。じゃあ俺は行くから気をつけて来いよ。行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
変な奴、とは少し思ったけれど今日これから待っていることを考えれば無理もない。渡す側の私でもワクワクしているのに渡される側の伊織はきっととてつもなくドキドキワクワクしていないわけがなく、変なことを口走っても仕方がない。
しばらくして、私から手作りチョコを渡されて泣いて喜ぶお父さんをうっとうしく思いながらもこんなに喜んでくれて嬉しくも思いつつ家を出た。
途中で合流した美月は気合十分という表情をしており、側面に大きな三日月をあしらったパステルイエローのトートバッグを持っている。中には当然お世話になった人にあげるためのチョコレートと伊織への本命チョコが入っている。
「このバッグは土曜日に伊織君がプレゼントしてくれたの。私に似合いそうだからって」
バッグと同じ色のエプロンを二人で選んで美月が買ったことは知っていたし、月曜日に美月の家でチョコを作ったときに実物を見ている。それ以外にも伊織から進んでプレゼントしていたなんて伊織の奴、美月のことが好きすぎる。
「美月」
「うん?」
「これからも末永くよろしくね」
「うん、こちらこそ……えへへ」
今日はきっと今までの人生の中で最も幸せな一日になる。
そんな幸せな予感がする日であっても美月が学校に着いてから向かう行き先は保健室だ。昨日、加害者が停学となったため試しに一年二組の教室に入ってみたものの、美月は吐き気や眩暈といった拒否反応を起こしてしまった。
あの空間や空気自体が美月にとっては無理なものなのだろう。教室が変わる数学や音楽、体育の授業だけは頑張ると美月は言ったがそれ以外はずっと保健室のパーテーションで区切られた奥のスペースで過ごすことになった。
朝は蘭々たち四人と友チョコ交換会の後に朝のホームルームが始まるギリギリの時間までチョコパーティをしようとしていたら白雪先生に早く教室に行けと叱られたので、蘭々が先生にもチョコをあげると、先生も巻き込んでチョコパーティが始まってしまい、結局教室に入ったのはホームルーム開始の三十秒前だった。
そんな余裕がない状況でも男子がなんだかそわそわしていたり、色めき立つ女子がいたりという校舎全体の雰囲気は感じ取ることができた。
一時間目の授業が終わると私は一年三組の教室に向かう。
美月は伊織と昼休みに会う約束をしているようだが「昼休みの前に他の子と付き合うなんてことにならないよね」と心配していたので、万が一にもそんな事態にならないように監視するためだ。事と次第によっては邪魔に入らなければならない。
四組の側の廊下では真人君が女子に囲まれていた。
真人君とは放課後、しかもバスケ部の練習が終わった後に校舎の端っこにある離れ桜の下で会う約束をしている。部活の前ではなく後にしたのはそのまま途中まで一緒に帰りたかったから。
その場で食べてもらって感想も聞きたいし、もしかしたら家まで送ってくれるかもしれないし、あわよくばそのままお父さんとお母さんに紹介してしまうところまで計画している。
さっさと両親に紹介して逃げ道を塞ぐ。いつの間にか私も弟子にされていたのでせっかくだからと美里師匠こと白雪先生に教えてもらった男の子を逃がさないテクニックだ。
真人君は本命チョコは受け取らないと言っていたから今取り囲んでいる子たちは皆泣くことになる。罪な男だ、なんて思いながら三組の教室を後ろの出入り口から顔だけ出しながら覗いて伊織を探すと、教室の後方の窓際で二人の女子生徒と二対一で楽しそうに会話をする姿を見つけた。
そして今まさに一人の女子生徒から伊織に可愛くラッピングされた小さな袋が手渡されようとしている。
教室の中とはいえ、皆自分たちのことに集中していて伊織たちの方を見ていない。そんな中で友達に付き添ってもらいながらチョコを渡して告白するつもりだ。
まずい。二対一だと逃げ場がなくてなし崩し的にOKしてしまうかもしれない。出入り口から顔だけ出すために壁を掴んでいる私の手にも力が入る。
今、伊織が袋を受け取った。私にはほとんど見せたことがないような優しい表情で、おそらくお礼を言っている。その後も楽しそうに会話を続けているのを見ているとなんだかムカついてくる。
美月というものがありながらあんなに楽しそうにしやがって、と、さらに手に力が込められていく。
「あの、春咲さん、だよね? 伊織の妹の」
「むー」
「春咲さん?」
「ひゃっ⁉」
当然後ろから誰かに肩を突っつかれて変な声をあげてしまった。振り返るとそこにいたのは背の高い男子生徒。話したことはないが見たことはある、確か伊織と同じクラスでバスケ部のなんとか君だったはず。
珍しいものを見るような目で私を見ている。
「ごめん、驚かせて。後ろ姿が不審だったからつい。伊織に用事? 呼んでこようか?」
後ろ姿が不審、というのは少しだけ心に突き刺さったが呼んできてくれるという申し出はありがたい。美月以外の女の子と仲良くしているなんて妨害する気でいたけれど荒事は避けたかった。
「いいの? それならお願いします」
バスケ部の彼が女子生徒と楽しそうに会話をする伊織に声をかけると彼以外の三人の視線が私に集まった。するとすぐに女子生徒二人は伊織に軽く手を振りながら離れていき、伊織は私の方へと歩み寄る。
「詩織がこっちの教室に来るなんて珍しいな。どうかしたか?」
「今の女の子たち何? チョコもらってたよね?」
少し脅しっぽく、精一杯低い声で尋ねてやった。
「なんだよ、そんな怖い顔すんなよ」
「誤魔化さないでちゃんと質問に答えて。もしかして告白されたりしたんじゃないの?」
「馬鹿言うな。さっきの二人はバスケ部の一年生のマネージャーだ。部員皆にチョコを配って回ってるんだよ」
「ほんとにー? 休み時間じゃなくて部活のとき配った方が楽じゃない? 怪しいなー?」
「そんなの俺は知らねえよ。そういう伝統らしいから」
特に動揺している様子もないし嘘をついているようには見えない。部活のマネージャーからの義理チョコということで納得しておこう。でも釘は刺しておく。
「昼休みまでに本命チョコもらって告白とかされてもお付き合いとかしちゃだめだよ」
「……今は彼女を作る気はないよ」
美月以外は、と言わないあたり伊織も可愛いところがある。
「昼休み、美月のところに行くんでしょ?」
「……ああ」
本当はドキドキしてテンションが上がっているくせに落ち着いたふりなんかして、素直じゃないと思いつつも美月の前では素直になってくれるだろうと信じて私は自分の教室に戻った。
「ああ、サンキュ。でも珍しいな、詩織がこんなに早起きするなんて」
朝練でいつも早く家を出る伊織に合わせて私も今日は早起きをしていた。
「学校だと色々忙しいし」
真人君はもちろんのこと、美月にもせっかくだから今日渡すつもりだし、蘭々や秋野さんたちの分も用意しているので本当に忙しい。
何より伊織には美月との時間を確保してもらわなければならないので学校で伊織に構っている時間はない。家に帰ってきた後では色々あった後の余韻に浸りたいだろうと考えると今しかタイミングはない。
私が作った中で三番目に出来が良かったチョコレートを受け取った伊織は玄関で靴を履いた後、私の顔を神妙な面持ちで見つめた。
「詩織、お前の考えを聞かせてもらいたいことがあるんだけど」
「何? 突然、真面目な顔をして」
「例えばの話だけどさ、地震とか台風とかの自然災害とか戦争とか、自分は一切悪くないのに苦しんだり悲しんでいたりする人がいるだろ?」
本当に突然どうしたのだろう。
「そういう人たちがいるって分かっていながら、安全なところにいる人間が楽しんだり幸せになったりすることをどう思う?」
「何、その哲学というか道徳みたいな質問……」
「まあいいから、どう思う?」
「別に良いんじゃないかなって思うけど。世界中のどこにも苦しんでいる人がいない瞬間なんてないと思うし、駄目だって言ったら幸せになって良いタイミングなんてなくなっちゃうよ」
「そっか……」
「でも苦しんだり悲しんだりしている人にも届くように自分が幸せなことアピールするのは趣味が悪いと思うかな」
「そっか……そうだよな」
「いったいどうしたの? 今までこんなこと聞いたことなかったのに……」
「いや、なんとなく聞いただけ。俺も同じ考えだよ。じゃあ俺は行くから気をつけて来いよ。行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
変な奴、とは少し思ったけれど今日これから待っていることを考えれば無理もない。渡す側の私でもワクワクしているのに渡される側の伊織はきっととてつもなくドキドキワクワクしていないわけがなく、変なことを口走っても仕方がない。
しばらくして、私から手作りチョコを渡されて泣いて喜ぶお父さんをうっとうしく思いながらもこんなに喜んでくれて嬉しくも思いつつ家を出た。
途中で合流した美月は気合十分という表情をしており、側面に大きな三日月をあしらったパステルイエローのトートバッグを持っている。中には当然お世話になった人にあげるためのチョコレートと伊織への本命チョコが入っている。
「このバッグは土曜日に伊織君がプレゼントしてくれたの。私に似合いそうだからって」
バッグと同じ色のエプロンを二人で選んで美月が買ったことは知っていたし、月曜日に美月の家でチョコを作ったときに実物を見ている。それ以外にも伊織から進んでプレゼントしていたなんて伊織の奴、美月のことが好きすぎる。
「美月」
「うん?」
「これからも末永くよろしくね」
「うん、こちらこそ……えへへ」
今日はきっと今までの人生の中で最も幸せな一日になる。
そんな幸せな予感がする日であっても美月が学校に着いてから向かう行き先は保健室だ。昨日、加害者が停学となったため試しに一年二組の教室に入ってみたものの、美月は吐き気や眩暈といった拒否反応を起こしてしまった。
あの空間や空気自体が美月にとっては無理なものなのだろう。教室が変わる数学や音楽、体育の授業だけは頑張ると美月は言ったがそれ以外はずっと保健室のパーテーションで区切られた奥のスペースで過ごすことになった。
朝は蘭々たち四人と友チョコ交換会の後に朝のホームルームが始まるギリギリの時間までチョコパーティをしようとしていたら白雪先生に早く教室に行けと叱られたので、蘭々が先生にもチョコをあげると、先生も巻き込んでチョコパーティが始まってしまい、結局教室に入ったのはホームルーム開始の三十秒前だった。
そんな余裕がない状況でも男子がなんだかそわそわしていたり、色めき立つ女子がいたりという校舎全体の雰囲気は感じ取ることができた。
一時間目の授業が終わると私は一年三組の教室に向かう。
美月は伊織と昼休みに会う約束をしているようだが「昼休みの前に他の子と付き合うなんてことにならないよね」と心配していたので、万が一にもそんな事態にならないように監視するためだ。事と次第によっては邪魔に入らなければならない。
四組の側の廊下では真人君が女子に囲まれていた。
真人君とは放課後、しかもバスケ部の練習が終わった後に校舎の端っこにある離れ桜の下で会う約束をしている。部活の前ではなく後にしたのはそのまま途中まで一緒に帰りたかったから。
その場で食べてもらって感想も聞きたいし、もしかしたら家まで送ってくれるかもしれないし、あわよくばそのままお父さんとお母さんに紹介してしまうところまで計画している。
さっさと両親に紹介して逃げ道を塞ぐ。いつの間にか私も弟子にされていたのでせっかくだからと美里師匠こと白雪先生に教えてもらった男の子を逃がさないテクニックだ。
真人君は本命チョコは受け取らないと言っていたから今取り囲んでいる子たちは皆泣くことになる。罪な男だ、なんて思いながら三組の教室を後ろの出入り口から顔だけ出しながら覗いて伊織を探すと、教室の後方の窓際で二人の女子生徒と二対一で楽しそうに会話をする姿を見つけた。
そして今まさに一人の女子生徒から伊織に可愛くラッピングされた小さな袋が手渡されようとしている。
教室の中とはいえ、皆自分たちのことに集中していて伊織たちの方を見ていない。そんな中で友達に付き添ってもらいながらチョコを渡して告白するつもりだ。
まずい。二対一だと逃げ場がなくてなし崩し的にOKしてしまうかもしれない。出入り口から顔だけ出すために壁を掴んでいる私の手にも力が入る。
今、伊織が袋を受け取った。私にはほとんど見せたことがないような優しい表情で、おそらくお礼を言っている。その後も楽しそうに会話を続けているのを見ているとなんだかムカついてくる。
美月というものがありながらあんなに楽しそうにしやがって、と、さらに手に力が込められていく。
「あの、春咲さん、だよね? 伊織の妹の」
「むー」
「春咲さん?」
「ひゃっ⁉」
当然後ろから誰かに肩を突っつかれて変な声をあげてしまった。振り返るとそこにいたのは背の高い男子生徒。話したことはないが見たことはある、確か伊織と同じクラスでバスケ部のなんとか君だったはず。
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「ごめん、驚かせて。後ろ姿が不審だったからつい。伊織に用事? 呼んでこようか?」
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「いいの? それならお願いします」
バスケ部の彼が女子生徒と楽しそうに会話をする伊織に声をかけると彼以外の三人の視線が私に集まった。するとすぐに女子生徒二人は伊織に軽く手を振りながら離れていき、伊織は私の方へと歩み寄る。
「詩織がこっちの教室に来るなんて珍しいな。どうかしたか?」
「今の女の子たち何? チョコもらってたよね?」
少し脅しっぽく、精一杯低い声で尋ねてやった。
「なんだよ、そんな怖い顔すんなよ」
「誤魔化さないでちゃんと質問に答えて。もしかして告白されたりしたんじゃないの?」
「馬鹿言うな。さっきの二人はバスケ部の一年生のマネージャーだ。部員皆にチョコを配って回ってるんだよ」
「ほんとにー? 休み時間じゃなくて部活のとき配った方が楽じゃない? 怪しいなー?」
「そんなの俺は知らねえよ。そういう伝統らしいから」
特に動揺している様子もないし嘘をついているようには見えない。部活のマネージャーからの義理チョコということで納得しておこう。でも釘は刺しておく。
「昼休みまでに本命チョコもらって告白とかされてもお付き合いとかしちゃだめだよ」
「……今は彼女を作る気はないよ」
美月以外は、と言わないあたり伊織も可愛いところがある。
「昼休み、美月のところに行くんでしょ?」
「……ああ」
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